四
極寒の真冬だというのに僕の体は煮えるように熱かった。
全身を流れる血液が沸騰しているなんて表現をしたら大袈裟なのだけれど、感覚はそれに近いものだと思う。
おまけに呼吸はひどく乱れていて、ゼェゼェ、と酸素を求めて肺が暴走している。体温と空気の温度差がありすぎるせいか、呼吸をするたびに喉がギンギン、と痛い。
これだから、持久走は嫌いだ。
そもそも持久走を体育の授業でやる意味が分からない。その意義が解せない。こんな阿呆みたいに苦しい運動はやりたいヤツだけがやればいいんだ。
そんな風に心の中で悪態をつきながら、僕は決死の思いで足を動かす。両足に乳酸が回りすぎていて、もうすでに走るというレベルの動作ではなく、死に掛けの二足歩行の動物がヨロヨロ、と歩いているという感じの動きになってしまっていた。
あぁ、情けない。
とは思うけれど、持久走に強くなりたいなどという気は毛頭ない。そんな気は僕の一生涯において決して起こることはないと断言できる。まぁ、断言したところで何の意味もないし、何の役にも立たないのだけど。
「おらー、笹村、頑張れ、あと少しだぞ!」
死に掛け状態よろしくトラックを彷徨っている僕に激励の言葉が投げられる。
「ファイト、ファイト、笹村! もう百メートルもないぞぉ!」
「ラストだ。ラスト!」
原谷君と磯部君、石井君が順番に僕に叫んだ。
三人の声の声援は僕に何の力ももたらしはしなかったけれど、しかし最後の最後で少しだけ『頑張ろう』という気持ちになったのはここだけの秘密。
「ハイ、笹村、二十分ジャスト」
体育教師が僕の三千メートルのタイムを告げる。ちなみにダントツのビリである。ビリツーとのタイム差は五分以上ありそうなので、ダントツという表現じゃあ足りないかもしれない。
地獄の持久走を無事完走した僕はゴールラインに倒れ込む。あー、もう動きたくない。頭がクラクラする。このままじゃ汗が引いていって気持ち悪くなるだろうけど、そんなことはどうでもいい。呼吸が乱れていて苦しいけど、これもどうでもいい。もう動きたくない。ってか、動けそうにない。
「ったく、笹村、ダサいな。三千ぐらいでボロボロになりすぎだろ」
「ほら、走り終わった後は歩いて呼吸を整えた方が良いんだぜ」
そんな台詞と一緒に原谷君と磯部君が僕の体を無理やり起こす。そりゃ、走り終えた後に歩いた方が良いというのは分かるけど、精神的に無理。
しかし、二人が僕を支えてくれているので何とか歩けないこともない。というよりもここまでしてもらっているのだから、歩かないといけない。
「笹村がこんなに体力ないヤツだったなんてな。野球部に入らなくって正解かもな。戦力にならない」
「そうだな。サッカー部にも入らなくて正解だな。これじゃあ、一生球拾いだぜ。いや、球も拾えなかったりして」
原谷君も磯部君も言い方は酷いけど正解、正解、大正解です。
「陸上部に来れば、その弱さも克服できるぞ。どうだい笹村君?」
僕は持久走の弱さと向き合う気はないので、御免、石井君。
ゼイゼイ、と未だに呼吸が落ち着かない僕は三人の言葉に声で返事が出来なかったけど、三人とも僕の状態を理解してくれているのか、僕が三人をシカトしていると誤解はされなかったようだ。
原谷君と磯部君に支えられてトラックを二、三周する頃には僕の呼吸も安定してきて、ようやく自分一人で歩けるようになった。
「原谷君、磯部君ありがとう」
とりあえずお礼。
「別にいいって。それより話変わんだけどさ」
原谷君は真面目な顔になる。
「笹村って鈴城と仲良いのか? それとも鈴城にいいようにされてんのか? オマエ、そういう風に扱われていても文句言えなさそうだし」
心配そうな顔で原谷君は鈴城のことを話題にしてきた。成程、僕が鈴城に金でも巻き上げられているなんて風にでも考えているのか。
「いやいや、ただ普通に話したりしているだけだよ。悪いようにはされてないから、心配しなくて大丈夫だよ」
あれから鈴城は二日連続で来て、二日連続で休んだり、来ては次の日は休んだりと、宣言通り二日に一日は学校に来ていた。学校に来ても教科書は出さず、ノートも取らず、体育などの実技の授業はサボるという学校に来る意味ゼロな行動を取っているのだけれど、精神的にはそれに近い位置にいる僕が鈴城の行動について大きなことは言えない。
「そうか、なら良いんだけど。まぁ、笹村が転校してきて鈴城のヤツが学校に出てくるようになったからな。悪い予感がしたんだが、杞憂だったみたいだな」
「意外に優しいんだね。原谷君」
おちょくるような口調で僕は言ってみた。
すると、原谷君は一瞬動揺するような素振りを見せて、
「べ、別に優しくなんかねぇよ。俺はただ……」
原谷君は何かを主張したそうなのだが、口ごもってしまって先が出てこない。
そこへ、磯部君が思いっ切りふざけた調子で、
「うわぁ、何、原谷って実はツンデレ属性だったりすんの? うわぁ、キモっ! お前みたいなゴツくて、ガタイの良いヤツがツン、ぐふっ」
「ぐっ」
「ぶぶっ」
磯部君が吹き出したのと同時に僕と石井君も吹いた。
そうして、三人揃って馬鹿笑いする。
ワハハハハっ!
