小さな食卓 side:Wolf 前編
「小さな食卓」のヴォルフ視点です。
前編・後編の構成となります。
ただ彼女がいれば、それだけで全てが揃っていたのに。
痛みで飛んだ意識は、痛みによってまた無理矢理引き戻された。
「ぐっ…………」
彼は全身を駆け巡る暴力的な痛みに呻き声を上げたが、正直それすら要らぬ刺激となって自身に追い討ちをかける。
だが、それ以上に痛みを感じさせる要因があった。あまり上手く利かない視界と思考で、何とか現実を認識する。
身体に走る痛みは、地面を擦る音と同期している。
引き摺られているのだ、と気付く。
では、誰が?
「ーーーーーーグラ、ウ?」
視界に映る灰色の四肢。その持ち主を、彼は他に知らない。どうやらグラウが彼の襟元を噛え、引き摺っているらしい。
正直、とてつもなく痛むので放っておいてほしいくらいだが、この賢い相棒は考えもなしにこんなことをしているのではないだろう。
確か、森には火が放たれていた。迫る炎から遠ざかる為、彼を人目のつかない安全な場所へ隠すため、多分グラウは労を払っている。
「グラ……お前、もう、やめろ」
絶え絶えの息で彼は言う。
「お前、腹に……怪我を負って、いるだろう」
地面に伏した相棒の姿を忘れてはいない。グラウもまた手負いの身。自分のことだけで手一杯のはずだ。こんなことをしても、自分の生存率が下がるだけ。何も、いいことなんてない。
なのに。
「…………っ」
グラウは彼の言葉を聞かなかった。
つい、この間まで。
グラウと彼は本当に割り切った、淡々とした関係だった。互いの利益のために、互いを利用していただけ。
もし、あの頃のままだったら、きっと彼が死に瀕したらグラウはあっさり彼を切り捨てただろう。逆も、また然り。
でも違う。もう違う。二人の間には情や絆とでも呼ぶべきものが確かに生まれている。
そんなものが生まれたのはーーーー彼女がいたから。
「ディア……」
彼の一等特別な唯一人。
彼女が彼とグラウを繋いだ。名前を呼ばなきゃ駄目よ、と彼に教えた。
そう、名前を。
耳の奥で反響する。まるで今、ここで発せられているかのように、彼女が彼の名前を叫ぶあの悲痛な声が。
ずっと、名前を呼んで欲しかった。
彼女のあの丸く愛らしい声で、呼んで欲しかった。
でも、あんな顔をさせたかった訳じゃない。あんな声が聞きたかった訳じゃ、ない。
「俺の……せいか……」
彼女は出会ってからずっと、彼と一定の距離を取ることを心がけていた。必要以上に踏み込んでも、踏み込ませてもいけないと言わんばかりに。彼女が彼の名を頑なに呼ばなかったのも、きっとそういうことなのだ。
人狼と人間。
破綻の予感は常に孕んでいた。
彼女はこうなることをずっと恐れていたのだ。
誰にも、祝福されない。互いが互いを不幸にしてしまう。
心を預け合っていれば、尚更に。
グラウはひたすらに彼を引き摺り続ける。彼を生かす為に。地面との摩擦は、彼の意識を飛ばしたり戻したりと忙しい。
痛い痛い痛いーーーー生きているから、こんなにも痛む。
そう、生きている。
まだ生きていることに、自分のことながら驚く。
生きている、と認識したら、途端にその他の感情が胸中を荒れ狂い出した。
怒りと悔しさと不甲斐なさーーーーそして、切なさと悲しみがぐちゃぐちゃに入り雑じった、耐え難い喪失感。
「こんな、ことなら」
出逢わなければ良かった?
彼女を生かさなければ良かった?
あの時、望まれるまま、彼女を平らげれば良かったのか?
けれどそれらの迷いに、彼はすぐに否と答えを出す。
後悔している。彼女を傷付け悲しませ、守り切れず不幸にしたこと。
だけれど、もし彼女と真っ直ぐ目が合ったあの瞬間に戻れたとしても、彼は同じ選択を繰り返す。
もう、他の未来など、望めない。
「ぐっ!」
一際腹の辺りが痛んだ。
これはかなりマズイと彼は本能で察知する。このまま、死ぬかもしれないと。
彼は人狼だ。人狼とは常に争いと縁が切れない生き物。今までも大小様々な傷を負い、生死の境を幾度となくさ迷った。
その経験も相まって、自分の生き物としての限界を察知してしまう。
「グラウ、もう、いい。お前だけでも」
血を失い過ぎた。
また意識がぼんやりとしてくる。寒さが指の先から心の臓に向かって容赦なく侵攻する。腕一本、最早上げる気力もない。それなのに痛みだけは鮮明で嫌になる。
やがてグラウが彼の襟元をパッと離した。
彼の元に僅かに届く水音が、川辺であることを教える。少なくとも火の手を近くに感じることはなく、人気もないような気がする。
パタリと、グラウが横に伏せたのが分かった。
グラウもまた、その身に負った傷と対峙している。越えられる峠かは分からない。
いつかは死ぬと思っていた。人狼である以上穏やかな死ではないと覚悟もあった。
死は彼にとって隣人で、わざわざ恐れるものではなかった。そのはずだ。
でも、今、彼は心の底から恐れている。死にたくないと、思っている。
彼女を置いて逝きたくない。
彼女をあんなに悲しませたまま逝きたくない。
彼女に、もう一度ーーーー
「グラウ、お前もか……」
目を開ける気力はもうない。ただ、側にいる相棒に掠れた声をかける。
