弐
次の日は、案の定桶をひっくり返したような酷い雨だった。吉原からの帰り道に雨に打たれた俺は、着物から水を滴らせつつ、恨めしげにそれを見上げる。
結局、何も聞き出せなかった。
あの女が、何か危険にさらされているのだとして、救いが必要なのだとして。それは、俺になんとかできるものなのだろうか。とても信じられたものではなかった。あの頭のいい女がそんな窮地に立っていることも、俺が救えるかもしれないということも、救う方法が、あることさえ。
宿にたどり着いたのは、普段ならばもう街が賑やかになっている頃で、けれど、雨天のためか人っ子一人通らぬ往来は物悲しく、戸を開ければいつも通り姦しい女将が手ぬぐい片手に出迎えてくれた。
「旦那こんな時間に帰ってきたというかこんな雨の中帰ってくるなんてなんて危ない吉原の内堀が氾濫起こすかもってんでみんな右へ左へ大わらわですよまったく無事でよかった」
「ああ。ありがとう」
礼を言い、手ぬぐいを受け取り顔を拭った。笠のお陰で髪はあまり濡れていないのが僅かな救いか。屋根のある場に入ると、雨粒が叩く音が大きく聞こえて雨の酷さを外にいるよりもずっと実感させる。戸を閉める前、ちらりと見上げた空はまだまだ分厚い雲の中。雨が止むのは、いつになることか。
「ああそう言えば、旦那にお客さんが来てますよいや来てました」
「客、俺にか」
びしょ濡れの笠を玄関土間に置かせてもらいながら、首を傾げる。着物を着替えたいといえば、板間の間は上がってくれて構わないと言われ、部屋の前まで移動することとした。部屋に行けば着替えがある。室内は畳になっているので、女将が取りに行ってくれるつもりなのかすぐ後ろをトコトコとついてきた。
「そうです猫毛の美形のおじさんでしたてか美人には美人が集まるもんなんですかなんなんですか最近目が幸せなんですけどありがとうございます」
「猫毛…ああ、岡っ引きか」
「ああああ、そうかだから十手を持っていたんですねなるほどって旦那岡っ引きがわざわざ会いに来るっておかしいですよなんかやったんですか身に覚えないなら逃げるなり訴えに行くなりしないとあの人一時間くらい待った後で帰ったんですけど大丈…」
「大丈夫だ。すまん、あの棚に入れている」
「ああはいわかりました」
ここに泊まるようになって、もうそれなりに経つ。女将の扱いもさすがに覚え始め、話半分で聞き流せるようにもなってきた。それでも、驚異の対人能力を持つ女将はこの辺りの主婦たちの中枢角にいるらしく、その情報量たるや侮れない。話半分に聞き流して痛い目を見る、ということも何度かあった。
「はい旦那これでよろしいですかって旦那の持ってる着流しみんな高級な感じするんですけど旦那ってほんと何やって稼いでるの超気になる美人なのにお金も持ってるとかもう人生楽勝ですねってあすみません他意はないんです悪気もなくてあははは人生楽勝なんてないですよねすみませんいやほんと悪いと思ってるんでその悲しげな目をやめて美人にそんな目で見られたらなんか別の扉開きそうというか」
「わかったから、ありがとう女将、それで、その岡っ引きは何も言っていなかったか」
「何も聞いておりません」
これだけ話すのに言葉をぶった切られても気にしないのは慣れているのだろうか。慣れるより先にその話し方を変えたほうがいいと思うのだがどうだろう。
「そうか、どうもありがとう」
「ああいえこちらこそ」
満足したのか、うんうん頷いて去っていった。嵐と言うほどではないが、暴風のような人だ。
「しかし、岡っ引きか。何の用なんだか」
まったくいい予感がしないのはどうしたことか。着替え濡れた着流しを廊下に干し、窓辺へと腰掛けた。薄暗い室内は、何をする気をも奪われる。部屋の片隅に置いた絵が、まるで俺を責めるように感じてそっと見えないように裏向けた。
