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「旦那、見ない顔だな。ここいらは初めてかい」

話好きらしい男がざぶざぶと櫂を漕ぎながら軽快に声をかけてくる。

此処吉原は内堀に囲まれて、遊客の殆どは船で花街へと入ることとなる。舟渡しの男に声をかけ、大門に向かうそう長くも短くもない道すがらの出来事だ。

「そうだな。吉原で遊ぶのは初めてか」

「外で遊んでいたんかい。外の遊び女は、そりゃあ悪いもんだろう。違法な連中は、相応の価値しかなくていけねぇや」

「たまに、必要な時に買えればそれで構わん。今日ここを選んだのだって、」

言いかけた言葉を流した。口を閉ざした俺に構わず、男はさも愉快げに話しを続ける。ゆらり闇夜に揺らぐ提灯、月明かりに刃向かうようなその明かりの陰になった大門は、開かれているのに重苦しく息苦しかった。

「吉原の女でも、ピンキリだが外と比べりゃ何処でも勝る。金さえありゃ買える女と何かしか繋がりがなけりゃ買えねぇ女がいるが、あそこは良いぞ。塀沿いが安くてな、衣紋坂から繋がる通りに向かって高くなる。その通りにゃ花魁様が道中なんぞしなさるわけだが、そん時じゃなきゃ見れねえほどのえれぇ別嬪でなぁ。一番人気の女は、お前さんでも知っとるかい、巷じゃ理想の女だなんて呼ばれとる」

「噂には聞くがな。なんでも、頭がいいとか」

「たっけぇたけぇ。あんなん買えるもんじゃねぇ。噂じゃ国のお偉方まで買いに来るとか。大層綺麗なのはそうだが、嫌味な性格にちげーねぇ。そんな女、わざわざ買って抱こうとは思わんわな」

あー、やだやだ。言う男は楽しそうで、買えない現実を無理矢理に消化している節はない。嘘は言っていないのだろうが、本気で思っているわけでもないのだろう。

「繋がりがなければ買えない女なら俺に縁はなかろうよ。買えればなんでもいい、年増でなければなお良い。いい店を知っているか」

「店探してぇなら手引き茶屋に行きねぇ、年増を避けたきゃそれが一番早い。簡単な紹介なら茶屋の名前で繋げるからな。ちなみに、理想の女のおわす遊郭は表通りの中央にある、見返り柳からも見えたはずだ。運が良けりゃ、窓辺で煙管吹かせる姿を拝めるかもしれねぇから、良けりゃあ見に行きねぇ。見た目だけなら極上だぞ」

「そうか、世話になった」

頷いて腰をあげる。ごぽり、闇を吸って黒い水が音を立てて揺らぎ、舟が門前の土手に添わされる。

深く被った笠を掴んで僅かに頭を下げ運賃を払うと、男は心底嬉しげに毎度、と再び舟を漕ぎ始めた。

「旦那、水鉢楼の向かいにある手引き茶屋がオススメだ。良い夜をな」

ひらり、振られた手に手を返して歩き出す。吉原唯一の出入り口、大門は間近で見るとなおのことズシリと重く見えた。華やかな街中で、ここだけが妙に重苦しい。人が絶えず、然し女が出て行くことはまるでない様を見て、ここに来るまでに聞いた謳い文句をふと思い出した。


ここに囲われる女は皆、この内堀の中でその命尽きるまで生きる、正しく籠の鳥。


「そこ行く男。ここは初めてか」

門を潜ろうとした矢先、門の端に立っていた男に声をかけられた。そちらを向くと、身体に沿う着物を着た男が、一本帯刀をして厳しい目でこちらを見ている。この門を見張る役職らしいと納得して、笠を深く被り直した。

「そうだが、ここはすぐにバレるのだな」

「若い男が顔を隠すことは、ここではそうないことだ。周りを見ろ、傘を被るのは醜男か、歳行き頭の軽くなった男ばかりだ。ここでは女もいない、笠は変に目立つのさ」

言われて改めて周囲を見渡した。なるほど、確かに辺りにいる男は皆、顔を晒して往来を歩くらしい。道に並ぶ楼閣の、籠の中で客を呼ぶ女を皆揃ってダラシなく眺め中央へと歩いていく。皆が皆中央通りで買えるわけではなかろうに。考えかけて、先に聞いた理想の女でも拝みに行くのではという結論に至った。

「理想の女はそんなにいいか」

「あん?」

まるで男の話とズレたことを訪ねた俺に不可解そうな顔をしつつも男は顎を撫でしゃくりニヤリと笑う。

「そりゃあ、まあ、この国で一番の女であるのは間違いないな。仕事柄一言二言言葉を交えたこともあるが、あれは頭の回転も速い。普通、遊女や花魁ってのは男に抱かれる以外能がないように仕立て上げるもんだ。ここで育った花魁様は、一応ガキの頃に寺子屋にいれられるが、頭なんざ微塵も期待されてねぇ。客の会話に頓珍漢な返事をしなけりゃそれでいいのさ。だが、あの女は異常な成績だった。見たもん全部覚えてんじゃねぇかってほどの記憶力さ。ここで生まれてさえなけりゃ、あの女はどっかで学者やってたかも知れねぇな」

「ここ生まれなのか」

「そうよ、ここの女が産んだのさ。父親はわからねぇが、母親の入っていた楼閣に飼い殺される一生だろうな」

妙に饒舌に喋る男によると、男もまた、この街で生まれ育ったそうだ。身を売る女は皆堕胎するものだが、堕胎薬も安くはない。安く売られる女の中には既婚者も居るらしく、旦那の子かもわからぬ子供を身籠ることも少なくない。それを育てるのに、この町にも寺子屋やら何やらがあるようだ。

「女の母は女郎か」

「十年前までは道中もする花魁の一人だった。娘ほどじゃねぇが、頭のいい、綺麗な女だったそうだ」

「お前は見たことがない?」

「俺らがガキの頃に首飛ばされちまったからな」

それは穏やかじゃないな、顔を顰めると男は愉快げに唇を歪めて声を数段落としてみせた。

「娘の目の前で、楼主に首飛ばされたのさ。血だらけの娘捕らえて、その日のうちに売りに出した。ありゃあ、後にも先にも見ない外道だよ」

「…それは、幾つの時だ?」

問いかける。男は数瞬真面目くさった顔をして、けれどふっと顔を緩ませた。態とらしいほどに、嫌味な表情を貼り付けて、あっけらかんと言い募る。

「さてな。今の話だって、ただの噂さ。ここいら歩けばどこででも聞ける程度のな。実際には違うのかも知れねぇよ、あの女は、今でもその楼主の元で毎夜身を売ってるんだからな。まあ、真相を知りたけりゃ、」

つい、と男の指が大通りの先を指す。僅かな人集りが出来ている、通りでも一層華美な楼閣の、籠の上に置かれた出窓に、誰かが腰掛けているのが小さく見えた。あれが恐らく、理想の女、蝶歌なのだろう。先にも聞いた通り、買われるその時まで煙管を蒸せているわけだ。

「水鉢楼に行きな。あの女は買えねぇだろうが、あの向かいの茶屋に行けば適当な花魁見繕ってくれるはずだ。彼処に遊女はいねぇから、若干高くなっちまうけどな」

「遊女と花魁は違うのか」

先にも聞いた水鉢楼、それがあの女のいる楼閣だったらしい。他よりも賑わっている様子の茶屋を見ながら、不意に思った疑問を訪ねた。男は1度目を丸くして、ガリガリと頭を掻く。

「お前さん、そんなことも知らずにここへ来たんかい。不審な輩はここで排除、そういう規則で声をかけたが、こりゃあ唯の田舎もんだな」

「そんなつもりだったのか。親切心かと思ったぞ」

正直な話、いろいろ話してくれる、便利な男程度にしか思っていなかった。

腹を割った俺に、男は嫌そうな顔をして深いため息を吐いた。若いのに顔を隠すのは、疚しいことの表れらしい。そこについては何も答えず、何故かと考えた。

「醜男や頭の薄い男は花魁に嫌がられる。ありゃあ面倒なもんで、店に入っちまえば花魁の方が立場は上なのさ。男の地位に関わらずな。花魁が気に食わなきゃ、一言も話してすらくれねぇよ。だから、買う前には顔を隠すのさ。あんまり酷いんじゃ、買うことすらできねぇからな」

「俺もその類だとは思わなかったのか」

「ああ?目元隠しただけで顔の良し悪しを見間違えると思うなよ、男だが、俺だって吉原で生きてきてんだ。どれだけの数の男を見たと思ってやがる。今の話と同じさ、お前みたいのは顔晒してた方が何かと得だ。顔の造形が並の男でさえ、若けりゃ花魁を抱ける街だぞ。悪いことは言わねぇから、顔を晒すことだな」

なるほど、と頷くものの、顔を晒さぬ方が目につくならばこのままでいい、と答え笠を深くした。男は阿呆を見る目を向けてため息をつく。

「ここを通れば、俺らの審査を通ったことになる。俺らみたいのが声をかけることはねぇだろうが、そこいらを歩けば絡まれるかも知れねぇぞ。面倒だと思うがな」

「花魁に目を留められるかも知れんだろう?」

「お前ならそんなことしなくてもいいと思うがな…まあ、好きにしろ。それで、遊女と花魁の違いだったか。それはな…っと、すまん、時間切れだ。良い夜をな、阿呆の武士様よ」

男が手をひらりと振って去っていく。それに振り返しながら向かう先を見れば、男と同じく帯刀した男たちが一人の遊客を捉えているようだった。ここの仕事も、暇をしないのだろう。長く付き合わせた礼に軽く頭を下げて、見返り柳を通り過ぎ衣紋坂を登って、大通りを歩き出す。妖しい提灯の灯に照らされて、紅い格子に囲われた部屋の中、帯を前に大きく垂らす独特の着付けを施された女たちが男の視線などないかのように煙管を蒸す。あちらでもこちらでも見られる光景に、それ以外の楽しみがないのだろうかと首を捻った。

御上に認められた唯一の歓楽街、外とは隔離された大きな廓の中は、世間とはズレた常識を持って、確かに街として回っているらしい。先ほどいないと思った通りを行く女の姿もちらほら見える。幼い少女や年増の女が多いのは、妙齢の女は残らず格子の向こうにいるからだろうか。簪や帯、着物を抱えて駆け回る彼女らは、恐らく女郎を支える仕事をしているのだろう。

しかしその姿もすぐに見失う。どこに行ったかと目で追えば、大通りからいくつも伸びた細い路地に入って行っているらしい。その路地は、隣の通りとまた違う路地とをつなぎ、一種の迷路のようになっている。入り込めば迷うかと、勧められた茶屋への足を速めた。

水鉢楼に近付くにつれ、人のざわめきが大きくなる。釣られるように視線を挙げた先、退屈そうな顔をした女が、自らを見上げる男になど目もくれず、紫煙を暗い空に燻らせる。その顔たるや、聞くよりも数段美しく整っているが、どうしようもなく差した憂いた影が、その美しさを曇らせた。

「今日も来たんか」

元より買えない女に興味はない。さっさと目を外し他のそれより僅かに賑わう茶屋に入ろうとした時、耳に届いた不快げな声に振り返る。声の主は水鉢楼の、店前に置かれた牛台に腰掛ける気怠げな男だった。

「何度来られても儂から出来ることは何ぞない。さっさと帰れ」

「一目、お目通り叶いたいだけなのだ。どうか、どうか頼む」

しっしとまるで犬でも追い払うように手を振る男に上等な着物を着た男が食い下がる。外では中々見ない光景に目を丸くしていると、不意に女の声がした。

「いらっしゃい?来店すんのかしないのか、はっきりしてもらいたいもんだけどねぇ?」

そちらを振り返れば、半ばまで入りかけた茶屋の店員らしい女が困ったような笑顔を向けていた。軽く頭を下げ謝罪をし、水鉢楼を指差し答える。

「すまん、前の騒動が気になってしまってな」

「あんた、ここ来んのは初めてかい」

三度の問いかけに頷く。やはり笠が原因か、と考えた矢先、女は呆れた目を騒動の先に向けた。

「あれは毎日やってるからね、見たことないのなんか、新参だけさ」

笠が原因ではなく、前の騒動を物珍しく見ていたことが原因らしい。言われてみれば、水鉢楼の前に集まる男たちの誰もが騒動になど目もくれず女を見上げている。牛台に座る男だけが、心底迷惑そうに喚く男に目を向けていた。

「そうなのか。あれは一体、何をしているんだ?」

「彼処におわす蝶歌様に会いたいって喚いているのさ。一夜会えれば3日会えるとでも思っているんだろうよ」

「? どういうことだ」

素直に尋ねると女の目があからさまに変化する。牛台の男よろしく追い払うように手を振って、欠片の興味すらも失ったと言いたげに講釈垂れた。

「お前さん、花魁を買ったことないのかい?うちは花魁しか紹介してないよ、遊女買いたいならもっと端にいきな」

「ここに来たのが初めてなんだ。折角だから、花魁を買いたい、金ならあるが、ここでは無理だろうか?」

懐から銭入れを取り出してみせると女は途端に人好きのする顔をしてコロコロと笑う。強かなものだ、と思いはしても嫌な気がしないのは、この女の人柄故か。

「あら、苦笑った顔がえらく格好いいじゃないかい。それならいい花魁を薦められるよ。どこの店の子がいいんだい」

「そうだな、そこな楼閣は買えるだろうか」

「水鉢楼かい?適当な女でよければ、だがねぇ、もう夜だから空いてる女がいるかね。見世に出てる女しか、いないんじゃないかい」

ちょいと待っておくれよ、と一度店に戻った女は何事か書かれた紙を持って来た。聞けば、水鉢楼に囲われた女たちの名を纏めて書いているらしい。

「いいだろう?今日売った女は書いておくのさ。そうすりゃ、薦めれる女が一目でわかる。あたしが考えたのさ、頭いいだろう」

自慢げな女に笑って、感心した風に相槌を打つ。気を良くしたのか、女は楽しげに紙を眺めて、うんと唸った。

「あんたに薦めるのは、誰がいいかね。そこな見世を覗いて、いい女がいりゃあ見世番にでも言ってくれれば買えるんだが、紹介がなけりゃ買えないもんさ。うちでなら、部屋持ちだけなら買わせてやれるよ。そこはあんたの甲斐性さね。馴染みになれないなら買わせてはやれないよ」

「今晩、抱ける女がいればそれでいいが、馴染みに出来るならそれもいい。だが、俺はここらのことはまるでわからん。手解きをしてくれると助かるのだが」

女の語ることはわからないことが多すぎて理解できん。素直に伝えた俺に、女はポカンとしてからケラケラ笑う。聞けば、こんな客は初めてだそうだ。

「紹介もなく、連れもなしにここに来るたぁ珍しいね。ずっとここに住んでるが、あたしは初めて見たよ。まあ、いないこたぁないけどね。そうさね、何がわからんのか知らんけど、見世番はわかるかい、彼処の男さ。あれは太鼓持ちもするけどね、水鉢楼の見世番はたっぱがあるから蝶歌様の道中にも傘持って付き添うのさ。彼奴はここいらの番でも中心にいるやつだから、覚えられて損はないね。逆に、あの男みたいに嫌な覚え方されりゃ、そりゃもう災難さ。他の楼行ったって、そこな番にも伝わっているからね。後で挨拶でもしておきな、水鉢楼の見世番は弦って言うのさ。間違っても牛なんて呼ぶんじゃないよ、あれが許されるのは姐さま方だけさね」

女が指す男は、今もなお面倒そうに男をあしらう牛台腰掛けた男だった。だらしなく座っているからその背の高さはわからないが、足が長く、それなりに高いことは予想できる。ふむと頷いて、女に重ねて問いかける。

「牛台に座っているから、牛と呼ぶのか。姐さまというのは誰だ」

「そう、いつも牛台に座っているからさ。姐さまは花魁様のこと、遊女はあたしらと変わらん立場さね。この街では、姐さまらが強いんよ。蝶歌様ほどになれば、他所な楼主でさえ頭下げるわ」

「籠の鳥とはまた、強いものだ」

「はっはっは。自由が無いだけさね。自分のとこの楼主くらいさ、従えられるのは。中でも道中する花魁様は強いねぇ」

「道中をするのは人気の花魁だけなのか」

「座敷持ちだけさね。今や呼出花魁様なんていやしないから、事実上一番上の役職さ。次が部屋持ち、うちが紹介するのはここだけ、次いでに花魁って呼ばれるのもここまでさ。この下からを遊女って呼ぶんだってまあ、こんなのは流石に知っていたかい?」

「いや、知らなかった」

「そうかい、何も知らないねぇ。それで、花魁を買いたいんだったかね。長く引き留めるのも悪いけど、買い方知らないんじゃあ話にならないし、特別に話してあげるから、三日まで持たせなよ」

「その、三日と言うのは何だ」

「花魁様を抱こうと思えば、三日買わなきゃならんのさ。続けてね。外のことは知らんけど、婚姻の契り、今はもうないのかい?まあいいや。一夜目は顔合わせ、花魁と同じ席で食事をするだけで、花魁は口も効いてくれないよ。ここで花魁のことを気に入らなくても二夜目は必ず会う。この時向こうが話してくれたら会話してもいい。この日も口を開いてくれなきゃ縁なしだ。客から話しかけるのは厳禁、三夜目は行くだけ無駄さね。会う会わないは客と花魁双方が決めるからね。片方でも会いたくなけりゃ、会わないでいいのさ」

「つまり、そこで喚く男が言う、一目合わせてくれというのは」

「そう、一夜会えば二夜会える。その二夜で確実に気に入ってもらえるなんて、思っているんだろうよ」

あの顔見りゃあわかりそうなもんだけどねぇ、楽しげに笑う女に続いて、俺も男に合わせていた視線を上へと上げる。そこには、やはり退屈そうな女が腰掛けていた。こつん、灰入れに煙管を叩く音が聞こえた気がした。

「……」

「…?」

不意に女の視線が移る。何も写していなかったかのような、深い深い黒の目がくるりと俺に向けられた。目が合っていたのは、ほんの数巡のように思う。こてり、首を傾げた女の、簪で美麗に結い上げた髪が僅かに落ちる。ふるり、と花開くようにその口元が微笑むのを、息を呑んで見守った。心拍さえ止まったのではと錯覚する程に、女の微笑は美しい。

感情を落としてきたような顔に色が差す。それが興味や好奇の類であることに、視線が外れて漸く気づいた。女は部屋の中に視線を向けて、一つ頷く。頷くと言うよりは、俯くと言った方が正しいような、深い憂いに満ちた顔。二階にいるせいでそれが俺の位置からよく見えた。

次に顔を上げた時には、女はもう俺の方には目もくれず、さっさと出窓を降りて開けていた障子を閉めた。明かりの灯された部屋は存外広く、座敷持ちという名から、そこが座敷であったことを知る。広い部屋、独りきりであの女はずっと煙管を蒸せていたのだろうか。

「あんた、運がいいねぇ。その笠のせいかね。蝶歌様が目を向けるなんて、そうあることじゃあないよ!」

魂を抜かれたように女のいなくなった窓を見つめる俺の背を茶屋の女の手がしばく。ばしばしと叩かれる手に痛いと返して苦笑した。

「あれは確かに、美しいな。今日は本当に運がいいらしい。それで、花魁の説明は終いか?」

「そうさね。残りは買った花魁にでも教えてもらいな。最後に聞くが、今話した通り今日抱ける女は買えないけど、それでも花魁を買うかい?」

問われ、少し思案する。今日は遊びたくなったから来たが、どうしてもではないし、江戸に寄ったから折角だ、という気持ちの方が強かった。とどのつまり、日本唯一の歓楽街の雰囲気を楽しめればそれでいいのだ。幸い、金にもそう困っているわけでもない。

「ああ、買わせてくれ。だが、三日となると相当だろう?適当に合いそうな女を見繕ってくれないか」

「あんたは顔もいいしねぇ、性格も真面目だし、今売れてないのでは…あぁ、珍しい。あんたは本当に運がいいらしいねぇ、夢乃が今日はまだ売れてないみたいだね。見世はわかるかい?あの格子の中に入って客に見繕われることさ。あれをするのは部屋持ち花魁だけさね。夢乃は部屋持ちだけど座敷持ち並みに人気があるから、普段は出ない。酷い時には客が三人も来て弦が苦労するほどだからね。今日はたまたま、馴染みが来なかったらしい」

