六
「あれ、宇木さんは?」
購買で昼食のパンやらおにぎりを購入してきた僕は、先に昼食を始めていた桐生さんに尋ねた。
「宇木なら、面談だ」
「ああ、そっか」
机を合わせながら頷く。
本日から、進路について昼休みと放課後を使って面談が行われるのだ。
「アタシは今日の放課後に面談が入っているけど、笹村君は?」
えっーと、確か……。
「僕も今日だったかな。多分、原谷君の後」
「そうか、なら、アタシよりも前だな。というよりもアタシ、一番最後なのだよ。今日は宇木と先に帰っていいぞ」
「わかった。そうするよ」
着席して、パンの袋を開けようとしていた僕に桐生さんが胡散臭そうな視線を向けてくる。
「な、何?」
「笹村君、宇木を変な場所に連れ込もうとしたら、どんなことになるかは先日の何処ぞの阿呆を見れば、理解できると思う」
「忠告……?」
ていうか、この人、宇木さんの何なんだ?
「いや、警告だ」
「警告されなくても、そんなことはしない」
ジー、と桐生さんは僕を見据える。
何だか、居心地が悪い。
「まぁ、確かに笹村君にはそんな度胸も勇気も持ち合わせがないか。全てが小さそうな人間だからな」
「僕、馬鹿にされてますよね?」
「していなかったら、何をしているというんだ、アタシは?」
こ、コイツ。
「アレだよ、アレ、笹村君。ツンデレっていうのか。そんな感じ」
嘘をつけ! アンタのどこがツンデレなんだ。アンタは空気を読まない(注・『読めない』ではない)毒舌キャラだろ!
「あぁ、そうですか。そんじゃ勝手にクール系ツンデレ美少女でも目指してろ」
僕は投げやりな調子でパンにかぶりつく。
しかし、まぁ、これだけ好き勝手言い放題な桐生さんを憎めないのも不思議だよなぁ。七不思議に登録したいくらいだ。
「ところで、笹村君」
やけに神妙な顔つきで桐生さんが僕に呼びかけてきた。
「君はもう進路とか決めているのか?」
……進路、かぁ。
「全然だよ。目的地どころか、方角も決まってないよ」
「この場合の目的地は志望校で、方角は文系か理系かってことなのかい?」
おお、すごい。
「うん」と頷く僕。どう、うまかった?
「笹村君、ドヤ顔で頷かれても反応に困るのだけど。まぁ、笹村君の矮小な脳にしてみれば九十点といったところか」
矮小言うな。人間の脳の大きさはそんなに他人と差はないぞ。
とは言わず。
「それって、勿論百点満点でしょ?」
「いいや、勿の論で二百点満点だ。センターの数学と国語と英語と同じだよ」
桐生さん節にエンジンが掛かりそうなので、話の方向を元に戻そう。
「桐生さんは、進路はもう決めてんの?」
桐生さんは一瞬、虚を突かれたような表情をしてから、
「アタシはもう決めているさ。未来予想図とまでは行かなくてもね」
「もっと詳しく聞いても良かったりする?」
「良かったりするが?」
「じゃあ、よろしく」
って、何だこれ。
一拍おいてから、桐生さんは、
「アタシの第一志望は医学部」
・。
目が点。
「どうした、笹村君?」
いやいやいや。平然とあっさりと第一志望が慶応、しかも医学部って、言えますか? 口の筋肉に麻痺は生じたりしないんですか⁉
志、高っ!
