小さな食卓-10
気だるさだけが、身体と思考の全てを支配している。見知らぬ天井をひたすら凝視するだけで、思考は一向に動き出す気配がない。
天井を見ている。
それ以外に何も知覚できていなかった。
どれくらいそうしていたのだろう。不意に視界に割り込む影があった。
「お、目が覚めたか」
その声にも反応できない。
「二週間以上、目が覚めなかったんだぞ。最初の五日は、正直いつ死んでも文句は言えない状況だった」
五十絡みの、まるで見覚えのない男だった。
目に映る新しい情報に、ようやく、思考が錆び付いた音を立てながら廻り出す。
「よくもまぁ、生き延びたもんだ。そんな体力の欠片もなさそうな身体で」
顔にも声にも言葉にも。何もかもに愛想がない。
「その後は傷口由来の高熱だ。随分うなされるもんだから、二階の住居にまで響いてこっちもろくろく寝付けやしねぇ」
視線を滑らせると、そこは随分質素な部屋だった。
自分が寝ているベッド、小さな木の机、三つ並んだ古ぼけた棚。その中にビンがあれこれ並んでいるのと男の発言で、窺い知る。
あまりそうは見えないが、ここは診療所で、男は医師なのだと。
「…………っぁ」
声を出そうとして、びっくりするほど喉が張り付いていることに気が付いた。
「あぁ、あぁ。止めときな、喉が極限まで乾ききってんだ」
何やらガチャガチャ音がしてから、本当はまだ起き上がるべきじゃないがと言いつつも、背中を支えられて上半身を起こしてもらう。
不意に唇に何かあてがわれたと思ったら、湯飲みだった。自分でと思ったが腕にまともに力が入らなかったので、そのままお世話になるしかない。丁度良い加減の白湯が喉を滑り落ちて行く。
「あんた、運が良かったな。看ておいてなんだが、俺はあんたは死ぬと思ってた」
喉を滑り落ちる液体は心地好く、けれどもっとと思った瞬間に噎せ返って咳き込んでしまう。
「いっ……!」
咳き込んだ瞬間、腹に激痛が走る。
何故、こんなに痛むのだっけ。
「焦るな、身体がまだまだついてきていない。しばらくは絶対安静だ」
腹が、痛いのは。
「……それにしても、こんなもぐりの怪しい医者を嗅ぎ付けるなんて、人狼ってのは恐ろしく鼻が効くらしい」
身体をまた横たえさせながら、男は言った。
人狼、と言った。
記憶が少しずつ引っ張り出される。
腹が痛むのは、剣が刺さったからだ。
剣が刺さったのは、彼を庇ったからだ。
彼がそこにいたのは、死ぬような目に遭ったにも関わらず、それでもまだ彼女を求めてくれたからだ。
何故ならきっと、彼は彼女を愛してくれていたから。だから、迎えに来てくれた。
「あぁ、まだ頭がまともに働いてないな。自然と動くようになるまでは、そのままでいろ。余計な思考は体力を削ぐ」
男が何か言っているが、不明瞭で上手く意味が捉えられない。ひどい倦怠感が全身を包んでいて、また思考が鈍っていく。
あぁ、ここには彼がいない。
まだぼんやりした頭が、そのことにふと気付く。
次に目が覚めた時は、本当に頭がすっきりしていた。
世界の全てが明瞭で、力はそれほど上手く入らなかったけれど身体もものすごく軽かった。
じりじりと何とか自力で身を起こし、辺りを見回す。愛想のない部屋に他に人はおらず、彼女だけがぽつんと存在している。
薄く残っている記憶によると、ここは診療所で確か男が一人いたはずだ。
ギシリと床を踏み鳴らす音がした。窓際のベッドから、戸棚の影へ視線を滑らせる。
一定の間隔で軋む音。どうやらそこに階段があるらしい。
果たしてそこから現れたのは、彼女の予想通り医師の男だった。
「目が覚めたか」
気付いた男が言う。愛想がないというよりかは、この世に愉快なことなど何一つないと言いたげな、つまならさを全面に押し出した顔をしている。
