2日目
...
木々揺らめく通学路。本日も同室のあいつは隣にいない。なんでいつも起きたらいーひんのやろ、あいつ。
結局昨日は、俺の分の仕事まで侑葉がやってくれていた。遅くなったのに睨まれもしなかったし、これはいよいよ嫌な予感がしてきた。何もないとええなぁ。
寮から学校までの道を半分くらい歩いてきた辺りで、……お弁当を作ってなかったことに気付く。同室の奴の忘れ物とかに気を取られて忘れてた!
しゃーない、今日は食堂に行くことにしよう。
ふと、前に見覚えのある人影を見つけた。ウェーブのかかった栗色の髪をいじりながら、周りをキョロキョロと見回している。誰か待っとるんやろか。
「憐奈!」
名前を呼んで、手を振ると、憐奈は俺の方に駆けてきた。え、なんでこっち来てん。
遅いですわよ、と言われて思わず謝る。でも俺いつも通りの時間に来とると思います。
軽く頭を下げた俺に、憐奈は突然深緑色の小さなバッグを差し出してきた。見覚えのないそれには、なにや入っているようで、底が少し変に膨らんでいる。
「こっ、これ……」
「え?」
「差し上げますわ!」
胸に押し付けられ、バッグを両手で受け取る。昨日から得体の知れない物ばっか受け取ってる気がするけど、気のせいか?
ちらっと中を覗いて見る。中には水玉模様のバンダナで包まれた、四角い何かが入っていた。
なんやこれ。
「憐奈、なにこれ」
「……お弁当ですわ。わ、わたくしの手作りですのよ」
「へ?」
嘘や!
言い返す前に、憐奈は踵を返して走り去って行ってしまった。なんであんなに早いん……。
とにかく、これは憐奈の手作り弁当らしい。らしいが、憐奈は確か料理が出来なかったはずだ。根っからのお嬢様で、今まで料理なんてしたことなくて。まともに紅茶も淹れられなかったはずだ。……そんな憐奈の手作り弁当って、なんかの罰ゲームかなんか?
通学路の端に避け、お弁当箱を開けてみる。焦げてるくらいならまだ許容範囲やで!
「あり?」
もしくはご飯に梅干しだけ、とか想像していたが、予想に反して中身はとても普通のお弁当だった。ウインナーに卵焼き、ミートボールにポテトサラダ。焦げた跡なんて無くて、卵焼きは綺麗に巻かれてて。
むしろ俺の作るお弁当より美味そうなんやけど! これ、憐奈が作ったん? 絶対嘘や……。
予鈴の音が聞こえ、焦ってお弁当箱を閉じる。
やばい、本鈴が鳴る前にはよ行かな。
* * *
わりと余裕で教室に着いた。
先に着いていた勇気が、ニコニコしながら「光、遅ーい」と言ってくる。おまえの忘れ物探してなければもうちょい早く来れたかもしれんけどな!
投げつけるようにタコのぬいぐるみを渡す。これ学校に持っていく必要ないやろ。なんでわざわざ忘れたから持って来て、ってメール寄越したんやこいつ。
「もー、光ってば朝からカリカリしちゃって! カルシウムが足らないんじゃないかな?」
うっさい、余計なお世話や。俺はわりと沸点高い方やで。
放っておいてくれ、と返したのに、勇気は腕を組んで何かを考え始めた。カルシウムカルシウム光にカルシウムとか言ってる。いやだから放っておけ言うとるやん。
「そんなカルシウム不足な光にはこれをあげるよ!」
俺の鞄を取り、その中に手を突っ込む勇気。おい、何してんねん漁るな!
そして、某猫型ロボットよろしく効果音を付けて、ゆっくりとその手を鞄から引き抜いた。なんやねん、秘密道具でも出すんか。俺の鞄は四次元ポケットとはなんの関係性もないで。
引き抜いた勇気の手に握られていた物は、何もなかった。こいつ、ただ手突っ込んで引き抜いただけやん。何がしたいん!?
「ごめん光、なにもないや」
見れば分かるわ。
てへっ、と笑う勇気にでこぴんをし、鞄をひったくる。タイミング良く、先生が入ってきた。
* * *
お昼休み。憐奈から貰った弁当を手に、食堂へ向かった。向かうというより、勇気達に連れてかれたっちゅー感じやけど。
そんでいつも通りの混沌とした状況で昼食を取り、あ、憐奈のくれた弁当はむっちゃ美味かった。それから課題をちゃんと終わらせてなかったことに気付いて、まだ食べ終わらない勇気を食堂に置いて教室に戻る途中。
正面から歩いてきた莉緒先輩に捕まった。姿勢良く、真っ直ぐ歩いてきた莉緒先輩は、ダークブラウンのポニーテールを揺らしながら俺の横を通り過ぎて行った。と思ったら右腕を掴まれた。
「なんですか? 俺、なんかしました? すんません」
「なにを謝ってるの。何もしてないでしょ」
してませんけど、もしかしたらしてしもたんやないかと思って謝ったんですー。
まったく……、とため息混じりに言い、莉緒先輩は静かに俺の腕を離す。そのまま何故か、俺の首に両腕を回してきた。莉緒先輩の顔と、俺の顔の距離が10cm近くまで縮まる。
「は? り、莉緒せんぱ……?」
なななな、近い近い近い! なんでこの先輩こんな余裕な顔しとるん? 莉緒先輩って男嫌いやんな? 普段肩に触れただけで顔しかめる莉緒先輩やんな?