「す、すごいね、桐生さん」
「別にそのような反応をされてもねぇ。受かったわけじゃあないんだから」
それはそうだけれど。
「でも、すごいよ。それだけ成績も良いってことでしょ?」
「まぁ、ね。自己韜晦する必要もないだろうから、言っておくと、アタシは二年生トップなのだよ」
エッヘン、と胸を張る桐生さん。
急に桐生さんが天高い位置にいる人に思えてきた。いやー、やっぱり、人って見かけによらないな。否、この人の場合は性格か。
「成績トップか、すごいな」
勉強の意味を見失っている僕でも、トップにいる桐生さんはすごいと思う。何せ、一番なのだから。『一番はすごい』は僕が小さい頃からの座右の銘みたいなものだ。
「どうして、医学部なの?」
僕の疑問符に桐生さんは躊躇いなく、
「実はアタシ、小学校低学年の時に大きな病気にかかってしまってね。入院して、手術が必要だと言われた。じゃなきゃ、死ぬって」
「うわぁ」
桐生さんにそんな命の危機があったのか。
「けどまぁ、手術のおかげでアタシは今もこうして無事に生活が送れているのさ。医学部を目指しているのも、アタシが命を救われたというのが一番大きいのかもしれない。アタシもあの先生みたいに病気で苦しんでいる子どもたちを助けたいと思っているんだ。まぁ、結局はアタシは恩返しみたいなことをしたいんだよ」
帰宅部なのは、その病気せいで激しい運動が出来ないならなのだよ、と笑顔で付け足す桐生さん。
桐生さんは、言動はKY毒舌だけれど、根は真面目な人だったらしい。未来予想図、しっかりと描けてんじゃん。
「勉強はつらくないの?」
医学部といったら、一番難しい学部だ。勉強量もハンパじゃないはずだ。
「笹村君は勉強がつらいのかい?」
疑問に疑問を返されてしまった。
「つらいって言うか、何でやるんだろって思うんだけど」
ふーん、と桐生さんは腕を組む。
「『何でやるんだろ』ねぇ。まぁ、アタシも考えなかった頃がなかったわけじゃあないが、夢を見つけてからは、そんな疑問符は浮かんだことはないな」
「夢……」
子どもを助ける医者、か。
素晴らしい志だ。
何も定まっていない僕が言うのも何だけど。
「アタシの場合は夢を叶えるための手段が勉強なんだよ。わからない問題にぶつかると、正直嫌になるけれど、医者になるために必要なのだから、乗り越えないといけない。いいや、違うな。夢を叶えるためになら、乗り越えられるって言った方が正確だね。些かクサい物言いだけれど」
桐生さんの立ち位置が一気に変わった気がする。僕の中で株価急上昇中。
「笹村君の夢がミュージシャンとかスポーツ選手とかなら、それを叶える手段は勉強じゃない。それは音楽であり、日々の練習だろう。まぁ、勉強が全く必要じゃないとまでは言わないがね」
「なるほど」
「アタシの話はこれまでにして、笹村君、流石に文系か理系かは決めておかないと拙いだろう」
「拙いかな?」
「拙い」
きっぱり、言い切られた。
拙いよねぇ、やっぱり。
廊下には椅子が二つ。そして、そこに座る男子生徒が二人。
僕と原谷君である。
「笹村は文系にするのか、それとも理系か?」
「まだ、決めてないんだ」
結局、桐生さんと話していても文理の選択は決まらなかった。ていうか話がどんどん逸れていったのだった。
「ヤバくね? 面談までに考えて来いって言われてたじゃねぇか」
「大丈夫でしょ。その内決めるから。原谷君は?」
僕は視線を左隣の厳つい丸坊主に向ける。原谷君は『うーん』と唸っている。
「何だ、原谷君もどっちにするか決めてないんじゃん」
「いや、文系にしたんだけどな。就職には理系の方が有利だって言うから、いまいち決心がつかなくってな」
「ふーん」
就職、か。
勉強の先に待ち受けているもの。
「原谷君」
僕は昼休みの桐生さんの神妙な顔を真似て、原谷君に訊いてみる。
「勉強って何だろうね」
「は?」
原谷君が三秒ほど停止する。
「原谷君は勉強何でしてるの?」
僕がもう一度原谷君に尋ねると、
「『何で』って聞かれてもな……そりゃ、勉強しないって選択肢もあるだろうけど、それを選んじまったら将来食ってけなくなるからだろ」
「食いそびれなければ、勉強しないの?」
「……しないかもな。俺、ガキの頃からプロ野球選手になりたかったから」
原谷君は自嘲気味に笑う。
「でも、俺はプロにはなれない。センスねぇんだよ。事実、地方大会も毎年、初戦敗退だ。プロどころか、高校生のスタンダードにも達してないってんだからな。まぁ、将来ちゃんとやっていけるようにで勉強をしてるって感じだな、俺。笹村は?」