見世番は客が被った際、それを知られずに客を帰すのも仕事であるらしい。何かと苦労が多そうな仕事だ。

「じゃあ、その夢乃とやらを買わせて欲しい」

「新規は先にも言った通り三日買わなきゃならないからねぇ、馴染みになれるかは微妙だよ、構わないかい?」

「ああ、構わない」

黙って席についているだけでは勿体無いのだろう。花魁は一晩買うことが普通であるため、別の馴染みが来ればそちらを優先することもあるようだ。

頷くと、ちょいと待ってな、と言って女はまた店に戻っていった。ふと気になって飾り窓を振り返る。二階の、目立つ場所にある飾り窓の障子からは光が漏れて、太鼓と三味線と、僅かに男の声がした。女の声は聞こえない。暫し眺めているうちに、ふっと、飾り窓に影が指す。障子に触れかけた手が、引き戻されて。

「…っ」

「待たせたね…って、あんたなんて顔してるんだい?」

「いや…すまん。それで、俺はどうすればいいんだ?」

どんな顔をしていたというのか、女はぎょっとした顔をしてから、切り替えるように息を吐いた。まあいいけどね、と呟き、紙を差し出す。

「向かいだからついていってもいいけどね。紹介状だから、弦に渡しな。挨拶も忘れんじゃないよ」

女の声を背に人集りの消えた水鉢楼に向かう。歩いて数步の距離、女が買われたからかずっと食い下がっていた男に解放された見世番、弦に声をかける。

「失礼だが、ここの女を買わせて欲しい」

「あん?」

目を伏せて花魁たちと同じく煙管を咥える男は、俺の接近に近づいていたくせに話しかけられるとは思っていなかったらしい。意外そうな顔を持ち上げて、琥珀色の目を丸くする。

存外、整った顔立ちだ。不機嫌そうだが粗野ではなく、ガタイがいいわけではないがヒョロくもない。腰に差した短刀は、刀の代わりだろうか。ダラシなく着崩された山吹色の着物が、妙に男に似合って見えた。肩口で切り揃えられた髪を耳にかけて男は面倒そうな顔を隠しもせず応えを返す。

「新参に売る女なんざいねぇ、帰んな」

「そこで紹介状を貰った。これで買えんか」

差し出した紙を嫌そうに見て、一度俺の背後に視線を送る。俺からは見えないのでなんとも言えないが、先の女がまだ店先にいたのだろうか。チッと鋭く舌打って、粗雑に紙を受け取った。

「あー…夢乃姐さんか…悪いが、そん笠外してくれるか」

「外さなければ買えないのか」

「顔晒すん嫌になる程整っても汚くもねぇ、さっさと外せ」

先ほどの気遣いは何処へやら、命令口調になるのにため息を吐いて、さっと周囲に目を走らせる。月が登りきった時間帯、殆どの遊客は女を買い終えたようで、通りは随分閑散として見えた。渋々と顎紐に指をかけ、さっと解いて笠を取る。頭の高い位置で結った髪が落ち、首に絡んで気持ち悪い。

「旦那、髪長いな。それで嫌やったんか?まあいい、帯刀は許すが、罪人は通せんのでな」

「罪人は門で止められるのではないのか」

来るときに見た騒動を思い出しながら問いかける。弦は今までと同じく呆れるものと思ったが、特にそんな様子もなく、こつりと灰入れに煙管をかけながら首を振った。

「彼奴らを信用しとらんわけじゃないがな。自分らの店は自分らで、が常識なんじゃ。見世番の、じゃから知らなんでもおかしくは無い。でも、たまには役に立つぞ、例えば、今とかな」

言うが早いか、弦は目にも留まらぬ速さで短刀を取り出して切りかかって来た。突然の、しかし予想の出来た展開に、渋々とこちらも腰に差した刀を抜く。刀を合わせて、軽く引き、弦の手から短刀を落として見せた。追撃が来るかと身構えたが弦にそんな様子はない。

「…ふ、噂に違わず、強いのぉ」

ぽつり、呟いた声が妙に響く。思わず眉を寄せた俺に構わず、弦は両手を広げ心底愉快と言いたげに腹を抱えて笑い始めた。

「どういうつもりだ?」

「別に。門のやつらが覚えとらん顔を、儂等が覚えとることがある、それを教えてやろうと思っただけじゃよ、鬼神様?」

嫌な仇名に顔を顰めて、刀を鞘に戻す。弦も軽い仕草で短刀を拾い上げ、ひょい、と手遊びしてから鞘に戻した。癖なのだろう、特に何かを思っている様子はない。表も裏も、読み易そうで読めない男。咄嗟に浮かんだのはそんな印象だった。

「笠は抜いどけ、余計に目立つ。どうせ女に夢中で男の顔なんか見ておらんよ。客と顔合わせることもなかろうが、もし騒ぎになっても面倒じゃ。禿を呼ぶから、さっさと部屋に行くことじゃな」

「…俺とわかって、店に入れるのか?」

「旦那は別に、罪人じゃないじゃろ。今のはまあ、噂を聞いてしたくなった、好奇心じゃ。生憎と、此処を出る暇はないもんでな。名がこんな隔離された街まで届くその腕は、どんなもんなんじゃろうなと、ふと思っただけのことよ」

あっけらかんと言い切って、また一人牛台に腰掛ける。もう興味がないと言いたげにガジガジと煙管を噛む弦になんとなく愉快な気になって、いつもなら尋ねない事を聞いてみた。弦の言葉を借りるなら、好奇心からの行動だ。

「どうだった、俺の腕は?」

まさか聞かれると思わなかったのだろう。意外そうな顔をして、琥珀の目を細くする。

「儂程度では、推量れんのう」

覚える価値はありそうじゃ、付け加えられた声に、それは光栄だと返して店に入る。暖簾で隠された店内は提灯で彩られ、妖しく美しいが薄暗い。コの字型に建てられた楼閣は牛台の反対にあった見世と呼ばれる籠の分だけ進むと、吹き抜けになった中庭と小さな池があった。庭師に整えられた花々は鮮やかで、淡い光に照らされ自ら発光して見える。二階部へは、梯子で行くらしく、各部屋の戸口前の廊下に梯子がかけられていた。

「久々の女遊び、ごゆるりとな」

ほぉ、と感心した意識の中に流れ込む、笑い混じりの言葉に苦笑をこぼす。大したものだ、と呟けば答えるように笑い声が聞こえた。俺の顔を知っていたことといい、今の発言といい、弦は随分と耳がいい。なるほど見世番の中心人物にもなるはずだと一人納得する。

「旦那様?」

さて、と見渡した店内の、右手側に位置する部屋から声がかけられる。中庭の花々に気をつけながらそちらに步を進めると、部屋の戸が開きパタパタと二人の幼い娘が駆けてきた。

「荷物をお持ちいたします」

「笠をお預かりいたします」

舌足らずな声に僅かに笑い、言われるがまま笠を預ける。しかし荷物といっても、外の宿屋に置いてきたままで、懐に入れられるものしかない。どうするかと考えて、暖簾の先にいるはずの弦を指差した。

「紹介状を渡したままだ。受け取ってきてはくれないか?」

少女というにもまだ幼い娘はくるりと黒い目を回し、笠を受け取った娘を見やる。よくよく見れば揃いの着物を着たその娘らは二人でどうしようと思案し始めた。止めるべきか、上げ掛けた声を、先に聞こえた女の声が遮る。

「それならば、もう貰っております、旦那様。しかし、茶屋で言われませんでしたか?花魁は禿と太鼓持ちを連れて入室致します。旦那様も、数名を付けておかねば見栄を張れませぬ」

ころり、鈴が鳴るように笑う女は、三十を超えたほどの歳だろうか。均等の取れた僅かにシワの指す顔は嫌に目を惹きつけた。上等な紫の着物が落ち着いた雰囲気をより深くさせていた。

「いや、聞かなかったな。出直すべきだろうか。ない見栄を張るのは、あまり好きではないのだが」

「あら、そんなことございませんでしょうに。これは儀礼の様なものですわ、旦那様ならば、気になさらなくても問題ございません。夢乃も、気にする子ではありませんから」

「本当に知れているのだな。いつの間に伝わったのか、俺には皆目見当も付かん」

「ふふふ、秘密ですもの。けれど、旦那様?美礼と美涼をお付けくださいな。この子らの経験のためと思って、此度は代金を頂きませんわ」

おっとりと女が笑う。こんな場にあって、清廉な空気に見えるのは女の持つ雰囲気故か。美礼と美涼と呼ばれた娘二人はぱぁと顔を明るくして無邪気に俺を見上げる。承諾しろという意図だろう。随分素直に育てられたものだなと柔らかそうな髪を撫でようとして、慌てて手を止める。子供には昔から怯えられてばかりだ。娘らが怖がらないからつい忘れかけてしまった。

「あら、夢乃よりも美礼たちの方がよろしいかしら」

「下手な冗談は止めてくれ」

「うふふ、旦那様は子供には少し怖いかもしれないですわ。そうして、眉間にしわを寄せるから怖いんですよ?」

く、と白い指が眉間に触れてシワを伸ばすように動く。辞めろと払うほど嫌な訳でもないが、反射的に引こうとする身体を留めるのが面倒くさい。身体に染み付いてしまった癖だから、仕方がないと言えばそうなのだが。

「こういう顔だ。それよりも、買えるのか、買えないのか」

「せっかくお綺麗なのに…勿論、買えますわ。部屋へは2人が案内いたします。お客様は、そちらの階段から二階に行っていただけますわ」

「梯子ではないのか」

「花魁は階段を使えませんの。部屋についている梯子は、花魁専用ですわ」

使えないとはどういうことか。そちらと手で示された先を見れば、この部屋の反対側、入って左手の場所に幅広い階段がひっそりと伸びていた。明かりも灯されていないそれは、漆喰塗りの所為もあって、闇に溶けて気付きにくい。その癖、店前の牛台からは良く見えるだろう位置だ。それでも、使えないという意図はわからない。一通り見てから女に目を戻すも、女は曖昧に笑うばかりで何も答えてはくれなかった。

「さぁさ。夢乃もお待ちですわ。美涼、灯りを持ちなさい。美礼、旦那様の笠を燃やしてしまわないようにね」

「はぁい」

「はぁい」

「燃やす可能性をあげるのを止めてくれないか」

笑う女と素直な娘に突っ込んで、階段へ近づいてみる。数歩距離を詰めた程度では、階段は未だ闇の中。階段の側にある部屋に慌てて駆けて行った美涼が紅く光る提灯を持って戻ってくる。赤い灯が、まるで死者を導く鬼灯のようだ。形も、それを模したように美しい。

「明かりは足りますか、旦那様」

「ああ」

元より夜目は効く方だから、短く返して、登るペースを下げる。灯りを持っているために俺より数段先を行く美涼の息が、俄かに荒くなり始めた。

「旦那様、登るの早いですね」

「…そうか」

今度は一段後ろを付いてきていた美礼が呟いた。人にペースを合わせたことのない俺では、二人の楽なペースは掴めなかったようだ。これからの課題だなと頷いて、また登るペースを落とす。少しはマシになってくれればいいのだか。

「はぁ、はぁ」

「はぁ、はぁ」

「…すまんな」

要練習だ。



長くもなく短くもない階段は緩やかに曲がっているらしい。構造的に、直角に曲がるのだろう。提灯の朧げな灯が漆喰の床に反射して足元を俄かに照らす。と、と、と。幼子ふたりが階段を踏みしめる音と階上からの太鼓や三味線の音ばかりが空虚に響く。

「旦那様は、歩く音がしませんね」

「癖だ、気にするな」

不思議そうな美礼に笑って、階段を登りきる。登りきった先は、右手側に先ほどの中庭が見え、左手側に部屋が並んでいた。一定間隔に取り付けられた提灯が妖しく廊下を照らし、中庭側からは月光が降りしきる。提灯の数は一辺に四つ、部屋数は13か。同じ大きさらしき部屋が一辺に五つずつ二辺に渡って並べられ、こことは反対側には倍程に広い部屋が二つ、蝶歌がいるだろう部屋は、牛台の真上、この廊下の終点に位置していた。一際広いその部屋が座敷と呼ばれる部屋なのだろう。

「旦那様、此方です」

変わらず先を行く美涼が足元を照らし、半歩後ろを美礼が歩く。二人の速さに合わせて歩くも、気を抜けばすぐ早くなってしまいそうだ。つい視線を落としてしまう見事な中庭と、各部屋から流れ出る音色。全く異なって紡がれるその和音は不思議と綺麗に響いていた。

「ここの太鼓は、女が打つのか」

「私たちも、練習しております」

「禿がすることが多いですが、弦さんも太鼓持ちなので、三味線も太鼓もお上手ですよ」

「私たちの先生です」

声を弾ませて楽しげに美涼と美礼が交互に声を上げる。僅かに歳の違うように見える二人だが、声も顔もよく似てまるで姉妹のようだ。微笑ましい限りだが、こんな幼い歳で何故ここにと思うと、物悲しい。

「弦のことが好きなのか」

「お兄さんみたいです」

「たまに簪くれるんですよ」

これ、と頭に挿した揃いの簪を示してみせる。美涼は蒼、美礼は麻色の綺麗な蜻蛉玉がついた簪だ。綺麗だな、と褒めると二人とも嬉しそうににこにこ笑う。人を食ったような男だが、随分懐かれているようだ。人は見掛けによらないらしい。

「旦那様、旦那様。こちらの部屋です。夢乃姐さまはすぐにいらっしゃいますから、先にお座りくださいませ」

やがて辿り着いたのは九つも戸を通り過ぎた、最後の部屋だった。階段の対角に位置するこの部屋は、柱の影になることもあり僅かに暗い。

「隣の部屋は、広さが違うのか」

「ここまでが部屋持ち花魁様の部屋です。次からは座敷持ち、一番奥は、蝶歌姐様の部屋になります」

「明確に決まっているわけではありませんが、人気のある方の希望が通り易いので、蝶歌姐様からはじまって大体人気順に部屋割りされます」

「そうか。お前らもいつかは入りたいのか?」

美礼と美涼が戸の両端に正座してそっと戸を開いてくれる。室内は煌々とではないが、薄暗くもない明かりに灯されて、綺麗に並べられた膳が二つ、少し離れた位置に置かれていた。手近な方の膳の前に置かれた座布団に腰を落ち着けると、それで正しかったのか特に何か言うでもなく二人も作法に則って入室してくる。猪口を渡されて、酌をされながら受けた説明に問いかけた。一度目を丸くした二人は、直ぐにふ、と笑いを零す。花開くように綻ぶ顔は、幼いながらに美しい。

「美礼には、まだ入って欲しくはないですね」

「美涼こそ、入って欲しくないです」

「ふ、なんだそれは」

取り繕った真顔で言い合う二人に思わず笑う。こんな幼子でさえ、ここで何が売り買いされているか知っているのだ。いつか自分たちがそれをすることも。それを笑って言えるのならば、二人はきっと、いい花魁になるのだろう。

「失礼します、夢乃花魁の入室でございます」

ころころと笑う二人を眺めていると、外から声をかけられた。美涼と美礼はさっと笑い声を止め、俺の後ろに座り頭を下げる。ピタリと同じ角度に下げられた美しいその姿勢に思わず感嘆の声を漏らした。

「失礼致します、旦那様。夢乃と申しますわ。一夜の縁になるか、末永き縁となるか。どうぞ今一夜、よしなにお願い致します」

す、と開かれた格子戸の向こうから、鈴が転がるような可愛らしい声が紡がれる。作り物めいた美しさを誇っていた蝶歌に比べ、親しみのある可愛らしい顔立ちの女がにこりと笑いかけてくる。見世に出ていた遊女たちの、誰より淡い碧の着物がなんとも似合いで、色素の薄い髪と目が女の印象を儚く見せた。

「これはまた、正しく夢の様な女を連れてきたな」

「……」

俺が返事を返すと女はゆったりとした動きで首を傾げて見せ、作法通りに入室をする。もう一つの膳の前に着けば、もう口を開く気はないのだと言いたげに凛と背を伸ばし目を伏せ、酌などの些事は禿に任せてしまった。聞いていたことなので特に何も思わないが、知らなければ買われる気がないのではと思ってしまうだろう。

夢乃は一夜の間、結局あの挨拶以外一言も口を開かなかった。俺も話好きの方ではないので、自然と部屋には沈黙が落ちる。禿たちがせっせと俺と夢乃の世話をするのを、最後まで二人で黙って眺めていた。美礼と美涼などは気に入らなかったかと慌ててしまって一時可哀想になってしまったが、適当に宥めてその日は早々に帰らせて貰った。食事をするだけの、それも会話もしない女と、朝まで共に酒を飲もうなどと言う気概や甲斐性は残念ながら持ち合わせてはいないのだ。それでも、三日通うくらいの甲斐性はある。明日は必ず会わねばならぬというのなら、その通りにする程度にはまだ可愛げがあるつもりだ。

「旦那、夢乃は如何じゃ?」

「容姿だけなら、いいんじゃないのか」

まだ月も傾いたばかりの時間帯、とは言え充分に夜も更けた時刻だが、変わらず牛台に腰掛け煙管を指先で弄んでいた弦がからからと愉快げに笑いながら問いかける。僅かも眠そうじゃないのは、やはり昼夜逆転した生活をしているからなのか。

「まだ仕事があるのか」

「お客さん見送るまでが仕事じゃ。旦那こそ、夜はまだこれからじゃろうに」

犬が尾をそうするように緩やかに煙管を振りながら弦が機嫌良さげに笑う。何か愉快なことがあったのだろうか。笠を被り直しながら、端正な顔を見下ろす。

「しっかし、容姿だけか、厳しいのぉ、色男」

「生憎、女の面だけで酒が飲めるほど飢えてない。会話をしないとわかっている女と、長々と居てもつまらんだろう」

「人気花魁も型落ちじゃな。旦那なら、買わずとも抱けるというのは知れた話じゃあ、あるが。寧ろ、うちの系列で働いてくれてもええんやぞ。男娼も結構人気での」

「冗談。俺を買うやつがいると思うのか」

「旦那を抱きたいやつは結構…まあ、命知らずではあるが。抱かれたいやつのが多いか」

「どっちもお断りだ。男でも女でも、買われて寝る趣味はない」

さよか。くつくつと笑う声が半ば本気だったように聞こえてゾッとする。確かに今仕事はないが、男娼なんぞになる気は微塵もない。

「その気になったら言うてくれ。儂が慣らしてやる」

「ならん。もしそれしか道がなくなったとしても、ここには来ないな」

言い置いて、大門に向かって歩き出す。弦は笑い混じりに明日も来るよう釘を刺して、また静かに煙管を蒸せていた。

今日の月は、半月か。店先に吊られた明かりが月光を鈍くして、まるで大門まで導くかのように列をなし、光の道を生み出していた。外よりも随分明るくなった通りはしかし、ふとした影の暗さが目立つ。まるで底なしの穴であるかのように、ふっと地面がなくなるように、往来の端々に闇が散る。それはまるで、眠らないこの街の象徴であるようにさえ思えた。

人通りの少なくなった門を潜る。微妙な時間だからか舟が殆どないようだ。さてどうするか、船を使わぬ道もあったはずだがとそこを通行するための身元確認をどうするか思考を巡らせた俺の耳に数時間振りの声がかけられた。

「そこ行く旦那、初めての吉原は満足行かんかったかい」

「舟渡しか」

声の方向に歩いていけば、案の定。大門前の広場、その端に舟をくくりつけた男たちが数名固まって酒盛りをしているようだった。そのうちの一人に見覚えがある。今日ここまで送ってくれた男で間違いないだろう。

「花魁を買った。会話もしない女を見て酒を飲むほど枯れてはいない。明日には会話するというから、今日は帰ることにしたんだ」

「そうかい、そりゃあすごい。花魁ったぁ、えれえ高いと聞くぞ。何処の花魁を買ったんだい」

「水鉢楼だ。少しばかり、気になる話があってな」

「まさか、理想の女を買ったんか」

「いや、それは俺には無理だろう。何の紹介もない。顔は見たが、無理してでも抱きたいほどじゃない」

口々に上がる質問に端的に返事をし続ける。理想の女、と言うなり酔った目に真剣な色を宿した男たちを可笑しく思いつつ首を横に振って言い切った。男たちは一度ぽかんと口を開けた後、軽快に、妙に男臭く笑い始める。

「そりゃあ、目が肥えたことだな」

「あの女をその程度呼ばわりは凄い。旦那は余程人気があるんだな」

「一体なんの仕事をしているんだい、色男」

「顔くらい見せないか」

やいのやいのと上がる声は混ざり合ってよく聞こえない。酔っ払いの戯言に付き合う気もない俺は、それら全てを流して行きに乗せてもらった男に声をかけた。

「すまないが、向こうまで送ってくれないか」

「俺らの問いを全部流すとは、旦那もなかなか厳しいことをしやがる。ああ、もちろん言いともさ。舟で向こうに行くまでの間、質問はさせてもらうがな」

酔っ払いの機嫌を損ねた、と言うほどではないだろうが、こう言う輩は囃し立てられるのは今しかないとばかりに群がるものだ。気にせず、さっさと舟に乗り込んだ。直ぐに外に向かって漕ぎ始める舟渡しに満足して、質問の全てを無視する。向こう岸に着いた頃には男はいよいよ本気で拗ねて、二割り増しの金額を請求された。行きと同じだけ払い酔っ払いを向こう岸に帰す。明日は別の男を雇おうか。


