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岡っ引きたちの馴れ初め2

小赤の店とは違う茶屋にて、長次郎は女に背中を撫でられながら項垂れていた。落ち込んでいた気分も女のおかげで随分マシになったが、まだまだ立ち直るには程遠い。

「少しは落ち着きまして」

「ああ、感謝しよう、胡蝶さん」

礼を言うとゆるりと目を細めて笑う女は以前遊びに行った吉原で偶々助けた女だった。吉原に住んでいるということしか聞いていない長次郎は四方や女の正体が、現在の吉原で絶大な人気を誇る花魁とは夢にも思っていない。

「何がありましたの、殿方が往来で弱るなんて、よっぽどのことだったのでしょう」

「いや、さしたる事ではなくて…まあ、有体に言うならば、失恋とやらをして来たんだ。その程度で弱るとは、誠、恥ずかしい」

言う通り、恥ずかしげに頰をかく長次郎に、しかし胡蝶は目を丸くして、少しばかり声を荒げて言葉を返した。

「まあ、充分な大事ですわ。今し方、失恋をなさったのなら、さぞやお辛いことでしょう」

「否、失恋自体は、以前から知れた事だったのだ。叶わぬ相手に、恋願っただけのことよ」

「貴方が叶わぬ女とは、また夢のようなお方をお選びになったのね。どのような方ですの」

「夢のようとは、過ぎた言葉だ。貴女のような美しき女ではまるでないのだが…少しばかり、歳の方が離れている。あれも女だ、若く将来がある男の方が良かろう」

胡蝶に促されるまま話しながら、長次郎はもう一度叶わぬことであることを自覚した。自分はあの男ほどに若くなく、また、仕事でももうこれ以上は望めない。それは出生によるもので、抗えない理なのだ。その日食うにさえ困るような男と結ばれるなど、向こうからしてみれば嘆くほどの不幸に他ならない。やれやれと、自身の持つ魅力の少なさに嘆く長次郎の横で胡蝶はふむと頷いて何事か思案した。

「どうして、お一人でお決めになるの。お相手は、貴方のよく知る方なのでしょう」

「歳が、八も離れておるのだ。相手に伺いを立てるまでもない。確かによく知る相手ではあるが、兄と慕われる今が俺の限界であろうよ」

「歳の差がなんですの。八なんて、さほどの差ではありませぬ。私の想う方は、十いくつも離れた、私を商品としか思わぬ方ですわ」

どこか胸を張って言い切る胡蝶に、長次郎は目を丸くして宙に投げていた視線を隣の美女に向けた。艶やかな髪を適当に払う仕草は完ぺきと呼ぶにふさわしいほどに品高いが、しかし、そのドヤ顔が全てを台無しにしている。

「そう、臆病になることもありませんわ。貴方様はとても、魅力的な方ですもの…ああ、そう。いいことを教えて差し上げますわ」

励ましながら不意に思いつくことがあったのだろう。パンと手を叩いて胡蝶はニコリと笑いかけた。

「ここに連れ出してくれた、簪職人さん。実は、そっちの通りで逸れてしまいましたの。少しばかり身体に触れることが多い殿方ですが、とても良い、妻想いの方ですわ」

「…つまり、なんだ」

「あなたが見かけた若い殿方、どんな方かしらと思いまして。若くて、将来性がある、若い女性が行くような場にいるだろう人物への心当たりがあっただけです」

そう多くを語ったわけではない。特に、先ほどのことは何も。それなのにも関わらず、胡蝶が告げた男は恐らくあの若い男のことなのだろうと漠然と理解する。同時に、胡蝶という女の底しれなさを思い知った。

「さてと、そろそろ帰りますわ。簪屋が何処かのお嬢さんの身体に触れないうちに」

にこり、最後にそう告げてから胡蝶はさっさと去っていってしまった。


翌朝。やはり暑さで目が醒める。日付の感覚が疎い日々の繰り返し、休みも定まらぬ職種なれど、毎年この日だけは忘れずに非番にしてもらっている。本来ならばもう少し眠れたものをと恨みがましく燦々と辺りを焼いていく太陽を睨みつつ、くありとあくびを一つ。身体を起こして頭をがりがりとかいた。