「勉強してない。いや、できてない」
「は?」
再び、原谷君が停止する。
「僕は生来、阿呆なのか、嫌なものには手をつけられないんだよ。原谷君みたいに妥協して勉強なんて、きっと出来ないよ」
「不真面目気取ってんじゃねぇよ。格好よくねぇぞ」
吐き捨てるように原谷君は言った。
「別にそういう訳じゃないんだけどね」
卑下も自慢のうちっていうけれど、今の僕は自慢をしているつもりはない。周りにはそう映ってしまうのかもしれないが。
「まぁ、わからなくもないけどな、笹村の考えは。だけど、俺はオマエほど、割り切れない。『勉強が何かが分からないから、やらない』って言って、取り残されるのは怖いからな」
「取り残されるって?」
「みんな大学行って、卒業して、就職して、立派に大人やるだろう。なのに、何もしなかったら俺やオマエはネットカフェ難民になっちまう。社会的に取り残されるってことだよ」
なるほど。
盲点になりがちだけれど、僕の人生は高校生活だけではないのだ。その先にも時間は続いている。しかも、学業よりも何倍も長い道のりが。
「だから、やりたいこと、なりたいモンをどこかのタイミングで妥協しないといけないんだよ。俺の場合はつい数か月前にプロ野球選手の夢を諦めたよ」
と。
原谷君が長年の夢を捨てた、という告白をして淋しそうに笑った時、面談教室の中から女子生徒(名前は……?)が出てきた。
次は原谷君の番だ。
その次が僕。
「つーか、何で笹村にこんな話してんだ」
「いいじゃない別に」
「まぁ、構わないけど、何か気恥ずかしいな。誰にも言うなよ」
「わかってる」
口だけだけどってのは嘘。
「それと、笹村も面談前までにしっかりと決めておけよ」
「原谷君、僕の事を心配してくれるんだね」
僕は真剣さを装って、言葉を吐いた。
「べ、別に心配してねぇ、って てめぇ、また引っかける気だったろ⁉」
いや、引っ掛かったから。『べ、別に心配してねぇ』って言っちゃたから。
「俺はツンデレじゃねぇよ」
自分で言うな。
「第一、オマエにデレてねぇし、デレるつもりもねぇし、BLやりたくもねぇよ!」
「僕も原谷君みたいなゴツイのはいくらフィクション、お遊びでも勘弁かなぁ」
「笹村ぁぁぁぁ!」
本当、からかい甲斐があるねぇ、原谷君。
「ほら、先生呼んでるよ」
顔を茹でた原谷君に面談教室の中を指さす僕。
「ん、ああ。笹村、マジで考えておいた方がいいと思うぜ」
「それ、桐生さんにも言われた。まぁ、考えるだけ考えとくよ」
どれだけ言われても、自分のことを他人事にしかできない僕は頭のネジが外れているのだろうか。もしそうだとしたら、脳は活動していても、その回路は空転していそうだ。
「どっちにしようかなで決めるのはなしだぜ」
「小学生ですか、原谷君」
ははは、と快活に笑って、原谷君は進路相談に臨む。
「ここまで平均的なのも珍しいなぁ」
中垣先生は難しい顔をして僕の模試の成績表と睨めっこをしている。
案の定、原谷君の面談が終了するまでに文理の選択が完了しなかった僕は中垣を困らせているのであった。
国語、偏差値五十一・二。
数学、偏差値四十八・二。
英語、偏差値五十・三。
その他、文系科目、理系科目、全て偏差値五十前後。
究極的に、完全無比のアベレージな成績だ。
苦手も得意もない。
つまり、いい意味でも悪い意味でも、特徴などまるでなしということだ。
それは良いことなのか、あるいは悲しいことなのか。
「笹村は文系理系のどっちに進みたいんだ?」
中垣は僕に質問をしたものの、僕の答えを待たずに、
「というよりも、笹村、ちゃんと勉強しているか? 噂によると課題の提出状況がよくないみたいだが?」
噂じゃなくて、事実です。
と、言えるはずもないので、とりあえず、曖昧に微笑む。当然、肯定の笑みになってしまう。
「笑うな」
怒られた。
「何か悩み事がありそうだな、笹村。先生に話せることだったら、話してみなさい」
悩み。
僕の悩み。
勉強の意味って何だろう。
うむ、年長者、人生の先輩にこの疑問を訊いてみるのも悪くないだろう。
「言いたくないなら言わなくてもいいぞ」
僕が精神的な深い悩みを抱えていると勘違いしたのかどうかは僕の知るところではないけれど、中垣がやけに真剣そうな表情で僕を見つめてくる。
そんな顔しても先生には損な質問なんだけどなぁ。学校の先生に『勉強って何ですか』と訊くのは結構背徳的な気がする。小学生ならまだしも、高校生だもんなぁ、僕。
「じゃあ、僕の悩みを言わせてもらいます」
「む」
中垣は構える。いったい何と戦う気なんだ?