江戸の町の住民の朝は早い。いや、大抵の町の朝は早いか。俺の朝が特別遅いわけではないが、日が完全に上がってからしか行動しない。もとい、行動できない。夜遅くまで起きていることが多いため、人のことを言えない程度には昼夜反転した生活が身体に染み付いてしまっている。

だから、というわけでもないが、朝早すぎる時間帯に部屋を尋ねられると、大抵酷く機嫌が悪い。

「だからって、追いかけて江戸に来た友人相手に短刀を投げることないんじゃないの、鬼神さん」

「うるせぇ」

朝一俺の機嫌を最低にまで落としてくれた男をジロリと睨むと、おお怖、と軽く口にして余裕そうに笑ってみせる。その余裕たるや、頭の横スレスレを通過し宿屋の半ば腐った廊下の壁に柄まで刺さった短刀に手をかけ、木板ごと引っこ抜いて俺に投げてよこすほどである。それがただの強がりや頭の軽さから来るものではないと、知っしまう程度には付き合いがあることに舌打って、ガシガシと頭を掻いた。

「それで、何の用事で追ってきたんだよ」

「あー、わざわざ来てやった友人相手にその言い方はひどーい。用がなきゃ来ちゃいけないの」

「うるせぇ…女狐にでもなるつもりかカマ野郎」

男にしては高い声で棒読みにも程があるクレームをつける男は正真正銘男であり、別に同性愛者でもなければ女に生まれたかった類の人間でもない。

「カマ野郎やめてっていつも言ってるじゃん。大体さぁ、俺がすっげー男らしい口調使ってみ。引くっしょ」

「確かに引くが、お前が顔面に白粉塗りたくった時はもっと引いたぞ」

この男は、自分の見せ方を誰よりも良く知ると同時に、自分への愛情と呼ぶべきものが欠損しているのだ。

「白粉だけじゃなくて紅も差してるし、目も朱を入れてんだけどね。お前ってほんと、そういうのみねぇよな。そんなんじゃ女の子が泣いちゃうよ」

「俺が徐にそんなん褒めたら引くだろうが」

「引くな」

真顔で返事をされ、額に青筋を浮かべつつも適当に着服を整えた。と言っても、着物にこだわりはない上に袴も履いていないので、適当に掛けていた着流しを襦袢の上から着るだけだ。帯の結びさえ適当なので時々会う連中に勝手に結び直しされたり着物を売りつけられたりする。この男も、そんな腐れ縁の一人だった。

「そんで、本当に何の用事だよ」

「別に。俺らで一緒にやってた仕事終わるなりいなくなったから。江戸で何すんのかなって来ただけ」

短刀から木板を抜き取り、男に放り投げる。短刀が刺さって空いた穴の上をそっとなぞり、ぱこ、と剥がれてしまった壁に嵌め込めばもう何事もなかったかのような壁に戻っていた。にこにこと満足げに笑って戸を閉めた男はその酷く器用な手を使って簪職人なんぞをしている。俺と、この男と、もう一人。三人で遂げた仕事は、無事に成功を成していた。全員気心知れた者たちで、仕事をし易かったのもその要因だろう。

「茜はどうした。置いてきたのか」

「引き続きあっちで仕事。俺もそれに付き合わされたんだけど、あのおっさんが絵師はどうしたって大怒りさ。俺も金物なら一人で作れるし絵付けもできるけど、絵をお前と比べられるとどうしても落ちるからね」

やれやれ、と疲れたように銀が項垂れる。着物の仕立てを得意とする妹、茜と銀は兄妹で着物店を営んでいた。俺は茜に絵付けした反物をおろしたり、銀の簪に絵をつけたりする流れの絵師なんぞをやっている。江戸に出てきたのは、あの辺りで嘗ての忌み名が流れたからだ。それをわかっているからこそ、銀はわざわざ追って来たのだろう。本当に面倒見のいい男だ。

「戻って来る気ないんでしょ。俺らもそろそろ江戸に行っちゃうかー、なんて言ってたからちょうどいい。茜もすぐ店片付けてこっち来るから、また三人で仕事しようよ」

「俺は元々一人なんだが」

「一人だとまともに仕事も引っ張ってこない奴が何言ってんの。放っておいたらせっかくの才能も日の目見ずに朽ちちゃうよ。大人しくお兄さんに世話されなさい」

偉そうに腰に手を当てて、年上らしく言った銀は再び布団に胡座をかく俺の前に膝をついて、頭に手なんぞを置いてきた。そのままぽんぽんと軽く叩き、髪を整えるように梳いていく長く細い指をわざと嫌そうな顔で甘受する。

「お前は凡人だよ。お前の腕は絵を描いてればいいの。才能なんか、一つだけだよ」

「…ああ、お前は本当うるせぇ」

天は二物を与えず。本当にそうなら、俺に与えられた二物を引き取ってくれないか。本当に俺が与えられたのは、必死に練習した絵の方か、目を逸らし続けた、刀の方か。

俯いた俺の声が情けなく揺れるのを銀は何も言わずに見ていた。その優しさが悔しくて、未だ頭に置かれたままの手を子供扱いするなと払ってみせる。

「じゃあ、また来るな、きん」

仇名じゃなくて、呼名を呼んで銀が部屋を去っていく。その余裕そうな顔が、腹立たしい。


「…もう一眠りするか」

少しばかり熱を持った目を休ませながら見慣れぬ天井を見上げていた。銀の言う通り、自分で売り込む気のない俺が誰も知らないこの街で仕事で仕事を見つけてきているはずがない。幸いにも先立っての仕事の割がよく必死になる程金に困ってもいない事だし、銀たちは止めたところでこちらに来るのは間違いない。甘えるようだが、二人が来るまでのんびりしよう。

窓から差し込んだ日の光は銀と会話している間に濃くなって、部屋を白と黒に染め上げていた。夏特有の光景に普段はそう強くない欲がもぞりと首をもたげた。

「…暑いな」

柚の花が薫る季節。宿屋の窓の外からは活気のある声が絶え間なく届く。これからまだまだ暑くなるだろう。虫も草木も人でさえ元気付く季節の始まりが俺の睡眠を妨げることは想像に難くない。

「…はぁあ…出掛けるか」

ため息ついて気に入りの太刀を腰に差し、適当に纏めた筆と和紙を小脇にふらふらとする足取りで宿屋を出る。こちらを射抜く矢のような鋭い日差しが肌と目に痛い。恨みがましく空を見上げて、もう一度だけ息を吐いた。


日の登りきった城下の街は、今まで見たどこよりも活気があった。否、俺は行ったことがないが、天下の台所と呼ばれる土地はこれ以上の活気なのだろうか。ともあれ、朝の市ももう終盤、街の女は家に篭って飯の支度か亭主の世話か、残り物を巡って店屋の主人や出遅れの女が金を撒く光景は喧騒にまみれて煩わしい。

俺も適当な食物を買い求め、朝飯を取り顔を顰めながら街を行く。江戸に着いたのは三日ほど前、この街に来たのは昨日の晩が初めてだ。どの街も、その街独特の口調や空気を持っているが、ここはどこか荒っぽい。嫌いではないし、笠を被ってしまえば誰も俺を見ないので楽ではある。但し、それは厄介事がないと言う意味ではないのだが。

「巫山戯たことばっか言ってんなよ」

人々の喧騒の中に轟く怒声。それに対して答える声もやはり大きく、多分に怒りが含まれる。

「それはこっちの台詞だ」

周囲の人間は慣れたものなのか、二人から距離を取り、けれど逃げるでもなく何だなんだと見物の体勢になる。俺もそれに紛れてみれば、どうも男が男に当たったや財布を取ったやの言い合いらしい。そんなくだらない理由でさえ両者にとっては大事のようだ。もはやきっかけも忘れてしまって口汚く罵り合い、終いには刀を抜き取る大立ち回りに見物人の気分も上がる。

「そこまで、そこまでだ」

そんなある種滑稽な場面を数分も見ただろうか。どちらも大した手練れではない、子供のチャンバラが真剣になっただけのことである。しかし、やはり往来で行われたのが悪かったのか、十手片手に五名ほどの男が駆けつけた。揃いの着物に容易く刀を止める腕前、恐らくこの街の治安を守る職種だろう。人のいない田舎の街では、火消しも奉行も同じだったが、ここではどうなのだろうか。

徒然に考えていたのが悪かったのか。捕物を終えて見物人を散らしていた男の一人がこちらにひたりと目を向ける。ピタリと合わせられた目に嫌な予感を覚えさっさと歩き始めたのも束の間、低い声をかけられた。無視して歩みを進めれば、ぐっと力強く肩を掴まれ足を止められる。

「無視してんなよ、ニィサン」

「すまない。俺だと思わなかったものでな」

「偉く下手な嘘をつくんだな」

飄々と返される言葉に警戒の色はない。昨夜気づいたのも弦だけだったのを思い出し、この男も俺の顔を覚えていないかもしれないと心の何処かが期待する。その反面、意識の大半は逃走経路の模索に動いているのだから嫌な慣れを感じる。

「何処かで見た顔なんだが、覚えはないか」

「残念だが、人違いじゃないのか。俺はここに来たばかりでな。ずっと田舎にいたのだ」

「おや、そうか。時にニィサン、出身はどこだい」

答えに詰まる。この男は気づいているのか、否か。悟らせないくせ、それは確かに核心をつく問いかけだった。そう不自然ではない間をとって、笠で顔が隠れるよう気をつけながら訝しむように言葉を紡ぐ。

「答える必要があるのか」

「答えられない理由があるのかい」

即座に返される声、俺の問いかけを予想していただろう様子から、男が俺のことを知っている可能性が高い。決めつけてかかってこないのは、今出回っている俺の人相書きが数年前のものだからか。もしかしたらちらりと見たことがある程度なのかもしれない。ここで答えを間違わなければ、今ここで行動に出られる確率は低い。

「……水戸の方だ」

「そうかい。俺の知ってるのは陸奥の方だが、行ったことはないか」

「さてな。何処へ行ったか、覚えてもいない。行ったことがある気もするが、どうだったのか」

ない、と断言したい気持ちをこらえてはぐらかす。各地を回って知ったことは、土地にはその場の空気や習慣、雰囲気がある。俺にもきっと、俺が気づけないそれが染み付いていて、わかるものにはわかるのだろうということ。だからこそ、明言はしない。何かを隠したくば、それ以外の真実で固めてしまうしかないのだ。嘘を重ねては、暴かれるばかりなのだから。

「それは、それは。ニィサンはまだ若いようだが、流浪の武士でも気取って旅でもしているのかい」

「否、見えぬだろうが、流れの絵師をしているのでな。絵を描いて回っているのだ。絵を見ればわかるが、それももう売ってしまって手にはない。ここへ来たのも唯一認められた歓楽街見たさなのだ」

口を回しながら周囲に目を走らせる。あれだけいた見物人も大立ち回りを演じた男たちの姿ももう見えず、辺りはまた日常に戻っているようだ。しかし、と目を細め、人人の合間を探す。男と共に来た奉行、恐らくは岡っ引きの連中は、もう詰所に戻ったのだろうか。逃走経路はもう決めている。話を切り上げ先の路地に入ればこちらのものだ。それなのに、男は中々切り上げる隙がなく、うまく話をつなげて見せる。

「あなや、悪いが微塵もそうは見えないな。その腕は、筆を取るより刀を持つ方が似つかわしい」

「生憎と、刀は齧ったほどなのだ。一人で旅をしてる故、自衛をしなくてはならないのでな。渋々と学んだだけのこと」

「そうかいそうかい、一人旅ってのはまた、穏やかじゃあないな。帯刀の仕方も知らぬ人間が、そう何年も出来ることじゃあないだろう、なぁ、そう思わないかい、太刀のニィサン」

言い当てられて、今度ばかりは言葉に詰まる。それを愉快げに眺めて、男は低い声を低め、囁くような声で告げた。

「何も捕まえようっていうんじゃねぇ、同僚たちも今頃は詰所だろうさ。ニィサン、安心して俺とオハナシしないかい」

逃げるか、否か。巡るめく回る思考は纏まらずただ男の言葉が真実だろうという事だけははっきりと理解できていた。どれだけ人の中を探そうと、見つからない岡っ引きがどうしようもなくその事実を突き付けてくる。ならば、ならば。今この場で取るべき正解は。

「いいだろう、付き合おうか」

初めて顔を上げ、男の顔を真っ直ぐ見返す。皺のある、顎に髭を蓄えた男、年の頃は四十前か、着物襷あげ十手を持つ姿はなかなか様になっている。緩んだ口元に反し色濃い瞳ばかりが酷く真剣そうで優越も嘲りも警戒さえないのにこちらの方が驚いた。

「そりゃよかった。ちょうど、暇していたんだ」

こっちだと勝手に案内を始めた男について歩き出す。いつの間にやら市の終わった往来は少しばかり人が減って、ただ鋭い日差しが降り注ぐ。時刻はもういよいよ人が仕事を始める頃、あと少しもすれば、ここも人で溢れかえるのだろう。


連れて行かれたのは、小さな茶屋だった。席数は詰めて三人腰掛けられるかと言うほどの長椅子が六、正面は開け放たれ、簾を掛けて日を遮った、穏やかな雰囲気の店だ。今はまだ人はいなく、俺と男は奥の席に並んで腰掛けた。すぐ様現れた女がニコニコと茶を置いてくれる。

「あんた、仕事はどうしたんだい」

しかし、女の笑顔とは信用ならないものらしい。

おいでませ、と柔らかい笑顔で言った女は特別美人ではないが、年の頃は俺と同じか少し上といったところだろうか、特別に可愛いわけではないが、綺麗な女だった。男の方を向くなりピキピキと音がなりそうな笑顔で頬を抓りあげる姿は酷く自然で、幸せそう。

「いててて、違う、抜け出してねぇよっ」

必死な声を上げる男に女はふん、と鼻を鳴らして手を離す。最後に男の長い猫毛を叩いて、漸く満足したのか再び俺に向き直った。

「お客さん、この人仕事してたかい。すぐ抜け出してここで団子なんぞ食うダメな人なんだ」

「あー…働いていた、いや、働いているぞ」

「ほら見ろ、勘違いで人の頬抓りあげるんじゃねぇよ」

「あんたは日頃の行いが悪いんだ、威張るんじゃないよっ」

お互い叫びながら言い合う様子に夫婦なのだろうかと思う。似た雰囲気に、親しげな様子は話に聞く夫婦像にピタリと一致した。分かり合っている、という空気感が、なんとも家族らしいではないか。

暫くじっと二人の言い合いを眺めていると漸く言いたいことがなくなったのか二人は全く同じ仕草で俺を振り返る。男は軽く、女はバツが悪そうに謝罪した。

「悪い、こいつは嫁の小赤だ」

「すまないね、お客さん。このアホ亭主に用があったんだろう。曲がりなりにも治安を任されているんだ、どんな苦情でもぶつけてやっておくれ」

「俺は陳情係じゃねぇよっ」

また言い合いになりそうなのを慌てて止める。もういい加減時間が経ち過ぎだ。後ろ暗いところがあるものとしては、あまり居心地のいいものではない。ここまでそう感じなかったのは、やはり男から捕らえようと言う意志を感じないからだろうか。

「すまないが、団子を貰えるか。亭主が毎日食うほどに旨いのだろう、是非食べてみたい」

「ああ、もちろんさね。気を遣わせて悪いね、お客さん。ごゆっくり」

あんたはゆっくりするんじゃないよ、と最後に釘を刺してから女はパタパタと店の奥に下がった。姿が見えなくなった途端、男が深い息を吐く。

「あいつは女らしさってもんがなくていけねぇ、そう思わないか」

「同意すれば不快なのだろう、面倒な問いをかけてないで、本題に入ってくれ」

既婚者には何度か会ったことがある。大して親しくもない相手に愚痴を言うほど疲れているのなら、結婚なぞしなければいいのにといつも思ったものだ。それでもと共にい続ける意志が俺にはよくわからない。

「本題と言ってもな、ただ話したかっただけなんだが」

「俺と、か。意味がわからんな。逃げ惑われることはあっても、話したいと思われたことは終ぞない」

どれだけその街に馴染んでも、どれだけ親しくなろうとも、人の気持ちというのは容易く変わる。長く時間をかけて築いた信頼も、過去の出来事一つで容易く崩れる。恐れる気持ちとは裏腹に、俺に出て行けと言う友人に、何度ため息をついたろう。いつから俺は、悲しむことをしなくなったのだろう。

「俺はお前の話を聞いたとき、話してみたいと思ったけどな。だから話しかけたのさ。顔はイマイチ覚えちゃいなかったが、その刀は違和感があり過ぎた」

「やはり目立つか。田舎だと、武士など少ないからさほど目立たないんだが」

今の世の武士はその殆どが打刀を使い、太刀を使うものは少数だ。嘗ては逆だったというのに、太刀を使うものとしてとても悲しい。ともあれ、その二つには明確な違いがあった。素人でも一目でわかる。何故なら、帯刀の仕方が違うのだから。

「着物を着て太刀を持つ人間は普通いない。戦の時に見かけることはあるやも知れんが、それでも余程の物好きくらいだ。それを、お前は下げ緒も使わず無理矢理に打刀と同じ方法で差してやがる。目立つなという方が無理な話だ」

「鎧は好かん、だが、俺はこれでないと振れないのだ。振れずとも良いと何度思ったことか知らないが、それでも手放せないのが今の世だ。これを手放せば、一人旅なぞ危なくてできやしないだろう」

「まるで、戦に参加したことのあるものの言葉だな」

茶を傾けながら男が笑う。それに答える前に、女が団子を持ってきたために一時会話は途切れた。礼を言い、茶を飲みながら過去を思う。

太刀は、戦が多かった時代、鎧をつけた状態で抜くために刃が下向きになるよう腰に差す。対して打刀は着物で立ち回ることが多くなった今の世に合わせ、刃が上向きになるように差すという違いがあった。反りの向きが違うため、その違いは一目瞭然。その上下げ緒によって腰に吊る状態となる太刀は打刀よりも下の位置に帯刀することになる。それによってバレるのも嫌だと着物の帯に直接打刀と同じようにして差していたが、やはり見るものが見れば違和感に気づくのだろう。

それでも、俺はこの刀を手放せない。

「…戦は好かん。知っているだろう」

今の御上が天下を取って以来、無用な戦が姿を消した。刀は人を切るためのものからある種装飾の意味を持ち始め、刀を習うことすら当然ではなくなった。いい傾向だ、と思う。人を殺すことが当然でなくなる世界はきっと、今よりずっと素晴らしい。

「争いたくば、争いたいもの達だけが争えば良い。戦う理由もない兵を鼓舞し、無用に命を散らせる戦は、愚かなことだと思わないか」

「…さてな。俺はただの岡っ引き、それも嫁さんの店で食わせてもらってるような男だ。戦に参加したことなどあるわけがないだろう。だからこそ、俺は思ったのさ。お前に会ったら、話をしたいと」

団子を食いながらなんてことのないように男が告げる。この男は酷く話術があるらしい。それか、天性の人垂らしのようだ。そんな男にかけるべき言葉を暫く探して、結局ただ一言だけを告げた。

「お前は、変わっているのだな」

「だろう、惚れてくれるなよ、嫁がいる」

「ほざけ」

くつくつと喉の奥で静かに笑い、その後はこの街の話なぞをしながら団子を食った。男は本当にただ俺と話したかっただけらしい。昼も回る時刻になるとさっさと仕事に戻っていった。嫁に尻を叩かれるようにしてというのが、何とも彼らしく、声を上げて笑ってやった。


数刻後、昨日とは別の男を雇い、吉原の大門に入る。昨日と同じく笠を被っているが、昨夜親切にも色々と話してくれた男がいたおかげか声をかけられることはなかった。軽く頭を下げて見返り柳を越え、今日も今日とて人集りのできる水鉢楼へ向かう。ちらりと二階部に目を向ければ、今日も退屈そうな顔をして女が煙管を蒸せていた。

「よぉ、来たな、旦那」

「来なければならないのだろう」

ひらりと手を振ってくる弦に呆れて返しながら内心首を傾げる。何やら、疲れている様子だがどうしたのだろうか。

「夢乃姐さんがお待ちじゃ、さっさと入ってやれ」

「ああ」

頷き、店内に足を向ける。今日も変わらず綺麗な中庭には早くも階上からの音色が届いていた。

「旦那様」

昨日と同じく右手の部屋から出てきた美涼が目を伏せながら声をかけてくる。その後から既に提灯を持った美礼がやって来て、同じように挨拶をしてくれた。俺も挨拶を返して、二人が出てきた部屋を見る。