「はぁ…これだけ億劫なのは18回目にして初めてだ」

もしかしたら、この例年行事もこれで最後になるかもしれない。けれど、今を逃せばきっと、ずっと後悔するとわかっている、否、昨日胡蝶に教えられたから。

「勇気とやらでも、振り絞ってみるか」

気合を入れて、着替えをし、いつも通りに家を出る。そうすれば、いつも通りに働いていた小赤が声をかけてくるはずだと、そう信じて疑っていなかった。

「おはよう、長くん。今日は非番でしょう、頼まれごとをしてくれる」

「はようございます、おばさん…頼まれごと?」

しかし、声をかけてきたのは文の方で、小赤の姿は茶屋のどこにも見当たらない。首を傾げつつも文の言葉に問いを返せば、文は悪戯に笑って上を指差した。

「なに、簡単なことだよ。あの子を気晴らしにでも連れて行ってあげて欲しいのさ」

「気晴らしって、小赤になんかあったのか」

「別にそういうわけじゃないけれど、まあ、あの子にもいろいろあるのさ。早く、行ってやっておくれよ」

早く早く。急かす文に押されて、長次郎は店の奥へと歩を進める。店内にいた客たちも、どこか見守るような目を向けているのに気がついて長次郎はますます首をひねった。

二階に上がり、すぐの部屋がこの店の住宅空間である。襖を開けて入ってみれば、未だに寝着のまま布団に横になる小赤の姿があった。

「はぁ…小赤、こんな時間まで何やってんだー」

「うるさい、遊び人。昨日の美人さんと遊んでいたらいいじゃない。私は今日この部屋から出ないって決めたの、帰ってよ」

不貞腐れています、と言う空気を全身で撒き散らす小赤に呆れて、その隣にどかりと腰を下ろした。小赤はちらりと長次郎の方を見て、またどこぞを睨みつける。小赤の顔にかかった髪を梳きながら長次郎は小赤の目元をそっと指で撫でた。

「どうした。腫れてるぞ」

「…虫に刺された」

「目をか。それはそれは」

「信じてないでしょ」

「ああ、信じてないな、嘘つき娘」

「嘘なんてついてない」

「ついてるだろ」

「ついてないもん、どこぞの美人に抱きしめられたからって、鼻の下伸ばすような男につく嘘なんて持ち合わせてないもん」

ムッとして顔を見上げながら早口に言い切る小赤に、長次郎は片眉をあげてああ、と頷いた。なるほどな、と合点が行くのは、やはり年の功故だろうか。

「鼻の下なんか伸びてねーよ」

ぐしゃりと髪をかき混ぜて、長次郎は立ち上がる。帰るのか、と不満げな目が追いかけてくるのを見下ろしながら手を差し出した。

「出かけるぞ」


炎天直下。二人ともに大嫌いな太陽の下を並んで歩く。小赤の足並みは少々遅いが、所々で立ち止まって買い物をする長次郎とそう離れることはない程度の速さでその辺りに二人の付き合いの長さと慣れを感じる。

「お使いはこれでだいたい終わりだろ」

「ん。じゃあさっさと帰ろ、暑い」

出かける前、文に頼まれた買い出しと自宅の食料のための買い出しをしていた長次郎が確認するように袋の中を覗き込む。汗を拭った小赤が急かすのも聞かず、今度はその華奢な手を掴んで歩き始めた。

「まあ、帰る前にちょっと付き合え」

そういって向かった先は昨日小赤と男を見かけた店よりも数段質の落ちる簪屋だった。

店に入るなり、目を輝かせて商品を見る小赤を眺めながら、長次郎は違いがわからないと苦笑した。

「どれが一番気に入りなんだ。俺にはさっぱりわからん」

「これかな、うーん、いや、これもすごくかわいい…あ、木だけのものもあるよ!」

声をかけてみるも、小赤の返事は元気が良すぎてわからない。仕方がないかと一番を決めるまで待つこととなった。

数十分をかけ、ようやく小赤の気に入りが見つかるとそれを持って長次郎は店主に声をかけ、あっさりと購入してしまう。期待に目を輝かせる子赤の元まで戻り、その髪に刺してやりながらニヤリと笑う。