てか、なんで誰も通らない? いつも騒がしいくらいに人の行き来があるのに、なんでこーゆー時に限って誰もないん?
慌てる、パニックになってる俺を見て、莉緒先輩がクスッと笑う。ふっ、と吐き出された息が顔にかかってくすぐったい。
「ねぇ一条さん」
「はっ、はい!」
声裏返った。絶対裏返った。
「お姉さんと、遊ばない?」
もう誰やこいつ! 絶対莉緒先輩こんなこと言わへんし!!
さらに顔が近付けられそうになり、思わず莉緒先輩を突き飛ばす。突き飛ばしたはずなのに、よろめいたのは莉緒先輩じゃなくて俺だった。なんで。
後ろに、倒れる。
背中から倒れて行く俺に、莉緒先輩が優しく微笑む。左手を天皇陛下のように優雅に振り、何かを言った。聞こえなかった。
* * *
左肘を擦り剥いた。地味に痛い。
莉緒先輩はあの後すぐに、俺に背を向けて去って行ってしまった。なにがしたかったんですか。
擦り剥いた肘を押さえながら、保健室に向かう。あんま保健室には行きたないんやけどなー。あの保健医、少し変わっとるし。いや、まぁ、前の保健医よりかはずっとマシなんやろうけど。
白い扉を開け、中を覗き込む。窓際に置いてある机の近くに、保健医の氷汰先生は立っていた。机に寄りかかり、本を読んでいる。
すんません、と声をかけると、ぴょっと顔を上げ、たれ目がちな灰色の瞳を俺にくれた。
「あれ、どうしたの? 一条くんが保健室に来るなんて珍しいね」
本を机の上に置き、氷汰先生はケラケラとニヤニヤの混ざったような笑い方をしながら手招きをする。覗き込む体勢のままでいた俺は、その手招きに応じて保健室の中へ入った。
肘を擦り剥いたと伝えると、笑い方は本格的にケラケラになった。なんでそんなに笑われなきゃあきまへんの……。
「じゃあとりあえず、消毒して、絆創膏でも貼っておこうか」
まだ笑い足りない様子の氷汰先生が、薬棚に手を伸ばす。それから2つのビンを取り出した。
片方には消毒液、もう片方には、何故か塩水と書かれている。
その2つを机の上に置き、顎に手を当ててなにやら考え始める氷汰先生。しばらくして、軽い音をたてながら両手を合わせると、塩水と書かれたビンの方を持って俺の方を向いた。
「それじゃあ消毒しようか!」
「塩水で!?」
「あれ、ばれた?」
「思いっきり塩水って書いてありますやん!」
ざんねーん、と言いながら、氷汰先生は塩水のビンを机に置く。そして反対の手で消毒液のビンを手に取った。
危なかった。危うく傷口に塩水塗られるところやった……。
擦り傷を先生に向け、治療してくれるのを待つ。消毒液のついたハケのような物を傷口に近付けると、氷汰先生がいきなり吹き出した。なんや!?
訊ねようとしたところで、消毒液が傷口に塗られる。次の瞬間、衝撃。衝撃っていうか痛い、めっちゃ痛い。なんでこんな痛いん? どんな消毒液使ってんねん、この人!
痛みに悶える俺に、氷汰先生がニヤニヤしながら一言。
「実はこの消毒液のビンに入ってるのが、塩水なんだよねー」
なんでや!!!