「あの部屋は何の部屋なんだ」

「楼主様の部屋です」

不思議そうに首を傾げつつ、美涼が答える。楼主、と聞いて思い出すのは昨夜大門で聞いた女の話。あの話を聞く限りでは、とても優しいとは言い難いのだが、二人は昨日も今日も何をしていたのだろう。

「胡蝶様に三味線を教えて頂いていたのです」

「今日の席で弾く曲を。頑張りますね」

尋ねる前ににこにこと笑って嬉しそうに話す二人によって答えを知らされる。階段に向かう二人の後を歩きつつ、ありがとうと礼を言った。胡蝶、と言うのは、弦と同じ見世番だろうか。何人いるのか知らないが、一人ということはないだろう。進んでしまった話に聞く機会を逃してしまったが、そう気になることでもない。明日も来るのだから、また聞くこともあるだろう。

今日は昨夜とは違い、部屋に入ると既に夢乃は席についていた。膳の位置も昨夜よりもずっと近く、手を伸ばせば届く距離に並んで置かれているらしい。スッと背を伸ばして正座していた夢乃がふと身体ごとこちらに向き直る。

「ようこそおいで下さいました、旦那様」

顔を上げて、ことりと首を傾げる。頭に差された簪の重ねられた飾りがしゃらりと涼しげな音を立てた。蝶歌とは違い、心から楽しげな様子に演技か本心かと苦笑う。人の意図を読めないのは幼い頃からの悪癖だった。

「今夜は会話をできるのだったな。触るのは禁止だったか。買い慣れていないのだ、悪いことをすればすぐに言ってくれ」

「そうお気を使われずとも構いません。今夜は、余程のことでない限り目を瞑る、暗黙の了解がございますわ。新造も禿もおりますので、どうかお気になさらず、お寛ぎくださいな」

言いながら、実際に俺の手を取って小首を傾げてみせる。なるほど、手を取る程度の接触ならば許されるのだろう。俺の知っている女など、最初から抱くこと前提の一夜限りの女を除けば茜しかいない。あいつを基準に考えるならば、髪に触れるのも駄目なのか。別に触れてやろうという気はないし、大して強くもないが下戸でもないので酒に酔ってということもないだろうから、夢乃の言う通り寛いで会話を楽しめばいい。

「わかった、態々説明させてすまないな。女遊びも慣れぬ田舎の出なのだ、女にして楽しい話も持ってはいない。人付き合いもとても得意とは言えないから、話術もない。重ねて悪いが、何か適当に話でもしてくれないか」

素直に告げれば、夢乃は一度きょとんとして次いでくすくすと口元を隠し可愛らしく笑ってみせる。野山の子兎かというような可愛らしい顔にはとても似合いのその仕草は確かに男心をくすぐるだろう。彼女が人気の理由も知れるというものだ。

「やだ、旦那様、そんなことを告白なさる方なんて、いらっしゃいませんわ。女の仕草にも慣れてらっしゃるのにそんなことを言うなんて、狡い人」

「事実なのだから仕方無かろう。慣れてなどいないのだが、そう見えるなら僥倖か。貴女のその目で憐れまれるのは、中々心が痛そうだ」

態とらしく眉を下げて見せれば、夢乃はまた小さく笑い、小さな頤に指を当て何事か考え始めた。白く細い指、上げたことで晒された腕もまた、酷く細かった。その名の通り、夢のように消えてしまいそうな儚さについ疑問が口をつく。

「夢乃と言うのは、源氏名なのか」

「え、ああ、そうですわ。胡蝶様に付けて頂いた名でして。名前と言えば、旦那様のお名前を伺っていないわ」

「ああ、そうか。悪い。好きに呼んでくれて構わないが、旦那のままじゃ駄目なのか」

「駄目ですわ。明日には夫婦になるのです、名も知らぬ関係は嫌だわ」

「夫婦…とは言ってもな。名など、記号と同じことだろう。俺を指す言葉なら多々あるが…これと言って名乗りたいものもない。呼ばれたくはない名ならあるが」

思い返してみれば、名を名乗った記憶が何処にもない。今まではいつも、名乗らない俺に痺れを切らした相手が適当な呼び名を作っていた。さらにそれを聞いたまだ呼び名を決めていなかった知人がそれを呼んでと広がっていたのだが、それを名乗るかと言われれば否だ。幾つかあるし、俺が決めたものでもない。

「よく呼ばれるのは、無題の絵師か。しかしこれは仕事関係のものしか呼ばない上に、とても名前とは言い難い。どうしたものか」

「本当の名前は教えてくださらないの」

頬を膨らませて態とらしく拗ねる夢乃は存外本当に機嫌を損ねているようだった。周囲で見守る禿や、恐らく彼女らが新造なのだろう、夢乃とそう年の変わらない少女たちからの目も痛い。美涼と美礼ばかりが不思議そうに首を傾げていて、俺はとうとう白旗を上げるように両手を挙げて見せた。

「すまない、それだけは呼ばれたくないし、覚えていないのだ。仲間内で呼ばれている名でいいなら答えよう。と言っても、とても良い名ではないのだが」

「構いませんわ。仕事の名を教えられるよりずっと。それで、なんと仰るの」

急かすように俺の膝に手を付いて顔を覗き込んでくる夢乃にそんなに名とは大事だろうかと苦笑する。自分こそ、仕事上の名を名乗るくせにとは言わぬが花なのだろうか。

「金魚、と呼ばれている。とても名とは言い難いだろう」

眉を下げて白状すれば夢乃はピタリと身体を止めて色素の薄い目を俺に真っ直ぐ向け続けた。それに視線を合わせること数秒、不意に視線を逸らした夢乃が困ったような顔をする。

「どうしてそんな名前ばかり仰るの。それも、嘘ではないのね。ああ、どうしましょうか。金魚様だなんて呼べないわ」

「うおとでも呼べばいい。金魚とは名ではないと不満げな女はそう呼んでいた。うおなら、問題ないのだろう」

「他の女と一緒だなんて、なんだかやだわ。ああでも、そうするしかないのかしら。もう、どうして金魚なの」

顔を覆って嫌だと嘆いたかと思えば今度は垂れ目がちの目をキッと引き上げて睨めつける真似をする。表情のころころと変わる様子は見ていて面白く、感心する。俺にはとても真似できない、素直さが可愛らしいとも思う。好みかと言われればそうでもないが、この女にはよくあっていた。

「俺の初めての作品が、金魚なのだ。絵師としての作品だが。以来、俺は判の代わりに金魚を描いている。小さく、作品の何処かに必ず」

それが割と好評なのだから、世の中というのはわからない。いつか、俺のものが欲しい時は探さなければならないと困ったように話した男が言っていた。判のない作品は素人かお前のものだ、と毎度必死に探しているのだと。同じ場所にかけ、という癖して、酷く楽しげに。

「そう言えば、先ほどもおっしゃっていたけれど、絵師様なのですね。失礼だけれど、全然そうは見えないわ」

「よく言われる。武士にでも見えるのか、斬り掛られることもしばしば。面倒なものだ」

「まあ、そんな方がいらっしゃるの。確かにお侍さんに見えるけれど、斬り掛かるなんて酷いわ」

「だろう、よく言っておいてやってくれ」

深く頷いてやれば夢乃は不思議そうに首を傾げた。お前の店の見世番がまさに昨日斬り掛かってきたのだと、そんなことまでは言わないが耳のいい男だ。何らかの方法でこの会話も聞くのだろう。好奇心で斬り掛かってきた男への意趣返しになればいいのだが。

「うお様は可笑しな人ね」

「そうだろうか」

「そうですわ、名前を聞くのだけで、こんなにお話したことなんて一度もありませんもの。可笑しな方」

「気を悪くしただろうか。すまないな。いやしかし、俺にとっては頑張った方やもしれん。夢乃殿と、こんなに長く話すことができたのだからな」

おどけていって見せれば、夢乃も大袈裟に驚いて見せた。打てば響くとはこのことを言うのだろうか。なるほど、話し易いよう彼女なりに学んだ話術なのだろう。

「まあ、本当だわ。うお様の仰る通りお話を考えていましたのに。ふふ、嘘つきな方。お話はお上手じゃありませんの」

ころりと笑んで、自然な動きで近くの女になにやら耳打ちをする。女は一つ頷いてまた他の女へ目配せをしてと何事かが伝わっている様子。少しして、少し後ろに正座していた美涼と美礼が腰をあげた。酒を進める夢乃に従いつつ、会話に意識を戻す。切り替えが早く済んだのは、気を使った美礼が三味線を取りに下がると告げてくれたからだ。先に言っていた、今夜弾く予定の曲を演奏でもしてくれるのだろう。

「いや何、夢乃殿が話し易くしてくれているだけのこと。そも、俺は人に話をしようとも聞こうとも思ってもらえぬようなのだ。人嫌いだとでも思われているのやもしれぬ。どうしたものか」

「高嶺とでも思われていらっしゃるのかもしれませんわ。お綺麗なお顔、こんなところで女遊びなんて、悲しむ女子がいらっしゃるのではありませんか」

会話の合間に飲み干した猪口に夢乃が酒を注いでくれる。綺麗な完成された動作は無意識に行っているのか話しながらでも淀みない。昨夜は美涼たちが同じことをしてくれたがやはり何処か頑張っている様子だったから、その辺りは経験の差か。夢乃もまた、美涼たちのように幼い頃からここにいるのだろうか。

「冗談を言われるな。そんなものがいたら、ここまで自由に過ごしてはいないだろうよ。俺が嫁を取ることなど、恐らくずっとないのであろうな」

「ならば、私が初めの妻になるのですね。嬉しいわ」

にこりと笑う。その理論でいくと、ここは一妻多夫ということになるのだろうか。吉原のことは前々から話には聞いていて多少の知識はあるつもりでいたのだが、わからないことが多過ぎる。正直なところ、美涼たちの禿というのもよくわかっていないのだ。

畳一間文も離れたところでそっと並び演奏を始めた美涼や女を見ながら、変わらず美しく奏でるものだと感心する。少しばかり心配な心地がするのは、やはり幼子の魅力とやらに、二日と言えども取り憑かれてしまっているのか。

「夢乃殿、慣れぬ男にここの遊び方を教えてやってはくれぬだろうか。禿や新造がこの後花魁になるということはわかっているのだが、花魁や遊女に違いがあることさえ昨日教わったほどなのだ。いや誠、恥ずかしいばかりだ」

「恥ずかしがられることではありませんわ。この町は、独特ですもの。私も来た頃はどうしたものかと思ったものですわ」

ころころ笑ってなにがお分かりになりませんの、と尋ねる夢乃に困ったように笑ってみせる。それだけで言いたいことは伝わったのか、んー、と小さく唸りながら何事か考え始めた。

「禿はご存知かしら。この楼閣には花魁しかいないのだけれど、その前は禿としてここで育てられるのですわ。この楼は、ここで生まれたものか、幼い頃に捨てられたり売られた者しかいませんの。ここで生まれて楼に入る、なんてことは殆どございませんから、大半は後者ですわ。禿は十四、五になると新造となります。まだ部屋も持っていないけれど、花魁が月のものでお休みするときなどに代わりに売られたりするのですわ。それを経て、馴染みがつくと花魁として部屋が与えられますの。座敷持ちの姐様たち以外は、新造も部屋持ちも見世に出てお客様に品定めされる決まりですわ。だから、先輩を追い抜くことなんて、よくあるんですのよ」

「人気がなくなった花魁は、どうなるのだ」

「この楼閣の持っている別のお店に。大通りから外れ、遊女となって、買われたその日にはもう抱かれるという生活を送りますわ。歳行けばみんなそうなる、誰も不満なんて持っていませんわ。そこにさえ、いられなくなったらもうお終い。抱かれること以外何の取り柄もないのですもの。生きてなんかいけませんわ」

なんてことないように、つらつらと話される内容は中々に壮絶で実力主義というのか、女が嫌がることを全て並べ立てられたような生活だ。これが理想の女の実情だというのだから、男というのはどれだけ女を見ていないのだろうか。

「ただ、人気だったのなら、そこまで堕ちる前に何処かで身請けされていますわ。それか、金がなくて売った家族がなんとか持ち直して迎えに来ることもちらほら。けれど、どちらの場合も多額の祝い金を必要としますわ。花魁は稼いでいるように見えてその実、前借りなどで借金まみれですのよ。それも全部、返してからでしか楼を出られませんわ。逃げ出すのだって、それこそ無理なお話ですもの。この街は迷路のように路地が入り組むよう出来ているし、梯子では降りている間に牛が来てしまうわ。お客様がお使いなさる階段は人気のあるものほど遠く作られているし、常に牛が見張ってる、八方ふさがりですわ」

「なるほど、変わった作りだとは思ったが、全て貴女達を逃さないためだったのだな」

ここは大きな籠というわけだ。入っているのは捕らえられるのを承知の鳥ばかり。そこにあるのはただ諦めか、はたまた。

ふ、と思い出す退屈そうな横顔と目があった時の華やぐ微笑。あの女は何を思い、何を望んでここにいるのだろう。

「この街の話ばかりでも、詰まらないでしょう。うお様のお話はしてくださらないの」

「俺の話か」

確かに、この街のことを話し続けるのは、俺にとっては新鮮で面白いがここに住み慣れた夢乃にはつまらないだろう。外に出られない彼女にとって、客の話は唯一の娯楽なのかもしれない。そう思えばこそ、何か話してやりたいとも思うのだが。

「何か楽しめる話があっただろうか。生憎と、俺は寺子屋にも通っていないのだ。幼少の話も楽しいものは一つとして…ああ、そうか。紙と筆を借りられるか」

聞けば、首を傾げつつも側に控える新造に声をかけてくれる。そっと部屋を出て行く様子から、おそらく何処かへ取りに行ってくれるのだろう。自分で言い出して何だが、あるのだろうか。

「ふふ、そう不安げな顔をされずとも、紙と筆くらいございますわ。絵師様のお好みに合うかはわかりませんが」

「そんな顔をしていたか、すまん。しかし、何に使うのだ。失礼な話だが、ここに必要なものだとは思えぬのだ」

「一階部はご覧になられましたか。ここは夜は楼閣ですが、昼は私たちの住まう場となるのですわ。一階にございますのは、楼主様のお部屋と見世番のお部屋、新造や禿の眠る部屋でございます。その他にも、月の物の花魁が夜の間のみ入る部屋もございます。花魁は与えられた部屋が自室となります故。しかし、昼の間は夜の疲れを癒すとはいえ、退屈なものでございます。慰めに届ける当てもない文なんぞを書き留めることもございますれば、絵師様の真似事をしてみることもございましょう。私にはわからぬことですが、楼主様もお使いになるのではないでしょうか」

「そうなのか。いや、貴女たちが描くものというのも、見てみたいものだ。しかし、そう広くは見えなんだが、そんなに部屋があるのだな」

「いいえ。広くはございませんわ。他の楼に比べれば、人気もございますし老舗ですので大きいやも知れませんが。人数が少ないので、そう広く必要でもないのです。見世も、そう広くはないでしょう」

微笑んで説明をくれる夢乃に部屋に戻ってきた新造がそっと声をかける。先ほどから思っていたが、そう離れていない俺に聞こえないように囁く技術はなんだろうか。客に聞かれてはいけないのか。

「うお様。紙と筆をこちらにご用意してもよろしいでしょうか。お召し物が汚れてしまうやもしれませんわ、襷をご用意致しましょう」

「いや。習字をするわけではない、軽く書ければ良いのだ。何時も使わぬ襷など必要ない…粗末な紙で良かったのだが、偉く上等な…」

答えながら差し出された紙を見れば、酷く上等な和紙が届けられているらしい。こんなもの、仕事で用意された時くらいしか使わぬが、ここの女はこんな物に絵を描いているのだろうか。ちらりと夢乃を見れば、きょとんとした顔で首を傾げていた。描いているらしい。

「…まあ、有り難く使わせて貰うが…ああ、有難う」

筆も受け取れば、当たり前のように上等なそれにもう突っ込まないと誓いつつ、墨入れを差し出してくれた夢乃に礼を言う。自分では確実に買わない紙に躊躇いつつも筆を乗せればサラサラと走らせる。意図的にか密着する程に近づいてきた夢乃が目を輝かせながら筆の行くを見る。

「なに…んん…んー…あ、にゃんこねっ。ねぇ、そうでしょう」

完成すると嬉しそうに笑いながら顔を上げる。それは疑いようもなく本心からとわかる明るい笑顔で、まるで子供のようだ。小さく笑いながら、筆を返し、紙を差し出す。

「ご名答、猫という。見たことはあったか」

「ねこ、ねこ…ねこと言うのですね。お話に聞いたことがありますわ。ぷにぷになのでしょう」

「…肉球か。あー、俺は触ったことはないが、そうなんじゃないのか。しかし、話に聞いただけでよくわかったな」

今までの客の誰かが話でもしたのだろう。よもや、にゃんこと教えたのではあるまいな。夢乃が言うから聞けたが、男が教えたのかと思うとゾッとする。

「他には、何か描いてくださらないの。紙ならたくさんありますわ」

「何かか。うーん、犬は知っているか」

「知りませんわ」

嬉しげな夢乃に乞われるまま、動物を書き続けた。俺の知る動物がいなくなった頃、昨日よりは遅いがまだまだ早い時間帯だったが退席することとする。昨日とは違い、夢乃は全力で俺の帰宅を惜しんでくれた。入ってきた時同様綺麗に座して、不安げな顔で上手目に見上げる。

「うお様、明日も来てくださいませ」

「…ああ」

今更、他の花魁を買おうと言う気は既にない。ちらりと脳裏によぎった女は最初から俺の手など届きやしない上、出来たとしても、買いたくはなかった。

結果頷けば、夢乃はもう一度にこりと嬉しそうな笑顔を浮かべて、綺麗に見送りをしてくれた。


店を出ると、やはりいる弦がさも待っていたという用に煙管を吹かせて行儀悪く胡座をかいていた。

「会話出来たとて、旦那を満足させるには足りなんだか」

「どうせ聞いていたのだろう、わかりきった問いをかかるな、面倒くさい」

昨日と変わりの無い声かけにため息混じりに返してやれば、弦は人を食ったように笑ってみせた。

「まあまあ旦那。今から帰るのもなんじゃろう。舟も、皆帰っておるぞ。どうじゃ、ここは一つ、儂の会話相手にでもなってみんか」

「…お前の奢りで酒が飲めるなら付き合ってやる」

ケチじゃのぅ、と口を尖らせながらも、店に酒を持ってくるよう声をかける辺り、相当暇をしていたのだろう。仕事中に酒を飲もうとする辺りが何ともこの街らしい。月が居残った空、端まで黒塗りされて、まだまだ日の気配はない。何時まで仕事かは知らないが最後まで付き合えというつもりではないのだろう。そうであっても付き合わないが。

「座らんか。酒なら待たずともすぐに来る。旦那の話は面白そうじゃ」

「俺の話をする気はない。それよりも、お前の話が聞きたいな。見世番の給料とはどんなものなんだ」

弦の隣に腰掛けて不平等じゃ、知らんな、と軽口を交わすこと暫し。益のない会話に終止符を打ったのは酒瓶を抱えた美涼と猪口や漬物を乗せた盆を運ぶ美礼だった。ツマミまで付いてきたことに驚く俺を尻目に、弦が嫌そうに顔を顰める。

「一升瓶、それもこんなええもんじゃなくてええんじゃぞ。変えてくれんか」

「旦那様の口に入るもの、適当にしてはいけませんと、胡蝶様が」

「こちらの漬け物は、旦那様にと、胡蝶様が」

「胡蝶」

日に何度か聞いた名にいよいよ持って首を傾げる。

酒瓶を取り上げられ、重さからかふらついていたほっと息を吐く美涼やその横でにこにこと弦と俺の間に盆を置く美礼には尋ねず、弦に目を向けた。綺麗に盛られた壺漬けやら糠漬けはどうやら俺にということらしい。これも弦の奢りになるのだろうか。不本意そうな顔から察するに、恐らく勝手に取られるのだろう。

「楼主の妻じゃ。嘗てはここで働いておった、胡蝶は源氏名、本名は楼主しか知らん。旦那もおうとるじゃろう、旦那の嫌いな年増の女じゃ」

「あー、弦さんそんなこと言ってる」

「胡蝶様に伝えよう」

「止めんか餓鬼ども」

ぎゃあぎゃあと言い合う姿を見ると三人ともまるで子供のようだ。美礼たちは本当に子供だが、大人のように振る舞う為に俺と話しているときは弦の方が子供に見える。しかし、弦は本当に耳が速い。年増の話をしたのは昨夜ここに来る間に世話になった舟渡しだけのはずだ。