「どうやら頭もまともに働いているみたいだな」
男は水差しからグラスに液体をするりと注ぎ、サイドテーブルに置いた。
「……有り難うございます」
指先が伝えるグラスの冷たさも、喉を潤すその感覚も、全てが新鮮だった。
ようやく、彼女は自分が生きていることに思い当たる。実感する。
そして自分が死にかけたていたことも理解する。
「あんた、どれくらい覚えてる」
問われて、彼女は曖昧に首を傾げた。
川から引き上げられたところは覚えている。それから、グラウが無事だったことも。伝えたかったことは大体伝えられた気もする。
「ここに運ばれてから一度目を覚ましたが、その時のことは」
「……ぼんやりとしか」
腹部に手を当てる。違和感はあるが、じっとしている分には変に痛むこともない。
「あんた、あれだろ」
男が言った。
「ウチの領主が森で見つけてご執心だって言う娘だろ」
バレている。
彼女は自分の中でざっと血の気が引くのを感じた。
「人狼がまた来てかっ拐って行ったって、そりゃ大騒ぎさ。しばらくは大掛かりな捜索隊まで組まされて。……まぁ、あんたを見てりゃ領主が血迷う気持ちも分からんではないが」
男は呆れたように大きな溜め息を吐く。
「振り回される方は大迷惑だね」
その言葉は捜索隊に入れられた人々だけでなく、彼女にも向けられていた。振り回されて、迷惑だっただろうと。
「わ、私……」
何をどう誤魔化せばいいのか。色を失った彼女に、けれど男は淡白に言う。
「心配するな。言いつけるつもりがあったらとっくにしてる。俺は気分でだけ医療に携わる、世間から見たら非正規のもぐりの医者だ。まともなヤツがかかる医者じゃないし、つまり俺自身、医者として堂々とお日様の下を歩ける経歴の持ち主じゃないってことだ」
それに、と付け加えられた。
「あの領主だって、流石にあんたがまだこの辺で生きてるとは思ってないさ」
売られる心配はないらしい。
ホッとすると、疑問が次々と沸いてきた。
「あの、私はどういう経緯でここに」
「男がな、お前を抱えてやって来たんだよ。助けてやってくれってな」
全身ずぶ濡れで。
抱えられた彼女の肌は恐ろしく真っ白で、助けろと言われてももう死んでるのではと思ったらしい。
彼が自分を生かそうと必死な姿を、ぼんやりと頭に描いてみる。
「看板も出してないのに、どう嗅ぎ付けたんだか。薬の匂いでもしてたか?」
その言葉に彼女はギクリとした。うろ覚えの記憶にも、男の決定的な発言があった気がする。
この、男は。
「奇妙な気分になったもんだが、隠すところ隠せば俺ら人間とそう変わらん見た目だし、同じ言語を解すワケだ。まぁ人狼と言えど、人並みの情を覚えることもあるんだな」
「あなた」
きゅっと喉が締まる。
「あなた、彼が人狼だって分かってて」
「分かるも何も、ろくろく何も隠してなかったんだ。耳見りゃ一発だろ」
事も無げに男は言った。
「……ここの領地の人々は、森を焼くほどに人狼を恐れ憎んでいるのでは。そんな土地に住まうあなたが、人狼の頼みを聞き入れたと……?」
「金さえもらえりゃ、大抵のことはする。それに助ける対象は人狼でなく、人間のあんただった」
それにあれは人を喰おうってヤツじゃなかった、と男は付け足した。喰われなけりゃ、何でもいいと。
男の物言いは全てを割り切っており、清濁併せ呑むといった態度はもぐりの医者だと言うのも頷ける。
「お金……」
「そう、たんまり貰ってる。人狼ってのはどこでどうやってあんな大金を稼ぐんだ?」
彼は彼女のためなら何も惜しまない。
そのことがまた身に染みる。
たんまり貰ったという金額に、彼のあの素晴らしく滑らかな美しい髪の感触を思い出した。