* * *
もう保健室行きたくない。
なんとか治療してもらい、保健室を出ると、真っ正面にゆきな先生がいた。今日のジーパンは七分丈で、上に羽織ってるカーディガンは薄いピンク。藤色の髪がいつも通り綺麗で……。
って、ゆきな先生に見とれてる場合とちゃうわ。課題終わってないんや、はよ教室戻らな。
ゆきな先生に軽く頭を下げ、視線を左に移す。そしたらゆきな先生に名前を呼ばれた。
「はい?」
「私ね、一条くんに言いたいことがあるの」
……生徒会の仕事とか? ゆきな先生、生徒会顧問やし無くはないけど。多分そういうのは侑葉に言った方がええんやないかと。
両手を胸の前で握りしめ、俺から目を逸らして床を見つめるゆきな先生。数回、息を吸ったり吐いたりする音が聞こえた。
「私ね、ずっと……、ずっと一条くんのこと――」
ゆきな先生が言う。
ん? んんん? なんやのこの急展開。あれ、そんな雰囲気やったっけ? いや、嬉しいけど。万々歳やけど! 状況にうまくついていけへん……。
ゆきな先生の胸の前で握りしめられている手が、さらに強くぎゅっと握りしめられるのが分かった。視線を床から俺に戻し、真面目な顔で言葉を続ける。
「一条くんのこと……」
ごくり。思わず唾を飲み込む。
ゆきな先生は一瞬言い淀んで、それから覚悟を決めたように言い放った。
「ずっと、実験台にしたいと思ってたの!」
「なんの!?」
実験台!? この流れで実験台!? 無いだろうとは思いながらも、ちょっと告白的なものを期待してたのに実験台て……。
ダメかしら、と可愛らしく首を傾げて訊ねられ、それはさすがに無理ですと首を振る。ゆきな先生はじゃあ仕方ないわね、と言ってそのまま保健室に入って行った。あぁ、次の標的は氷汰先生か……。
あ、そういえば課題。
携帯を取り出し、時間を確認する。お昼休み終了まであと六分。
……うん、終わらせるのは無理そうやな。
* * *
結局課題は侑葉に写させてもらった。ありがとう侑葉。侑葉みたいな親友がいて俺は幸せです。でも前に親友って言ったら、綺麗な回し蹴り貰ったから、絶対に本人の前では言わない。
とにかく、全部の授業が終わり、あとは生徒会の仕事をするだけ。
もう荷物の準備が終わったらしい侑葉が、横で仁王立ちをして待ってる。置いてかないところが優しいよなー。
急いでノートなんかを鞄に入れていると、後ろから咳き込む音が聞こえた。後ろは海羽。……また具合悪くなったんかな?
ただでさえ体が弱いのに、海羽は頑張り屋やからすぐに体調を崩す。最近はまぁ、ええ感じやったんやけど。
振り返り、声をかける。
「大丈夫かー、海羽」
海羽はちらっと俺を見たが、返事はなく、そのままケホケホと咳を繰り返した。
横に立っていた侑葉が、何故か数歩俺から遠ざかる。
途端、海羽の咳が酷くなった。あれ、これ、保健室連れてった方がええんちゃいます?
俯いて、肩を上下に揺らしながら咳をする海羽の顔を覗き込む。そしてもう一度、大丈夫かと訊ねてみた。絞り出すように海羽が返事をする。
「だ、いじょ……ぶ」
全然大丈夫そうに見えへんで。顔色は悪いし、呼吸は荒い。
眉を寄せて海羽の顔を見ていると、海羽がまた大きく咳き込んだ。と、同時に、なにか生暖かいものが俺の顔に付く。ていうか、なんか液体っぽいものが飛んできた。
海羽の顔を覗き込むのを止め、右手の甲で顔を拭ってみる。……あれ、なんか赤いんやけど。
目を瞠り、もう一度海羽の顔を見る。口元が、口の周りが赤く濡れていた。これはもしかしなくても吐血ってやつですね。あかんやんこれ。とりあえず保健室、保健室に連れて……。
て、……ん?
右手の甲についた血に、鼻を近付けてみる。……なんか、これ、めっちゃケチャップのにおいするんやけど。おそるおそる、舐めてみる。うん、これケチャップや。ただのケチャップや。
「なぁ、これケチャップやんな」
「えっ」
未だ咳き込んでいた海羽が、目を丸くして顔を上げた。それから眉の端を下げて、キョロキョロと周りを見回す。
小さく、バレちゃった……と呟いたのがしっかり聞こえた。やっぱりケチャップかー! 分かってたけどケチャップかー!
心配して損したわアホ!!
* * *
生徒会室。確認中のブラックリストを机に置いて、小さくため息を漏らす。
今日、なんや皆おかしかったなー。憐奈に始まり、海羽まで。
横で作業をしている侑葉を見やった。いつも通りの真面目な顔して、ただひたすらに鉛筆を動かしている。……鉛筆? 普段使ってるボールペンどないしたんや、侑葉。
他の生徒会役員の様子を窺う。会長が机に突っ伏したままピクリとも動かない。どないしてん。
ふいに侑葉が手を止めた。鉛筆を持ったまま、視線だけを俺に向ける。
やばい、怒られる。
「す、すまん。サボってたわけやないで?」
反射的に言う。これただの言い訳やんな。……これじゃあ更に怒られるだけや。
と思ってたら、侑葉がふっと笑みを浮かべた。視線だけじゃなく、顔も俺の方に向く。それでも鉛筆を置かないのは何かあるんやろうか。
嫌な予感をさせる悪魔の笑みでもなく、お得意の営業スマイルでもなく、嘲るような笑顔でもなく、侑葉は笑っている。
「にゃんっ」
そんな笑顔の侑葉から、そんな言葉が漏れた。
口を開けたまま固まる。え、何言ってるん? 今の何? 侑葉がにゃんって、にゃんって……。
椅子の回転を利用して侑葉に背を向け、ぐいっと目を擦る。しばらく深呼吸を繰り返し、それから自分の肩越しに侑葉を覗き見た。
侑葉は何事もなかったように作業に戻っていて、表情もいつものつんとしたものになっている。
……???
さっきの、結局なんやったんやろ……?