「年増の女…あの美人か。あの女は、今は働いていないのか」

「現役でいける思うじゃろ。しかしの、楼主が嫌がるんじゃ、今では新人教育と、受付の真似事くらいじゃの。それも、気が向いたときしかしとらんが。たまに出て来れんほど腰痛めとる時もあるからのぉ」

元々は売り物にしていた女だが、妻となると独占欲が出てくるのか。感心したように聞いて、猪口に酌する美涼に礼を言って受け取った。

「新人教育って言うのはなんだ、花魁にするのか」

「そっちじゃなくて、儂等の方じゃ。見世番は一つの楼に二人はおるが、仕事内容は全くと言っていいほどに違うんじゃ。儂は夜、あいつは昼と時間が違うから当然じゃの。儂の場合普通の見世番とは言い難いが、仕事内容はかなりあるんじゃ。そのうちの一つが花魁教育、元は儂の先輩がしとった仕事じゃ。あと十年もすれば、儂も後輩に譲るんじゃろうが」

年齢の問題か。言われて改めて弦を見ると雰囲気と顔立ちのせいで同い年くらいに見えるが実年齢は上そうだ。いや、やっぱりわからない。正直さっぱりわからない。

「お前は今何歳だ」

「二十五」

歳上か。

しかも、三年ほど上だった。割と衝撃。

「その花魁教育のための教育をするのが胡蝶姐さんじゃな。その頃には、蝶歌姐さんにその仕事も譲っとるかもしれんが」

「花魁教育を胡蝶がするわけにはいかんのか」

「旦那様、花魁教育は殿方にしかできません」

「舞や作法ではないのか?」

「いいえ、旦那様。それは幼い頃から教わりますわ。それとは違い、花魁教育には一つ大切なことが御座います。それを出来るのが、殿方だけなので、私たちも仕方なく弦さんに純潔を、」

「わかったすまん」

美涼の舌足らずな声が紡ぐには中々深い内容に思わず言葉を止めてしまう。弦が酷くニヤニヤしているのが腹立たしかったが、これ以上は俺が聞きたくない。わかったというのも事実なので、聞く必要がないというのも勿論あるが。

「じゃあ、弦は胡蝶とやらと寝たことがあるのか」

「殆ど夜通し、覚える前提じゃから、そう気持ちのええもんでもないが。しかしまあ、この街ではよくあることじゃよ。ここで餓鬼の頃から生きていて、身体の関係がないのなんざ、向かいの娘くらいなもんじゃ」

「違うますよ、旦那様。弦さんはつまみ食いが激しいから」

「誰にでも手を出してすぐ怒られてる」

「旦那様も気をつけてね」

「男に手を出すほど落ちぶれちゃいねぇよ」

再び始まる言い争いを、仲がいいものだと笑って流す。しかし、ここでは随分同性同士の情事に寛容だが、やはりそういう店があることが原因なのだろうか。

「ん、なら、弦は夢乃も蝶歌も抱いたことがあるのか」

ふ、と湧いた考えを呟く。美涼たちを追い払うことに漸く成功した弦は何処かやりきった感でいっぱいだ。渋々と店に帰って行く二人が頭を下げるのにひらりと手を振った。

「あるが、それがどうかしたのか。先にも言ったがあれはほぼ勉強じゃ。美人を抱けるのは役得じゃが、美人が総じていいというわけではない。あの二人は特に、対極の容姿をしておるから好みが分かれるじゃろうな。何せ、胸の大きさが、」

「胸の大きさは伝えなくて構わない。その手を止めろ。止めろと言っているだろう。別に説明しろというわけじゃない。単純に、ここで女を買えば、皆同じことをするのか、と思っただけだ」

妙にリアルに胸を掴む様子を再現する弦の手を叩き落とし、呆れた目を向ける。思春期の男子か、いい歳したおっさんが。目に込めた言葉に気付いたのか、弦は赤くなった手を摩りながらおっさんじゃないわ、と小さく呟く。

「夢乃と蝶歌はほぼ同じ歳なんじゃよ。夢乃の方が一、二歳上じゃったかな。しかし、花魁として先輩なのは蝶歌の方じゃ。その関係で、二人はあまり仲良くなくてのぅ。同じ頃に慣らし…ああ、情事に身体を慣らすことを言うんじゃが、それをしたんじゃ。蝶歌は流石に覚えが早くてのぅ。頭のいい子じゃったから、すぐに店に出たわ。それに対して夢乃は覚えが遅かった。心理的な問題で、二人には決定的な違いがある。誰もそれを気にせんかったが、夢乃だけは気にしたんじゃよ。蝶歌が人に興味を示さんもんじゃから、余計に、な」

当時を思い出しているのか、弦はうんざりしたようにため息を吐いた。女の諍いは、いつの世も男には理解しがたいようだ。

「それでも覚えて、皆自分なりに色々変えとるよ。じゃから、全く同じことをするかと言われれば、違うと答えるところじゃが…まあ、見当違いの心配じゃよ」

「何故だ」

「聞かんかったか。花魁を買うというのは、簡易の婚姻をするということじゃ。浮気なぞ、御法度に決まっておろう。それでも、他の楼閣ならば見逃すのがこの街じゃ。どんな阿呆でも、同じ楼内で二人を買うことはない」

「そうなのか。覚えておこう」

「…旦那は偉い金持っとるんじゃなぁ。儂なんぞ、常にジリ貧よ。この楼で女をそれも二人も買おうとは、夢にすら思えんわ」

「だからつまみ食いするのか」

「そぉ、売れ残りにの」

楼側も無茶させん限り目を瞑ってくれるんじゃ、とカラカラ愉快そうに笑う弦は酷くこの世界に向いていると思う。俺にはとてもできそうもない仕事だ。

「偶々、金が入ったのだ。絵が売れてな。絵師はいい。一枚売れりゃ、それだけで大金だ。ただ、素寒貧の時は酷いもんだ。数ヶ月雨水舐めてなんてのもよく聞く。実際、俺も初めは似たようなものだった」

「今は金魚の作品と言えばよく売れるからのぉ。お前さんの腕は、大層神さんに愛されていることよの」

「そうだろうか」

酒を飲み、漬物を咀嚼しながら、ふと手を見下ろした。神に愛されたというには酷く血に汚れた、無骨な腕だ。着物に隠された腕には大小問わず多く傷があるし、左の掌には一度千切れたのではと言うほどの傷跡がある。最近ではめっきり減ったそれらが、俺の歩いてきた道の穢らわしさをありありと伝えていた。

「俺と俺の周囲を不幸にしかしてくれない、こんな腕は、神に愛されてはいないだろう。未だ切り落とさずにここに生えているのは、偏に俺が絵が好きだからと言うだけのこと。才能などあれば、もっと早くに売れていただろうよ」

こんな腕はいらないと、嘆いたのは遠い過去。何かを生み出せやしないかと俺はいつだって努力を続けた。今があるのは、あの時必死に頑張れたからだ。

「才能言うのは得てして望まぬものに与えられるもんじゃのぉ。旦那の腕が他のもんに与えられんかったのは、お前さん以外にとっては僥倖じゃ。旦那には、争う意思なんぞないんじゃから」

「…慰めているのか」

「一応の」

目を細めて俺を見る目に話術はあるくせに不器用な、と小さく笑う。慰めることと結びつかない言動の多い男のことだ。人を励ましたり心配すると言った行為に慣れていないのだろう。俺の方も、心配されるのには慣れていない。お互い様だ。

「礼は言っておこう」

その日は、結局空が霞むまで飲み明かした。



何をしているんだか。今日は絵を描くつもりで早くに夢乃の元を出たというのに、これでは同じことではないか。早朝の宿屋の戸を開きながら笠を脱ぎ、頭頂部で結い上げている髪を解きかき上げた。そろそろ新しい組紐を買わねばならん。今使っている朱色のそれは、それなりには気に入っているのだが、もう少しで擦り切れそうだ。このあたりで買ってもいいが、そうすると馴染みの店が怒り出しそうで少しばかり悩む。いやしかし、ここから買いに行くのは遠過ぎる。流石に責められることはないだろう。

「おっはようございまっす。朝帰りでっすか」

「ああ。起こしてしまっただろうか、すまないな」

ぴょこん、と宿主の部屋から顔を覗かせた女に謝れば、女は目を丸くし僅かに頬を上気させてこちらを見上げていた。身体を出して来ないのは、恐らく寝着のままだからなのだろう。

「旦那、いつも笠被ってらしたけどそんな顔してたんですかここいらじゃ見ないというかええなんで顔隠してるの晒して生きれば間違いなく人生楽しいいやもはやその顔で食っていけるでしょうに勿体無い」

「すまないが、早口で何を言っているのかわからん。宿では笠は脱いでいたのだが、ああ、部屋を出ないからか。世話になっているのに失礼なことをしたな」

軽く頭を下げれば女は呆然としつつ、いいええ、などと答えながらフラフラと部屋に下がっていった。俺も眠い、さっさと部屋に入ろうと歩き出す。

「あんたっ聞いてっ白い、白いんだよっ。顔なし旦那の顔がっ」

扉の向こうから聞こえた叫び声と男の意味がわからないといった声は、聞かなかったことにした。


遅過ぎる就寝から目覚めたのは、もう日が頭の上に来る時間だった。流石に空腹を訴える腹にどうしようかと思いつつ、頼りない組紐で結うのは諦めて笠だけ被って宿を出る。この時期になると、笠は日除けにもよく、寝起きには強すぎる日差しを遮りながらふらふらと街を行く。江戸の町は昨日同様騒々しい。

「そこな姐さん、どこに行くんだ」

不意に背後から聞こえた声。聞き覚えのある声に何とはなしに振り返れば昨日の岡っ引きが十手を肩に担ぎ団子を食いながら歩いてきているところだった。今日も今日とて、嫁の店から団子をかっさらってきたのだろう。その上で女に声をかけるとは。嫁に告げ口してやろうかと僅かに思う。やらないが。

声の主もわかったことだしとまた前を向き歩き出せば、昨日の再現のように肩を掴まれた。

「待て待て待て待て。姐さん、じゃなかったニィサン」

「誰が姐さんじゃなかったニィサンだ、失礼な。正真正銘の男だ」

「そこを繋げて言ってんじゃねぇよ、それよかどういうことだ。そんな髪長かったか」

男はそう言いながら俺の髪を持ち上げる。結わず背中に流したばかりだった髪は、腰まで届くかというほどの長さだった。しかし、男の髪が長いのは、そう珍しいことでもないはずだ。長い長いと言う男の方こそ肩より下まで伸ばしているのだから。それだというのに、女にまで間違えられる謂れはない。

「こんな背が高い女がいるものか。いつもは結わえているのだ。組紐が切れそうで、今日は流しているが」

「そりゃあ、そんな背丈の女はそういないだろうが、いやニィサン、髪は結わえた方がいいぞ、こうして顔を見ていても女に見える」

「重ね重ね失礼な男だ。俺が女顔だと言いたいのか」

顔を顰めて見せれば男はやれやれとでも言いたげに肩をすくめて見せた。そんな仕草が様になるのはやはり人柄故か、はたまた容姿の所為か。

「そうは言わないが、非凡であることは間違いなかろうよ。まあ、そんなことは別にいい。ニィサンなら心配はいらないだろうが、町を出るなら用心することだ」

「それを言うために声をかけたのか。夜には吉原に行くつもりだが、今は別に出る用事はない。忠告には感謝するが、何かあったのか」

「実はな、また不穏な動きがあるとかで、新撰組の連中が降りてきてやがる。誰も彼もに呼びかけるわけじゃあねぇが、巻き込まれそうな人間には忠告して回っているのさ」

声を落とし気持ち顔を近づけて教えてくれた男の言葉に、眉間の皺がますます深まるのを自覚する。それに気づいた男の方も何かを察したのか苦笑して、この後の予定を聞いてきた。

「…そうだな。子供達でも見て、絵を描こうかと思っていたのだが」

「ニィサンが子供の集まる場所に行くとか、中々危ない光景だな。しかし、絵か。本当に絵師なのだな」

「帯刀する絵師は気に食わんか」

「目立つことは事実だろうが、俺個人として気にあるか否かは関係あるまい。しかし、ニィサンはああいう連中にモテるだろう。これはあくまで噂だが、嘗て参加していたと聞くぞ。顔が売れているんじゃないのか」

「その噂は残念ながら、少しばかり外れだ。誘われたが、断っている。顔が売れているのは否定しないが、今更俺を手に入れたとて何かが変わるわけでもなかろうよ。新撰組が戻ってきているのならな」

新撰組は京都守護職と言われる組織に属し、半幕府勢力を気取る武士共の、暴動解決を専門とする武装集団だ。俺も聞きかじった程度、決して詳しくはないのだが、その半幕府勢力に勧誘を受けたことがあるために目をつけられているらしい。おかげで俺も立派な逆賊だ。御上の方にはそう顔が売れていないのが幸いか。それでも、懸賞首はかけられていたりする。

「一応聞くが、ニィサンは」

「そう心配されずとも、加担する気は毛頭ない。こんなお膝元で何かを成せようはずもなかろうよ。だが、そうだな。不可抗力というものがあるだろう」

今度は男の顔が顰められる。口元がゆがんでいるのを自覚しつつ、続きを促すような目を真っ直ぐに見返した。襟首を持ち、引き寄せながら開いた手で男の十手を奪い取る。男は反応すらせず、されるがままだった。

「お前たちが不審な動きさえしなければ、確約してやっても構わない」

「…はは、存外、心配性なのだな」

極至近距離でなお、動揺も表さずこちらを見つめる黒い目に誤魔化そうという意思はどこにも見えない。見下ろしながら、今度は俺が続きを促した。

「鬼のくせに、臆病な。何も抵抗できなんだこの俺が、どうしてニィサンの首を取れると言うんだ。増してや、刃も付かぬ、十手如きで」

淡々とした声。男の目が周囲を巡る。それを追うように目を向けて、一つため息を吐いた。手を離してやればやれやれと、乱れた首元を整えて男が余裕そうに笑んで見せる。

「偶然ではなかったか」

「偶然だとは、一言も言うていないだろう。御上はお前の首を所望だが、それ以上に手懐けたいとお考えらしい。しかし、今日のところは引き下がろうか。端た金しかもらえぬ俺らには、少々荷が重い仕事だろう」

暫し男の顔を睨んで見たものの変わらぬ余裕な笑みにもう一度だけため息を吐く。奪った十手を投げて渡せば、危なげもなく受け取ってひょいひょいと手遊びをしつつ歩き出す。

「今日ばかりでは困るのだが」

「そうなった時、俺らは手を出さないと約束しようか。上司にも話を通してやろう。それで此度は許してくれないか」

何事もなかったかのように、さも世間話をするように話す男に渋々と頷いてやれば、男も満足気に頷いて、元のように十手を担いで歩き去って行った。その途中、思い出したように振り返り、人混みの向こうから愉快でたまらない様子で俺を見る。

「はじめ女だと思ったことは、嘘偽りない事実だぞ」

「戯け。そんな情報はいらんわ」

しっしと追い払うように手を振れば男は実に愉快げに声を上げて笑いつつ今度こそ本当に立ち去っていった。

さて、あの男の本当の目的は、忠告か、仕事か。

「全く、掴めん男だ」

早くも本日三度目のため息をつき、肩にかかった髪を払い、また騒がしい街を歩き出した。


その後、当初の予定通り子供のいそうな場所に行っては描いては捨て描いては捨てを繰り返して見たものの、どうにも構図がまとまらず、男の話が気にかかり周囲に気を張ると言うのにも疲れたために早々と絵を諦めて吉原にやってきていた。まだ日も暮れぬ時間帯、江戸の町は一日の終わりを示すように朝の騒々しさが鎮まりつつあったが、ここでは漸く一日が始まるようで、年増の女が布地片手に駆けたと思えば幼い子供が簪持って店に駆け込みとどうにも忙しない。普段通りに門を潜り衣紋坂を登ろうとすれば、身支度を整えたらしき女郎達の行列に巻き込まれ、着物や帯の色鮮やかさと女特有の喧しさが加わってどうにも疲れる。しかし、唐紅に染まる吉原は一昨日昨日と続けて眺めた夜の街とは似ても似つかず、なかなか持って美しい。ほのほのとそんなことを考えながら観光をしている折だった。前方からわっと一際騒がしい声が上がったと思えば黒に朱で様々な模様の描かれた、品の良い着物を着た女が喜色満点と言った形相で人を掻き分け駆けてくる。長い髪を宙に踊らせ、着崩れた着物もそのままに裾をたくし上げて走るその速さたるや、重そうな高下駄で良くぞと思わず褒めてしまいたくなるほどで、思わず感心の声を漏らした。

「素晴らしい脚力だな」

「…あら」

すれ違いざま、偶然にも女と目が合う。色濃い闇を溶かしたような黒い目には酷く見覚えがあった。苦笑交じりに声をかければ、女はぱちりと長い睫毛を瞬かせる。次いで、にやりと人悪く笑い、俺の手を掴んでそのまま駆けた。

「鬼の旦那様っ、私の味方をしてくださいなっ」

「ああっ、旦那、捕まえてくれんかっ」

女の勢いに押されてくるりと身体を来た方向に戻されながらさてどうしたものかと考える。背後から響く声はここ二日で聞きなれたもので、数巡の後、俺もまたにやりと人悪く笑って見せた。それを見た女の笑みが深くなる。

「いいだろう、鬼ごっこと洒落込むか」

「情緒がわかる方というのは素晴らしいことね」

引かれた腕を引き返し、細い身体を寄せると共に屈んで女の膝裏に腕を差し入れた。ひょいと持ち上げてやれば、女は騒ぐこともなく、けれど楽しげに声を上げる。

「舌を噛むぞ」

「構わないわっ、全力で駆けてくださいなっ」

白い指が俺の肩に回される。ぎゅうとしがみ付いて声を弾ませる女に興が乗って、言われるままに全速力で駆け出した。

「そっちじゃないわ、曲がってくださいな」

大門に向かって走っていると不意に女が俺の髪を引き長い指で何処ぞの路地を指差した。逃げたいのなら大門だろうにと見下ろせば、女はやはり人の悪い笑みを浮かべて首を傾げる。

「大門を出ては駄目なのよ。だって貴方、本当に逃げられそうだもの」


結果から言えば、俺と女は迷子になり、あっさりと捕まる流れとなった。俺には一時誘拐の罪がかかりかけたが、女が庇ったおかげと、弦が口利きをしてくれたためにお咎めなしとなっている。お咎めなしと言えども、それはあくまで法的にはというだけのことで、俺と女は楼閣の見世番が寝泊まりする部屋にて並んで正座をさせられ、弦にくどくどと説教をされていた。

「聞いておるのか、旦那っ」

「聞いている。一番人気の花魁を持って行かれたら困るから次回からは逃亡に加担しないように、だろう。何度繰り返せば気がすむのだ。しかし、別にこの女とて真剣に逃げようとしていたわけではあるまい。息抜きなのだろう」

最後を女に向けて問いかけるように発すれば、隣で凛と背を張って何故か自信ありげな女は重々しく頷いた。

「私を取り逃がした貴方達の責任だと思うの」

「なるほど、お前の自信はそこからくるか」

余りに勝手な言い分に呆れた目を向けるものの女の様子は揺るぎない。聞いてた話や抱いていた印象からは程遠い女の言動に俺はただ呆れるばかりである。

今回の事のあらましを弦や、隣に座る吉原の花魁の頂点に立つ女、蝶歌から聞くところによると、このようなことは度々あるらしい。

「ずっと部屋に籠もりっぱなしなのは、あまり性に合わないのよ。普段大人しくしてあげているんだから、偶には付き合ってくれてもバチは当たらないわよ」

「姐さん、そういう問題じゃないんじゃよ。他の花魁が真似したら困るじゃろうと、」

「そんなこと、貴方達が頑張れば済むでしょう。それに、こんなことで感化されるなら、最初からする気だったのよ。逃がして起きなさい」

「姐さん…だからそういう問題じゃないんじゃよ…」

「どうして」

蝶歌は心底不思議そうに首を傾げる。俺よりもずっと長い髪が床を滑るのを無意識に目で追う。艶やかで、綺麗な目と同じく色濃い髪だ。

「新造の数ももう多いでしょう。減ったって、すぐに補給できるじゃない。なんだったら、私が引退して部屋を開けてあげましょうか」

「何故その結論に至るんじゃ。姐さんは頼むから大人しく部屋で煙管でも蒸せてくれんか、頼むから」

弦がうんざりした様に言うのを蝶歌は楽しげに眺めていた。お決まりの言葉、お決まりのやりとりなのだろう。今の女の顔は常にあった退屈そうな色が希薄になって、幾分か幼く見える。