僕は一呼吸して、
「僕って何のために勉強をしているんでしょうか?」
一瞬、目を丸くした中垣は構えていた腕を組み、顎を引いて、唸った。
しばらくして。
「俺の持論なんだが」
中垣は顎を手で触りながら、
「勉強っていうのは努力の練習だと思うんだ」
「努力の練習?」
流石は年長者、深そうなことを言う。伊達に僕より長く人間やってない。
「あるいは忍耐の練習かな。勉強なんて好きな奴はそうそういないだろう?」
「ええ、まぁ」
ガリ勉君はそうそういない。その逆はたくさんいるけどね。
「勉強は若いうちは努力の練習。スポーツ選手でも、歌手でもアイドルでもケーキ屋さんでも、パイロットでも、その夢を叶えるためには努力が必要だ。そして、努力は苦しいものもあるだろう。つらくなる時もあるだろう。やりたくないことだってある。夢を叶えるための努力をやり通せるように、勉強を通して努力の価値と可能性を知るのさ」
「はぁ」
ムツカシイ。
「それで大人になったら、勉強は忍耐に役立つ。飯を食って生きていくためには働かないといけないからな。人はその職業が当人の好むと好まざるとに関わらず、働かないといけない」
就職。
原谷君の台詞を思い出す。
『将来食っていけなくなるからだろ』
「忍耐の練習ってのは希望通りの仕事に就けなかった場合だが、好きになれない仕事をするのは嫌いな勉強をするってことと本質的には同じだと考えるわけだ。だから、忍耐。嫌な作業を毎日のようにこなす練習、それが勉強なのだろう」
「はぁ」
ムツカシイ、ネ。
語り終えたと思われる中垣は僕に、
「どうだ、こんな返事で構わないか?」
うーむ。若干、学門の意義に外れている気がしないでもないが、現代にはぴったりの答えかもしれない。
「はい、参考にさせていただきます。では」
僕は椅子から腰を浮かせて、退出しようとしたが、
「まだだ、笹村。俺の思想をお前の思考回路に取り込んでくれるのは教師冥利に尽きるってものだが、この面談の本題は進路についてだ。哲学の時間ではない」
「そうでしたね」
僕は再び、椅子に腰を据える。
「改めて訊くが、文理どちらに進みたいんだ?」
「体育会系です」
睨まれた。
「いや、嘘です。まだ決めていません」
「志望校とかはないのか?」
「ありません」
「親御さんは何か言っているか?」
「海外で働いているので、あまり話をしません」
母から勉強、勉強とは言われているけど。
「そうか……うーん、そうだなぁ」
中垣が困惑濃度、『高』で額に手をやる。
むむ、僕って結構問題児だったりするのか? そんなつもり毛ほどもないのに。
「まぁ、いい。もう一度家で考えて来い。笹村は面談やり直しだ」
「…………わかりました」
問題児確定かもしれなかった。
「あ、笹村くん、面談どうだった?」
下駄箱で僕を待っていてくれた宇木さんが笑顔で訊いてきた。
僕は革靴を取り出しながら、
「やり直しだってさ」
「ええ⁉ 何で?」
思いっ切り驚いてくれた宇木さんに僕はざっと説明をする。
ごにゃごにゃ、ごにゃ。
「っていうワケ」
「ふーん。大変だね、笹村くん。私は文系即決だったけど」
いかにも文系だものね、宇木さん。
けれど、あえて理由を問うてみよう。
「どうして?」
「それは私が数学全くできないからだよ」
苦笑いの宇木さん。
