食事の作法
惑いの森には人狼が暮らす。
鋭い牙、長い爪、山肌を風の如く駆ける強靭な脚、そして夜闇に光る不穏な瞳。口を開けば巧言で相対するものを惑わせ、瞬く間に罠に嵌める。人の姿に獣の性を持った恐るべき生き物。好んで肉を喰らい、中でも人肉は彼らにとって最上級のご馳走だ。
麓の村では家畜や村人が毒牙にかかることも少なくなく、森の恵みにあやかるのも命懸け。狩猟も季節の実りも、今や目の前にあれどおいそれと踏み入ることもできない。
そんな恐ろしの森を行く少女が一人。
フード付きの赤いローブからすらりと伸びる手足。薄暗い森の中ではその白い肌は妙に艶かしくも映る。
耳の下でそれぞれ束ねられた茶の髪は緩やかなウェーブを描き胸元へ流れ、緑の瞳は何の感情も映さずにただただ前へ向いているだけ。
手に持ったバスケットはやけに大きく、少女の華奢さを思えばアンバランスな印象を覚える。
そう、人狼の住まう森へ踏み入る少女は、けれど不安や恐怖を覗かせない。
まるで森へピクニックにでも来たかのような出で立ちの少女は、けれど喜びや楽しげな表情をその顔に浮かべない。
そんな少女の表情が、暫く歩き進めた後ほんの少し和らぎを見せた。
「人狼の森だからと思ってたけれど、そうおどろおどろしいものでもない……?」
麓の入り口こそ鬱蒼と生い茂った木々が重苦しさを演出していたが、日当たりの良い緑きらめく場所もあるようだ。
それもそうね、と少女は一人頷く。
「他の動物や果実があるってことは、森としてある程度健全だということだものね」
あまりに森へ立ち入る機会が減り、人狼の恐ろしいイメージがついていた為、森そのものが呪われているかのような気になっていた。
人狼だってここに餌があるから、住み良いから根城としているのだ。森そのものが病んでいる訳ではない。
せせらぎに誘われ足を向けると、小川が流れている。足元には小さな白い花がそこここに咲き、鳥の囀ずりが耳に優しい。
少女はそのまま森の奥へ奥へと黙々と進んだ。時折野兎や栗鼠、鹿などが顔を覗かせ、森は平穏そのものだった。
しかし――――
ふと、それまで耳に触れていた様々な音がサッと凪いだ。
「……………………」
思わず少女も足を止める。
そろりと辺りを見回すが、目につくものはない。けれど息を詰めるような緊張感がある。
さっきまであった営みがその存在感を殺している。あれだけ暖かかった陽光でさえ何だかよそよそしい。
――――いるのだ。
少女は確信する。
彼女の目には未だ映らないけれど、近くにいるのだ。だから、自然はあるべき反応を取り静まり返っている。
きっともう、自分は捕捉されている。
そう思った瞬間、鼓動が跳ねた。
そう、ここは人喰い人狼が住まう森。
「珍しい」
低い声が響いた。視線だけを右手へ滑らせる。
「――――」
ごくり。喉が鳴る。
男がいた。
木々の暗がりの中で、こちらを見つめる金を帯びる瞳。その気配は先ほどまですっと暗がりに馴染み溶け込んでいたはずなのに、認識した途端圧倒的な重量で彼女にのしかかる。
「こんなところに人間――それも女一人とは」
この距離では牙も爪もよく分からない。ただ、それが普通の人間でないことは、高い位置でピンと立った二つの耳が雄弁に物語っていた。
「何をしに来たんだ?」
目に留まった途端に襲いかかられてもおかしくはなかったが、人狼は数メートル先から動かず問いだけを投げかけてくる。
けれど頭のてっぺんから足の先まで舐めるような視線が彼女に向けられていた。噛み千切ったその肉の味を想像されてるだろうことは容易に察せられる。
彼女は何も答えない。
何をどう答えればいいのか、そもそもよく分かっていなかった。
「人狼を見るのは初めてか?」
初めてだった。
遠目には耳以外人間との違いは見受けられない。すらりとした長身を包む服装にも奇抜なところはなく、そこらの村人と同じような印象を受ける。グレーの髪は少し長めで、後ろで適当にひとつに纏めているようだった。
