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青に過ぎる空、引きちぎったような雲、見渡す限りを明るく照らす日光が目に痛い。ふ、と疲れたように視線を落とせば、家の前で水を撒く女と目があった。あれだけ長かった髪をバッサリ切った女は、軽く髪を払いながらこちらを見上げ、目が合うやニコリと笑む。

「金時、何してるの」

「…風鈴を見ていた」

何、と言われて視線を巡らせて、窓の端にかけられた金魚鉢を逆さにしたような形のシンプルなそれを指差す。銀お手製のそれは、俺が絵付けをし、茜が装飾を施した、俺たちの初めての共同創作物である。今売れば高値になるというのだから、時代というのはわからない。

あれから数年、将軍の狗をしていた俺を救った、気丈な女は俺に付けてくれた名を繰り返し呼んでくれる。それが少しこそばゆい。

「ああ、風鈴…ねぇ、風鈴って魔除けなのよ、知っていたかしら」

「ああ、聞いたことがあるな」

「あなたの魔も、避けてくれるといいのだけれど」

悪戯にそう言って、蘭蝶は店の中へと帰っていった。階下では茜が接客か仕立てを、銀が接客か簪作りをしているはずだ。彼女に割り振られた仕事は、主に接客、次に二人の手伝いである。

ちなみに俺の手伝いはこない。というか手伝えない。ヘタではないが上手くもない絵しか描けないからと、俺が気分によって作業の度合いが変わるからがその理由だ。絵の具の調合ひとつ取っても、岩絵の具は扱いが難しく自分でやらないと色味が変わって使い物にならない。

そうは言ってみても、ろくに働いていないのが実情なのだが。

「…実感がない」

へなへなと窓のさんに頭を置いて項垂れる。つい数日前までは、あの男にいいように使われていたのに、当たり前のように人を殺めて、終いにはそれに何の感情も抱かなくなって。そんな生活に慣れ始めていたというのに。

勇まし過ぎる己の妻を、完全に持て余している。

「きーん、なにしてんの」

「…銀か」

とっとっとっ、軽い足音で階段を上がってきた男がひょいと作業部屋に顔を出す。ふらふらとそちらに目を向けると人好きのする笑みを浮かべた男が床に広げた反物や道具に気を付けながら隣に腰掛けた。何とは無しに化粧のされた顔を見ながら黙り込む。

「きん、機嫌悪いの」

「…悪くない」

ぷに、と頬を突かれて目を逸らす。それでも手を払わずに放置すると銀は一度目を丸くして、くすくすと笑い始めた。

「お前変わったよねー、前なら怒ったと思うけど」

「…そんなに短気だったか」

「短気じゃないけど…うーん…俺らには遠慮しなかった?」

「遠慮してない」

「してないけど、諦めてる、なんかそんな感じがする」

変わらず頬を触ってた手が、頭に伸びるそのまま髪を触ろうとしたのを反射的に叩いて落とした。驚いたように目を丸くする銀をみて、バツが悪い顔をする。

「…髪は、嫌だ」

「あ…そ、そうなの」

あの男が散々に触ったものだから。

髪を掴んで、命令を下すあの男。何時も、いつも側にいる様命じられて、あの男が望んだことは何でもした。伸ばし続けた長い髪が俺を繋ぐ鎖の様にさえ思えるほど、あの男はこの髪を掴み、引き、俺を這わせるのが好きだった。

触られるとそれらを全てその感覚に至るまで思い出しそうで怖くて、思わずと体が震える。

「あー…新しい、簪、作ったんだよ。蘭蝶ちゃんも手伝ってくれてさ。見に降りてこないか」

「…後で行く」

目を泳がせて、明らかに話題を変えた銀に答えてまた項垂れる。そう長くあの男に飼われていたわけではないが、なにも考えず従えば良かっただけの方がまだ楽だった。自分で考えて、行動することが今では億劫すぎて何もできない。

「…あ、今日、風間さんとこの双子が遊びに来るんだよ」

「…へぇ」

「……お、お前会ったことあったっけ」

「……」

「きん、」

「…風間って誰だ」

尋ねるとぽかんとした顔をしてから首をかしげる。

「お前の知り合いじゃないの」

「…風間、風間…いや、知らんな」

「あ…そう…うちの常連なんだけど、お前の話をよくしてくれるから、知り合いなのかと…」

「…双子の知り合いなどいないぞ」

「あ、いや、お前がいない間に生まれたんだよ。風間さんの嫁さんがさ」

「それは、めでたいな」

「…そうだな」

銀まで項垂れてしまった。何の話をしたいのだかわからないが、子供が生まれるのはめでたいことだ。俺のことを知っているというし、何よりこの店の常連ならば何かしらをした方がいいだろう。

