プロローグ
感じたのは森の香り。
ともすれば青臭いとさえ感じる、夏の木々が醸し出す命の匂いだった。
「16の若さで痴呆症はちと早い、クールになれ俺。伊藤央維はそれほど安い男ではないだろう?」
目覚める直近の記憶が確かなら、間違いなく自分の部屋に居た筈だ。
それがいつの間にやら見知らぬ土地、それも大自然のど真ん中に放置プレイである。
動転して騒がないだけ上等な部類だろう。
ここが何処なの想像も出来ないが、じっとしていても始まらない。
右も左も分からないので、最初に目的地として設定したのは水辺だった。
喉も渇いているし、幸いにして水の匂いを感じる。
置かれた状況がドッキリにせよ超常の現象にせよ、イベントが起こりそうなフィールドに違いはあるまい。
「しかしこの服装、見覚あるような……何だっけなぁ」
歩く道すがら、央維は着替えさせられていた服の裾を摘み首を傾げた。
意匠の施されたいかにもアレなマントの下は、ブレザーを思わせる紺色のジャケットとパンツ。足元を固めるのは頑丈そうなブーツで、両の指には色違いで一揃いの指輪が填められている。
止めとばかりに初めから握り締めていた杖の存在感がヤバイ。
なんと言うか、コスプレにありがちな安物っぽさが皆無だ。
これは全ての装備に共通する事だが、素人目ですら大変価値のある一品と断言できるレベルである。
「ううむ、凄まじい既視感。なんつーか、今歩いている道すら記憶にあるような無い様な。こー喉元まで来ているんだが」
総合的に見れば、現代寄りの魔法使い風と言った所か。
不思議と迷い無く進む足に任せていると、全ての疑問が氷解する生き物が居る。
それは丸々と太った兎らしき何か。
クリクリと愛らしい瞳に、ピンと伸びた二本の耳はいいだろう。
しかし央維の知る限りカンガルーのように二足歩行しつつ、フリーになった両手を生かして果物を齧るずんぐりむっくりな兎は見たことがない。
少なくとも”現実”では。
「……花札メーカーで言うところの電気鼠ポジションなアレが何故?」
ぽろっと漏らした瞬間、全ての歯車が噛み合った。
ここはゲームの世界だ、そりゃ見覚えあって当然だ。
兎の正体は”ドラゴンファンタジア”でマスコットを担う”ホワイトラビット”。戦闘力が皆無の割りにそこいらのモンスターより経験地が多く、序盤でお世話になったマブダチを忘れられるはずもない。
「最近はご無沙汰だったが、このゲームもついにソードがアートなオンライン系の接続方式に変わ……待て、怪しいヘッドギアやらネットにダイブ出来る機械を買った記憶が無いぞ?」
”ドラゴンファンタジア”は所謂剣と魔法のファンタジーを謡うMMOだ。
特徴は現在の主流となっている3Dリアル嗜好に反旗を翻したドット絵と2D縛り。低スペックPCでも快適なプレイが可能な点があるだろう。
古き良きファンタジーをモットーに作られた世界構成が逆に新しく、ハードへの負荷も軽い事もあって多くのプレイヤーを魅了した一昔前の良ゲーである。
リリースから数年を経過して人気に衰えを見せつつはあるが、未だ接続人数で最盛期の八割を維持する辺りはさすがの一言。
しかし、多少の飽きから接続頻度が落ちても央維とて現役のプレイヤーだ。
最新情報はチェックしているし、イベントとともなれば睡眠時間を削って攻略に励む程度の情熱は残っている。さすがにここまで革新的な変化があれば知らない筈がない。
しかし、電脳世界へ人間の意識を飛ばすアップデートは初耳だった。
そもそもの前提条件として、ヴァーチャル世界に五感を移せるような技術はいまだ空想の中にしか存在しない。これは一体何事なのだろうか。
「理解は追いついた。一つ確かめてみるとするかね」
鏡がないので断言できないが、聞きなれた声は正しく己の声。普通に違和感無く歩けている事から、背丈や体重の増減も無いと推測できる。
しかし装備一式はキャラクターのもの。この条件から察するに、現実の自分を素体としてゲームのパラメータを再現した不可思議な存在が今の伊藤央維と言う人間なのだろう。
幸いだったのは、レベルの極まったメインキャラクター枠に収まっていること。
数字が何処まで信じられるのかは不明だが、肌に合わず途中で放置したサブキャラを選ばれている事に比べれば気休め程度には安心できる。
これなら、スペラ○カー並に儚い命と言う事はあるまい。
「よし、行くか!」
かつては大した手間もかからず移動した道を少年は歩み出す。
高解像度で違う角度から見る景色は新鮮だが、脳内の俯瞰図で大よその現在位置は把握した。
何はともあれ人の集まる場所へ行って、情報を集めなければ始まらない。
ならば、目指すは最寄の街にしてゲーム開始時の出発地点でもある”リタニア王国王都ティンタージュ”。
遠くに少しだけ見える尖塔を目印にして、さあ行こうか。
「果たして胡蝶の夢か、はたまた苦労の始まりか……」
まどろみの中で見る願望の世界ならそれも良し。
仮にラノベ的な異世界飛ばされ系でも、同じ境遇のプレイヤーやら、チュートリアル的に説明をしてくれるポンコツ神様の類が放っておいても寄ってくるのが相場だ。
とりあえず、最悪を想定して落ち込むのまだ早い。
そんな風に事態を楽観視していた央維。
しかし、予想の斜め上を行く出会いが待ち受けている事をこの時知る由もなかった。