「まぁ、そうだろうな。人生でそうそう出逢うべきものでもない」
一度遭えばそれが最後だ。人狼に出くわし生き延びることはそうないから、彼らと二度三度と逢瀬を重ねるのは人狼狩り専門の狩人くらいだろう。
「怯えているのか」
一歩、人狼が前へ踏み出した。
彼女は動かない。ただ胸の鼓動が早くなるだけ。
「無理もない」
人狼が薄く笑った。
二歩三歩と迫って来る。
「本当に一人なんだな。連れとはぐれたのかとも思ったが、何の気配もない」
その顔にまだ残忍な色はない。その存在に圧倒はされても、殺意を感じるほどではない。善人の皮を、被っているのだろうか。
「それにしても呑気な出で立ちだが」
ブラウス、スカート、赤いローブに革のブーツ。目に見えて持っているのはバスケットだけで、これといった物々しい装備はない。食べて下さいと言わんばかりの危機感の欠片もない姿。
「まさか本当に散策がてら来た訳でもないだろう?」
気が抜けすぎた少女を、却って人狼は怪しんでいるようだった。何か思惑があるといぶかしんでいる。
けれど、不覚を取られる相手にも思えないのだろう。その態度には存分に余裕が滲んでいる。
「声を」
いつの間にか人狼は少女の目の前にまで迫って来ていた。
頤に人差し指を掛け、少女の視線を上向かせる。
「聞かせてくれないのは恐怖のせいか?」
優しく、甘く。人狼は語りかける。
「怖がらなくても、俺は出会い頭にいきなり女を襲うほど野蛮じゃない」
そう言われて、思わず少女はふっと笑ってしまった。口を開くきっかけをようやく得られる。
「それは手順を踏めば、最終的には襲いますよという宣告?」
金色の瞳が。
にぃっと弧を描く。
残忍な愉悦が人狼から滴り落ちる。
流石に彼女の顔にも恐怖が浮かんだ。
「美味そうな匂いだ」
うっとりとした声で人狼は言う。
身を引こうにも、強張った身体はいうことを聞かない。
自分が獲物認定されていることはとっくに分かっていたが、張り付く喉から無理やり声を絞り出す。
「――――何が?」
「その」
人狼のつと伸ばされた人差し指が触れるか触れないかの距離で少女の肘から手首を辿り、
「バスケットの中身」
大きなバスケットを指して止まった。
バスケットからはたんまり詰め込んだ料理が頭を覗かせている。
身体の強張りがいくらか解ける。どうやら人狼の言う手順とやらは、まだ先があるらしい。
どうせなら、最期くらい好きなように。
そう思って、彼女は口を開いた。今度は滑らかに言葉が紡げる。
「駄目よ、これは私の最期の晩餐なの」
「最期の?」
ピクリと人狼の眉が撥ねる。
「ーーーー最期の、晩餐ごっこよ」
意味深な発言だった。彼女は反省して言い直してみる。
「たまにするの。自分へのご褒美みたいなもの。今日のこの食事が人生最後だとしたら、どんなものが食べたいかしらって想像して、うんと好きなものばかりを用意するのよ」
ちらりとバスケットの中身を見せながら歌うようにメニューを諳んじる。
「奮発したのよ。熟成ハムに朝採れのたまご、特別な酵母を使ったブレッド、チーズに果物に葡萄ジュース。それから腕によりをかけたチョコレートタルト」
「随分豪勢だ」
とても一人で食べ切れる量ではない。人狼の目には不自然に映っただろうか。
「たまの贅沢だもの。思いきりやらなくちゃ却ってもったいないわ」
「思い切りがよすぎないか。自分へのご褒美は結構だが、場所が悪すぎる。まさか人狼の噂を知らない訳でもないだろう」
そうね、と彼女は同意しながら考える。さて、何と言って納得させようか。
「――――むしゃくしゃしてたの。あんまりツイてないことばから続くから、自分を甘やかそうって。美味しいものを沢山用意して、そしたら次は素敵な場所での食事にしたいじゃない。だけど、村では嫌だったの。村で嫌なことがあったから、それ以外が良かったの。目についた身近な場所がここしかなかったのよ」