「…祝いの絵でも描くかな」

「え、風間さんに」

「その双子とやらに」

部屋の奥に積まれた以前宿に置いていた荷物を漁り、適当な紙を探す。余っているものは、と目を彷徨わせるうちに一枚の絵が目についた。

まだ、描きかけの、吉原の絵だ。

「…また描きに行きたいな」

何をすればいいのかわからないが、したいと思うことは出てくる。それからしていけば、また以前のように気ままに絵師として生きられるだろうか。


陽も傾き始めた頃、未だに居座っていた窓辺から見える道に見知った姿が小さな子を二人連れてやってくるのが見えた。特に感動を覚えるわけではないが、元気にしていたのかと何処か安心する。変わりなく、幸せそうな顔を見ているのは心地がよかった。

「あー、かーさん、ひといるー」

「ひといるー」

子供の成長などわからないが、どうやら拙いながらも、ものを話せるらしい二人の幼子が俺を指差してワーワーと騒ぐ。微笑ましいが、反応に困って身を引きかけた。寸でのところで、子供につられて見上げた女と目が合う。

「お兄さん。おかえり」

「…小赤殿、久しいな」

にこり、確かに笑顔なれど泣きそうに顔を歪めた女にどんな顔をしていいかもわからず、結局は無表情のまま固く答える。自分でもわかるほど無愛想な答えになったというのに、小赤は何度も頷いて、終いにはよかったよかったと涙を流し始めた。往来を行く人が怪訝に見て、俺を見上げて首をかしげる。おかしな注目を集め始めたのが辛くて逃げ出したいが、ここで俺が引くと周囲の目がどうなるかと思うと動けず、上からただ女の泣くを見守ることしかできなかった。

少しして、からり、と軽い音を立てて戸が開く。次いで銀のぎょっとした声の後、慌てたように茜や蘭蝶も出てきて女を取り囲んだ。二人の幼子も心配げに女を見上げて、一斉にこちらに目が向けられる。

「ちょっときんー、お前なに言ったの」

「女の人泣かせちゃダメでしょ、なにやってんのよ馬鹿男」

「うちの人がごめんなさいね、小赤さん」

「うっ…何もしてないぞ、俺は」

いやまあ、何もしてないことが問題だったわけだが。

「取り敢えずお前降りてきて謝りなさい。引き篭もるのはいいけど、人に迷惑はかけるな」

久々に兄の顔をした銀に叱られ、渋々窓から飛び降りる。そう高い建物でもないし、飼われていた時はもっと無茶をさせられたので問題はない行動だったのだが、驚き過ぎて小赤の涙が止まったらしい。僥倖だ。

「すまない…とは、思っている」

「一言余計よ馬鹿男」

「お前は取り敢えず自分の身を大事にしろ」

「貴方ってもしかして吉原の私の部屋の上からでも飛び降りられたのかしら」

茜と銀から叱責が飛ぶ中、蘭蝶だけがずれたことを聞いてくる。出来たとは思うが、出来るならしたくない程度の高さだったなと返しつつ、小赤の顔を伺えばぽかんとした顔をしていた。それも、俺と目が合うなり笑い出す始末である。俺の方が傷つく。

「本当に、帰って来れてよかったよ。うちの人もとても心配していたんだ。後で顔を出すと言っていたから、もう直ぐ来ると思うのだけれど、どうか、顔を見せてやっておくれ」

「ん、やっぱり風間さんと知り合いなんじゃん、きん。なに、いろいろあって数少ない友人の名前も忘れたとか言う気ー」

母親が笑顔になったからかつられてニコニコ笑顔に戻った双子を茜と蘭蝶があやし、銀が茶化すように話しに乗ってくる。ここぞとばかりに茶化しに来るのは相変わらずだが、お前は俺を気遣うんだか気遣わないんだかはっきりしろと言いたい。

「岡っ引きのことだとは思わなかったんだ。それに友人ではない、恩人だ」

「友人と思ってはくれないのか。寂しいな」

呆れたように言い換えし、銀からのわぁわぁとうるさい反駁を待っていたところに背後から声をかけられた。驚いて振り返れば、最後に会ったときよりも少しばかり老け込んだ、しかしそれでもまだまだ若々しい岡っ引きの姿がある。相変わらず、計ったに出てくる男だな、と感心半分に見て挨拶を交わす。