「もう今まで赤点取らなかったのが不思議なぐらい。あ、テスト勉強はしたよ、ちゃんとね。それでもあの成績じゃあ理系は無理かなーって」
「理系に進みたかったの?」
「ん、いや、そういう訳じゃないんだけどね。どっちにしようかなぁって悩める時間がなかったのが残念なのです」
なるほど。
「ああ、そうだ。有紀は面談遅いから先帰っていいよだってさ」
「僕も言われた。じゃあ、行こうか」
「……う、うん」
何か宇木さんから緊張感がバリバリ伝わってくるんですけど。
「どうかした?」
「い、いやなんでもないよ……ただ」
ただ?
「男の子と二人きりで帰るのはこれが初めてだったりー。小学生の頃をカウントしなければだけど」
「な、なるほど」
そういうことか。そう考えれば僕も女の子と二人きりで帰るのは初めてか。僕の場合は小学生時代をカウントしても、ね。
「「…………」」
沈黙。
そして、歩き出す僕ら。
これを甘酸っぱい青春とするのには無理があるだろうか?
言わなくていいことを宇木さんが言ってしまったから、妙に相手を意識してしまう。はて、宇木さんも同じだろうか?
「「…………」」
無言のまま校門へ。
あぁ、こんな時に桐生さんがいてくれれば気まずい沈黙も掻き消えるだろうに。まさか、あの毒舌KYの力を欲する日がこようとは!
いつもだったら、宇木さんとこんな気まずい雰囲気になることなんかないのに。
仕方がない。
「あ、あのさ」
状況打破のために僕は口を開く。やはりこういうシチュエーションでは男がリードしなければならない!
「宇木さんって何のために勉強しているの?」
もう少し気の利いた話題でも出せればいいのだろうけれど、今の僕の頭にはこれくらいしか浮かんでこなかった。まぁ、今日、色んな人に訊いていることだから、一応ノープロブレムってことにしておこう。
「勉強……うーん。何だろうね」
宇木さんは緊張が解れたようで、
「特に考えたことないなぁ。皆が勉強していて、テストあるし、受験があるからじゃないかな」
「夢とか目標とかはないの?」
数秒間を宇木さんは思考に利用。
「今のところは特にないなー。昔はケーキ屋さんとか、お嫁さんだったんだけど、良く考えてみれば現実的じゃなかったりするよね。漠然と夢描いてたなぁって」
「言われると、そうかもね」
けれど、あの頃は無邪気に将来を思い描けて、幸せではなかったろうか。
若いにしても年を取って、未熟なりにも世界を知れば知るほど無邪気ではいられなくなる。
それこそ邪気にでも染まっていってしまうように。
成長と自由思考は反比例。
「目標って言ったら、やっぱり就職になっちゃうよね。何だが味気なくって、ちょっと寂しい」
宇木さんならアイドルとかいけそうだけど、本人の前で言うのは気恥ずかしいから、黙っておく。
「笹村くんは勉強に対して、どう思ってるの?」
「僕はさっき、ごにゃごにゃ、と説明したとおり、全く分からないんだ」
「あはは、そうだったね。でも、理系か文系かは決めた方が良いと思うよ。ていうか決めとかないといけないよ。もうすぐ三年生になるんだし」
宇木さんにも心配をかけてしまった。
「簡単に決めちゃうのも良くないかもだけど」
「いや、僕の場合は簡単に決めちゃったほうがいい気がする。悩める余地もないことだしね」
「かもね。あ、そうだ。笹村くんに鈴城くんから伝言があるんだ」
伝言? それも鈴城から?
