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小さな食卓 side:Wolf 後編

ヴォルフ視点、後編です。






 人並みに動けるようになった頃には、夏の盛りを過ぎていた。

 日々の暑さは相変わらずだが、その中に次の季節の空気が微かに混じっている。

 動ける、と言っても万全からは程遠い。

 立って、歩ける。その程度だ。

 走ればすぐに息が上がるだろうし、況してや何かと争えばかなりの確率で負ける。そういう自覚がある。

 けれど時間は惜しい。完全な回復など待っていたら、季節を一つ飛ばすだけでは済まない。



「グラウ、ここで待っていろ」

 彼は最低限身形を整えて、フードを被る。季節的には違和感があるだろうが、旅の者ですといった風を装えば何とかなると経験上分かっている。旅人には訳ありの人間も多いので、顔を隠したがる場合も珍しくない。



 あの焼き討ちの後、森は痛手を負いながらも平穏を保っている。

 街に近い場所では常に人間の気配があったが、一つ奥へ踏み込むとそこは動物達のテリトリーで、恐らく焼き討ちの前と後ででそう変化はない。



 人間の望む平和な森は手に入っただろうか。

 皮肉なことに彼らが始末したがっていただろう人狼を下したのは彼だ。

 知らず知らずの内に人間の手助けをしたことになるのかと思うと、虫酸が走る。しかもおまけにこちらは殺されかけたのだから、本当にやっていられない。帳尻が合わなさ過ぎる。



「だが、あの人狼を無視する訳にもいかなかった」



 彼にとって、あの人狼は危険要素だった。確実に潰しておくべきだった。

 彼女の存在に勘付かれていたからだ。だから、あれを始末したその行為自体は無駄だった訳でも何でもない。



 彼は改めて考える。

 彼と彼女が生活を共にしてから、幾度不安要素を排除しなければならない事態があっただろう。

 人間と人狼。その両方に常に警戒を張り巡らせなければならなかった。



 何かを警戒するなど、当たり前のことだと思っていた。

 でも彼女を念頭に置いてする警戒は、それまでの独りの時とは全く心の割き方が違う。自分にも彼女にもそれなりの負担をかけていたように思う。



 あと何度、こんなことを繰り返すか分からない。

 もう二度とこんな目に逢わせないとは、彼も誓えない。

 そうまでして求める二人の生活に、彼女の幸せはあるのだろうか。



 ふと過った躊躇いに、彼は頭を振って街へと足を向けた。











 彼女の情報は簡単に手に入った。

 人の集う場所で、その噂はあちこち口に上っていたからだ。



 曰く、



"領主様に救い出された美貌の娘は、館でそのまま保護されている"



"領主様の心の砕き方はそれはそれは細やかなものらしい"



"恐ろしく美しい娘だと、館の人間はこぞってその容姿を褒めそやす"



 不穏なことに、



"このまま後妻に迎え入れるつもりらしい"



"断る理由もあるまい。街の娘は悔しがるだろうが"



"並ぶと大層絵になるとか"