「久しいな、しかし、会って早々そんなことを言われるとは思わなかった。鬼に友人だと思われたいなんて酔狂な人間はここにいる馬鹿だけで十分だ」

「誰が馬鹿だって、きん。だいたい俺らは友人じゃなくて兄妹だと思えって何度言えば」

「銀うるさい」

ぎゃあぎゃあと言い募る銀を顔を見ずにバッサリ切れば岡っ引きは一度目を丸くした後、豪快な笑い声を上げた。

「お前でも、子供っぽいところがあるようで安心した。俺たちの前では終ぞ見せてはくれなかったじゃないか。やはり、友人とも思われていなかったがゆえか」

あからさまに傷付いたような顔をして見せる男に若干たじろぐ。いやだから、俺に友人だと思われた奴は皆んな嫌がったんだとそう言ってやるべきなのだろうか。そんなことくらい察せられない男ではなかろうに。

「…名前も知らないのに、友人か」

「おお、そうだったな。俺もお前の名前は知らないが、ずっと心配していた、世話のかかるお前に、今更ながら名乗らせてもらおうか」

何と無くいいたくないという意地で別の理由をあげれば男は片眉をあげてにやりと人の悪い笑みを見せた。無駄に強調してくる言葉は恐らく偽りない男の本音なのだろうが当て付けの意味もあるのだろう。背後で小赤と銀がおかしそうにくすくすと笑う声が届いていた。

「風間長次郎という。お前の名前は」

尋ねられて名乗るほか道がないのを知って目が泳ぐ。

「…俺の、名前は」

人に名乗るという行為は、俺にとって最も縁遠いことだった。思い返すまでもなく、今までの人生では一度としてしたことはないし、あの男は俺を人としてみていなかったから俺の名など気にされたこともなかった。名を聞かれたことは幾度となくある、銀たちが呼ぶあだ名もある。しかし、人は皆、最後には俺の顔を見ることさえ拒むのだ。最後に呼ぶのは、鬼神、その忌名だけだった。

妙な緊張と、恐怖心。俯いた俺に助け舟を出すでもなく、風間と名乗った男は俺の答えをただ微笑んで待っている。きっと、どれほど時間がかかろうと待ってくれているのだろうと思えばこそ、より一層の不安が首をもたげた。だって、こんなによくしてくれる人に友人と呼ばれて。これで拒否を示されたら、俺はもうきっと心が折れてしまう。

「名、は…」

「なぁ、ニィサン」

手に嫌な汗をかいて、情けなくも声が震えた俺に、岡っ引きは顔を覗き込むようにして目を合わせてきた。その黒い目を見返して、なんだ、と話を促す。豪快に笑う顔には、俺に対する嫌悪はなくて、なかなか答えない女々しい俺への苛立ちもなくて、ただ俺への気遣いだけがありありと浮かんでいた。

「お前は、鬼だと言われてきたな」

「っ、」

「鬼の子で、疫病神で、見るだけで不幸が来るんだって。その上、数年に渡って飼われるなんて、全くどんな人生を、どんな人の巡り会いをして生きて来たんだか」

「……」

これで、男の顔に蔑みやら哀れみがあれば俺は躊躇いなくその首を切って落としていただろう。あの男に飼われた年月の癖が抜けず、帯刀していない時でも身体のどこかに必ず小刀を持っていないと落ち着かなくなっていた。だからきっと、殆ど無意識のうちに、この男を殺していたはずだ。

けれど、そこにあるのは強い意志と、知らない感情。

「俺も、そんな人間の一人だと思うか」

問いかけに、びくりと身体が震えた。今まで俺を避けてきたような、表面だけを取り繕った偽善者でないことは、悪感情に敏感になってしまった俺が多分一番よく知っている。けれど、だからと言って不安がなくなるわけでは決してない。

「俺だけじゃない。小赤も、簪屋も、仕立て屋も、お前の嫁も。みんなみんなお前の帰りを待っていたんだ。それらも、どうせいずれは裏切られるものだと、お前はそう思うのか」

銀と茜は、俺が命を救ったのがきっかけで共に暮らすようになった。

最初から俺が刀を扱えることを知っていた二人は、けれど俺をただの絵師として迎え入れ、共に仕事をしようと誘い、なんだかんだありつつも上手く日々を暮らせていたように思う。けれどそれも、俺の噂がその村に届くまでのこと…そう思って、俺は江戸の町にやってきたのだ。