「?」
疑問符の解説が見当たらない。
「今日の朝、携帯に鈴城くんからメールが入ってたんだ」
言って宇木さんは白いスマートフォンの液晶を僕に見せてくれる。
スマートフォンか。宇木さん、流行に乗っかっているねぇ。それとも僕が乗り遅れているだけなのかね。
「これ」
宇木さんが鈴城のメールを開く。
「ん?」
僕の目の視覚情報によると、
『タイトル:宇木さんへ
笹村のアドレス聞きそびれていたから、宇木さんに伝言役を頼みたい。
笹村に明日の放課後、駅前のコンビニに来るように言ってもらえると助かる。
では、よろしく』
随分と一方的なメールだった。
まぁ、鈴城の性格を考えればこんな感じが一番しっくりくると言えば、しっくりくる。逆に絵文字だらけの無駄に色鮮やかなデコレーションだらけだったら、引くし。
「で、宇木さんは何て返信したの?」
「えっと、『わかった。伝えとくよ。それと学校でお話しようね!』って。何も返ってこなかったけど」
小さく宇木さんは笑った。
「鈴城と仲直り……っていうか蟠りみたいなものは解消されてないんだね」
「う、うん」
宇木さんは俯いてしまった。
言わない方が良かったな……。
「ご、ごめん。変なこと言って」
上ずった声で謝る自分が情けない。
「ううん。笹村くんが謝ることはないよ。わだかまっちゃてる私たちがいけないんだからね」
宇木さんは首を力なく左右に振る。
「鈴城くんとはもう長いこと話してないからね。心のモヤモヤが溶けないって感じかな。鈴城くんは悪くないのに、自分の責任だって一人で背負い込んじゃってるのが申し訳ないんだよ」
「それじゃあ、僕が鈴城と宇木さん、桐生さんの心のモヤモヤを溶かしてあげるよ」
何言ってんだ、僕。
疑問に思っても、何故か口は止まらない。何で格好つけようとしたんだ? ってか、格好ついてさえなくね?
「ちょうど鈴城が会おうって言ってきたんだし、その時に伝えてみるよ」
「……笹村くん」
宇木さんが僕を見つめてくる。
うわぁ、そんな目で見ないで。恥ずかしいから。照れるから。
「ありがとっ」
宇木さんは可愛らしい笑顔で笑ってくれた。
「そうだ、そうだ。笹村くん、アドレス交換しよう」
そういうことで、宇木さんとアドレス交換。
「有紀にも笹村くんのアドレス教えとくよ?」
「うん。お願い」
メールでも毒舌なのかなぁ、桐生さん。
なんてことを思った後。
僕は鈴城ともアドレス交換をしようと思った。
酒癖の悪い人間とは極力絡みたくない。
しかし、同じ家で共に暮らす家族がそんな種類の人間であってしまったら、それを避けることは不可能だ。
「うべべべべ」
今日の姉は夕食の缶ビール一本で潰れたようだった。顔は赤くないが、気分が悪いらしく、体をだらしなくテーブルの上に投げ出している。
コイツ、酒に強いのか、弱いのか、どっちなんだ? この間はかなり飲んだみたいなこと言っていたのに(潰れてたけど)。
「あー、もうやってられないぃ。レポートとかめんどくさぁー。試験もめんどくさぁー」
オマエは酒臭い!
「ああー、何で大学に行ってるんだろ、アタシ。何のためにおべんきょーしてるんだろうねー。ねぇ、陽にゃん何でだと思う?」
「知らん」
高校に何しに行ってるんだろ、と悩んでるヤツにそんなこと訊くな。
「つーか、俺が何のために勉強しているか聞きたいぐらいだ」
姉にも桐生さんや原谷君、中垣先生、宇木さんたちと同様の質問をしようと思っていたのに、まさか大学生が高校生の僕と同じ状況に陥っているとは……姉弟だからか?