 そんな未来が領民の頭の中には描かれているらしい。



 取り敢えず彼女が無事に生きていることは分かった。聞いている限り丁重に扱われているらしい。

 ただし、領主に大層気に入られているという彼女が、おかしな手出しをされていないかまでは定かでない。



「そんなに見目麗しいのなら、是非この目で拝んでみたいものだが」

 酒場で、彼は客に混じって噂話をする領民に声を掛ける。

「それがなぁ、領主様がそれはそれは大事に囲っちまって、なかなか館の外には出てこねぇんだわ」

「館勤めの人間からの話が専らの情報源で。あと森まで出向いた人間くらいだな、その姿を拝んだのは」

「それはまた、随分な執心ぶりで」



 騙せ、欺け、言葉巧みに手の平で踊らせてしまえ。



「庭くらいには出て来ることもあるだろうが」

「バカお前、領主様の庭園なんて広すぎて、例え出て来てもそう簡単には見えんだろうが」

「それもそうだなぁ」



 耳に不愉快な沢山の話を、彼は領民から次々と引き出していく。











 領主の館を見つけるのは簡単だった。

 いや、見つけるという表現すらおかしい。一等良い土地にどんと建っているのが普通で、見つけるまでもなく目に入る。

 敷地をぐるりと囲う鉄柵は高く、館までは距離がある。彼女がどこにいるかも分からないし、よしんば見つけても彼女を抱えてこの柵は越えられまい。

 敷地の周りをぐるりと一周したが、そう容易く侵入できる場所はないし、あまりうろついていては警備の人間に不審に思われる。

 彼は腹の底で渦を巻く様々な感情に蓋をして、意識を館の他に向ける。



 他にも把握しておくべきことはいくらでもあった。

 この領地の地理、人家の散らばり具合、空き家に周りの自然環境。



 下見は入念にしなければ。

 そう考えを巡らせていた意識が、不意に強制的に引っ張られる。



 鼻先を掠める、このほのかに甘い匂いはーー



「!」



 振り返って、思わず目の前の柵を強く握りしめる。叶うのなら、今すぐこんな柵など飛び越えてしまいたいと彼は強く思った。



 遠い。けれど花の溢れるその庭に人影がある。

 そのいくつかのうちの一つが彼女であることは、はっきりと視認できた。

 さすがに表情までは捉えられない。けれど人間よりずっと優れた視力は、確実に彼女を見つけていた。

 領主が大層丁重に扱っていることは腐るほど耳にしていたが、実際こうして動いている姿を見ると一つ大きく安心できる。



 今すぐその名前を叫びたい。彼女の声が聞きたい。



 けれどそれを抑え込んで、彼は領主の館を後にした。










 それ以降、傷の回復に努めながらも彼は幾度となく街に紛れた。

 その度にあちらこちらからあの甘い匂いがする。何か痕跡を残すかのように、彼女の存在がチラつく。


 最近領主と彼女が揃って街のあちこちを訪れていることは、その気がなくとも耳に入ってきた。

 嫉妬や彼女の出自に対する疑念や不審の声もあったが、二人並んだその光景の美しさに大抵の人間は目を奪われるようだった。



"まるで貴族の娘のようよ"



