小さな食卓-6
それから暫くの後、街の様子を知りたいと彼女は申し出た。
人々の暮らし、街並み、自然の景色を。
領主は喜んでそれを受け入れた。彼女がここで生きていくことに前向きになったのだと捉えたらしかった。
本当の狙いは、逃げ出すことだった。
自力で領主の館から出ることは不可能だ。
合意の上で外へ出して貰えれば、その内に油断が重なり逃げ出す機会もあるはず。それまでは街を知ることに注力する。情報は多ければ多いほど、逃走経路を算段するのに役立つ。
そんな彼女の心中を恐らく知る由もなく、仕事が落ち着く週末の昼間を中心に、領主は彼女を連れ出すようになった。
「領地の西側は主に畑です。小麦の生産が最も多いですが、野菜などもそれなりに。僅かですが葡萄畑があって、そこの領民が毎年葡萄酒をくれる。中々に美味ですよ」
本当は他にも思い付いた手はあったのだ。
領主が自分の見目を理由に妻にと言い出しているのなら、顔に傷の一つや二つ付けてしまえばいいのではないかと。
けれど彼女にはできなかった。単純に痛みを恐れてのことではなかった。痛みももちろんそれなりに怖かったが、ふとまた彼のことが頭を過ったのだ。
彼は、自分の何を愛してくれたのだろうか。
人狼である彼を受け入れた、その心の在りようを愛してくれたのだろうか。
それが全て?
もし、彼が彼女のその容姿に心惹かれていたら。全てでなくとも、その比重がそれなりにある可能性は否定できない。
彼が生きていて、万一彼女と顔を合わせることがあって、その時に失望されたら。
価値がなくなったと、以前と同じ眼差しを向けてくれなかったら。
そう考えたら、怖くなってしまったのだ。
結局自分も、自身の面の皮一枚にしか付加価値を見つけられないことに、失笑するしかない。
「先日は染色工房を見せて頂きましたが、割に水に恵まれた土地なのですね。あちこちに水路や小川がある」
足元を流れる用水路を見ながら彼女は問う。
「そうですね。あちらの」
指し示された方を見遣る。小高い丘。その真ん中を割るように一本の大きな川が見える。
「あの川が一番水量がある。他にも太い川はありますが、あの川から引く水が一番多いでしょう」
「丘の方に大きな……あれは橋でしょうか」
「そうですね。橋であり、水門でもある。時折水量を調整するのです」
遠目なので判然としないが、どうやら現在水門は開いているように見える。
「あそこから」
その橋を指し示しす。
「あそこからならこの一帯が全て見渡せそうですね」
「えぇ、自慢になってしまいますが、とても美しい景色だと思います。街の方では染色されて干された色とりどりの布が風にはためき、まだ季節は早いですが、秋が深まればここらは金色に染まる」
機嫌良く話す領主に、彼女は努めて柔らかい声音で願う。
「……今度、あの橋まで連れて行って下さいな」
返答は淀みなかった。
「貴女がお望みならどこへでも」
そしてすっと手が仰向けに差し出される。
「ですが今日はこのまま中心地へ。先日お約束した店へ食事に行きましょう」
その手に彼女は自分の手を重ねる。
スマートなエスコート。無駄や隙のない所作。
領主と違い、彼はいつも恐々彼女に触れた。そのくせ時折大胆で無自覚で、彼女はいつもそれに心を振り回された。
視線を巡らせると、まだ青い小麦畑の向こうに深い緑が広がる。容赦なく一部を焼いたあの森では、けれどそれを埋め合わせるように植樹が勧められていると言う。
「………………」
胸の痛みを抉るように、彼女は心を固める。
ここを出て、あの森へ行き、現実を探さなくては。
例えそこに変わり果てた彼の姿が転がっていたとしても、それを自分の瞳に焼き付けなくては。
生きるも死ぬもそれから。
誰に左右されるでもない、自分の意思で人生の行き先を決めたいと、彼女は密かに願っている。