「まあ、いいわ。また暫くは大人しくしてあげる。鬼の旦那様、お付き合いどうもありがとう、お陰でいつもよりもずっと楽しく過ごせましたわ。また、遊んでくださいませ」

さすがと言うべきか、それなりに長い時間正座していたはずの女は欠片も疲れた様子を見せずに立ち上がり、スッと綺麗に背筋を伸ばしてにこりと微笑みかけてくる。ここだけ見れば、ただ明るいだけの恐ろしく綺麗な女なのに、言ってる内容が内容だけに何とも言い難い気持ちになった。

「そうだな、罪にならぬのなら、付き合ってやってもいいが」

「旦那っ。今日は旦那が協力した所為で、いつもの倍ほど時間かかったんじゃぞっ。何も反省しとらんなっ」

「あらやだ、弦、お客様に怒鳴るなんて失礼だわ。鬼の旦那様、またね」

怒鳴る弦になど構わず、ころころ笑う女は、いつの間にやら入室していた新造を引き連れさっさと部屋を出て行った。小さく振られた手に手を振り返せば怒鳴っていた弦も流石に遣る瀬無さを感じたのか崩れるように胡座をかいて項垂れる。

「旦那、先の言葉は冗談だと信じていいんじゃろうな」

「さて。夢乃に会いにきたのだから、そろそろ行かねばなるまいな。俺も失礼しようか」

「無視をするでないっ」

惚けておいて、話を逸らした俺に一応噛み付いてくる弦を見て、自分でしておいてなんだが、哀れな気持ちが湧いてしまった。頑張れよ、という意味を込めてその肩をぽんぽんと叩く。ますます項垂れた。

「旦那様、旦那様。弦さんなんて放っておいて、夢乃姐様がお待ちです」

どうしたものかと頰をかく俺にひょこりと現れた美涼が声をかけてくれる。もう一度だけ肩を叩いて美涼に促されるままに部屋を出た。


「と言うことがあったのだ。花魁と言うのも、いろいろあるのだな。夢乃殿も逃げ出したいと、そう思うことがあるのか」

吉原の町並みはすっかり闇に沈み込み、時刻はそろそろ宵五つ、昨日、一昨日よりも遅れた理由をと請われ話したのが四半時前、不満げな顔で睨まれているのが今である。

「逃げ出したい、と思う花魁は多くいると思いますわ。けれど、実際に行動に移すなど、蝶歌様でなければ懲罰もの、誰もしようとなどしませんわ」

「懲罰とは、また穏やかでないことだ。しかし、なるほど、夢乃殿もここを出たいと見える」

くつりと笑って見せれば夢乃は数巡固まった後赤い顔をして俯いた。恥ずかしいのだろうか、好き好んで始めた仕事でないにしても、何年も続けていれば誇りもあろう。同じく仕事に誇りを持つものとして、その気持ちはよくわかる。

「出たい、ですわ。けれど、それは逃亡では嫌なのです。楼主様に、弦に…この街に、祝われ羨まれながらこの街を出たいのですわ」

「そんなことが出来るのか」

一夜目に比べるべくもなく人の少ない部屋の中、俺の腕に凭れるようにして話す夢乃が漸く今日初めての笑顔を見せてくれる。何がそんなに不満なのか、今までずっと拗ねられていたために、思わずほっと息を吐く。

「ええ、ございますわ。昨日教えて差し上げたでしょう」

俺の顔を覗き込み、紅を引いた唇に一本だけ立てた指を添えてみせる。悪戯気な顔が、やはり幼く可愛らしい。

「昨日と言うと、何を教わったか。大団円な終わりなどあったか…思い出せぬな、教えてくれんか」

「どうしようかしら。うお様が、本当に知りたいと思ってくださったなら、お教えしますわ」

「それは難しいな。判断するのは俺ではないのだろう。表情筋があまり働かないのだが、俺の知りたいと言う気持ちは伝わるだろうか」

おどけて見せれば夢乃は口元を着物で覆いつつころころと笑ってみせる。眺めつつ酒を煽れば、笑いはそのままに酌をしてくれた。そのままたわいもない事に話は逸れ、穏やかに夜が更けていく。夢乃との夜はいつもそうで、慣れないが、気に入っていた。だからかもしれない。

「ねぇ、うお様。うお様のお話が聞きたいですわ。今日待たされたお詫びに、お話ししてくださいませ」

会話の途切れた折、そう言いだした夢乃に、酔いが覚めるほど心が冷えるのを覚えたのは。

「愉快な話ではない。俺は寧ろ夢乃殿の話を聞きたいな」

「私の方こそ、愉快なものではありませんわ。それに、よく聞く話ですもの」

「よく聞く話、というものを聞きたい。俺はあまり知人がいないものでな、市井の噂話なぞに酷く疎いのだ」

頼めないか、と顔をの覗き込むように首を傾げれば、夢乃は僅かに眉を顰めつつ、わかりましたと承諾してくれた。その様子から本当に話したくはないのだと思うが、どうしても隠したいわけでもないらしい。

「代わりに、少しくらいお話ししてくださいませ」

「…そうだな、聞くだけでは公平ではないしな」

恨みがましげな目に苦笑うと夢乃はころりと悪戯げな顔になった。図られた、とこの街の女の強かさを改めて知る。

「本当によくある話ですが、私は身売りされたのです。森の近くの、小さい村の出身でして。兄妹が多くて、私は5番目、食うに困って、力仕事が出来ず、高く売れる女は皆売られましたの」

「皆、とは夢乃殿の姉妹もか」

「ええ、でもね、私が一番に売れましたのよ。幼かったから、お金のことはわかりませんけれど、随分高かったのか、父親には喜ばれましたわ。妹や姉は、どこに売られたか存じませんわ」

会いたいとも思いませんけれど。そう締めて、また声を上げて笑ってみせる。その肩が震えるのが、何処か泣いているように見えた。

「ああ、でも。両親には会いたいです。恨言の一つでも言って差し上げたいわ」

「気丈なものだな」

「来た時に嘆くだけ嘆きましたの。今更ですわ」

ふと昨夜聞いた話を思い出す。弦が言っていた心理的な問題とはその生い立ちのためだろうか。

ならば、蝶歌の方は、どうだったのだろう。

「会いたくないか。俺に兄弟はいないから、その気持ちはよくわからんが、行き先が気になったりはしなかったのか」

「大方の見当はつきますもの。あの時、隣の村の子供が皆いなくなったとか。吉原ではなく、そちらに売られたやもしれません。どちらにしても、今世で会うことは、」

聞きながら煽りかけた猪口を膳に戻す。タン、と高い音に新造や禿の和音も止まる。夢乃が目を丸くしてこちらを見るのを半ば睨むようにして見返した。

「隣の村から子供がいなくなったとは、中々聞かぬ珍妙な出来事だな。さぞ噂になったろう。何故、子供達はいなくなったのだ」

「え…っと…確か、鬼が出たとか」

「鬼、そう噂になったのか」

「ええ、私も、売られる少し前に聞いただけのことで、詳しくは存じませんが…母様に言われたのです。山や森に行ってはいけないと。隣の村の子がみんな、鬼に食べられてしまったから、と」

戸惑いつつ、しかし淀みなく話してくれるのは、やはり記憶に残るほどのことだったのだろう。母親に言われたことだから覚えているのか、その内容故かは知らないが、その言葉が正しいことは、俺が一番知っていた。

「…そうか。いや、何。睨んでしまってすまなかった。仕事柄様々な土地を巡ったが、そのような話は聞かなかったものでな。子供が皆いなくなるとは、なんとも悲痛な話だ」

言って、酒を煽る。度の強い酒が喉に張り付いて強かに焼いて行く。そのまま酌をしようとする夢乃を止めて、腰を上げた。部屋中の視線が集まるのを感じながら戸口へ向かう。

「すまないが、明朝に仕事があるのだ。今晩はこれで失礼させて頂こう」

「え…う、うお様、今日は三夜目でございます、お泊りになられてくださいまし」

「早朝に、宿屋にいなければならないのだ。忝ないが、今日で貴女の馴染みにはなれたのだろう。また、近くに来させてもらう、その時には泊めてもらおう」

困惑し目を白黒させる夢乃や新造の中、美涼と美礼ばかりは動揺もせず、涼しい顔をして音も立てずに戸を開いてくれる。その顔にどこかしてやったり、と言う色があるのは何故だろう。そんなことを考えながら、変わらず何処かから和音の響く吉原の街を後にした。


日が昇る前、誰もいないのではと錯覚するほどの静寂と、薄青い闇が落ちる時刻。

ふっ、と目が覚めたのは宿屋の一室で、薄い煎餅布団の中、夢と現の狭間を歩く。この時間はいつも、身体が眠ったままで、しかし脳は起きていて、特別意味のある思考をするでもなく、遠い昔の記憶の中を悪戯に呼び覚ましていた。今日もまた、いつものように、もう顔も思い出せない人たちの忘れられない言葉が流れていく。

臆病者

臆病物

憶病者

「…俺なんて、生まれなければよかったのだ」

もぞり、身体を抱き締めるように丸くなって、片手を首に持っていく。どれだけ鍛えても肉の突きにくい身体は首まで細く、片手で十分に覆えるそれを、力の限りに握りこむ。みしり、と嫌な音がして、自分の口から空気が漏れて、視界が徐々に暗くなる。

「なにやってんだばか」

あと少し、目を伏せたその瞬間に響いた聞き慣れた声が怒気をにじませて、首にかかった腕を無理矢理に剥いでいく。再び通った気管に、意思に反して身体は喘ぐように空気を求めた。どうせ死ねやしない。知っているくせに邪魔立てをして来た人物に、涙の溜まった目を向ける。

「こほっ、おまえ…」

「おはよう、馬鹿男」

噎せて咳を出すたびに喉元が鋭く痛む。ヒビが入っただろうか。握り潰せば、逝けたのかもしれない。そう思えばこそ、邪魔をされたことに腹を立てなければならないのに、何処か安心している自分が腹立たしい。

「治療はいるかい」

「いらん…茜、お前、いつからいた」

「昨夜かな」

咳き込みつつ身体を起こす俺の横で、堂々と布団の上に正座をし腰に手を回した女が言い切った。昨日の蝶歌といい、女の謎な自信はどこから来るのだろうか。意味がわからない。

「お前、男の部屋に勝手に入り込むな。しかも昨夜ってなんだ、お前ここで寝たのか」

「同じ布団で寝たけどなにか。仕事中はよくあることじゃない」

「今仕事中じゃないし、同じ布団では眠らない。それで、銀はどうした」

相変わらずの様子に既に疲れを覚えつつ、胡座をかいて向かい合った。男勝りというよりは雑な女である茜は銀の妹で、それなりに名の通った仕立て屋だ。

「兄さんは店見に行ってるよ。話は聞いただろう。また一緒に働こう」

「お前らも懲りないな。俺などおらずとも十分に店は回るだろう。二人ですればいい」

「それじゃあ意味がないだろう」

「だから、放っておけと言っているんだろう。お前たちは彼処で商売を続ければよかったのだ。俺など追わずとも、代わりくらいすぐに見つかろうよ」

「相変わらず、呆れた男だねぇ」

心底呆れた顔を作って見せた茜は俺の首元に手をやってから、近くに置かれていた風呂敷を解く。中には仕事道具と共に、少々の治療道具が詰まっていた。手拭いの端を千切り、糸がほつけないよう軽く塗って簡易の包帯にしたものを首にぐるぐると巻きつけられる。

「あたしがなんでこんなに早く来たかわかるかい?あの後、依頼人に言われたのさ、あの絵師じゃなきゃってね。知るかってんで兄さんのすぐ後に店閉めて私もあの街を出たのさ。全く、女に一人旅させんじゃないよ」

「一人で来たのか、新生の馬鹿だな」

「わざわざこんな痣作るあんたに言われたくはないねぇ」

一応、用心棒を雇いつつ来たようだ。いくら天下が統一されて暫く、平和な世になったとはいえ、女が一人で旅をできるほどに悪がなくなったわけではない。

「それにしても、早いな。もう一二週遅れるかと思っていた」

「馬に乗せてもらったりしてね、早くに駆けたのさ。それでも兄さんにも追いつけやしなかったけどね」

巻かれた包帯に礼を言いつつ問えば、呆れた答えが返ってきた。全く、この兄妹は容姿だけは優れて、自分の見せ方を知っている分タチが悪い。人を騙すのに長けすぎていて、正直怖いものだ。

「あんたの代わりなんて、いやしないのさ」

「…俺程度に絵の上手い奴など、そこらに幾らでもいるはずだ」

「けれど、あんたの絵は描けないだろう。あたしは好きだよ、あんたの絵も、あんたのことも。会えてよかったと思ってる。兄さんも同じさ。だから、生まれなければよかったなんて、もう二度と言うんじゃないよ」

「…そこから聞いていたのか」

「同じ布団に入っていたと言っただろう。あんたの言葉は、あんたのことを好きなあたしらのことも否定するのさ。わかったら、言わないって約束することだね、八百万の神様に」

「八百万はやり過ぎだ」

無駄な自信にあふれた、俺には似合わない言葉。堂々と言い張る茜に何度救われたことか知らない。そう言えば、初めて会った時もそうだった。この女に、俺は命を救われたのだ。苦笑いして、女の言葉を否定する。

「お前ら兄妹に誓おうか」

全く、俺には勿体無い。


もう店を買ったという茜に連れられて、徐々に人が歩き始めた往来を共に行く。銀が到着したのが二日前だったと思うのだが、もう店を買ったとは、行動が速すぎではないだろうか。金を持っているというのも、その理由の一端ではあるのだろうけれど。

「宿屋に泊まるなら、こっちに住みな。三部屋ある店を借りたのさ。住み込みで仕事できた方が、楽でいいだろう」

「三部屋って、一部屋は物置じゃないのか」

「違う、一部屋はそうだが、もう一部屋は作業部屋さ。あたしらは同じ部屋でいいだろう」

「お前、自分の性別を知ってるか」

怪訝そうな声を上げる茜を放置して、朝市から適当に気になった食材を買い求める。この兄妹は上手くはないが普通に料理はできるため、適当に買っていけば何かしらは食べられるのだ。一応、保存の効くものを選んで買っていく。

「あ、氷売りはいないのかい。暑いし、削って食べないかい」

「いるだろうが、朝だからな。保冷箱はあるのか。そも、誰が削るのだ」

「あんただろうよ」

「断る」

干したものを中心に二人分の食材と、朝に食べる分の野菜を買う。そうしてたどり着いたのは、朝市の喧騒が小さく聞こえる、大通りの一本横の通りにある小さな店だった。二階建てで、一階部が店になっているらしい。

「兄さん、馬鹿男を連れてきたよ」

「ああ、やっときた。おはよう、二人とも」

「おはよう。早いな、もう開けられるんじゃないのか」

茜に続き店に足を踏み入れると、一畳分の土間を挟み、膝ほどの高さの畳張りの床が広がっていた。まだ何も置かれてないが、どこも綺麗に掃除されているらしく埃っぽさはまるでない。古いのか独特の木の香りはするが、茜が香を好むためにどうせすぐに上書きされる。外で見るよりも広いのは長屋のためだろうが、壁につけられた飾り棚や欄間を見るに、家賃はかなりのものになっただろう。

「荷物は二階に置いて、今日は布団を買い出してきてほしいんだけど。茜は朝ご飯作ってよ、お腹すいた」

「俺がここに住むのは決定なのか」

「嫌なの」

「嫌ではないが…」

「火起こしてないじゃないっ」

「てかさ、お前その首どうしたの」

店の隣は調理場になっているらしく、さっさと店の端の戸を開けて入っていった。すぐに上がった悲鳴とも怒声とも取れる声は流す方向で行くらしい。

「痣が気に食わなかったらしくてな、茜に巻かれた」

「お前、またやったの。馬鹿だねー」

ほんと馬鹿、と繰り返すだけでこの兄妹は何があったとか悩みがあるのかと聞いてこないし、それをするなとは決して言わない。それが何より有難くて、二人といるのは居心地が良かった。

「だからこそ、だな」

「ん、なに」

振り返った銀が首を傾げる。それを見返して、調理場で苦闘する茜の声を聞いて、いつも通りに笑って見せた。

「悪いが、共には住めん」

「なんで。別に俺らは気にしないし…」

「そうじゃない。お前らを疑っているわけではないんだ。ただ…」

逡巡する。共にいるべきではないとわかっているのに、いい言葉が思いつかない。どうにか、どうにか良い言い訳はないだろうか。

「…ただ、そう、絵だ。描きたい絵が決まってな。暫くはそちらをしたい。開店準備を手伝えずすまないとは思っているが、暫くはここにも来ないし、お前たちも来ないでほしい」

「…ふぅん」

銀は数秒の間じっと俺の目を見続けていた。見つめ返せば、暫しの間の後、不意に目を伏せ、息をつく。

「…茜、ちょっと来て」

「なによ」

「暫くは会いに来ないし、来るなって」

やれやれと肩を竦めながら言うのを不満げな顔で聞いた茜も銀と同じようにして俺を見て、そっくりな仕草で肩を竦める。

「わかった。けど、ねぇ、あたしらのためにあんたに会いに行かないんじゃないからね」

「俺ら行った方が迷惑だからだよ、間違えんなよ、馬鹿男」

「ああ、わかってる。本当にすまない」

そう言って深く頭を下げれば二人分のため息の後、二つの手で頭をシバかれた。

「何抱えてんか知らねーけど、さっさと片付けて仕事しに来いよ」

「腕怪我してたら承知しないからね」

明るい声で、しかし心底心配そうな顔で言う二人に、一度上げた頭を再び下げた。俯けた顔は、とても上げられそうもない。

「善処する」


朝飯を食って行けと言う茜たちを振り切って、独りきり、喧騒の減った道を歩く。朝はどうにも気が乗らない。一昨日のように、微睡む間も無く目覚めればそんなこともないのだが。今日がいつもよりも辛いのは昨日に聞いた話のせいか。

「ちょいとそこのお兄さん。辛気臭い顔だねぇ。なんか悩みでもあるのかい」

「悩みはないが、気分は乗らないな。お前は確か、岡っ引きの妻だったか」

「やーな覚え方だねぇ。あの人は自分の名前も名乗ってないのかい。前にも行ったけど、小赤って言うんだ。お店共々どうぞよしなに」

人好きのする顔で話しかけてきたのは昨日一昨日と関わった岡っ引きの妻、小赤だった。気づかぬうちに前を通ろうとしていたらしい。勧められるままに客のいない茶屋の一席に腰を落ち着ける。

「じゃあ、団子を頼めるか」

「あいよ。今度はお金もらうけど、お茶はタダで出してやるよ。お兄さん、元気なさそうだからね」

気持ちいいほどの軽快な笑い声をあげて店の裏に行った小赤を見送り、ほっと一つ息をつく。無意識に気を張っていたのだろうか、気怠い身体をぐっと伸ばした。

「お待たせ」

「ああ、ありがとう」

隣に盆を置く音に顔を上げ、礼を言って暑さのためか冷やされた茶を飲む。よもや氷は使ってないだろうが、随分の冷やされた茶が目覚め良い。

「そう言えば、今年はまだ風鈴の音を聞いていないな」

「ああ、そうだね。私もそろそろ出そうかとは思っているけど、まだ初夏だしね」

「まだまだ暑くなるのか」

「そりゃあそうさ。うちの人が眠れてるんだ、まだまだ夏は始まってないよ」

「彼は暑がりなのか」

「そうだね、暑いとなにもしてこなくていいよ、私がよく眠れるからね」

「…惚気るな」

団子を食いつつ、隣に立つ小赤とたわいもない会話を交わす。彼女のことは、きっと彼が守るのだろう。俺が言うことではないのだろうが、それでも、一つだけ。

「近く、何かあるやもしれん。貴女に何かがあったとき、きっと彼が動くだろうが、貴女も、彼の側にいるようにしてくれないか」

出来る限りでいいのだ。意味はわからないかもしれないし、きっとわからないままの方がいい。巻き込まれなければ、それに越したことはない。彼が小赤に話をしているかは知らないから大したことは言えなかったが、小赤は少し目を丸くした後、また軽快に笑って見せた。

「言われなくとも、そうするさ。でなけりゃ、結婚なんてしてないよ」

「…そうか」

世話になった、と幾ばくかの金を置いて店を出る。毎度、と見送った小赤がすぐに食器を片付けて奥へ入って行くのを見届けてからまた歩き出す。今回の輩がどうかは知らないが、手段を選ばない連中は何をするかわかったものではない。用心しておくに越したことはないだろう。

「さて…絵でも描くか」

そろそろ、働かなければ金が持たない。そう少なくもないのだが、三日間の吉原通いに寄る出費はかなりの金額に登っているのだ。描いても売れるとは限らないし、励んでおいて損はない。

