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紅茶

美味しい紅茶が飲みたいな。


斉藤諒一は仕事帰り、終電車に揺すぶられながら、ぼんやりと思っていた。


三年前、母が他界した。まだ六十の坂を越えたばかりだったが、自分はその事実をきちんと受け止めたはずだ。身寄りのない自分は、生きる目的が無いなどとは思わない。そんな馬鹿な考えを起こすようには母は自分を育てなかった。


母が死んでも、自分はもとから一人だと思っていた。

母からも「いずれ一人で生きていかなくちゃならないから」と、口を酸っぱくして言い含められていた。シングルマザーだった母は、いつも毅然としていた。父親が居ないことがなんなのよ、と言葉にしてこそ言わなかったが、目に、そぶりにそう語っているようなものだった。


月日はただ日々を追っているだけで過ぎてゆくことを、諒一はもう知り尽くしていた。高校を卒業し、大学を出て、就職して一度転職した。現在の職場の待遇にも満足で、忙しい日々に取り紛れて、自分の事などどうでもよいとばかりに毎日が過ぎていってしまう。




諒一が子供だった頃、彼は我慢強い子供であったが、一度駄々をこね始めると聞かない、強情なところのある子どもでもあった。


そんなときに母が決まって取る方法がある。

喫茶店に入ってアイスミルクティーを一杯、飲ましてくれるのだ。


つましい親子ふたり暮らし、子育てに追われ時々母が取ったご機嫌は、母にとっての休息であったのかもしれない。自分がグラス一杯に入った氷と、それを浮かべている美しい赤茶色を見つめながら、小さいピッチャーに入ったミルクとガムシロップを注いで、ストローでかき回す。たちまちできるマーブル模様は、自分の特別だった。そこにだけ、一時許される「甘え」の味と色味だ。それを見て、母もほっとしたような、頬の柔らかな顔つきをする。




あのときの紅茶はなんという茶葉なのだろう。美味しかった。


自分は贅沢に無縁で、あれがそんなときだけ許される、一時の贅沢だったのでわからない。他人に話して聞かせたことも無い。


自分で入れた紅茶は、薄かったり、苦かったり、香りが良く無かったりで、ネットで茶葉や淹れかたを研究したりするが、不器用なためなのか味を再現できない。大体紅茶と言ってざっと調べても、有名な茶葉はたくさんある。どこででも評判のいい茶葉を淹れてもあの味にはならなかった。茶葉のメーカーとその種類も考えれば、途方も無いことのように思えた。


自分は少し頭が悪いかもしれない。

駅の改札を通り、定期券を財布にしまってそう思う。


あれは記憶の中の味で、もしかしたら何のことも無い味だったのかもしれない。自分の思い出の中だけで、大事なものにしすぎたのかもしれない。いまさらそんなことを考えた。


今日は金曜日、疲れている。一週間の疲れを癒したい。

自宅に向かって歩いていると、いつもは気にならないレストランを見つけた。

住宅街の道路に面した小さな入り口が、ランタンのように暗闇に光る。壁と扉を覆うようにつたが生えており、いつもぼんやりしていたためか、気が付かなかったのだ。諒一は思う。 いま流行の「隠れ家風」というやつか。


諒一は立ち止まり、時間帯を思ってため息をついた。「close」の看板こそ出ていないが、とっくに店じまいだろう。明かりがついているのは、きっと後片付けをする従業員達のためだ。


と、店の中から小柄な青年が現れた。ドアノブをまわし、ドアの鈴を鳴らして、自分を見ている。ギャルソンエプロンをしているので、きっと店の関係者に違いない。諒一は自分の感傷を気取られたくなくて、そこを去ろうと一歩踏み出した。


「あの!」


不意に青年が自分に話しかけた。何だろう。怪しいものだとでも思われたのだろうか。


「よければ、お寄りになっていらっしゃいませんか?」

「え?」


青年は笑顔を浮かべている。


「でも、店じまいなんじゃ…」

「本当はそうですけど、いま俺しか居ないから。どうぞ」


諒一は動悸がしていた。しかし今進もうとしていた方向ではなく、明かりがついている店内へ足を向けた。自分が何をしているのか、良く分からなかった。


「失礼します」

ああ、自分は何を口走っているのだろう。

「どうぞ。お好きなところへおかけください」


好きなところ、と言われて逡巡し、窓際のテーブルに着いた。

すぐに後悔した。店内に人が居ないのなら、カウンター席にでも掛ければよかったのだ。


通勤かばんを持って俯く。何か頼まなくてはならないのだろうか。しかし、もう店にはあの青年一人というし、レストランの傾向も良く分からない。自分は、なんだかつまらない人間だな。改めてそんなことを思った。




と、あのエプロンをつけた青年が盆を持ってきた。自分の目の前に、グラスを置く。


懐かしい色と香り。

青年が盆からミルクピッチャーとガムシロップを取り、ナプキンの上に置いた。

アイスミルクティーだ。


「…どうして…」

「あなたが外で立ち止まったとき、あるお客さんのこと思い出して」

青年が盆を抱え、自分を優しげに見ていた。

「面差しが似てる方なんです。良く通ってくださって、息子さんの話をされていて…」


青年の話をまとめると、こうだった。


諒一に良く似た顔の、女性の常連客がいた。あるときふらりと立ち寄って、そのときアイスミルクティーを頼んだ。それからも時々、まちまちな時間にやってきて、アイスミルクティーを注文し、それを飲んでしまうまでのあいだだけ、自分の一人息子のことを話して帰ってゆく。


息子と自分に身寄りが無いこと。子どものころはきかん気の負けず嫌いな子だったこと。息子がアイスミルクティーが好きなこと。甘えた子にならないように、時々こうして、自分が家を飛び出してきて、無理やり子一人の時間を作っていること。


「それでも、立派に育ってくれてほっとしてるって仰って。初老の女性でした。…でも、三年ほど前から、ふっつりいらっしゃらなくなってしまって…」


諒一は、黙っていた。

喉のあたりが痛くて、異物感があった。

何か話したら泣いてしまうと思った。

でも、そんな自分を見たら、母は叱るだろう。


「だから、よろしければ、どうぞ」

「戴きます」


ミルクとシロップをすべて注いで、マドラーで混ぜる。

あの馥郁とした香りがした。

左手でグラスを持って、右手でストローを支える。


「美味しいですよ」

「有難うございます」

「こちらこそ」


この紅茶が飲みたかったんだ。


「あの…このお店はいつ開いているんでしょうか」

「…ああ、平日の…また来てくださるんですか?」

「ええ」


諒一は青年の目を見上げ、心の底から微笑んだ。


「ええ。常連客になります」


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