またあれに、触れてみたい。心の奥が、そう疼く。
「それからこれはあんたの分だ」
男の声に、意識が現実に引き戻された。
小さな革袋がサイドテーブルに置かれる。確認しなくても金属の擦れ合う音で、貨幣だと分かる。
彼は、こんなところまで配慮して。
そして、彼女の為に取り置かれた袋を見て、彼女は彼の意図を予感する。
「……黙っていても分からなかったのに」
取り敢えず、まずはそう呟いてみた。
この医者は誠実なのか人の道を外れてるのか、何だかよく分からない。
「過ぎた欲は身を滅ぼす」
返ってきた言葉は、至極真っ当だった。
どういう理由でこの男が堂々としていられないのかは分からないが、後ろ暗いところがあるにせよ根っからの悪党という訳ではないらしい。
「それで、あの」
彼女は訊こうとして、途中で躊躇った。訊くことに意味がないような気がしたのだ。
「……人狼か?」
けれど男は言葉の先を拾い上げる。
知りたいことへの返答は、あっさりとしたものだった。
「さぁなぁ、あんたを預けて金を寄越したと思ったら、そのまま消えちまったよ」
「………………」
やっぱり、と彼女は思う。
彼が黙って去って行ってしまったこと、迎えに来る気配がないことに、どこか納得している自分がいる。
だから、寂しかったけれど、それほどショックではなかった。
成り損なった微笑を口の端に浮かべてみた彼女に、男が嘆息する。
この男に自分はどう見えているのだろう、と今更ながらに彼女は思った。
人狼と想いを交わし合うなんて、気が違っているとでも思われているだろうか。それとも他人が何と情を交わそうと、どうでもいいと気にも留めないだろうか。
愛想がないとは言え、彼女ときちんと言葉を交わす男から、彼女の正気を疑っている素振りは見せないが。
こんな風に、彼と彼女のことが取るに足らないことだと扱われてくれれば、二人はもうただひっそりと、何も気にせず暮らせたのに。
「ひと言、言伝てを預かっている」
男の凪いだ目と、彼女の所在なさげな目がカチリと合う。
「自由に、と」
自由に。
なんてふわっとした言葉だろう。
けれど、そこに込められた彼の複雑な感情と願いが読み取れる。
「まぁその身体じゃ、しばらくはろくろく動けないだろ。腹の傷がしっかり塞がって、体力が戻るまでは放り出したりしないから安心しとけ」
そう言うと男はベッドから離れて、また階上へと姿を消した。
取り残された彼女は、きゅっと布団の端を握ってみる。
心の中はぽかりと空間が空いていて、埋めるものは何もなく、ただただ凪いでいる。
寂しさも悲しみも喜びも希望も認識できるけれど、何だかラベルを貼って端から他人事のように眺めている感じがする。
窓の外を見遣る。
単調な青空が広がっている。雲は流れ、風は熱気を孕み、陽光を受けて枝に繁る葉が光る。
平和的で、何の問題もありませんと言わんばかりの、 ただの日常。
「……置いて行かれちゃった」
でも、分かっている。ちゃんと知っている。
置いて行かれたけれど、決して置いて行きたかった訳じゃないこと。
彼女がずっと不安だったように、彼も不安を抱き苦悩したこと。
つまり、お互いがお互いの不幸を呼び寄せるのではないかという、恐怖。
愛しているから、天秤が釣り合っているから。
そうなってしまったら、もうお互いを失えないのだ。自分のせいで失うくらいなら、手放してどこか全然別のところで平穏を手に入れてくれた方がまだマシなのだ。
幸せを望む心は、ふとすると臆病の風を呼び込んでしまうから。
願われ望まれ繋ぎ止めた命の行き先を、彼女はじっと見つめてみる。
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