 という声に、彼も彼女のちょっとした所作の美しさを思い出す。

 彼女はとある領主の庶子。領主たる父の元で過ごした幾年かが、彼女にそういった振る舞いを身に付けさせたのだろう。



 彼女がこうして外に出て来てくれたのは、好都合なことだ。日時や場所が特に定まっている訳ではないが、待ち伏せることには慣れている。

 隙を見て奪取すれば良い。不必要に争わず、その場で振り切れば、それで。

 彼女の外出は、絶好のチャンスのはずだ。

「………………」

 けれど彼は、自分の中の躊躇いに気付いている。



 彼女を取り戻す。それは果たして正しいことなのかと。



「正しさなんかどうでも良い」



 そう思う。

 けれど、彼女を取り戻したいというのは彼の望みなのだ。彼女の望みがまた同じところにあるかは定かでない。

 それに、例え彼女が望んでも、それが幸いかは分からない。



 心が迷う理由は分かっていた。



 あの日、柵の向こうに広がっていた世界。

 彼女と領主が寄り添うように立っていた、あの光景。



 とても自然なものに見えて、彼の胸はきしりと音を立てた。

 あれが、本来あるべき光景なのではないか。

 あれが、彼女の望む平穏な暮らしなのではないか。



 人狼である自分の不相応さを、今更突き付けられた。



「リディア……」



 幸いとは何なのか。

 彼の天秤はぐらぐらと揺れ続ける。











 けれど彼は心を決めた。

 彼女の前に、もう一度姿を現す。全てはそれからだ、と思った。



 以前の外出の際に彼女が丘の上にある橋を指し示していたのを見て、彼はそこで事前に待ち構えていた。

 向こう側からやって来る馬車には、よく見覚えがあった。何度も街中で見かけた、立派な装飾と頑丈な造りの馬車。



 橋の中央で動きを止めたその馬車に、彼はそっと近付いて行く。

 馬に、御者にその気配を悟られないように。

 息を殺して、そっと。



 二人が馬車から降りて来る気配はなかったが、それはどうでも良かった。やりようはいくらでもある。




「あれでまだ生き延びたか!」



 憎悪や嫌悪のまま繰り出される刃など怖くはない。

 怖いのはーーーー



「ヴォルフっ!!」



 馬車の影から姿を現した彼女は、彼がどんな声をかけるより前に、彼の名を叫んだ。そして彼の無事に安堵した。

 それだけで、それだけもう十分によく分かった。迷いは晴れていった。



 彼女はまだ望んでくれている。

 彼との未来を望んでくれている。

 彼女を迎えに来た彼の行為は、彼女の心をねじ曲げてはいない。



「野蛮な。害することしか知らない獣の身で」

「否定はしない」

 領主の鋭い声。そう、この男の言う通り。

 何かを守り慈しむことより、害すことの方がきっと長けている。

「悪食なことだ。うら若き乙女に牙を立てようとは」

「腹に収めるような勿体のないことをするものか」

 けれど彼は彼女を愛し慈しみたいのだ。



 油断や過信はなかったと思う。ただ、動きに精彩を欠いていたのは事実だ。

「っ後ろ!」

 その叫びで背後からの攻撃を間一髪避ける。けれど横手からの気配にも気付いていた。

 間に合わないかもしれないと、そう思った。だけど今更、刺し傷の一つや二つーーーー




「!?」




 現実は、何故こうも絶望ばかりをもたらす?

 彼は自分の前に滑り込んだ彼女を見て、凍り付く。その柔らかい腹に不躾に刃が吸い込まれていく様を、馬鹿みたいに眺めていることしかできない。

「っぁ…………」

 一瞬で血の気が引く顔。じわりと滲む、無遠慮な赤。



 こんなのは、嘘だ。こんなのは、嘘に決まっている。



 止せばいいのに、彼女は絶え絶えの息で領主に言葉を紡ぐ。止めろと言いたくて、だけど喉一つ震わすこともできないほど動転している自分に彼は気付いた。



 彼女は、人間だ。か弱い人間。自分とは違う。

 こんな小さな身体で耐えられる程度など高が知れている。



 ふらりと重心が傾いて、彼女が背中から倒れ込む。そこでようやく彼の身体が金縛り状態から解放される。

「リディア!!」

 ずるりと剣が抜けた腹から、ごぽりと血液が溢れ出す。受け止めた身体には力が入っておらず、その頼りなさに彼はぎょっとする。



 こんなにも、彼女の存在は儚かっただろうか。



「リディア、リディア……」

 自分の死が頭を掠めることはあっても、彼女のそれは欠片も想像しなかった。

 こんなことになるとは考えもしなかった。

 このままでは、彼女がーーーー



 けれど弱々しくも彼女はチラリと彼を見上げ、それから欄干の向こうへと視線を滑らせた。

「そんなことをしては……!」

 その意図を読み取った彼は、気色ばむ。



 こんな状態で冷たい水の中に飛び込めと?