あながち嘘でもない。半分以上は本当のことだ。
「確かに短慮だったわね。森に入れば必ず人狼に出くわすって訳でもないだろうって、家を出た時は思っていたけれど」
「人狼の嗅覚を甘く見ない方がいい」
「でも、思っていたよりあなたは紳士ね」
そう言って、彼女は小さく微笑んで見せた。
すぐに喉笛を噛み千切られると思っていたから、引き延ばされたこの時間は思わぬギフトだ。バスケットの中身を無駄にしなくて済むかもしれない。
しばらくじっと彼女を眺めていた人狼は、やがて自分なりに何か納得したようだった。
「素敵な場所での食事にしたいと言ったな」
「えぇ」
「俺はこの森に詳しい。もっといい場所があるから案内しよう。その変わり、そのバスケットの中身を俺にも分けてくれないか。二人で分けても十分な量だろう?」
親切ぶった言動。
「腹が満たされれば、あんたも無事にお家へ帰れるかもしれない」
これが人狼の巧言だろうか。その胃袋が何をどれだけ入れれば満たされるのか、彼女には知る由もない。
「――――いいわ」
けれど彼女は頷いた。前へ進むしか、もう道は残されていなかったから。
それにしても、すぐ先で寸断されていると分かっている通を進むことに意味はあるのだろうか。
自虐的な考えが頭を過ぎる。
視線の先では人狼が口元に笑みを浮かべていた。
「重いだろう」
そう言って人狼はするりと彼女の腕からバスケットを引き取る。足場が悪ければ手を差し伸べ、行く道に枝が立ち塞がれば押し退けて彼女を先に行かす。
森を縄張りとし、人と交わらない、それどころか同族同士でも群れることのない人狼がどうしてこうスマートなのか不思議だ。
本能がそうさせるのかしら、と彼女は考える。
彼を先生に村の男達にコーチでもつけてやれば一儲けできそうだなんて、絶対にあり得ないことまで想像しながら。
「ここだ」
時間にして十分ちょっと。人狼が彼女を導いた場所は、その言葉に嘘なく確かに素敵な場所だった。
「綺麗……」
日当たりの良い開けた草原。風に揺れる一面の青、桃、白の花々。人狼がいるせいか着いた途端小鳥の囀りはピタリと止んだが、木々の向こうに流れる川のせせらぎだけで十分耳に心地良い。
「いい場所ね」
彼女は満足して荷物の中から取り出したクロスを広げ、ご馳走を並べて行く。
「二本あるが、これはどうする?」
手伝っていた人狼が深緑の瓶を取り出して尋ねる。片方にだけ、彼女が髪を結っているのと同じ臙脂色のリボンが結ばれている。
「…………そうね、どちらも葡萄ジュースなんだけど、こっちから開けましょうか」
人狼の顔を眺めながら彼女はリボンがついていない方を指差した。
「分かった」
詮を抜いて、グラスに注ぐ。濃紫の液体が陽光に煌めきながらたぷりと揺れる。
「いただきます」
食事は、和やかに始まった。
人狼は葡萄ジュースを口に含んでは、
「甘い」
と苦笑し、パンにハムやたまごを乗せてかぶり付いては
「美味い」
と満足そうに呟く。
彼女も一つ一つをしっかり味わってお腹を満たしていく。
残すは自慢のチョコレートタルトだけとなって、彼女は一度立ち上がった。
「果汁で手が汚れたわ。そこの川で洗ってくるから、タルトはその後にしましょう」
人狼も彼女の逃亡など微塵も心配していないのだろう。鷹揚に頷いて、送り出した。
例え逃げ出しても、人狼の脚力を前に敵うはずもない。彼女ももちろんそれは分かっているから、本当にただ手を洗いたいだけだった。
冷たい水に手を浸す。
穏やかな午後だ。相手は穏やかじゃないけれど、今は彼女のペースに合わせ善人の皮を被ってくれている。
あとどれくらい、こうして生きていられるだろう。
タルトを食べ切れば、すぐにさよならだろうか。
そんな風に思いを馳せていると、ふと、風が止んでいることに気付いた。
「…………」
