小さな食卓-8
「!?」
微かに馬車に走る振動に驚いて、パッとお互い身を引く。
続く呻き声、金属が鳴らす甲高い音。何か事故ではない、争いの気配。
「何だ……盗賊か?」
そう治安の悪い領地にも見えなかったが、確かに盗賊というのはどこにでも出る。中心地から外れたこの場所は人目もほとんどないので、狙いやすいだろう。何より立派な馬車はよく目立つ。
もちろん領主に付き従う人間は、腕の立つ者ばかりのはずだ。御者の横にはお付きの者がいたはずだし、御者自身も最低限護衛としての技能は身に付けていると聞いていた。
けれど漏れ伝わる音は、あまりこちらに都合の良さそうなものではない。
「きゃっ」
また馬車に衝撃が与えられる。思わず小さく悲鳴を上げてから、彼女は固唾を呑んでドアを見つめた。
抉じ開けようとするように、ドアに繰り返し衝撃が加えられる。
「外の人間は何をしている」
渋い声で言いながらも、領主は彼女を背に庇い、腰に佩いていた護身用の細身の剣を抜いた。
「……相手の人数は多くないようだ。危険な目に遭わせて申し訳ありませんが、そちらのドアをそっと開けておいて下さい。こちらを破られる寸前に、反対から出た方が良さそうだ」
ミシリと蝶番が嫌な音を立てて歪む。
言われた通り、彼女は細心の注意を払って鍵を開け、ノブをそっと回した。
「一通り剣技は修めていますから、ご安心を」
もうドアはいくらももちそうにない。
「!」
そう思った瞬間、鈍い音を立ててついにドアが破られた。
一瞬の空白。
次いで一度、金属音が。
領主の背に隠れて相手の様子は見えないが、相手の刃を弾きはしたらしい。彼女は意を決して素早く反対側のドアから外に出る。
領主の方は相手の刃を弾き返した勢いで、そのまま破られた方から外へ飛び出した。
囲まれている雰囲気はない。領主の読み通り、少人数での襲撃らしい。いや、もしかすると単独行動なのかもしれない。
「あれでまだ生き延びたか!」
怒声が響いて、彼女はぐるりと馬車の背後から様子を窺った。
窺って、それで。
「ーーーーーー」
息が、止まった。
頭が現実を理解しきれず、広がる光景を否定しようとする。
嘘だ、だって、そんな、まさか。
切実に望んで願って縋って、だけどどこかで諦めかけていた、その姿が。
視線が、合う。その瞳が彼女を捉える。
捕らえて、離さない。
「ヴォルフっ!!」
領主と刃を交えていたのは、紛うことなく彼女の人狼だった。
「………………生きて」
生きている。生きている、生きている、生きている。
彼女の願望が見せる幻影ではあるまい。
嘘みたいな現実だ。彼が彼女を見止めて、安堵と歓喜の色をチラつかせる。
声が聞きたい。そう思った。
するとまるでこちらの心の内を読むように、彼の低く耳に心地好い声が届く。
「……大丈夫だ、何も心配いらない」
呆然としていた意識が、目に映る世界を認知する。処理しきれない感情が溢れて、途端に身体が小刻みに震え出す。
一度飛び退ってから彼が大きく跳躍した。彼女の目の前に降り立つ。触れられる、距離。
どんな言葉ならこの場に相応しいのかお互い分からず、けれど彼の方が先に口を開いた。
「足は」
「そんなつまらないこと!」
生死をさ迷うほどの深手を負ったくせに、開口一番気にかけることと言えば、とっくに治っていて当然の彼女がちょっとくじいただけの足のことだなんて。
「それよりあなたの方が」
触れようと伸ばした手は、けれど彼に届かなかった。
「っ!」
間に割って入ったのは領主。彼らの攻防が再開される。
「野蛮な。害することしか知らない獣の身で」
「否定はしない」
彼らの視線につられて、彼女も馬車の前方を見遣る。そこには御者と従者が転がっている。けれどそこに無粋な血溜まりはない。