今日、雨が止まずとも、行ってみよう。
女の余裕そうに煙管を蒸す様が今、どうしても見たかった。
昼頃、雨が小降りになると、再び岡っ引きが宿を訪れたと女将に声をかけられた。悪戯に絵を描いていただけなのでこれ幸いと岡っ引きを部屋に呼ぶ。男は、ひくりと頬を引きつらせながら部屋に案内されて入ってきた。
「どうした、偉く悲惨な顔をしているが」
「どこを指して言ってるんだ。表情か、表情だろう」
「その晴れ上がった頬については触れないほうがいいのか。小さな手の型が綺麗に残っているが」
「……ああ、流してくれ」
「浮気も程々にな」
「やってねぇ」
そんな感じで軽口をかわしつつ、どことなく居心地悪そうに腰を下ろした岡っ引きと対面する。男ははぁと深くため息を吐いて、赤く腫れあがった頬を一度優しく撫でた。
「愛が痛い」
「愛されて幸せなことじゃないか」
言ってやればじと目で睨まれた。解せぬ。
「まあいい、お前がこんないい宿に泊まっていることも驚いたが、それもまあいい」
「言っておくが、絵師として売れた金で泊まっているんだ。勘違いするなよ」
「そんなに売れているのか…嫌だからそれはいいって。それより、話があるんだ」
「なんだ」
男は一度居住まいを正し、真面目な顔をした。確かに、そうして居れば女将が騒ぐほどの美形かと、妙なところで感心する。
「御上が本腰を入れて討伐に乗り出した。その内容には、鬼神、お前も含まれている」
「そうか」
「そうかって…そんな平然としていられることじゃないだろうっ。どういう状況か、わからないわけでもないだろうにっ」
「ああ、当然、わかっている。しかし、お前がわざわざ来て、そうやって怒るほどのことではないだろう」
「何故だっ」
顔を赤くして怒りに震える男は、酷く優しいやつだと思う。こんな男に斬られるならばまだ悔いなく死ねるのだが。
…否、今殺されればきっと、俺は悔いを残すだろう。
「今の状態と、何が変わるというのだ」
問うてやれば、男はぐっと言葉に詰まったあと、目を彷徨わせて、深く息を吐いた。
「さして…変わらぬかもしれん。が、変わることもあるだろう。今までは、見つけ次第、処分なり勧誘なりする手筈だったのだ。それが今では積極的に京都守護職の連中がお前を殺しに来るのだぞ」
「だから、俺がすることは変わらぬだろうと言っているのだ。俺は、どちらにせよ、ばれぬように動かねばならん。それは変わらぬのだから、同じことよ」
ただ一つ、思うならば。
「こちらに来られれば、俺は斬り捨てることしかできぬ。死にたくないものは、どうか見逃して欲しいと思う」
出来得るならばもうこれ以上、この手で人死を出したくはない。幾分か気の落ちた俺の声に男は面食らった顔をして、可笑しそうに、けれど泣き出しそうに顔を歪めた。
「お前は、本当。臆病者だな」
「…よく言われる」
返す声は、辛うじて虚勢を張れていたはずだ。
かつかつかつかつ
雨が屋根瓦を叩く音が街に響く。
一度も顔を見せなかった太陽が沈んでしまい、闇が下りた今もなお、変わらぬどころか一度小雨になった後勢いを増して降り続けるそれに紛れて、僅かな紫煙が見えた。その煙の元へ向かうと、不意にそれが途切れてしまう。
「こんばんは、鬼の旦那様。来てくださると、思っていたわ」
「蝶歌、お前に聞きたいことがある」
「わかってますわ」
でも、待って。
綺麗な声はいつもよりくぐもって響く。かん、と煙管を叩く音にふとした違和感を覚えた。待ってという意味を問いかけず、別の問いを投げかける。
「お前、仕事はどうした」
「暫くは働けませんの」
また火をつける音がして、紫煙が立ち上る。少しの間のあと、蝶歌は密やかな笑い声をあげた。
「この葉、嫌いだったのよ、私」