何か、様子が変だ。
彼女は立ち上がり周囲を見渡す。まだ、何も見えない。
「タルトは一生お預けかしら」
残念そうに呟いて、一応腰を落として身構えた。
「!」
右手前方の茂みが大きな音を立てて揺れる。彼女は反射でそれを何とか避ける。
違う、と瞬時に認識できた。飛び出して来たのは人狼。けれど、それは彼女と食事を楽しんだ、あの人狼ではなかった。別の、人狼。
「割にすばしっこいなぁ」
耳に障る嫌な声だった。
相対して思う。何だか顔つきにも品がないわ、と。
連れ立った人狼とは違って、こちらには手順も作法もないらしい。
にたり、と笑ってまた人狼が飛び掛かる。
彼女はスカートの中の両腿から仕込んでいたそれをすらりと抜き出す。
キン、と硬い音が高鳴る。人狼の爪と彼女の手のナイフが弾き合った音。
人狼は少し意外そうな顔をしたが、そのまま間髪入れず二度三度と鋭い爪を繰り出した。やっとのことで何とかそれを弾く彼女は防戦一方。数度の打ち合いの後、足を取られて背中から転倒する。
「勇ましいが、所詮は素人芸だ」
彼女の喉を掻き切る為に、太く鋭い爪が翳された。瞳に飛び込んで来るのは、残忍な笑顔だ。
思っていた結末と、少し違う。
彼女が少しの失望をその胸に覚えたその時、
「っ!」
彼女を殺そうとしていた人狼が、突然身体の上から飛び退った。
「?」
そろりと身を起こすと、離れたところに人狼と――――そしてもう一人、彼女の人狼が。
「人の縄張りに入って来るとはいい度胸だ」
唸るような声には明らかな怒気。けれど侵入者の方は気にも留めずに飄々と言ってのける。
「こんな美味そうな匂いを滴らされたら堪らない。上玉だなぁ……久しぶりに胸が高鳴った」
空気が更に張り詰める。これが殺気というものなのだと、遅れて気が付く。
次の瞬間には人狼同士飛びかかっていた。息を飲んで見守ることしかできない。
どちらが勝っても彼女の命運は変わらないだろうが、でもできれば先に出会った人狼の手にかかる方がマシだった。
長く硬い爪。ひと跳躍のあり得ない飛距離。やはりあれは人ならざるもの、恐るべき獣であることがまざまざと見せつけられる。
思わず目を瞑りたくなるような戟音が数度続いた後、勝敗は決したようだった。
侵入者の首元に突き付けられた爪。
「これは俺のものだ」
力を誇示するように、ゆっくりと地を這う声。
「っ、だったら縄でも付けて繋いでおくんだな」
血を見ることになるかと思ったが、侵入者はバネのように華麗に飛び起きそのまま茂みの向こうへと姿を眩ませて行った。
「――――――――」
残ったのは彼女と人狼。
「危うく掠め取られるところだった」
苦々しげに吐きながら彼女を振り返った人狼は、眉間のシワを更に深くする。
「何がそんなに嬉しい」
「?」
問われた彼女はきょとんとする。
「笑っている?」
「口の端から滲み出てる」
反射的に頬にふれると、なるほど口角が上がっているかもしれない。
自分の心を覗き込んで、彼女は薄ら自覚した。
「今まで誰かの何かになったことがなかったから」
「?」
「さっき、私のことを自分のものだと言ったでしょう?」
「どうかしてるな」
「そうかしら」
「そんなものを仕込んでおいて、言うセリフじゃない。しかも人狼相手に」
人狼が示すは彼女の両手にある小ぶりだが磨きのかけられたナイフ。無害そうな顔をしておいて、彼女がその内に隠していた害意。
「結局人狼狩りが目的か。その細腕じゃ、恐れようにも無理があり過ぎるが」
「あぁ――――」
軽蔑の声。彼女は今思い出したというように手の中のナイフを見遣り、
「は?」
ぽちゃり、とそのまま川に投げ棄てた。流石の人狼も唖然とする。
「バカじゃないのか。それとも他にも何かあると?」
「いいえ、あれで終い。そんなに気になるなら服でも脱がして検分してみる?」
そのセリフに人狼は眉をつり上げた。