 血液も体力も失うだけだ。



 けれど彼女は引かなかった。橋の向こうからは別の馬車の車輪の音が近付いて来る。

「……お願い、早く」

「ーーっ!」

 次の瞬間。

 彼は選ばねばならなかった。一瞬の躊躇いが、彼女を確実に死へと引き込む。



 飛び込む流れは、冷たく早い。

 それに抗うように彼女の身体をきつくきつく抱き締める以外、彼にはできない。

 自分の愚かさを、奔流の中で彼は呪った。











 このくらいでもういいだろうと、彼は激しい動悸を感じながら、川から這い上がる。

 自分の心臓はこんなにも煩く鳴っているのに、彼女の身体はひたすらに静かだ。

 一瞬、もう息が止まっているのではとギクリとするが、冷えきったその身体はまだ細々ながら呼吸を続けていた。

「リディア、リディア……」

 呼び掛けると、のろのろと彼女は瞳を開ける。

「……大丈夫よ」

 そしてこの期に及んでそんなことを言う。



 川辺の茂みが揺れたと思ったら、グラウが飛び出してきた。

 元々近くに潜んでもらっていたのだ。彼が川に飛び込んだのを見て、並走して来たのだろう。



 グラウは彼女の頬に身体を押し付けた。

 尻尾がまた会えた喜びに持ち上がるが、彼を窺った眼差しには戸惑いが多分に含まれていた。素直に喜べる状況ではない。

「二人とも無事で、本当に……」

「リディア、もう喋るな」

 消耗するだけだ。

 絞り出すような声で懇願したというのに、彼女は聞き入れてはくれなかった。紫に染まった唇からは、次々に言葉が溢れ出す。



「ねぇ、ヴォルフ」



 愛しげな、その声。



「私の愛しのオオカミさん。私がもしこのまま息絶えたら、あなた、私をきっと食べてね。全部綺麗に平らげて」



 いつか聞いたようなセリフ。

 息絶えたらなんて、そんな残酷なことをするりと口にする。



「私、あなたの一生の中で、特別一番のご馳走になりたいわ。他にないくらい美味しかったと思われたいわ」


 彼は彼女を食べたくなんかない。そんな食事は求めていない。



「独り寂しく葬られるくらいなら、あなたの血肉の一部になって、あなたと一緒に生きたいわ」

「リディア、そんなことを言わないでくれ」



 あぁ、けれど。けれど彼女に請われたら、彼はそれを叶えてやるしかなくなるだろう。どれほどの苦しみがそこにあっても、叶えてしまうだろう。



 一緒に生きたいなんて、死にかけながら言ってくれるな。



 彼は必死に歯を食い縛る。そうしないと、もう喚き出してしまいそうだった。



「ふふ、私、気持ち悪いことを言ってる。……でも、そう、つまりね」

 のろのろと腕を持ち上げる。その手が彼の頬に触れる。

 身体が強張る。

 彼は本当に本当に恐くなった。



 彼女は何か言おうとしている。

 とてつもなく決定的な、聞けば取り返しのつかなくなるような大切な言葉を。




「ヴォルフ、愛してる」




 彼女は言った。




「あなたを、愛しているわ」




 ここまで生きてきて、初めて言われた言葉だった。彼でさえ、まだ彼女に向けてその言葉を贈ったことはなかった。

 愛してる、なんてこの世の言葉ではないみたいだ。あまりに未知の言葉過ぎて、でもその感覚を痛いまでに彼は理解していて。



「あなただけよ。私がこれまでの人生で誰かに愛を覚えたのは、あなただけ」



 あぁ、彼女は残酷だ。



「私と、ずっとずっと一緒にいて」

 言い逃げするみたいに、恐ろしい言葉で彼の心を粉々にしていく。



 ずっと、一緒にいたい。誰にも渡したくない。自分の所有権全てを明け渡すから、彼女の全てを独占したい。

 今日を、明日を、その先を、自分にだけ微笑みかけて生きていてくれ。


 心が焼き切れそうだと彼は思った。

 こんな時なのに、何故彼女はこうも穏やかに微笑んでみせるのだ。

 何故そんなにも満足そうなのだ。



「リディア……やめてくれ、死を受け入れるな。愛してくれなくたっていいから、自分を諦めないでくれ。こんな不幸な目に遭わせたかった訳じゃない」



 彼の心は乾いている。乾いている乾いている乾いている。

 途切れそうな未来を前に、恐ろしい飢餓を覚えている。

 あなたとだけ不幸になりたいなんて、そんなことさえ彼女は言う。彼はロクに言葉もかけられないのに、彼女は彼に沢山の言葉を、気持ちをくれる。

 こんな瀬戸際になってーーーーいいや、こんな瀬戸際だからこそ。



「リディア!」

 見つめる瞳は、焦点が合わなくなってきていた。

 なのに、彼女は心からの微笑みを、その顔に浮かべて彼に言うのだ。



「だからヴォルフ、私、今、とてもしあわせなの」




 これを。

 彼女はこれを幸せと言うのか。











 死なせる訳にはいかない。

 何があっても、死なせる訳にはいかない。



 彼は冷えきった身体を抱えて走った。

 当てはあった。街の様子を探っている間に、色々と小耳に挟んでおいたのだ。これくらいの規模の街となれば大抵どこかに存在している、所謂裏稼業のあれこれについてである。



 外れの通りに潜りの医者がいるという話があったのを頼りに、彼は駆けていた。