だって、苦くて。語る声は楽しげで、少し震えて弱々しい。
「でも、もうおしまいかな」
雨の降る音に紛れて聞こえぬ程に小さな声が微かに届く。意味がわからなくて首を捻るが、女に聞くのはなんとなく躊躇われた。
「ねえ、降りていらして。一度くらい顔を見て話しましょ」
言われるままに降りてみる。屋根の端に手をかけてくっ、と飛び降り窓辺に立てば、雨が当たるギリギリの距離に腰を下ろしていた女がことりと首をかしげた。まるであの日のように、髪がはらりと落ちて、女の頬を流れる。その頬はまるで昼に見た男のように赤く腫れ上がっていた。思わず、しゃがみ込んで手を伸ばす。触れるか否か、と言うところをそっと撫でると女はこそばゆそうに手を細めてくつくつと笑んだ。
「どうしたんだ、この頬は…」
「昨日、少しね…そんな顔しないでよ、私は恨んでないわ。寧ろ感謝してるくらい」
どんな顔をしているというのか女は困ったように眉を下げて俺の手に手を重ねてきた。押し付けられた頬はわずかに熱を持って痛々しい。口の端もわずかに切れているようだ。無意識になぞろうとして、漸く、自分の体から滴る水に気がついた。
「すまない、部屋が濡れてしまうな」
「この雨の中、窓を開けていたのだから当然だわ。気にすることない…どうせ。すぐ張り替えるしね」
言って、女はふと顔を緩ませて、実はね、と楽しそうに、まるで幼い少女のような顔で話しを始めた。
「今日、楼主が来てね。もういいって、言ってくださったの」
「もういい、ということは」
「そう、もう仕事はしないのよ。こんな顔だし、次の蝶歌も見つかったしね」
安堵したような息を漏らして、女は昔話を始めた。訥々と、それはまるで、思い残しを捨て去るような落ち着いた語り声だった。
蝶歌、と言うのは源氏名らしい。
母親が名乗っていた源氏名。母親は、その前の蝶歌から譲られたそうだ。親子二代で名乗ったのは初だったが、扱いは今までと変わらなかった。蝶歌は、代々吉原の花魁の頂点に立つことが決まった名前で、年老いて客が離れ始めると処分される。あの日、あの男に聞いた話は実際にあったことだったのだ。
「寺子屋から帰ると重い音がしたわ。あの中庭で、母の首が宙を舞って、飛び散った血が私の顔にもかかった。他の花魁はみんな部屋に籠って、中庭には私と、あいつの妻と、弦しか居なかった。妙にぬるい真っ赤な血が、ゆっくりと顎を伝って、着物を汚して、倒れ伏した母だったものを見てなんとなく悟ったの」
ああ自分も、こうなるのだな、と。
蝶歌は一人足りとも外に出たことはない。吉原一の女を身請できるだけの金を払える男など、それこそ、幕府の中枢くらいでないと不可能だからだ。その原因は、蝶歌が背負う、借金にあった。
楼主は代々殺した女の墓を、次の蝶歌に建てさせた。その費用を肩代わりして借金だと押し付けて。
安らかに眠らせてやりたい。代々の蝶歌は先代を思い、どうしてもこの膨大な檻の中から逃げ出せなかった。基より、買われた女の給金などあってないようなもの。特に、ここで生まれた蝶歌は最初から楼主のものだったのだ。何をどうして、逃げ出せようというのか。そうして自由を奪われてその上で蝶歌たちが得たものは僅かばかりの優遇だった。脱走騒ぎを何度も起こしてお咎めがないことが何よりの証拠だろう。圧倒的な地位と、嫌な客を拒む権利。けれど、花の盛りが終わるより早く殺されてしまう。そんな未来が約束されていて、楽しく生きられるわけがない。いつだって退屈そうな顔をしていたのはそんな訳があったのだ。
「毎日来る男を知っているかしら、彼奴は先代の、私の母の上客だったのよ。彼奴が会いたいのは、とっくに死んだ私の母。だから弦もいつだって相手にしないし、疲れるのよ」
「ああ、あの男が…」