グラウは彼を生かそうとした。自分の命を磨り減らしながら。
そうする価値があると判断したから。
彼が望むように、グラウもまた望んでいるのだ。
彼と彼女とグラウとで過ごす、あの他愛もない日常を。
死にたくない、と薄れ行く意識の中で、もう一度だけ彼は切に願った。
時間の経過は全く分からない。
ただ、彼は再び目覚めを迎えた。
能天気なくらい晴れ渡った濃い青の空を瞳に映しながら、暫くはぼんやりとしていた。
体力気力を使い果たした後の脳は、全く働いてくれていなかったのだ。
次第に鮮明になる意識に、彼はまず何より安堵した。
「生き延びたのか……」
声はガラガラで、峠は越えたといえ予後は思わしくなく、中途半端に開いたままの傷口が身体中にある。そこから駄々をこねるように痛みが喚き散らしていたが、それさえ生の喜びに変換できた。
生きている、生きている、生きている。
まだ、終わっていない。終わらせずに済む。
最後に意識があった時は川縁にいた気がしたが、いつの間にか少し離れた木陰に移っていた。
「グラウ?」
夏の暑い盛りだ。あのまま直射日光を浴びていたら、そっちが原因で死にかねない。相棒が気を利かせてここまで運んだのかもしれないと思ったが、頭を巡らせてみてもその姿は見当たらなかった。
ーーーーまさか、死んではいるまい。
重い身体を何とかのろのろと起こす。
視線の先にある川辺にもグラウの姿はなく、ということは歩く気力があって、この場を離れているという可能性も高い。
「ん……」
彼は自分の喉元に手を当てる。生きる方向へ傾いた身体は素直だ。急に思い出したように喉がひどい渇きを訴える。最後に水分を口にしたのがいつか分からない。当然の欲求だ。
ズズーーッ
立ち上がる気力はない。這いずるように川辺へにじり寄る。
「はぁ…………」
やっと水にありつけた頃には汗だくで、彼は既に一日分の体力を使い果たした気分なっていた。
こんなことで、生き延びられるだろうか。
心の底で冷静な自分が考え出す。
死の淵からは這い上がった。けれど、それが全てではない。
傷はまだ真新しく、傷口から菌が入ればそれで死ねる。
森の中には多くの獣がいて、手負いのこの身では自分が狩られる対象だ。日差しは暑く、ロクに身動きも取れず、これでは食糧の確保もままならない。飢えて死ぬ。
本当の生存競争は、ここからだ。
「それでも、生き永らえたからには」
足掻くのが、本能だ。獣の在り方だ。
以前彼は人狼とは中途半端な生き物で、人間であり人間でなく、狼であり狼でないと言った。
彼はきっと人間の心に近い部分で彼女を愛している。そして獣の性で彼女という獲物に所有権を覚えている。
誰にも渡さない。狙った獲物は逃がさない。
彼女の命は、あの日森の中で確かに彼に委ねられたのだから。
過ぎた執着心は、彼女の不在に強い渇きを主張する。
「まだ、望んでくれるなら」
彼はこの先の困難も越えて、生き延びて見せるだろう。
「!」
ふと気配を感じで顔を上げると、木立の向こうから見慣れた灰色の体躯が姿を見せた。
近くに見つけた洞穴に、彼は身を隠すことにした。
かなり手狭でグラウと入れば圧迫感を覚えるが、日射しを避けるにも他の目から逃れるにも助かる。
腹を負傷していたグラウだか、ただ、思っていたより傷は深くなかったらしく、彼に比べれば比較的自由に身体を動かせた。それでもやはり狩りには困難するらしく、鳥や兎などの小動物を一日かけてやっと仕留めてくる日々が続いていた。
そしてそんな困窮した状況にあっても、グラウはその半分を律儀に彼に差し出すのだ。
「お前、痩せたな」
獲物を半分に分けながら、彼はそう話しかける。
そう言う彼ももちろん随分痩せていた。
飢え死んでいないだけで、安心とはほど遠い日々。
悪いとは思いつつも、それでも彼はグラウから有り難く半分獲物を譲り受ける。食べなくては良くならない。
傷の具合は悪化することはないが、回復の速度が遅く彼を苛つかせていた。
「ーーーー焦るな」
言い聞かせるように、声に出して言う。
こういう時は、ひたすらじっと耐えるしかない。下手に無理をして、何か後遺症でも残ったら、それこそ洒落にならない。
頭ではよく分かっている。でも、気持ちが今にも暴れ出しそうだった。
こんな風に自分がじっとしている間に、彼女に何かあったら?
彼女の望まぬことがその身に降りかかっていたら?
時間は巻き戻せない。取り返しのつかないことが既に起こってしまっているのではないかと、そう思うと気が触れそうだ。
脳裏に浮かぶのは、彼女に触れるあの若い男。上流階級と一目で分かるあの男が、彼女の側にいて彼女に触れているかもしれないと思うと、我慢がならなかった。
握った拳の内で爪が食い込み血が滲む。
「短気を、起こすべきでは、ない」
耐えろ、とそれだけを自分に命じる。
同意するようにグラウも短く鳴いた。
目的は決まっている。
けれど手段も機会もきっと僅かしかない。一度で決めなければ、今度こそ永遠に彼女を失ってしまうだろう。
深く息を吐いて身体の力を抜く。身体を治すことだけを考える。
彼には彼女が必要だ。もう、彼女を知らなかった日々には戻れない。
ーーーー彼女を、取り戻さなくては。