「俺の前以外でつけないって約束するなら、これをやろう」

「どうしてそんな約束がいるのよ」

「他の男に取られたくないからだ、小赤」

はっきりと言えば、不満げな顔にさっと赤みが走り、動揺したように視線が泳ぐ。

「小赤、18歳おめでとう。今日だけは、年の差が狭くなるな。こんな年上、嫌だとは思うが俺はお前を他の男に取られたくない」

「え、なに、長にぃ、」

「兄としか思っていない男にこんなことを言われても困る、と言うのは理解しているんだ。だが、俺はお前が生まれた時からずっとお前のことが好きだ。頼むから、俺と結婚してくれないだろうか」

真っ赤な顔で、潤んだ目で、困ったように焦る小赤に長次郎は必死に言い募る。正直、いっぱいいっぱいになっていて、もはや小赤の反応をしっかり考える余裕もないのだ。小赤の方も、言われた言葉が夢か現実か、まるで区別がつかない。

「嘘、長にぃだって、大人の女の人が好きじゃない」

「お前と同じ年頃の娘と遊べると思うのか」

「う…」

確かに、長次郎は昔から妙齢の女性とばかり遊び呆ける。けれど、それはそれが好みだからではなくて、単純に、小赤と同系統と遊ぼうと思うとどうしても手が出せないからだ。

「いきなり言って悪い。ゆっくり考えてくれればいいから。俺は、お前以外と結婚するならもう生涯独身でもいいと思ってる。だから、気にせず、焦らず、答えを出してくれないか」

そう言って、くしゃりと頭を撫でる手に、その温度の高さに小赤は目を細めた。答えなど、それこそ、生まれた時から既に小赤の中にできている。今更何を考えようというのか。答えられないのはただわけがわからないからだ。

小赤の無言をどうとったのか、苦笑して店を出ようと歩き出した長次郎はしかしすぐにくいと軽い力に引かれて立ち止まる。振り向けば、当然引いたのは小赤で、長次郎の袂を真っ赤な顔で握りしめて、必死に顔を見ながら口を開いた。

「私、長にぃのこと、お兄ちゃんだって、思ったことなんか一度もないよ」

その言葉に少しばかり傷ついた顔をするのを見ながら、ぐるぐるする頭の中、どうしても伝えたい言葉を紡ぐ。

「こんな小娘、嫌だと思ってた。もうずっと昔に諦めてた。だって私、特別可愛くもないし、美人じゃないし、正確だって、可愛げがないし…」

言ってて泣きそうになってきたのか徐々に下がっていく視線と震える声を聞いて、長次郎が慌てて慰める。それを聞くでもなく、小赤はずっと抱えていた思いを吐き出した。

「でも、長次郎が他の女の人と仲良くするのやだよ。さみしいよ。お願いだから、残りの人生、私に支えさせてください」



「それが俺らの馴れ初めだよ」

いつも通りに小赤の作った団子を食いつつ、茶を啜る。隣から呆れたような目を受けつつも笑って見せればやれやれとため息をつかれた。

「お前たちの仲がいいのはよくわかった。いやしかし、幼い頃からお前だけとは…他の男を知るのも、一興じゃないか?」

「おい、小赤に手を出したらニィサン相手でも怒るぞ」

「冗談だ…しかし、30とは思えぬほど可愛らしい顔立ちだからな。精々、努力することだ」

「うるせぇ、言われるまでもないな」

「はいはい。じゃあ俺は、蘭蝶も待っているのでな」

「ああ…お前らの話は、聞きたくないな」

「む、それは何故だ」

「何故って」

不服そうな顔で振り返った男にひらりと手を振って、男の行くとは反対方向へと身体を向ける。笑ってるのを見られるのもバツが悪い。そう思ったのだが、声の笑いまでは抑えられなかった。

「それはお前、甘いものは苦手だからな」

「…お前にだけは言われたくないな」

もう一度ため息をついて、背後で男が歩き出す音が聞こえた。それを聞きつつ、だよなと笑う。

「小赤には内緒だぞ」

あいつの団子は、別だからな。

岡っ引きたちの馴れ初めはここまで。楽しんでいただけましたか?今更ですが簡単な岡っ引きたちのプロフィールを


風間長次郎

薬師の兄がいる運動神経だけが取り柄の岡っ引き。女遊びはほどほどにはしていたけれど、本命には奥手。本編時38歳。馴れ初め時26歳。


小赤

幼い頃から長次郎のことだけが大好き。長次郎のこと以外は眼中にありません。本編時30歳。馴れ初め時18歳。

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