小さな食卓-11
「あんた、これからどうする」
更に半月が過ぎた頃、ようやく彼女は普通に動けるようになってきていた。
この半月の内ににこりともしない男の顔にも随分慣れた。
口は悪いが、それだけだ。口の悪さに反比例するように、世話焼きのようである。
実は同じように始終面白くない顔をした女がこの家にはもう一人いて、似た者夫婦だなぁと思っていたら、どうやら兄妹らしかった。兄と違って妹は口数少ないが、それでも彼女のために毎度食事を用意してくれた。
「ここは言ってあんたが逃げて来た領主の治める土地だ。そう長くは隠れていられない。何か当てはあるのか」
当て、と言われると困ってしまう。
最早彼女は当てにするものを何も持っていない。
でも、どうするかはもう決めていた。
「傷の具合も大分良くなってきたので、近いうちにお暇させて頂きます」
深々と頭を下げる。
本当にお世話になった。見捨てられても売られても、おかしくはなかった。男は彼女が何者かを知った上で、バレれば領主からの咎めを受けるリスクがあるにも関わらず、匿っていたのだ。
金ありきの親切だと言われたが、それでもその律儀さのおかげで彼女は今平穏に過ごせている。
「ボロくて良けりゃ、隣の街まで行く荷馬車の御者に話をつけてやる。それでなくとも女の一人歩きなんざ危なっかしいのに、あんたのその顔じゃ街道を無事に抜けられないだろ」
「いえ……お気持ちだけ頂いておきます。考えがない訳ではないので。でも、あの、一つだけ」
男の仕事の範疇外と思いつつも、彼女は革袋の中身を幾枚か使って、頼み事をする。
嫌がられるかとも思ったが、意外にもすんなりとそれは聞き入れられた。
「やれやれ、これでようやく肩の荷が降りる」
これ見よがしに溜め息を吐いた男に、思わず彼女は苦笑した。
まだ日も昇らない内から、用意してもらったあれこれで彼女は支度を整える。
腹部にそっと手を当ててみると、少し違和感は覚えるが、痛むということはない。
扉を開けると空は白み始めていた。
「………………」
久々の外の空気は、いつの間にか僅かに冷たさを帯びるようになっている。一度その空気で肺を満たしてから、彼女は家の中を振り返った。
眠たそうにしながらも男が立っている。
「本当に、有り難うございました」
これ以上にないくらい、深く深く頭を下げる。
「あんたはなかなかに厄介な患者だった」
返す言葉もない。
「少なくとも払った労力の分は、きっちり生きてもらいたいもんだ」
ほんの数ヶ月前まで、自分は死ぬのだと思っていた。
仕方ない、それでいいと思っていたし、生き続ける必要性なんてどこにもなかった。絶望感さえ置き去りにして、彼女はただ受け入れ未来を放り投げていた。
それが、今。
彼女は生きている。彼女は生きたいと思えている。
彼女に生きてほしいと願う、他者がいる。
「人目につく前に早く行け」
「……はい」
もう一度頭を下げてから、彼女は朝靄の中そっと、けれど迷いなく歩き始めた。
自分が、彼だったなら。
多分、いや絶対、確かめずに離れることなんてできない。
相手が無事であること、そこから新しい平穏な生活を歩み始めたことを自分の目で確認しないことには安心できない。
だからきっとまだ、どこか近くでこちらの様子を気にかけているだろうと彼女は確信していた。
彼女が街道へ出る道を選べば、彼はそれを是とし、二度と彼女の前に現れることはないだろう。彼は自分との未来を彼女に強要しなかった。彼以外との未来も、そっと差し出した。
だから、"自由に"と、そうとだけ言付けたのだ。
彼女はまるで欠片も警戒の見出だせない呑気な出で立ちで、草を踏み締め進んで行く。
ブラウス、スカート、革のブーツ。腕には大きなバスケット。華奢なその腕には不釣り合いなバスケットは、クロスの合間からその中身を覗かせている。
熟成ハムに朝採れのたまご、特別な酵母を使ったブレッド、チーズに果物に葡萄ジュース。それから腕によりをかけたチョコレートタルト。
バスケットの中に葡萄ジュースは一本だけ。リボンで飾って区別するような必要は、もうない。
とっておきのご馳走を詰め込んで、深い森の奥へ。
「これが、私の、自由」
彼女は望んでいる。小さな、けれど確かな幸福を。
手を伸ばせば相手に触れられるような、そんな距離感でお互いの顔を見ながら、同じ食事を口にする。そんな毎日が過ごせたら、きっと彼女は特別幸福だ。
自由に、と彼は言った。だから彼女は自由に選ぶ。
彼との未来を望むのも、また彼女の自由。
ふとそれまで耳に触れていた様々な音が、サッと凪いだ。
息を殺すように、生き物達の小さなざわめきがパッと消える。
そこで、彼女は足を止める。
「……………………」
そろりと辺りを見回すが、目につくものはない。けれど息を詰めるような緊張感がある。さっきまであった営みがその存在感を殺している。あれだけ暖かかった陽光でさえ何だかよそよそしい。
――――――――――いるのだ。
彼女は確信する。
彼女の目には未だ映らないけれど、近くにいるのだ。だから、自然はあるべき反応を取り静まり返っている。
きっともう、自分は捕捉されている。
そう思った瞬間、鼓動が跳ねた。
ときめきで、愛おしさで鼓動が跳ねた。
そしてカサリ、と背後で草を分ける音がする。
「!」
ここは、緑深き人狼の森。
人がこぞって恐れ憎む、人の姿に獣の性を持った恐るべき生き物がここにはいる。
けれど人々の口に上がる噂が全てではない。
これは、人ならざるものと情を交わし合った、とある少女の奇特な物語。
「ィア…………」
掠れるような小さな声で名前を呼ばれる。
そこにはいる。彼女の愛しのオオカミが。
喜びがパッと胸に拡がった。
その喜びはいつかと一緒だけれど、けれどあの時のように終わりを望むものではなく、始まりを、この先を望むもの。
溢れる幸福感に泣きそうになりながら、彼女はそっと振り返る。
誰かに求められて、この生を全うできるのね、と。
ここまでお付き合い下さり、本当に有り難うございました。
本編これにて完結となりますが、番外編をいくつか投稿しております。宜しければお付き合いください。