「次の蝶歌の教育が終われば、私は用済み。いつもより数年早いけれど、殺されるんじゃないかしら。昨日、楼主が随分怒っていたわ。知らないけれど」
「そんな馬鹿げたこと…次は誰なんだ」
「…知らない方が、いいんじゃないの」
と言うことは、俺も知った相手だろうか。追求しても答えてくれないことはわかっている。聞くのを諦めて口を閉ざせば、女もただ黙って目を伏せた。当てられた頰の熱と俺の掌の熱が混じり合い、もはやどちらが熱いのかわからなくなる。
「貴方のことは、知っていたの」
ぽつり。雨の降る音が脳に響いて、もはやどこで鳴っているのかもわからなくなった頃。女が吐息を吐くようにして呟いた。
「私よりも、不幸なヒト。幼い私は貴方の話を聞くのが好きだった」
「…面白い話ではなかろう」
けれど、成る程。道理で、最初から女は俺のことを『鬼の旦那様』と呼んだわけだ。
「全て、知っているのか」
真実を。知っているものは極限られているはずだ。それなのに、俺は何処か確信を持って問いかけた。この女ならば、知っていてもおかしくはない。
案の定、女はこくりと小さく頷いた。薄く開かれた目が、上目に俺をじっと見る。俺のそれと全く同じ、嫌に濁った、暗い色。まるで世界の絶望を全て覗いてきたとでも言うような、見るだけで不幸になりそうな。けれど、思わず惹かれてしまう、そんな目だ。それは或いは、女の意志の強さ故かもしれなかった。
「悪いのは、貴方じゃないわ。生き残った貴方は、寧ろ、褒められてもいいくらい。だけれど、悪いことに貴方だけを残して残りの子供たちは、みんな死んでしまったのね。たったそれだけのことなのに。当時十歳にも満たなかった貴方は両親を奪われ、村を追われ、着の身着のまま危険の絶えない野山で暮らすことを強いられた。可哀想な、可哀想な子。私が話を聞いた時、貴方はもうすでに国に目をつけられていたわ。それがなおのこと哀れを誘って…語った男も声を上げて笑ったの。優秀な男など要らない、このまま何処かで野たれ死ぬなり、京都守護職の連中に斬り捨てられるなりしてくれないものかって。私はそれを、ただ微笑んで聞いていたわ」
「お前も、同じように思ったのか」
「いいえ。私は寧ろ、今すぐこの男を斬り捨てに現れないかしらと思ってた。その後も男は私の馴染みで、貴方の目撃情報から人相書きが歳をとる度に見せてもらったわ。貴方ったら、どんどん精端な顔になるのだもの。国が貴方を殺すか求めるかと言う話になる度に男たちはみんな口を揃えてどうか現れるなど願っていたものよ…けれど、貴方、人相書きでわかるほどに疲れていたわ。ねぇ、生きるのは、そんなに辛かったかしら」
じっと、女は俺を見詰めて、小さい口を引き絞った。酷く真剣な顔に、この女はこんな風に話すのかと、場違いなことを思う。いつでも、少しの笑みを口の端に乗せて、余裕あり気に、興味がないと言うように話をするのだと思っていたのだ。
「…辛かったのは、お前の方ではないのか。俺の方こそ、お前の話は知っていた。聞いたからこそ、ここに来たのだ」
「陰気臭いと思わなかったのかしら。殺人鬼の経営する楼閣よ」
「俺は、俺よりも不幸なお前に逢いたかった」
「…あら、じゃあ」
お互い様ね。ころりと鈴が鳴るように女が笑う。俺たちは互いが互いに相手の方が不幸だと慰めて言葉を交わしていたのだと、その事実がどうしようもなく滑稽で可笑しかった。そして、存外、その事実に縋っていた己を知って、裁量の無さに思わず笑ってしまいながら息を吐く。
「嫌になる。親に虐待され、殺されかかった兄妹を俺は知っていた。なのに、俺の方が不幸だと決めつけていたのだ。全く、なんて醜い心だろうか」
「それなのに、私のことは不幸だなんて、失礼するわ。貴方よりは幸せよ」
「否や。俺の方が自由に生きられたぞ」