「そうなれば何を描くかだが…吉原の町並みは、美しかったな」

旅の途中見たどの街とも違う、複雑に入り組んだ建物と、全ての窓扉に嵌められた赤い格子。囚われた女はしかし強かで、江戸の町とは違う、静かな活気に満ちていた。

「彼処ならまあ、問題はあるまい」

街で唯一、格子の嵌っていない窓辺に座る女を思い出し細やかに笑う。あの女は今何をしているだろうか、着付けをして、紅を引いて、簪を挿して、美しく仕立て上げた女は、一体男に何を囁くのだろう。

「赤紅に染まる街を、是非上から見てみたいものだ」

なんとかならないだろうか。弦に言えばなんとかなる気もする。今の時間からなら、下絵くらいはかけるだろうか。一度宿に寄り道具と財布を持って覚え始めた順路を辿った。


昼間は舟渡しがいないらしい。

いつもの桟橋に来たはいいものの、縄で陸に繋がれた小舟が並ぶばかりで舟渡しの男の姿はまるでない。はてと大門を見るとそちらも重々しい口を閉じていて、なるほど、昼間は吉原の街には入れぬようだ。昨日のあの時間にもそう言えば舟渡しは少なく、舟を頼むと目を丸くされていた。あの街のことを思うと、それも当たり前なのかもしれない。

「ならばどうするか。如何にか、入れんこともなかろうが、そこまでするほどのことは」

「彼の鬼神様は、あの隔離された街にも安安と入り込んで見せるのか。誠、素晴らしい」

顎に手を当て、ふむと考える。何気なく独り言ちた言葉に応えがあって、内心うんざりしつつも、放置することに決めた。行けぬのならば何処ぞの絵でもフラフラ書いて回ろうか、歩き出したすぐ後を、重々しい足音が付いてくる。

「……」

「……」

沈黙のまま歩き続けること四半刻。街に入るわけにもいかず、人気のない方へ方へと歩いてしまうのは、心底嫌ながら、恐らくは思う壺なのだろう。男からの二言もなければ、不穏な動きも一切ない。ただ黙って、俺のすぐ後をついて回るのみである。持久戦。こうなってくると、疲労するのは追われている側である。一つ、二つ。人の気配が減るたびに、追う足音が増えていく。ぞろりぞろり、這い回る嫌な感覚が全身に回って、前方に目を向けさせた。辺りは既に建物より木々の数が上回る森の入口、見通せぬ木々の向こうは、陰鬱な湿度と闇を抱え込んでどんとそこに鎮座する。さてと思うが、どうするべきか。先に行けば袋の中であることは火を見るよりも明らかなれど。

「囲う獲物が鼠でなければ、果たして、それは良案足り得るか」

道具が痛むのは歓迎できないが、どうせ暇をしていたのだ。興が乗ったわけでは決してないが、ここで話を聞いておくのも悪くはなかろう。

ゆるりと太刀を腰紐の中で半周させる。正しい刺し位置に入れ替えたことで僅かに空気が張り、ピリリと刺すような視線を感じるが、それも気にせず歩を進める。彼等とて、所定の場所へは行きたかろう。俺のために用意してくれたのならば、見ないのは失礼というものだ。



夜半。月明かりに照らされた吉原は、やはり吉原らしさがあって良い。汚れ使い物にならなくなった着物を変え、出直したおかげでこんな時間になってしまったが、まあ今日は遊ぶわけじゃなし、構わんだろう徒歩を進め、今日とて疲れた様子の弦に声をかける。

「ああ、旦那。悪いが夢乃姐さんは」

「いや、今日は頼みがあって来たのだ。聞いてくれるか」

ふわり、煙を吐き出しながら弦が口火を切るのに被せるようにして言葉を返す。目を丸くした弦は、内容によるのぉ、と困ったように笑って見せた。

「そう難しいもんでもない。屋根の上に上がらせて欲しいのだ」

「なんぞするつもりなんじゃ、雨漏りの修繕でもしてくれるんか」

「雨漏りしてるなら自費で直せ」

「しとらん、例えじゃ」

それで、何を。渋面をしつつ催促をしてくるあたり、俺が思っているよりもずっと信頼されているのだろう。

「絵を描きたいのだ」

「絵を。こんな街のか」

「この街だからこそだ」

断言すると、弦はうんざりした様な顔でため息をついた。

「わしの一存じゃどうにも。胡蝶姐さんにでも聞いてきてくれんか」

「旦那様、許可が下りました」

「早いのぉ」

弦が言い切るかどうかという所で美涼がひょいと顔を出し告げてくる。毎度思うが、ここは一体どういう構造なんだろうか。会話が筒抜けなんだが。

「屋根の上、と言っても、お客様がいらっしゃるときは物音があると失礼なので、現在使っていない部屋にしてくださいな、とのことでございます」

「使っていない部屋があるのか」

「もうニ、三日は使う予定はないぞ。何せ、月の物じゃからな」

「月の物の時は、新造がその部屋に入ると聞いたが」

「あの部屋には入れんよ。わかるじゃろう、この真上の部屋じゃ」

言われ、天を仰げば今日も飽くことなく煙管を蒸せる退屈そうな女の姿があった。真上とは、まさかあの女の部屋だろうか。

「あの女ならば、月の物でも働けそうだが」

「確かに、食事を共にするだけという事もあるがの。流石に、蝶歌姐さんでも苛立つこともあろうよ。そう働き詰めにしてとうとう逃げられては敵わん」

「矢張りそんなに苛立つものか」

「そうよ、わしなんぞ、頭に煙管を押し当てられて、些か焼かれたことがあるわ」

ころりと笑うが、それは笑って済ましていいことなのか。軽く引いている俺に気付かぬのか気遣わぬのか、弦は美涼に俺の案内を言いつける。

「目立つ故、部屋の前まで行き、中庭側から登ってくれんか。旦那なら梯子入らなそうだが、どうじゃ」

「いらん。頼みを聞いてくれて感謝する。だが、物音を立てん自信がある故、数日貸して欲しいのだ」

「構わん。今日は姐さんがあの部屋にいるはずじゃから、明日にでも胡蝶姐さんに話して許可を取ってくれようよ」

「あの女がか?態々?」

なぜ、と怪訝な色が顔に出ていたのだろう。弦は可笑しそうに、けれど嫌そうに話し始める。

「蝶歌姐さんは今暇しておってのぉ、適当に遊んでやってくれんか」

するり、と撫でた掌に引き攣った痕。なるほど、暇で苛立つと、弦が迷惑を被るようだ。

「話相手程度にはなれようが、絵に集中するやも知れん。保証は出来かねるな」

「構わんよ。ただ、姐さんが望めばこちらに伺いを立てんでも良い、出来得る限り叶えてやってはくれんか」

「叶えて…例えば、どんなだ?」

「屋根の上に上げてくれ、とかじゃ。なに、そんな顔をせずとも心配いらん。旦那もわかっておるじゃろう、姐さんは、ここを逃げん」

妙に確信を持っていう弦にけれど返す言葉もなく納得をしてしまう。思い出すのはあの日、大門には行くなと言ったあの言葉。なぜ、あの女はここを出ないのか。

「…逃げられんのじゃ。わしから話せることはもうなかろう。さて、さっさと行かんか」

「ああ、感謝しよう」

弦に別れを告げ、先行く美涼の後を追う。階段に向かいかけた小さな足が隣の部屋に向かわないのを怪訝に見れば、それに気がついたのかくるりと振り返り頭を下げた。

「申し訳ございません、旦那様。もうお楽しみの方もいらっしゃいます故」

「ああ、そうか。こちらこそ、忝い。今宵は客ではないのだ、そう気を使わんでくれないか」

つまりは、灯りで興が逸れたと苦情が入るのは困るということなのだろう。これほどの高級楼閣だ。上客の地位も相応に高いはず、ならば、迷惑をかけるわけにもいくまい。

「足音が立たぬ旦那様だから、許されているのでございます」

「報告してくれたのか、ありがとう。美涼」

軟い髪をふわりと混ぜれば美涼はとろりと目を溶かして嬉しげに笑って見せた。それから、また振り返り少しばかり軽い足取りで階段へ向かう。

「今日は、美礼はどうしたのだ」

「美礼は…今、座敷に出ております」

少しばかりの間と、僅かに気落ちした声。あの幼子が如何したかと気にはなるが、深く聞かぬが吉か。

「いつも一緒なのだと思っていた、それだけなのだ、すまぬな」

「いいえ、お気になさらずとも、何かあるわけではありません」

ふるりと首を振る。揃いだと言っていた簪ではなく、音のならぬよう細工された鈴の、連なったそれが僅かに擦れて揺れた。月の光を反射して辺りに散らすそれが、どことなく寂しい。

「旦那様、絵を描かれるのでしょう、ここの絵を」

階段を登り切り、最奥の部屋にたどり着くまで音が立たぬよう黙っていた美涼が口を開く。期待の篭った目を見下ろして、じっとその小さな声を待った。

「ここの女が、幸福であるような、そんな絵を、書いてくださいませ」

「…あいわかった、この街の、女の強かさを表せられ得るような、そんな絵を描こう」

中庭側に建てられた転落防止の為だろう柵の上に立ち、手を伸ばせばすぐ屋根を掴むことができた。軽く強度を確かめてから、よっと一息に懸垂で身体を上げ、登り切る。俺が登るのを待っていたのだろう美涼がとててと僅かに音を立てて去っていくのが聞こえた。

足元を見下ろせば、予想通りしっかりした作りの瓦屋根、波のように緩やかに曲がって光を反射する様は美しく、高所から見渡した吉原の街並みもまた美しい。月は半分ほどに欠け、周囲の星々の明かりを殺すこともなくしかし燦然と輝き、黒塗りしたような空にすっぽりと覆われた街は闇に反抗するように赤い提灯を吊らされる。この店のものとは少しばかり違う音色が聞こえるのはどこからなのか、さやさやと囁くような声は誰のものか。眠らぬ街は例え夜半であったとしても、人の気が絶えることはないようだ。

「鬼の旦那様、ようこそおいでくださいまし」

「昨日はどうも。お前は苛立ってあんなことをしたのか」

「理由は告げたはずでございましょう」

不意に聞こえた小さいながらもよく通る声、そちらの方向へ足を進め、屋根の端にどかりと腰かける。特別音を立てたわけではないが、声の近さで何かを察したのだろう、女の声がまた少し小さくなった。

「声を張っていたのか」

「それは遠回しな嫌味でして」

苛立ったような疑問の声に否と答えて道具を整える。思いの儘に色から載せて行くのも好きだが、此度は黒鉛で下絵を描いていくことにしようか。ふむと考え、景色を見、手を走らせる。

「そのような話し方をせず、昨日のような話し方をすればよかろう、俺しか聞いておらんし、俺は客ではない」

「それもそうね。とは言え、この話し方だって…ねぇ、鬼の旦那様」

「なんだ」

「客じゃないのだし、私の愚痴、聞いてくださる」

「構わんが」

改まって言うことか、怪訝に思いつつ、手を止めて下にいる女の声に意識を向けた。見えずとも、退屈そうに窓に腰掛け煙管を蒸せている姿が目に浮かぶ。

「理想の女って、ご存知かしら。あれ、この街の女のことを言うんですって、愚かしいと思わない。理想なんて、あの月よりも程遠いのに」

「…お前のことを言うと、聞いたことがあるが」

「それは違うわ、鬼の旦那様。理想と謳われた、この街一番の花魁は、私の母だったのよ」

女の声は淡々として、まるで物語を紐解くように言葉を紡ぐ。程遠い、女が言うように、月はどれほど手を伸ばしても届かぬ程に遠過ぎる。半分だけに欠けた月が階下からの紫煙に阻まれ曖昧になり、雲に溶けて消えていく。くらり、闇に包まれた街が提灯の明かりで紅く滲んだ。

「綺麗な人だったのか」

「頭のいい人だったわ。色んな話を聞いたのよ。私は、凄く、好きだったけれど」

母はね、違うのよ。零した声が冷たく響く。厚い雲は今にも雨露を落としそうで、今、この時を止めてきり取れればと詮無く願う。見えないくせして動かんとする手が自身の業の深さを思わせた。昔から好きだった、俺はいつからこれを自身の一つにしたのだろう。

「俺の母は、俺を産まなければよかったと言った」

母の顔も、父の顔も。今となっては自身の名前さえ、思い出せないけれど。

「確かに、幼い頃は幸せだったのだ」

いつから、何が狂ってしまったのだろう。少なくとも、疎かった俺の絵が、それで食っていけるほどに成長する程度には、時が経ってしまったのか。俺は、一体何を得て生きてきたのだろう。何を代償に、それを得たのだろうか。

「私も、小さな頃は幸せだったわよ」

寺子屋に行って、母に話を聞かせてもらって。会う時間は少なかったけれど、母親らしいことをしてもらったこともないけれど、それでも二人は親子として、確かに幸せだったのだと、

「私は、そう思っていたのよ」

「だが、それでも、俺たちはきっと、生まれるべきではなかった」

そう思うのだろう、尋ねれば応えの代わりにまた紫煙が立ち上る。風に吹かれて届く煙が甘く苦く微かに目を焼いて去っていく。

「なぁんて、話をね、お客様にするの。そうしたら、優しくしてくれるでしょう」

ころり、笑い声をあげて、女が話す。その顔は引き攣ったような笑顔だろうか、それとも、作り慣れてしまった偽りの笑みなのか。

「嘘を重ねれば、真に変わる。女、それは、それこそが偽りだと俺は思うぞ」

幸せか否か、そんなものは言い聞かせるものではなく、感じ、思うことだ。昼間に見た岡っ引きの妻は亭主の愚痴を言うくせして、その顔はいつも幸せそうだった。つまりは、そういうことなのだ。

「俺は、幸せにならぬ。それが、虚無であると知るからだ。輪廻の輪の中で、きっと何かしかをしたのだろうよ、粛々と、受けようと思うのだ」

ピタリと止まった笑い声。ただただ無碍に立ち上る紫煙が、カン、という音と共に途切れ、天高く登り雲に紛れる。

「私は、割り切れないわ」

届いたのは、その時、気まぐれに吹いた風のおかげなのだろう。囁くような女の声はただただ一人の小娘のように頼りない。

「もう休むことに致しますわ、お休みなさい、鬼の旦那様」

「ああ、お休み」

パンッ、と窓が閉じられる音が響く。気がつけば街の明かりは先刻よりもその数を減らし、人の気配の薄くなった静寂に、女の声が妙に残った。

「嘘付きは、舌を抜かれるそうだぞ」

果たして、これを俺に教えたのは父だっただろうか、はたまた、母だっただろうか。上手く作られた偽物の幸福が、俺の過去を阻害して、二度と思い出せないように蓋をする。

女は割り切ったと言った。俺が、過去を割り切ったのだと、それは、間違いではないのだろう。漸く現れた雲の切れ目にその光を取り戻した月がこの町の全てを等しく照らす。俺も、女も、阿呆な男も強かな女も、皆、あの高さから見れば同じなのだろう。

ああ、なんと愚かしい。けれど、女は核心をついていた。今の俺を形作っているのは、確かに、この、割り切ったという嘘なのだ。



人外かと、嘗て銀に言われた耳がこれほど疎ましいと思ったこともない。

あの夜から数夜。たわいもない会話だけを繰り返し、女は仕事を再開した。絵の方は、集中しきっていないこともあり未だ完成には程遠い。

「ん…旦那様、」

女の艶を含んだ声が階下から悪戯に届けられる。まだまだ余裕がある癖をして、どこか焦った声を漏らす女は今まで見てきた誰よりも強かで恐ろしい。

「蝶、」

「んー…旦那様、今日は嫌ですわ」

「……何故だ」

「今日ばかりは、もうお帰りなさいな。今宵、旦那様に抱かれるつもりは、毛の先ほどもございません」

急いた男の声に、僅かほどの笑いも含まぬ女の声が返される。おや、と眉を上げてしまいながら次ぐ色を混ぜ合わせる。

「…蝶歌、いくらお前とて、勝手に客を返したとあらば、店に睨まれるだろう。第一、その一言で私がお前を見捨てれば、どうなるかは知れているな」

「さて、どうなりましょうか。存じませんが、今日はもう、お帰りなさいな。今日抱かれて仕舞えば、わたくし、とうとう奥方様に立つ瀬がございません」

「奥方だと」

心底怪訝そうな男の声、さて今日はどうするのかと、近さもあってよく聞こえる会話に耳を這わせる。

「お忘れでしょうか、旦那様、今日は奥方様の生誕日でございます。そんな日に、わたくしを愛して頂くだなんて、そんなこと…」

「あなや、忘れていた。ああ蝶歌、そう悲しげな声を出さんでくれないか。気にすることはなかろうよ、私にお前に触れる許可を与えておくれ」

「いいえ、いいえ。お願いですから、今日ばかりはお許しください」

「…蝶歌、そう食い下がるなら、」

「…っ、お黙りなさいな、旦那様」

首を縦に振らぬ女に男が一段声を落とし、次いで聞こえた小さな声に思わず顔を苦くする。さて女は、どのような顔をしているのだろうなと手の先で筆を遊ばせ考えた。そうしている間に会話は女の望む方へと展望を見せる。

「貴方がいなくなったとて、誰がどうなるとおっしゃるの。どうかどうか、お話なさいませ。伺って差し上げましょう。ねぇ、旦那様。貴方は少しばかり勘違いが過ぎる様子にございます」

「っ、何を言っておるのだ。ああそうか。お前は物知らぬ売り女故、私の地位の高さをも理解し得ぬのか。巷に聞く頭の良さも、聞いて呆れるわ」

「ええ全く、そのようでございます。牛、いらっしゃい。お客様のお帰りよ。もう、馴染みでもございませんわ」

女が言うが早いか、ことり、という音がして聞き慣れた声がどこか楽しげに、けれど苦々しく聞き届く。

「お帰りのご案内をさせて頂きましょうぞ、旦那、早うこっちへ」

「なっ…見世番は引っ込んでおらぬか。牛ならば牛らしくのろのろと下で寛いでいればよかろう。蝶、蝶歌っ。お前、前言を撤回するならば今だ、今を逃せば今宵と言わずもう二度と、お前に物をやることも可愛がってやることもないと思えっ」

「はいな、どうぞお好きになさいませ。弦、さっさと連れて行きなさいな。見苦しくって仕方がないわ。貴方こそ、その選択でいいのかをよく悔いなさいませ。わたくし、二言はございません」

その後もやいやいと喚いた男を弦が引き連れ去っていく。こんこん、と去り際に戸を二度叩いていったのは、俺に女を任せるとそういう意味なのだろう。返事の代わりにかつりと筆を小さく瓦に当てた。あの男になら、恐らくは返事も要らぬのだろうが。

「女、今日は上手くいかなかったな」

くつりと笑ってやれば、応えの前に紫煙が届く。客の前では吸えぬそれを一服し、女は重い息を吐いた。

「そうね、けれど勘違い男を排除できて、僥倖よ」

「一度その部屋に入ればお前が誰よりも上となる、まあ、地位を持った男ならば知ってはいても理解はしておらぬだろうよ。しかし、お前は全く、奥方に歳をとらせるのが好きらしい。昨日きた男の奥方も、昨日が生誕ではなかったか」

「気が乗らないの、貴方の所為よ」

かつ。かつ。金属の当たる音と、しゃなりと涼やかになる音が届く。仕事終わり、女はすぐに頭を解き着物を脱ぎたがる。毎夜のことだが、それらが乱雑に散らされているのだろうと思うと、少し複雑な気分だ。

「女、その簪も着物も作るにも買うにも一苦労するものだ。もう少し大事にできぬのか」

「毎夜言われるけれど、できないわ。壊しはしないからいいでしょう。ああ、暑い」

衣擦れの音に溜息を吐き、また筆を紙に走らせる。完成には、まだ遠い。

「話は戻るが、お前の気分を、俺の所為にするでない。全く、昨日は偶々本当に奥方の生誕であっただけだろう、今日も同じことをするから馴染みを失うのだ」

「あらいやだ。昨日だって、多分当たってはいないわよ」

「…何」

言われて、昨夜の男を思い返す。先ほどの男同様奥方の生誕だと言われ、そそくさと帰っていたように思うが。

「それなりに長い馴染みだもの。酒も入って、何を話し何を隠しているかなんてとうに覚えておられないのよ。どうせ、好き合って結ばれた方がこんなところで大金叩いて女を何度も買うわけもないのだし、好いてもいない女の生誕なんてきっと覚えてないわ。適当に言っておけば、自分の女を思い出して興が冷めることもあるでしょうし、私が他の女を思って嫌がった、なぁんて可愛らしい女に見えたりもするの。今日みたいな、面倒な男もいるけれど」

