小さな食卓-9
どれくらい流されて、どれくらい距離を稼げたのか。そういうことは全く分からなかった。
「リディア、リディア……」
水から引き上げられた身体は冷えと痛みでぐしゃぐしゃだった。
自分の傷がどれくらいのものなのか、彼女にはよく分からない。周りの景色も状況も、よく分からない。
「……大丈夫よ」
根拠もなく、そんな言葉が出るだけ。
「すまない、すまない、こんなはずでは」
彼は彼女の背中を支えながら、その声を震わせる。いつもしっかり芯が通っていて弱みらしい弱みなど見せなかった彼がこんなに動揺するなんて、あまりよくない状態なのかもしれないとぼんやり彼女は考える。
不意にガサガサと茂みを割るような音がしたと思ったら、何だかふんわりした感触が頬に押し付けられた。
「グラウ……?」
霞む視界に見覚えのある灰の毛並み。彼女はまた一つ深く安堵する。
「生きてたのね? あぁ、良かった、グラウ……」
ぐりぐりと甘えるように身を寄せるグラウ。
「二人とも無事で、本当に……」
これほどまでに何かに感謝したことはない。
神様でも何でも良い。彼らが助かったこのまたとない幸運になら、一生分の運を使い果たしたとしても構わない。
「リディア、もう喋るな」
絞り出すように彼が言った。
けれど、彼女には伝えたいことが山のようにある。今、伝えなかったら、きっと後悔する沢山の言葉。
「ねぇ、ヴォルフ」
宝物のように、その名前を呼ぶ。ずっと喉の奥で、躊躇っていた彼の名前を音にする。
出逢った時も、こうして彼の顔を見上げたな、と彼女は遠い昔のことのように思い出す。
そう、あの時も似たようなことを彼に願った。
「私の愛しのオオカミさん。私がもしこのまま息絶えたら、あなた、私をきっと食べてね。全部綺麗に平らげて」
だけど、あの時と今では願いの意味が違う。
彼女はただ、食されたい訳ではない。
この人生の中でようやく生きたいと思えたからこそ、彼に望むのだ。決して消極的選択ではない。
「私、あなたの一生の中で、特別一番のご馳走になりたいわ。他にないくらい美味しかったと思われたい」
酷いことを言っているのかもしれない、とふと彼女は思う。
「独り寂しく葬られるくらいなら、あなたの血肉の一部になって、あなたと一緒に生きたいわ」
「リディア、そんなことを言わないでくれ」
でもそれが、一番素敵な供養のような気がするのだ。
小さな笑い声が彼女の口から漏れる。
「ふふ、私、気持ち悪いことを言ってる。……でも、そう、つまりね」
のろのろと腕を持ち上げる。その手が彼の頬に触れる。
一緒に水に流されたその頬は、やはりひんやりとしていた。
ビクリと、彼が小さく強張る。手の平が伝える感触は、全て愛しいという感情に変換されて彼女の胸いっぱいに広がる。
「ヴォルフ、愛してる」
彼女は言った。
「あなたを、愛しているわ」
一番、大切な言葉を。他の誰にも告げたことのない言葉を。
彼が息を呑む気配がする。視界が霞んでその表情をしっかり見ることができないのが、残念だ。
「あなただけよ。私がこれまでの人生で誰かに愛を覚えたのは、あなただけ」
いつか言ったのと、同じ台詞を唇に乗せる。
「私と、ずっとずっと一緒にいて」
彼との未来を惜しむ気持ちはあっても、悲しみや憎しみ、絶望はない。
生きていてくれた。迎えに来てくれた。
今、ここにいる。今、自分を抱き締めてくれている。
それだけで、もう十分幸福だった。暖かくて穏やかで、満ち足りていた。
不安なことなんて、怖いことなんて、どこにも何にもなかった。
とびきり安心できているのだ。
「リディア……やめてくれ、死を受け入れるな。愛してくれなくたっていいから、自分を諦めないでくれ。こんな不幸な目に遭わせたかった訳じゃない」
悲壮な声。ぎゅっとその頭を抱き締めてあげたいけれど、それには少し気力も体力も足りていない。
だから彼女はただ肯定する。彼との何もかもを。
「……どうしても不幸になるというのなら、私はあなたと不幸になりたいわ。あなたとだけ、不幸になりたいの」
そしてなるほどと彼女は理解する。彼女のあれこれを左右できるものが、最早この世に一つしかないことを。
「もうきっと、私を本当の意味で不幸にできるのは、あなただけよ」
「リディア!」
痛みも寒気もどこか遠くの方でゆらゆらと小さく揺れているだけだった。
だから、彼女は心からの微笑みを、その顔に浮かべられた。
「だからヴォルフ、私、いま、とてもしあわせなの」