ーーーー殺していない。
「悪食なことだ。うら若き乙女に牙を立てようとは」
「腹に収めるような勿体のないことをするものか」
それを聞いて余計に領主は気色ばんだ。
「尚悪い!」
剣と爪が弾き合う度に身が疎む。
目も耳も塞いでしまいたいけれど、それと同じくらい一瞬たりとて何も見逃せないし聞き逃せない。
見ていると彼の動きはどこか精彩を欠く。
領主の腕は上等な部類だろうが、本来身体能力を考えると人狼に分があるはずである。人間は一対一で向き合うべきではないのだ。
けれど今、二人の力は拮抗しているように見える。
ーーーー万全ではないのだ。
その身体にはまだ、あの時負った傷の影響が残っているのだ。
俄に不安になって、彼女は考える。何か、何か自分にできることはないかと。
彼女は武器もそれを扱う手管も持ち合わせていない。でも、もう二度と彼を失いたくない。傷付いていくのを見ているだけは嫌だ。
「っ!」
気が付いたのは、本当にたまたまだった。
彼の背後、地面に倒れていた従者の肩が。
「後ろ!」
「!」
彼は身を捻って剣をかわす。突っ込んで来たその腕を掴んで相手を投げ飛ばす。けれど、横手からは領主が鋭くひと突きを繰り出しーーーー
彼はきっと間に合わない。
だから、間に合え、と彼女は自分に強く命じた。
「!!」
勢いのまま刃が皮膚を、肉を割く感覚は、他の何にも例え難い。焼けるようというのが近い感じがしたけれど、それだけでは表し切れない刺激。
けれど、ほっとした。間に合って本当にほっとした。
「っぁ…………」
領主が蒼白な顔で自分の手元を凝視している。彼女の腹に沈むのは、間違いなく彼が繰り出したその剣だ。
「何故、こんな」
きっと彼は信じられない。一生理解できない。
人狼の為に身を投げ出すだなんて。
領主の妻という立場を不意にするだなんて。
「……ほら、救いようのない」
そう言って、彼女は微かに自嘲する。
領主を責める気持ちはなかった。人狼が人間にとって害悪なのは事実。言葉巧みに人間を騙し、食らう、恐怖の対象。彼が特殊すぎるだけで、それを理解しろなどと無理な話だ。
細く息を吐きながら彼女は言葉を続ける。
「領主様、悪い夢を見たとでも思って、もう忘れてしまった方が良いでしょう。……私は、貴方が救うに、値しない人間です」
彼女の心を掬い上げられたのは、彼だけ。
「この期に及んでまだそんな。それとでは、貴女は幸福になれない。それは、人を食らう生き物だ」
「いいえ、いいえ領主様」
今ならもう断言できる。迷いなく、ただ自分の意思で。
「私の幸福が何であるかは、私にしか決められないのです」
他の誰にも決められない。
「他人の目から、それが……どれほど愚かで……間違って、いるように見えたとしても」
それでも彼女は決めたのだ。
他の誰でもない彼を唯一に選ぶと。
自分の幸福が、彼と共にあるのだと。
「リディア!!」
ふらりと重心が傾いて、彼女は背中から地面に傾いた。ずるりと腹から剣が抜けるおぞましい感覚がする。
けれど彼女を支えた大きな手は、ずっと夢にまで見た温かさ。
「リディア、リディア……」
視界の端に向こう側から別の馬車がやって来るのが映った。
騒ぎが大きくなる前に、逃げ切らなければならない。
彼女はチラリと彼を見上げ、それから欄干の向こうへと視線を滑らせる。
「そんなことをしては……!」
彼女の意図を読み取った彼は、気色ばむ。けれど彼女は引かなかった。
「……お願い、早く」
「ーーーーっ!」
次の瞬間。
「!」
彼は彼女をぎゅっと抱き締め、一つ大きく跳躍した。
欄干の向こう、豊かに流れるその川に向かって。
ひたすらに重力に引っ張られる、危険な逃避行。
けれど落ちていくその浮遊感さえ、彼女にとっては恐怖ではなく解放の喜び。