「…全く、恐ろしい女だ」

女の仕事を聞くこと数度。女は、どの席でも自分の望むように会話を転がして、面白いように情報を引き出している。あの男はああ言っていたが、それはただ転がされているのにも気づいていないだけのことでこの女は本当に頭の回転が異常に早いと、そう思わされる。

「しかし、本当に良かったのか。花魁は馴染みの数がその地位を表すと聞いたことがあるが」

「構わないわ。あんな男より上の方もいらっしゃるし、私、馴染みの数だけならこの店の座敷持ちで一番少ないと思うの」

「そうなのか。お前が一番人気だと聞いたが」

「こんな地位、欲しければいくらでも譲るわ。人気は、馴染みの数もあるけれど、それだけで左右されるのは部屋持ちくらいまでじゃないかしら。だって、そんなにたくさんいても私の身体は一つしかないのだもの」

言って、女がくありと欠伸を一つ。次いで届いた灰入れに煙管を叩きつけるかん、という音に宵の明けを思って片付けの算段を始めた。

「じゃあね、また明日、鬼の旦那様」

「ああ」

変わらぬ呼び名、そう言えば、この女には名を聞かれたことがないとふと思う。

毎夜、女との会話の終わりは灰を落す軽い音だ。宵の明けになると眠る女の所為か、そこから片付けをして朝方江戸の宿屋で眠る生活が早くも習慣付いてしまった。それも絵が完成するまでの間だと思えばこそ。

「しかし、平和だな」

この数日、宿屋と吉原の往復しかしていないとはいえ、何度かは人気のない道を選んだというのに国からも、反幕府を掲げる男達からも接触はなかった。前回来た分で全員だったということはないだろう。もう俺を巻き込むのは諦めたのか、はたまた。


「ねえ、夢乃のこと、買ってあげないの」

不意に届いた声に、腕に込める力が強くなる。わずかに潰れた筆先が毛を広げ、嫌な方へと色を滲ませた。

ああ、岩絵の具は、高いのに。

「なんだ、急に」

「少し小耳に挟んでね。随分、寂しがっているみたいよ?貴方が買ってあげないから。馴染みになって以来、一度もだそうじゃない」

「夢乃は毎夜、他の客がいるだろう。俺が会いに行っていないことに、気がついている方が驚きだ」

どうにが修正が効くか。どうするか、と悩ましく筆を彼方へ此方へふらりと回す。そう気になるところでもないだろうが、俺が気にいるか否かの問題である。

「そう上の空で話さないでよ、大事なことよ。私たちにだって、好き嫌いがあるのだから、ね」

ぷかり、女の吐いた煙が、先に登る紫煙とは別に巻き上がる。今夜は少しばかり香りがきつい。客が奥に眠っているからだろう、窓から軽く身を乗り出した女の姿が上から見えた。向こうも見上げれば目が合うが、女にその気は無いらしい。

「お前にもあるというのか」

「あるわね。お金をくれるヒト。気持ちいいのは、嫌いじゃないけれど…」

落ちた髪を軽く耳にかけ、女はくるりと煙管の先を回してみせる。どんな仕草をしていても、品良く見えるのはそうすることに慣れているからか、その容姿故か。

「もう、飽きたのよ、ね」

「……。飽き、か。退屈は人を殺すとは、よく言ったものだからな」

「そうね、私なんて、簡単に死んじゃうわ。あれだけ鳴いて、何を言うかと思っているかもしれないけれど」

後半を笑い混じりに付け足して、女は小さな声でクスクスと笑む。呆れた目で見下ろしながら、聞こえよがしにため息をついてやった。

「お前、あれはわざとだろう。さすがに声が大きすぎだ」

「よく聞こえて、愉快だったでしょ。でもほら、今日のオキャクサマがお上手だったのもあるわよ」

「ないな。あれほど余裕げな声を出しておいて、よく言える。お前、今日は一度も良くなかったのではないか」

「嫌だわ。鬼の旦那様は私の声だけでわかってしまうのね。毎夜聞かれているのも考えものだわね」

「わからせようとしたのはお前だ、巫山戯るのも大概にしろ、馬鹿者が」

真面目ぶって返せば、女は数秒黙り込んで、堪え切れなくなったというように吹き出した。それを聞けば俺の方も耐えられず、女の笑いに重ねるように笑い声を零す。相も変わらず静寂に包まれた夜の街、宵の明けが近いというのに、眠気のない女が、ようやっと笑いが治ったと僅かに笑いの滲む声で告げてきた。

「旦那様は、耳と勘がいいのね。私には、まだ鬼の旦那様の考えていることがわからないわ」

唯一格子の付いていない、女の窓。付けられた柵に腕を組んで、その上に頭を置いた女が、笑いからか涙の滲む目をちろりとこちらに向けてきた。闇に溶けたようなその色が朧げに明るさを取り戻す街に取り残されたようによく映える。

「恵まれた不幸者は、愛せないかしら」

「……」

「あの子にとって、貴方は運命よ。貴方にとっては、どうかしら。悪夢か、理想か。失われたものを取り戻すのにあの子ほどの適任もいないと思うけれど」

言葉を切って、女は紅を引いた赤い唇をにいと、まるで空に浮かぶ月のように歪めてみせる。

「あまり、勧められないわ。ごめんなさいね」

「ほう、それはまた。理由を問うても構わないか」

笑いの中に、本音が見える。頭のいい女のことだ。きっとこれも俺に分からせるためにしているのだろう。女が望むまま、答えやすいように振ってやれば、何やら意味深に笑いを深くしたのみでまた目が逸らされる。カン、1日の終わりを告げる灰落しの音が響いて、それに隠れるようにして女の小さな声が届けられた。

「貴方は、或いは…私にとってもそうかもしれないのだもの」



明る晩。気は進まないながらも、日課のように吉原は水鉢楼を訪れた。何時ものように煙管を吹かせた弦が、挨拶がてらひらりと手を振りかけて怪訝そうな顔をする。

「旦那、道具はどうしたんじゃ」

「弦、今晩は客として来た。夢乃は空いているか」

告げると、弦は一度片眉を上げ探るような目をしたが、すぐにへらりと笑ってそうさのうと顎を撫でた。

「空いてはおらんが、ここで旦那を帰したとあればわしが姐さんに何されるかわからんからの。床回しを呼びつけるようか」

「否、そこまでせずとも構わない。寂しがっていると聞いたのだが、確かに唐突だった。次の空きで構わないのだ」

「いやいや。幸い、まだ客入りはないんじゃよ。予約が入っておっただけのこと。そう気にするでない、客が被った時の見世番よ。旦那、今日は甘やかしてやってくれんかの」

そういって笑われてしまえば、俺に何と言える訳もなく。弦が店に声をかけるのを黙って眺めていることにした。人気があるならば、いつこうして声をかけてもさして違いはなかったようにも思うし、弦がいいと言うのならそれで構わない。

「絵の方は順調なんか」

「昨日少しばかりダメになってしまってな。あれをどうするか…若しかしたら一から、ということもあるやもしれん」

「あなや、それはそれは。旦那の気の召す様にすればええぞ。わしらは絵のことはさっぱりじゃから」

それは好きなだけあそこにいていいと言うことだろうか。必ず客が寝静まってからとはいえ、蝶歌とあれだけ話して大丈夫なのかと思っていたが、苦情は出ていない様で何よりだ。

「今日は泊まっていくんか。そろそろ溜まってきておるじゃろ」

「否、今日も帰らせてもらおうと思っている。また夢乃には不満を持たれるやもしれぬが」

「他の客なら喜ぶものさえおろうに、相手が旦那じゃ夢乃も可哀想にのぉ。先にその旨は伝えさせてもらって構わんか。あやつも、支度を整えておったのに、となれば矜持が許すまい。花魁というものは一概にして気位は高いものじゃ」

話す弦にそちらがいいように、と答えて不意に上を見上げる。何時も女が腰掛ける窓辺には、女の後ろ姿が小さく見えていた。どうやら立ち上がって扉の方を見ているようだが、何かあったのか。意識して耳を側立てると何やら言い争うような声が聞こえる。

「…弦、今日も少し、上がらせてもらって構わないか」

「ぬ、構わんが、そう遅くならんでくれんか。お目付役と言うのではないが、美涼を付けよう。幸い、蝶歌姐さんの部屋にはまだ客は入っておらぬが、音を立てんよう気をつけとくれ」

「ああ、承知した」

上を見たまま会話した俺を弦はどう思っただろう。すぐにやってきた美涼を連れて店に入る間際、ちらりと目を送った先には酷く愉快そうな男の顔がこちらを向いて待っていた。

ああ全く。あの男だけは食えん。


階上に上ると、やはり蝶歌の部屋から何やら言い争う声が聞こえるようだ。数種類ある声のうち、一つはここ最近で聞きなれた余裕そうな、呆れを滲ませた蝶歌自身の声、何やら諌める声が数種類、そして、

「旦那様」

美涼が俺の服の袂を握り、歩みを止める。見上げられた大きな丸い目は、何処か必死さを訴えていた。

「どうか、お聞きにならないでくださいませ。このまま、夢乃姐さまの部屋へ向かいましょう。きっとすぐ、お会いになれます」

夢乃の部屋に向かうのに、すぐにお会いになれるとは。つまり、それは美涼もあの声の主が分かったということなのだろう。それも当然か、彼女はここに住んで俺よりずっと長い時間、共に過ごしているのだから。

「…ああ、そうだな」

すべてわかった、その上で、美涼は俺に聞かせることを嫌った。気が引かれぬわけでは決してない。ないが、女の争いに男が手を出すべきではないだろう。そう言い聞かせて、蝶歌の部屋に向かいかけた足を、少しばかり引き返す。

「いい加減にしなさいな、お見苦しい」

背後から聞こえた、やはり余裕そうな蝶歌の声とそのあとに聞こえた破裂音は全て、聞こえなかったことにした。


俺が部屋に入って少しするとあの初夜のように後からやってきた夢乃が美しく頭を下げた後、酷く朗らかな顔で楽しげに歓迎の意を告げた。

「ようこそいらっしゃいました、うお様。遅ればせ参じましたことを、お詫び致しますわ…ああ、会いたかったっ」

言い切るや否や、腰を上げ、半ば抱きつくように俺の隣に腰掛ける。喜色満点、可愛らしい仕草は変わりなく、しかし、その手はどこか震えているように見えた。

「暫し会いに来れず、すまなかった。貴女は忙しいから、新参が独り占めし過ぎるのはあまりに申し訳がなくてな。しかし、どうしたことか。そう手を震わされると、心を掴まれたような痛みが走り、とても人心地つけぬのだ」

夢乃の手を握りそう告げてやれば彼女は僅かに目を見開いた後、何度か手を開閉して、にこりと誤魔化すように笑みを浮かべた。

「そんな。貴方様に会えた喜びに震えているだけにございますわ。どうか、心地がつけぬなど申さないでくださいませ。私は待ちに待った貴方様とのこの一時を、ゆるりと、まるで本物の夫婦のように、穏やかに過ごしたいのですわ」

一所懸命に言葉を紡ぐ様は、よく見れば健気なのだが。人を疑うことになれた俺はどうにもその声の裏にあるものを思ってならない。

「本物の夫婦、か」

そう言われて、一番に思い浮かぶのは夫に愛され、幸せそうなあの姿。見たこともないのにずっと憧れていた、きっとあれが家族と呼ばれる普通の幸せなのだろう。

その様に、と言われても。俺と夢乃があの様に過ごせるとは露ほども思えない。

「今日も、お泊りには成られないと伺っております。だからどうか、今ばかりは私を甘やかして下さいませ」

こてりと首を傾げて色素の薄い目を細めて笑う。人懐っこい性格は、生来のものなのか。愛されて育ったのだろうと思うとどこか胸が詰まる気がした。売られた娘が愛されていたと思うのは俺が不幸だと思いたい、甲斐性のない男故か。

適当な会話をしつつ、膳を進める。禿や新造は三味線などを奏でて場を静かに盛り上げてくれるが、心からの安らぎというのは、今一つない。

「…ここに来て思ったが、ここの者は皆煙管を蒸しているな。こう言ってはなんだが、俺は煙草の匂いがどうにも苦手でな。美涼や美礼のような幼子も蒸すのかと思うと、何とも心地の悪い思いがする。夢乃殿も嗜むのか」

どうにも話題に困り、苦し紛れに普段からの疑問を口にした。酒にも酔えず、月も傾く。いつ暇をしてもおかしくない俺に僅かに焦燥の色の見えていた夢乃は願っても無いと話に乗ってきた。

「あら、うお様。少し匂ってしまうかしら、仰る通り、ここにいる女は皆嗜んでおりますわ。けれど、それを言うは少々酷かと存じます」

少しばかり困ったように首を傾げる夢乃が言うように、煙草の匂いを感じたわけではない。ただ毎夜見せられるあの女と煙管の様子がどうにも似合いで、けれどあまり好かぬそれになんとも言えぬ心地がしただけのことだ。元より、気になっていたことではあるし、そも、心底嫌いならば毎夜紫煙にまみれるなど耐えられようはずもない。

「何故だ。弦までもが蒸しているだろう。否、江戸のものには往来で嗜む輩が多くいたか。だが、酷というのがどうにも解せぬ。生薬でも混ぜているのか」

「生薬と言うのは、当たらずとも、遠くはございませんわ。ただ、薬ではなく、毒として、私を含めここに住む女は十も超えたばかりから含みますの。それは義務なのですわ。もちろん、江戸の方々は存じませんけれど、禿は、まだ蒸してはおらぬでしょう。のぅ、そうであろう」

猫撫で声からころりと声質を変えて、夢乃が美涼の方を見る。話を振られた美涼は焦ったのか、弦を弾き違い歪な音を立てた。夢乃がピクリと眉を動かして、ことりと笑う。

「出来ぬのなら出て行きなさい。のぅ、誰か答えるものはおらんのか」

酷く冷たい声。びくりと怯えた様に肩を震わせた美涼が震え俯きがちに退室する。それを見ることもなく、夢乃は残りの禿に目を向けた。一様に視線をそらす中、最も年長と思われる少女がおずおずと声を上げる。

「は…ぃ、失礼ながら。まだ嗜んでおりません」

「ということですわ、うお様」

漸く答えた禿に夢乃は満足そうな顔をして俺に向き直る。女の二面性など、慣れたものだが、あまりこのような女のそんな面は見たくはないものだ。

「そうか、有難う。だが、少しばかり手厳しいのではないか」

つい、手を出すまいと思ったばかりの女の諍いに、首を突っ込んでしまうほどには。

「……、あら、やだ。お目汚しだったかしら、申し訳がございませんわ」

夢乃は少しばかり目を細めて俺を見上げ、しかしすぐにころりと顔を明るくさせて甘えるようにしな垂れかかった。昨日の、蝶歌の言葉が頭の中で蘇る。恵まれた不幸者。不幸を知らぬ、悲劇の少女。それはきっと、俺たちとは相容れない存在なのだ。

「お目汚しなどではない。お前の顔が曇っているなと、そう思っただけのこと」

今日はこれで、告げて腰を上げれば縋るような言葉を紡いでくれた。綺麗な声は、ただ甘えるためだけに響く。女が求めるものをなんとなく悟ってしまった俺は、それに応えることはない。

「また、彼の方のところへ行ってしまうのですか」

部屋を出る直前、かけられた言葉に振り返る。女の可愛らしいはずの顔はしかし、妬み嫉みにまみれ薄汚れて見えた。

何をしているのだか。

俺は別に、人の想いに愚鈍なわけではない。自称だが。夢乃はおそらく俺に好意を抱いてくれているのだろう。けれど、その好意の根本は。

「自分本位なのは昔から変わらぬぞ、そこは諦めてやってくれんか」

「…まるで幼子のようだな」

店を出るなり掛けられた声はやはり少し疲れて聞こえる。視線だけをそちらへ投げれば隣を叩かれ、この展開が多いなと思いつつもともに牛台に腰掛ける。弦はカラカラと笑いながら指先で煙管を弄んでいた。

「昔からそうじゃ。望んだものはなんでも手に入れたがる。そして、いつも決まって蝶歌姐さんの持っているものを奪いたがり、蝶歌姐さんの持っていないものを欲しがった。幼子か、全く、その通りじゃの」

「意外なほどに仲の悪いことだな」

「意外なものか。夢乃姐さんはうちに来たその時から既に蝶歌姐さんのことが嫌いじゃった。この楼閣のもん全員が知っとることじゃよ」

困ったものじゃ、と言ってからふと弦は懐かしむような顔をした。穏やかとは言い難いが、いつもの人を食ったそれとは違う、柔らかい微笑。

「夢乃姐さんには妹がおったんじゃ。それと、同い年なんだと」

「蝶歌がか」

「そうじゃ。だから余計に、気に食わんのかもしれん」

「気に食わない」

何が、と問うより早く、弦は気遣わしげな目を俺に向けて、首を横に振った。

「もう会わぬとわかっていたとは言え、それでも血を分けた妹御、ということかのぉ」

顔を俯け、嫌味や、皮肉のつもりはないと言い置いてから弦は重い口を開いた。

「あの子が来て、そう経たない頃じゃったか。ある村から男がやってきたんじゃ。その村は、今はもうない森の中の小さな村で、とあることがきっかけで村の子供は一人を残して皆死んでしまった。その一人も、村人が迫害して追い出してしまってもうおらぬとか。その件について、報告のためにその男はわざわざ上がってきたんじゃよ」

弦の穏やかな声を聞きながら俺は無意識にそっと息を呑んだ。普通、その程度と言うには些か人死が多いが、態々お上に呼ばれ報告をと言われるほどのことでもない。その土地を収める旗本なり外様なりに言えばいいのだから。しかし、男は態々江戸の町までやってきた。それは、何故か。先の弦の言葉を思えば嫌でも理解させられた。嫌な汗をかく俺をよそに、弦は話を続ける。

「そのついでに、ものは経験と男は吉原を観光したんじゃ。なに、買うつもりはなかったのだろう冷やかしじゃ。たまにおること、わしらも気にして居らなんだ」

けれど、当時まだ禿だった夢乃を見て、男は声をあげたそうだ。

「あの子の、姉じゃないか」

どれだけ外から隔離されて生活しようとも、客が外からくる以上、ある程度の情報は嫌でも耳に入ってくる。その男はそれ以上なにかを言ったわけではないが、少しして、その村が貧困により廃れたという話は、その男のこと以来意識して情報を集めるようにしていた夢乃が知るにそう難しいことでもない。

「その村は少しばかり特異で、注目されておったからなおさらじゃな。あの子の妹も、死んでしまったとか。それで余計、腹が立ったのやもしれん」

「何故だ。蝶歌とて、幸せな生活をしていたわけではあるまい」

「けれど、あの子は夢乃が来た時点で蝶歌じゃったから、この中では良い暮らしをしておったよ。決して、決して幸せとは言えぬが、それでも。飢えに喘いだ自身の妹よりはうんと良い暮らしをな」

とは言え、蝶歌にしてみれば知ったことではないし、会ったこともない妹のために同年代の同僚に嫌われるというのは辛いものがあるだろう。初めから夢乃の態度がそうであったのならば蝶歌が夢乃を気にしないのも頷ける。

しかし、何故。

昨日蝶歌は、俺に夢乃の元へ行くよう言ったのだろうか。

「楼閣内での揉め事は、実は割と珍しいんじゃ」

かぷり、煙管を噛んで弦はぽつりと呟いた。気がつけば、空の端が鈍く滲んで、夜の終わりを示している。

「そうなのか」

曇天、今すぐにでも泣き出しそうな空を見上げながら、気もそぞろな相槌を打つ。

雨が降れば、ここには来れない。

屋根の上に上がれないならば、俺が来る用事はないからだ。

「女の中で格差が歴然としておるからの」

だからこそ争いがあるのではないか、とは思ったが、弦がないと言うのならないのだろう。女と男では感性が違うというし、きっと、俺にはわからぬ世界なのだ。

「だから、今回の一件、どうなることやら」

「…今回の一件、俺が来た時の、か」

尋ねると弦は口はせず頷くことで肯定を示した。そして、じっと俺の目を見て、顔を寄せてくる。肌が触れ合うか、というところまで近ついてきた弦は、その距離でも聞き取れるギリギリの声量で呟いた。

「蝶歌を、助けてやってほしい」

「…え」

ぽかんと口を開け、情けない声を漏らした俺に懇願するような顔を一瞬だけ向けて、すぐに離れて飄々とした態度に戻る。店側にばれてはいけない願いと言うのは、それだけでよくわかるのだが。

「なに、か…あったのか」

「否や」

否定しかできぬのだと、弦の目が言葉よりも饒舌に伝えてくれる。あの女が、救いを必要としている。その事が信じられなくて、けれど、何か漠然と急がねば、と言う気持ちが堪えようもなく湧き上がってぐるぐるする思考を抱えて俺は完全に夜が明けるまでそこで黙り込んでいた。

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