「私はお腹いっぱいご飯を食べられたわ」
「獣を狩れば食えたさ」
「そんな苦労をせずとも、ここに腰掛けるだけで食べられるのよ」
暫しそんな言い合いをして、やがて無言になり、数巡、堪らないというように吹き出した。変に明るい空気感、まるで世の汚れを知らぬただの町娘のように笑う女が、酷く可笑しく、口惜しい。
「女、お前、本名はなんと言う」
未だ降り止まぬ雨、それなのに、何処からか月が顔を出したのかほんの僅かに世界が明るくなった。よく見えるようになった女の顔は、何処までも晴れやかな、後悔のない顔だった。
「蘭蝶と申します、鬼の旦那様」
「蘭蝶…ふ、なるほど。俺と似合いの名前だな」
未だ握られたままの手に軽く力を込めて、女の頬を柔く撫でる。そのまま後頭部へと滑らせて軽く引き寄せれば、素直に動いた蘭蝶との距離がなくなった。今日ばかりは紅も引かれぬ、柔い肌。なんとなく伏せていた目を上げれば、同様にゆっくりと瞼を持ち上げていた蘭蝶と目があった。どちらともなく二度三度と同じ行為を繰り返す。少しの甘味と、血の味がする蘭蝶の口は、手慣れているはずのくせして、喘ぐように息をして初々しい。畳に手を付き、頬を染め上げた彼女がどうしようもなく愛おしくて、空いていた手で肩を掴みさらに引き寄せた。
今ばかりは、少し先さえ見通せぬ雨になれと意識の端で願ってしまう。この時が、終わらなければ良いのになんて生まれて初めての願いを何処かへ投げる。届く先が、ないと知りつつ。
「ねぇ、あの子はうお様と呼んでいるそうだけれど、本当はなんて仰るの」
雨が小雨になった頃、俺の胸に頬を寄せた蘭蝶が問いかける。腕の中の彼女は酷く細い。初めてあった時の強さは何処に行ったのだろうと思うけれど、それでもやはり、話す声は気丈で凛と張っていた。きっと、彼女が死を迎えるその時までそれは変わらぬのだろう。少し笑ってしまいながら、彼女の髪を梳きつつ答える。
「覚えておらんのだ」
「…え」
きょとんと、目を丸くするのを見下ろしながら、少しばかりバツが悪い顔で応える。
「両親の顔も、己の名も。思い出そうとすればいつも潰れて消えてしまう」
あの頃のことを振り返る時、いつも色の抜け落ちた、味気ない、現実味のない光景が蘇る。それは俺の心情は一切含まずまるで他人が見たような気味の悪い感覚で、嫌悪すると同時に俺は感謝もしていた。きっと、親の顔や俺の名が出てきたならばその時の感情までもが引きずり出される。それに耐えられないと精神が判断を下したのだろう。今ではそう思って、名乗ることさえ諦めた、けれど。
「お前がつけてはくれないか」
懇願するように見つめれば蘭蝶は驚いたように目を見開いて、次いで酷く嬉しそうに綻んだ。全く、敵わない。この女にはどんな心情さえも見抜かれていそうだ。
「私が、でいいの…じゃあ、」
蘭蝶がつけた名に一度顔を顰めて、ため息を吐いて同意した。初めての贈り物は、初めての己の名。それが嬉しくて、嬉しくて、別れの時が近くなるまでずっと、蘭蝶とただ名を呼びあっていた。
明くる朝。雨も上がり、弦には気付かれていたかもしれないが、無事江戸の街に帰ってきた。あの女を救ってくれと言われてもその方法は俺の貧相な頭では一つしか思いつかない。そして、仮に他の方法を思いついたとしても、それが最良なのだと思うのだ。
「早朝からすまない、亭主は居られるか」
まだ陽も開けてすぐの時間帯、先に寄り道をしてから、最近来ることが多い茶屋にやってきた。朝から仕込みなどがあったのだろう、店に入り奥に声をかけると着物の袂を襷であげた小赤がとことこと出てきてくれる。俺の顔を見て首をかしげた彼女はけれど少し待ってねと言い置いて階段を上がる。