 正確な場所など知らない。こういう時に頼れるのは己の知覚だ。勘ではない。

 彼はただの人家を装うには相応しくない匂いをさせていたそこを見事に探し当て、彼女を託した。

 金で話がつかなければ喰い殺すと脅すつもりだったが、割に肝の据わった男は彼女をすんなり引き取った。

 気が狂いそうだった。彼女の心臓がまだ辛うじて止まっていないという、その事実だけが彼を繋ぎ止めていた。



 近くに潜み、様子を窺い続けた。恐ろしいほどの長い時間だった。

 実際幾日ほど経っていたのか、彼は全く把握していない。

 けれどある日、窓の端にチラリと覗いた彼女が弱々しげながらも身を起こすのを見て、彼はようやく息を吐いた。暫くぶりに呼吸をしたような気さえした。

 峠は越えたらしい。後はゆっくりと回復を待つだけだ。

 傷がきっと残ってしまうだろうことが申し訳なかったが、それでも生きていてくれるだけで有り難かった。

 彼女が命を繋ぎ止めたこの奇跡にならば、自分のツキを全て売り払っても良いと思った。



 そして、彼は安堵の後に後悔と恐怖と懺悔だけを抱えることになる。

 腕の中で冷たくなる彼女ばかりを思い出す。意識を手放せば、起こり得た最悪の結末を夢に見る。腕の中の彼女は息をしない。氷よりも冷たくなっていく。

 魘されて、飛び起きて、夢だと安堵して、いやこれは未来の出来事だと恐怖する。

 もう、怖くて仕方がなくて、二度と彼女に触れられないと思った。



 この手は、彼女を不幸にする。

 彼女の言った幸せは、幻だ。勘違いだ。

 彼女が彼を庇った時、彼は自分の愚かさを思い知った。

 だから彼女の身を預けた時、"自由に"とだけ伝言を残した。彼女ならその意図を容易く汲み取るだろうと思った。

 けれど今思えば、随分甘いことをしたと後悔している。

 伝言など何も残さずに、ただ離れれば良かったのだ。中途半端に言葉を残せば、余計な未来を招いてしまう。



 彼は願う。何に対してかも分からずに、ひたすら祈る。




 多くは望まないから。

 だからどうか、どこか遠いところで彼女に幸せな未来を。











 僅かに冷気を孕んだ、澄んだ空気。白み始めたばかりの空。辺りを包む朝霧の中、露をまとった草を踏みしめる微かな足音がする。

 森の中にそっと滑り込む気配。



 それを感じて、馬鹿なことを、と彼は吐息を雫した。

 自分が喜んでいるのか悲しんでいるのかよく分からない。胸が苦しくて堪らない。



 ブラウス、スカート、革のブーツ。腕には大きなバスケット。

 華奢なその腕には不釣り合いなバスケットは、クロスの合間からその中身を覗かせている。森に入り込んだ彼女の出で立ちは、実に呑気なものだった。



 この森には、世にも恐ろしい人狼がいるというのに。



 簡単なことだ、と彼は思った。

 出て行かなければいい。ただそれだけのこと。



 堪えるように息を潜める。目線だけは彼女に釘付けになったまま。



 出て行かなければいい。それで終わる。

 彼は強くそう思う。



 けれど彼女は微塵も迷いも見せずに、真っ直ぐ歩を進める。

 そう、何も疑っていない。自分が進むその先に彼がいることを。

 きっと彼女はこのままどこまでも進んでしまう。どれだけ、奥深くへでも。

 人狼と言わずとも森には危険がいっぱいあるのだ。あんな華奢な生き物、喉元に噛み付けばそれで終い。目を離せば、次の瞬間にはーーーー



 彼女は分かってやっている。彼が彼女を見過ごすことなんてできないと、分かっているのだ。

 それは多分、彼女が逆の立場でもそうだから。



 もう、観念するしかない。



 彼は一歩踏み出した。ガサリと茂みが音を立てる。

 彼女の背中が、期待でピンと伸びる。



 あれだけ離れようと心に固く決めたのに。

 彼はもう彼女に、

「リディア……」

 ーーーー触れて、しまう。



 彼女がそっと振り返った。柔らかな頬が、上がった口角が、涙で滲んだその瞳が、喜びと愛しさで溢れている。

 彼が伸ばした腕は、がむしゃらに彼女を抱き締めていた。手加減なんてできなかったが、彼女は苦しいとも何とも言わなかった。全部受け止めてくれた。

 肩口に沈めた頭に、彼女が優しく触れる。

 頬を押し付けた首筋は温かく、いつもの甘い匂いが鼻先をくすぐり、抱きしめ返されて彼女が生きていることを全身で実感する。

 彼女が耳許で囁いた。

「ねぇヴォルフ。私の愛しのオオカミさん。私のことをもらってくれる?」

「頼まれなくても。ーーーーもう逃がしてやらない」

 逃がしてやれない。

「ふふ」

 彼女は実に幸せそうに続けた。



「じゃあね、あなたのことも私にちょうだい?」



 もちろんだ、と彼は二つ返事で頷いた。



「リディア、ーーーーーー」



 そして彼は彼女の小さな耳に口付けるように甘く囁く。

 いつか彼女がくれたのと同じ、愛の言葉を。






次の投稿は完全番外編の予定です。

本編の暗さを挽回できる、糖度高めのものになればいいなと思っています!

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