「…………紳士なあなたに対して失礼だったわ。ごめんなさい」
謝って、川辺から引き上げる。
美味しいものばかりで埋め尽くしたバスケットも、最早空虚を抱くだけ。
足元を見下ろしながら彼女は考える。流石にそろそろ人狼の言う手順とやらは全て踏まれただろう、と。
先ほどあれだけ軽やかに激しく動けたのだ。満腹には、まだ遠いのだろう。
振り返ると人狼は傍で佇んでいた。手を伸ばせば届く、そんな近い距離。
一時、言葉もなく見つめ合う。
人狼の目にはハンターの性が。彼女の目には、ただ諦感が。
人狼が腕を伸ばす。そう言えば先ほど見た長く鋭利な爪はその姿を潜ませている。出し入れ可能なその爪の仕組みにちょっと興味を覚え、彼女はこんな時にまでそんな些末なことを気にする自分に呆れる。
人狼の掌が彼女の肩を押した。
それほど強い力ではなかったと思う。少なくとも、乱暴な所作ではなかった。そのちょっとした力に彼女の身体は突き倒される。何の抵抗もしないから、ただただ与えられた力を受け入れるだけ。
ドサリとクロスの上から見上げた空が、どこまでもただ美しく青を湛えていた。
食事の時間だ。
ここからがメインデイッシュ。人間は人狼にとってご馳走。特に柔らかな乙女の肉は赤子に勝るとも劣らず美味だという。
あまり、痛くないといい。
溜め息と共に彼女は人狼に言う。
「残念だけど、タルトは全部あなたに譲ってあげる。デザートは別腹だから、大丈夫よね?」
人狼の指が彼女の喉元を伝う。身体が強張るのは仕方がない。諦めはあっても、それで恐れを消せる訳ではない。
「最初から喰われる気だったのか」
「…………」
彼女は答えない。
「家に帰る気は更々なかったと?」
顎を掴まれ、無理矢理向き合わされる。仕方がないので、渋々彼女は口を開く。
「帰る家なんて、もうないの」
説明するのは酷く気だるい作業だった。さっさと終わらせてくれればいいのにとさえ思う。
「帰ってなんか来られないように、今日、出た時に燃やされたわ」
だから、帰る場所なんてもうない。そもそもこれまでだってまともに帰れる家を持ったことなどなかった。彼女の為の場所などなかったのだ。
「燃やされた?」
誰も、躊躇いもしなかった。あっという間に回って行った炎を思い出す。
「何故」
「何故、と私に問うの?」
そんなことは彼女自身が知りたかった。
「何故かしら。私が不義の子だからかしら」
少々ややこしい生まれと育ちを彼女は今更ながら思い返す。
彼女につけられたあれやこれやのレッテルは、彼女自身ではなくその系譜がもたらしたものだったけれど、そんなことは些末なことだ。
不穏分子として集合から弾かれた。それだけが彼女の人生全てだった。這い上がる術はなかったのだ。
「こんな話をしたら、美味しく食事を頂けないかしら」
不義の子ね、と冷めた声で人狼は呟いた。
「どうでもいいことだ。人狼に道義を説いて何になる。俺達にとっては目の前の獲物の肉が美味いかどうかだけが問題で、その肉が形成される過程など何の腹の足しにもならない」
本当に興味がないだけなのだろうが、彼女の経歴など問題にもしないその態度が小気味良い。
そうだ、人狼の前では個が持つあれもこれも何の意味も価値も持たない。
「最後に一つ、忠告ね」
彼女はそっと打ち明ける。
「この後口にしていいのは、タルトだけ。あのリボンのかかった葡萄ジュースはダメ」
毒入りなのだ。言わずとも人狼は察したようだった。
「ナイフなんか仕込んでみたけど、力で勝てるとは誰も思ってない。だから少しでも可能性のある方法を考えただけ」
毒殺ならばあるいは。
「どうして飲ませなかった」
そう、けれど彼女は毒入り葡萄ジュースを開けもしなかった。わざわざ違う方を選んだのだ。
「つまらないじゃない。村の人達の言う通りにする義理なんて、私には更々ないもの。死に方くらい、私の自由よ」
それに人狼の考えより、村人達の考えの方がもう一つえげつない。