けれど、結果はどうだっただろう。

俺を追ってわざわざこんな遠いところまで。危険を犯してきた二人は、数年もの間俺の帰りを待ってくれた。それだけでなく、俺が勝手な都合で見受けてきた蘭蝶の面倒まで見てくれた。そんな二人を信用できないなど、それならば誰を信用するというのか。

目の前でこうして諭す男にしても、その嫁にしても。俺は、たくさん救われて、全てを知った今もなお、こうしてこんな近い距離で会話してくれて、これで何を疑えばいいのか。

名乗りを上げられないのは、ただ、臆病だからだ。傷つきたくないとそればかりの臆病者だから。けれど、そんな心配は、最初からどこにもないのではないか。

「…鉢ノ内、金時だ…友人として、宜しく頼む」

おずおずとした情けない声だったが、上目に伺った男の顔は凄く晴れやかで、宜しくな、とわしわしと頭を撫でる長次郎の手はまるであの男とは別の、ごつごつしていて太く、とても温かいものだった。それがなんだか、本当に救われたのだと教えてくれるようで自然と目頭が熱くなる。

「金時、金時か、いい名前じゃないか…って、おいニィサンどうした」

「ぅ…ぅー…」

知らない感情、でもそれは、きっと忘れてただけのこと。

この男が、長次郎が、俺に向けてくれるのは親が子に送る様な見守る目であることを俺は今の今まで気づきもせず、自分の両親が向けてくれていたそれを思い出したくないのだと知らなかったことにしていたのだ。

ああ、俺は。親不孝な男だが、確かに、愛されていた時があったのだと。

忘れてしまった親の顔と幼き頃の名前は今も思い出せないけれどあの頃の記憶が少し、色付いた様にさえ感じた。

突然ぼろぼろ涙を零して、ただただ俯き呻く俺に長次郎は酷く狼狽したように慌て、それでも頭を撫でる手は離さなかった。それどころか、様子を見ていた銀も調子に乗って頭を撫でてきて、何故だか全員揃って頭を撫でられる羽目になった。正気に戻ったら、取り敢えず銀を殴ろうと思う。

「にーさん、げんき」

「とーさんなんかした」

店に入り、どうやら七五三の着物を仕立てたい親バカ二人と着物馬鹿たちに振り回されて飽きたのだろう、双子だという幼子二人が階段に腰掛けていた俺の足元に揃ってやってきて首を傾げた。おこる、と尋ねてくる双子を見るに、俺は多分、まだ泣いたと分かる情けない顔をしているのだと思う。いや、と首を振ってから、二人の頭を撫でてみた。怯え知らずなのは父親譲りか、擽ったそうに目を細める顔はまるで母親そっくりな、幸せそうな表情だ。

「お前たちのご両親に、救われたんだ。むしろ、褒めてきてやってくれ」

にこり、と上手く笑えてるかは知らないが。少なくとも怖がられるほどではなかったようで、二人ははーいと手をあげてパタパタと両親のところに駆けて行った。その後ろ姿を見ながら、七五三はあと一年以上あるだろうと苦笑する。

「金時、機嫌良さそうね」

「まあ、最愛の妻もいることだしな」

そう言う蘭蝶こそ、機嫌良さげに笑って、わざわざ俺の隣に腰掛ける。その手を何と無く繋ぎながら、温かいものだなと当たり前のことを思った。

「やっと、新婚さんになれるわね」

「…随分待たせたようで、すまないな」

笑う蘭蝶に、ふとまだ言葉を贈っていなかったのを思い出し、改めて向き直る。空気が変わったのを感じたのか、なに、と傾げる女はやはり昔と変わらず、いや、昔よりも幼くなって愛らしい。

「財も何も持たないしがない絵師だが、もう流れにはなるつもりはない。贅沢はしてやれないが、どうか一生を共に過ごしてくれないだろうか」

伝えると、蘭蝶は眼を見開いて、見るだけでわかるほど、幸せそうな泣き笑いをして見せた。

「一緒に幸せになってくれないと、捨てるから」

「…それは、頑張らねばならないな」

首に抱きつくようにして口付けて来た女の背を抱いて、目を伏せながらかく思う。

後で、子供に見せるなど長次郎に怒られるだろうなと。

すみません、これで本当の完結。これからも、番外がたくさんあるので投稿できたらと思います。でも取り敢えず、彼らのお話はここでおしまい。ご拝読、ありがとうございました。

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