「むふふ。残念ながら陽にゃん」
姉が不敵な笑みを漏らす。
「アタシと陽にゃんは同じところにはいないのですよぉー」
「は?」
大体同じだろ。いや、オマエの方が深刻とでも言いたいのか?
「高校生と大学生とじゃあ、似たような疑問を感じていても現実へのエフェクトが異なるのよーん」
酔っ払いの口調で姉は複雑そうなことを言う。
「高校生は枝分かれの道の手前に位置していて、大学生は数本の枝分かれの道の中から一本を選んじゃってるのだよ。枝分かれの地点まで進んで行くのが高校生で、枝分かれの一本を選んで、その先を進んで行っているのが大学生。ようは、大学生は後戻りができないってこと」
ふーん。高校生も後戻りできないと思うけどね。
「まぁ、後戻りできないことはないだろうけれど、引き返すのには色々と代償が必要になってくるだろうからねぇ」
「で、姉貴は後戻りしたくても出来ない状態にあると?」
「そう! 正解、正解、大正解だぜ、陽にゃん」
姉は親指を立てて、グーのポーズ。つーか、似たような台詞を何処かで言った覚えがあるんだけど。やっぱ、姉弟だね。
「合格できる大学って条件で進路選んでる時点でほぼアウトだよね。その先に妥協、対応できれば問題ないんだろけど、アタシはそこまで柔軟じゃないし」
「けど、まだアウトじゃないだろ?」
「ま、そうなんだけど。でも、進行度的にはアタシの撃った打球がショートゴロで、アタシは一塁の半分にも到達していないのに、ショートが捕球してスローイングの体勢に入ったって具合かね」
「『具合かね』ってのんきなこと言ってる場合じゃなくね? 余裕でアウトになるだろ!」
留年とか退学とかしでかしたら、アワー・ペアレンツがもうラウドラウドで大変ですよ。
「うーん。まぁ、のほほーん、としてられないんだけどねぇ。大学の勉強についていけないって訳じゃあないんだけど、如何せん興味が湧かないんだよ」
「姉貴って何学部だっけ?」
「理学部物理学科」
「うげ、難しそうだな」
この姉がそんな難解そうなことをしているとは露程も想像がつかない。
「うん、難しくって、やる気ゼロなんだよねー。とか言っててもテストは来るしって感じだし」
ポキポキと姉は首を鳴らした。
「正直な話、アタシは化学の方に行きたかったんだけどなぁ」
「どこでどう間違えたら、化学やりたい奴が物理を選ぶんだ?」
方向音痴にも程があるだろ。
「いやー、化学の方は偏差値高かったし、志望人数も多そうだったからね。受かりそうなとこは物理しかなかったんだぜ」
方向音痴ではなくて、やむかたなしに物理の方角だったのか。
つーか。
「胸を張っていうようなことじゃねぇよ。胸を張る意味が分からねぇよ」
「むふふ、張れるだけの胸があるだけマシでしょ?」
「ああ、マシかもな」
僕はテキトーな口調で返す。実の所、マシと言えるほどありますか、貴女?
「だから、陽にゃんにはしっかりと大学選びをしてほしいんですっ!」
本心か、それ?
「強引なまとめ方だな」
「アンタに言われたかないわよぉ。いつも冷たくアタシとの会話を断ち切るんだから」
んんー、まぁ、そう言われたら言い返す言葉はない。
「っていうか、今日はもう頭痛くなってきたから寝るの。これ以上おしゃべりしていると脳味噌壊れそう」
「そーかい、じゃあさっさと寝ろ」
姉はテーブルを離れて、自分の部屋に戻ろうとする途中で、
「むふふ、じゃあさっさと寝させてもらいまーす!」
妙に笑顔で、姉はおそらく自分では可愛いと思っているのであろうポーズを決めた。僕にしてみれば奇怪で奇抜なオブジェ以外の何物でもなかったけど。
「ということで陽にゃん、お夕食のお片付けをよろしくぅっ!」
言って、姉は短距離ランナーよろしくダッシュで自室に帰還。
……。
やられたぁ!
食器洗いの当番、今日僕じゃないのに。