ナイフは気持ちばかりの装備。
本命は葡萄ジュース。中には遅効性の毒。
人狼本人に飲ませても良いが、もっと確実な方法がある。
彼女が、飲むのだ。
その身体に密やかに毒を巡らせ、それで死ぬより前に人狼の餌となる。人狼は彼女を介してその身に毒を取り込むといった寸法。
「清々しいほど卑劣だな」
聞いて人狼は笑った。腹の底からの嘲りだった。
「ここで人狼を一人殺したところで何になる。さっきので分かっただろう。この森には複数人狼がいる。仮に苦労してここらの人狼を駆逐しても、同族のいなくなった森は余所の人狼から見れば手付かずの楽園だ。結局すぐに元通りになる。無駄足ご苦労様なことだ」
そう、無駄足。何にもならない。
もうずっとこんな役回りなのだ。
だから彼女は物心ついてこの方何かを願ったり望んだりしても、口に出したことは一度もなかった。口にしたって虚しさばかりが募るだけだから。
「寂しい人生だな」
人狼の仰る通りだった。
「仕方がないわ」
溜息と共に彼女は言葉を吐く。
「人生には、選べるものとそうでないものがあるのよ」
そして視線を伏せた。
「あなたを前に、私に選択肢はない。あなた、私を見て食欲を抑えられないでしょう?」
「…………何だろうなぁ」
彼女から問いに人狼らしい言葉が返される。
「たまに柔らかくて温かいものが欲しくて堪らなくなる。そういうものを腹に収めると、ひどく満たされる」
すっと無防備に晒け出された首筋は、確かに人狼をそそっているのだ。
喉が鳴るのは食欲のせいか、はたまた――――
「…………名前」
「え?」
「名前が聞きたい」
唐突な言葉だった。
それはきっと彼女にとっても、人狼にとっても。
「これから食べてしまうものの名前なんて不要でしょう。あなたが食べるのは“人間”というもの、ただそれだけのこと。個の識別が必要だとは思えない」
呆れたように彼女は言い切る。
「教えてくれ」
けれど人狼はしつこく強請った。耳元で、甘く優しく縋るように。まるで睦言でも囁くように。
「…………」
彼女は戸惑う。別に名前など、憶えてくれなくてもいいと思っていた。ただ時折、人間の娘を食べたことを思い出してくれればそれで。欲を言うなら、あの時の娘は格別に美味かったと、そう思い出してもらえることがあればそれで。
「俺の名はヴォルフ」
焦れたように人狼が先に名乗った。ひねりのない名前だと思った。
「名前を」
再度強請られて、彼女は観念する。
「――――リディア」
それでこの人狼が満足して自分を腹に収められると言うのなら、望む通りに最期まで付き合おうと。
そして人狼が彼女の名を口にする。まるで誰にも内緒の秘密を打ち明けるかのように。
「リディア」
びっくりした。
呼ばれて、驚くほど胸が歓喜に震えた。自分の心の動きが、彼女自身にも分からなかった。
何故、自分がこれほどまでに高揚しているのか、分からない。
でも、ひどく満たされた感じがした。
「何故笑う」
「幸福だから」
「可笑しな奴だ」
「そうね、自分でもそう思う」
自分は気が違ってしまったのかもしれない。
でも、もうそんなことは些細な問題だ。
「でも、多分幸福よ。さっきのあの人狼より、あなたに食べられた方が、きっとずっと」
伸ばした手が人狼の頬に触れる。
人狼は何故か身を強張らせた。少女の得体が知れなくなって、気味が悪くなったのだろうか。
それでも、構わない。多少得体が知れなくたって、彼はきっとその食欲に勝てはしないだろうから。
うっとりと彼女は強請る。この世で最期の願い。
「私のオオカミさん、どうぞ私を美味しく食べてね」
生まれて初めて口にする、最初で最後の願い。
「この血も肉も、骨の髄まで、余すことなくお腹に収めて」
ごくり、人狼の喉が鳴る。
それを見て、彼女は安心する。
嗚呼、もうすぐ私は彼の血肉の一部になれる。誰かに求められて、この生を全うできるのね、と。