黙って待つことしばし、言い争うと言うよりは戯れるような声の後少しばかり草臥れた着流し姿の岡っ引きが姿を見せた。その後には、なぜか顔の赤い小赤がいる。
…そのことには、言及せぬほうがよさそうだ。
「ニィサンか。朝からどうした。あまりここに来るのはいい行動とは言えないと思うが」
「お前に一つ、頼みがある」
「…珍しいな。しかし、先に言っておくが、俺は御上には歯向かわない。こいつがいるし、もうすぐ家族が増えるんだ」
その言葉に驚いて小赤の腹を見る。まだそう大きくなっているわけではないが、確かに前回会った時よりも膨らんでいる気がした。それならば、確かに岡っ引きが今最優先すべきものは決まっているのだろう。そこに割って入る気はないし、そも、迷惑をかけるためにここに来たのではない。
「俺を、将軍の下まで連れて行ってくれないか」
「…正気か」
真っ直ぐに男の目を見て言えば、男は僅かに目を見開いた後、酷く狼狽した様子で僅かに声を震わせた。後ろの小赤は未だ展開についていけてないのか首を傾げるばかりだ。恐らく、俺の話を聞いていないのだろう。嫁を大事にする男のことだ。それも当然と思えた。
「俺を連れて行けば、お前の株も上がるだろう。武家ではないからと岡っ引き止まりだったお前も、もしかしたら上がれるやもしれん」
「巫山戯るな。俺は誰かを売ってその地位を得たいとは思わん。確かに今は小赤に養って貰っているようなものだが、人の不幸の上に得た金を求めるほど落ちぶれちゃいないつもりだ」
「わかっている。だが、お前に断られても俺は必ず会いに行くだろう。どうせならば、それを利用したいと思ったのだ。お前にはよくしてもらった。恩を着せるつもりも、責任を感じろというつもりもない。俺は俺のために、将軍のところへ案内しろとお前に言っているのだ」
最初から、こうすればよかったのだ。妙な矜持などを守っていたために苦労をして来たが、今にして思えば何も得られなかったなと笑ってしまう。
探るような目を俺に向けて、何処か心配げな顔をして、男は暫く沈黙を守った。酷い葛藤があるのだろう。男の目は泳ぎ、最後には最愛の妻に向けられた。
「…長次郎、叶えてあげたら」
こてりと首を傾げてそう言った小赤は少し笑ってしまいながら腹を撫でて優しい声音で男に語りかける。
「私とこの子なら、心配いらないから。大丈夫だよ。これでも、岡っ引きの妻だもの」
「…小赤」
「どんな事情があって、その人がそんなことを言い出したのかも、貴方が何に悩んでそんなに考えているのかもわからないけど、なるようにしかならないじゃない。ね、貴方は貴方の大切な何かのためにこの人を頼ってくれたのでしょう」
不意に視線を投げられ、尋ねられる。思わずと頷けば小赤は穏やかに微笑んで再び夫へと視線を向けた。
「断ったって、他をあたるか、自分で行くかしてしまうわ、この人は。それなら、貴方が行ってあげるのが最良じゃないかしら」
「…そうだろうか」
「そうよ。だって、私の自慢の旦那様だもの。誰よりも優しい、貴方が行くべきだわ」
店で聞いたのとは随分違う話し方は男の妻としての顔なのだろうか。年の差はそれなりにありそうなのに、今は寧ろ小赤の方が男を支えているように見える。やはり、この夫妻は夢乃が言っていたような理想のそれなのだ。
柔らかい笑顔に諭されて、再び俺を見た男は決意を固めた顔をしていた。
「お前の願い、受け入れよう。だが、今すぐにとはいかないな。俺が先に城へ向かい、その旨を伝え、上様のご都合を聞いてくる。それまでニィサンはここで小赤を守ってやってくれないか」
「わかった。しかし、共に行かなければお前が俺と繋がっていたと思われてしまうのではないか」
「それが事実だ。何の問題があると言うんだ。もう既に、前回の接触で俺とニィサンが知れた中と言うのは報告されてある。どういう訳か突然将軍に会いたくなった鬼が俺を頼ったところでそうおかしな事もないだろうよ」
果たして、そうだろうか。俺はずっと人から、特に奉行所などの国家から離れていたからそのあたりの事はよくわからないが、事はそう簡単ではないはずだ。しかし、ここは男の言う事に従った方が良いのだろう。これだけ自信を持って言うのだから、きっと上手くやってくれるはずだ。
「小赤、今日は店を開けないでくれ。共に城に向かう時には小赤も近くまで連れて行かせてもらう。何かあった時には悪いが俺はお前を放って小赤の元へ向かうが、それでもいいな」
確認を取る男に頷いて、頼むと頭を下げた。苦笑うような溜息が頭上から聞こえる。今日も流したままの髪が大きな手に雑に混ぜられて、ポンポンと叩かれた。
「任せておけ」
行ってらっしゃい、と見送る小赤の声を聞いてから顔を上げる。小赤は何故か愉快そうな顔で俺を見上げていた。店を開けるなと言われたからか、俺が口を開くのも待たずに戸口に向かい、暖簾をとって開けていた戸を全て締める。前には、立て札をかけるようだ。
「心配いらないよ」
既に普段の口調に戻った小赤が可笑しそうに告げる。
「あの人は、やる時はやるんだから」
絶対の信頼。それが羨ましく、眩しかった。
「ほぉ、それが噂に聞く鬼、ですか」
結果として、俺は今。一人で将軍の前に頭を垂れている。
否、正確には、押さえつけられていた。
「抵抗はせんのですか。大層強いと聞いていたのに、興醒めですねぇ」
もういい、とばかりに溜息をつき将軍が扇子を軽く振れば、俺を押さえつけていた男たちは迷いつつも手を離し、何処かへと下がっていった。正直、こんな相手に頭を下げるなど嫌だという気持ちはあるのだが。わざわざ頭を下げず不遜な態度を取るほど餓鬼でもないつもりだ。
何をどうしたのか、無事将軍へのお目通りを叶えてくれた岡っ引きは城の門のところで俺を引き渡すともうお役御免だと追い返された。最後まで心配気に必死についていけるよう頼んでくれていたが、結局認められる事はなかったらしい。閉まり行く門をちらりと振り返れば、酷く情けない顔をした男がこちらを見ていた。奴は少し、人が良すぎる。
「それで、鬼は何故、余に会いたいと思ったのですか」
心底愉快、と言うような声。ちらりと顔を上げれば、見下すのに慣れ切った男の目と真っ直ぐに合ってしまった。鬼鬼と呼ぶ癖に、随分と近い位置に招き入れたのは何か策があっての事なのか。周囲にいる男たち、高々数十名に取り押さえられるという自信でもあるのだろうか。
「俺を飼いたいそうだな。お前に飼われてやってもいいと思い、ここへ来た」
「おや、前回はあっさり振られたと聞きましたが、鬼にもいろいろありましたか。そうですねぇ、飼いたいですよ。その細い首に、存分に、首輪をつけてやりたいとずっと思っていましたからね」
くつくつと嗤う声は随分と丁寧な口調の割に外道の言葉を紡ぎ出す。いけ好かない、それでも堪えなければならないのだと言い聞かせて、何とか苛立ちを飲み込んだ。
「ただ、対価が欲しい」
「…でしょうねぇ、これまで十数年ですか。逃げ続けてきた鬼神が求める対価、どれほどのものか恐ろしいことで」
そう言う癖に、酷く余裕そうなのはこの世の全てが己が手にあるとでも思っているが故か。然も、それがそう間違っているのでもないのだから、たちが悪い。
「金が欲しい」
「金、ですか。しかし、貴方は多くの金を生み出せる、特技があったはずでしょう」
「それでは足りぬ、もっと膨大な金が必要なのだ」
俺の返事を受けて、将軍は在り来たりな、と落胆を含ませた声を漏らす。それに重ねるようにして言葉を返した。
「水鉢楼の蝶歌を身請たい。それだけの金が欲しい」
「水鉢楼の蝶歌、と言えば…あの女ですか。くっ、成る程、鬼も女に堕ちるというわけだ」
何か、信じさせられるようなものを持ってきたか、と言う問いに、俺は一つ頷いて持参し門で献上した荷物を提出した。
「謀反を起こそうとしていた連中、その隊長格の首だ。全て揃っている。それでは信用に当たらんか」
俺の言葉を聞き、近くにいた文官らしき男に声をかける。その男が頷いたのを見て、暫し笑って、うーんと態とらしく唸り悩んで見せた。将軍が唸る声だけが部屋に響いて、ふと、と言うように彼は俺を手招く。
「良いでしょう。鬼神、こちらに来なさい」
嫌々ながら、ゆっくりと立ち上がり、将軍の座する上座へと歩を進める。周囲の男達が殺気立ち、刀へと手を伸ばす中、将軍だけが余裕そうな顔で俺を見上げていた。何度か立ち止まりつつ、その度に手招かれて、上座の淵、将軍の手が容易に届く位置に腰を下ろさせられる。
酷く近い距離に来た将軍の顔は嗜虐性に満ちた、嫌な笑みを浮かべて俺を見下ろしていた。どうにも居心地が悪くて、眉根が寄る。
「ふふ、噂に違わず美しい顔立ちですねぇ…望み通り、蝶歌、と言う女を身請てあげましょう。但し、貴方が会うことは許しません」
顎を扇子で尺られて、無理矢理に目を合わせられる。妙にゆったりと話す男は俺の顔の変化をわかっているはずなのに、否、わかっているからこそひどく愉快でたまらないというように口元を歪め嗤った。
「貴方のご友人が経営する着物屋に連れて行ってあげます。貴方のことは、首輪がついたとでも言っておきましょうか。それで構わないでしょう、鬼神。貴方は今この時から、余のものなのだから」
「……」
「おや、返事はどうしましたか」
ぺしぺしと頬を軽く叩かれる。顔が歪んでいるのを自覚しながら、しかし、望んだとおりのことは叶えてくれるのだろうと頭の何処かで理解して、ならばそれでいいではないかと流される自分に気づく。
「…わかった、それで良い」
「…返事の仕方を、間違っていますよ。悪い子ですね」
ぱしり、一際大きい音がして、口の中に血の味が滲む。思わずと将軍を睨むが、彼は首を傾げて心底不可解と言いたげに俺の顎を掴み、無理矢理に顔を近づけた。
息さえもかかる距離、すぐそばの目は本心を見せぬ底なし沼のようにさえ見えた。
「躾が必要の様ですね。貴方は飼われると言うことを今一度理解したほうがいい…貴方の御主人様は、誰ですか」
「……っ」
「ああ、いい顔をしますね…これは、いい買い物をした…お前の方から俺を求めるほどに懐くまで、遊んでやろう。なぁ、嬉しいだろう。お前は今日から、俺の狗になれるのだ」
途端に崩れた話し方。顎に掛けられる力は存外に強く、ぎしりと嫌な音を立てる。話している内容は酷いくせして、語る声は酷く甘い。
「返事、は」
「……はい」
応えれば、将軍はにこりと笑って、よく出来ましたと頭を撫でた。目を伏せて大人しくそれを享受する俺を見て、反抗の意思がないと判断したのだろう。側に控えていたものの一人に吉原に向かうよう命じてくれた。
これで、蘭蝶は救われる。
頭のいい彼女のことだ。きっと、吉原の外では幸せな生活を送れるはず。銀や茜はきっとぞんざいには扱わないだろうと言う確信があった。
きっときっと、上手く行く。
この日から、片時も将軍の元を離れられなくなった俺が蘭蝶に会えることは決してなかったけれど、そう遠くない空の元で俺は今日も彼女の幸せだけを祈っている。
薄汚れた世界で生きるために、水の上を必死に喘ぐ金魚のように。
長くて重いお話でしたが、ご拝読誠にありがとうございました。
?や!を使わない、外来語を使わないなど徐々のルールを自分で作り書き上げたものですので、読み難いと思われた方もいらっしゃるかもしれません。それでもここまで読んでくださったことに、心よりの感謝の念を、貴方に。