「て、てめぇら、何笑ってんだ! 俺のどこが可笑しい⁉」
原谷君はゆでだこと化し、怒鳴る。
「んじゃ、原谷、『別にアンタのことなんか心配してないんだからね!』って言ってみて」
磯部君の無茶ブリ。これに対して、原谷君は、
「ふざけてんじゃねぇぞ、磯部! 何で俺がそんなこと言わなきゃいけないんだ⁉」
いや、それは。
「原谷君がツンデレだから?」
「って、何で疑問形なんだ⁉」
「ってことはツンデレでいいの?」
「よくねぇぇぇ! 俺はツンデレなんかじゃねぇよ!」
原谷君は青筋を立てて叫ぶ。
なかなか弄り甲斐があるんだなぁ、原谷君。新発見。
「笹村ぁ俺はな、本気で心配してやったんだぞ!」
「ごめん、ごめん」
僕は笑いを三割ほど消して、原谷君に謝る。いや、こんな風になるとは思ってなかったもんで。
「と、ところで鈴城ってここに来たときはまだヤンキーじゃなかったんでしょ? ね、磯部君」
僕は未だに腹を抱えている磯部君に訊いた。これ以上笑わせていると原谷君が可哀そうに思えたので、笑いを止めてもらうためだ。
「ん、ああ? そうだな」
磯部君は涙目を擦りながら言う。
「最初は至って普通の男子だったんだけどなぁ。宇木と桐生と仲良かったみたいだし。ぐふふ……な、石井」
磯部君は石井君に話を振って、再び腹を抱える。そこまで大笑いするようなことでもないと思うんだけど。ツボにでも入ったのか?
「そうだね。でも宇木さんと桐生さんとの間で何かがあったみたいで。それからかな、鈴城君が登校する日が減っていったのは」
そういえば、鈴城は帰宅部に入れてもらったんだっけ。
「登校するのが減っていくのと反比例するかのように鈴城はヤンキーっぽくなっていったんだよ」
原谷君はさっきの笑いはもう気にしていないのか、落ち着いた声で言った。
「鈴城がイジメられたらしいから、みんなで鈴城の傷を癒してあげようって考えたって桐生さんから聞いたんだけど」
「ああ。結果的には失敗だったけどな。結局、手前勝手な心持ちで鈴城に接してたんだろうな、俺たちは」
「桐生さんも似たようなこと言ってたよ」
「だろうな。俺たちに自覚はあんのさ。だから笹村でリベンジって思ったんだけどなぁ」
ん?
「何、その損したみたいな感じは?」
「いや、だって笹村、どちらかつったら、やる方だなと思ってな」
ニヤ、と原谷君は皮肉気に笑う。
あり、さっきのツンデレ疑惑発覚の件について根に持っておられる?
「はは、そうかな。昼休みの僕を見ていれば答えは明白なはずだけど?」
相変わらず昼休みのお弁当拷問は続いているのだった。
「冗談だよ、冗談」
さらにアイロニーを込めて原谷君は唇を歪める。
と。
ここでホイッスルが高い音で鳴った。ようやく体育の時間が終わるらしい。
「お、整列だ。遅れたら怒られる」
長かった体育も終わるには号令が必要だ。
僕はフラフラになった足を不器用に走らせて列に加わっていく。
生徒が揃ったところで終了の挨拶。男子生徒の低い声がグラウンドに響き渡る。原谷君、磯部君、石井君に僕の声が空気を震わせたけれど、そこに鈴城の声は混じっていなかった。
「キミ、かわいいねぇ」
「え……」
「どう? これから俺と一緒に遊び行かない?」
「いや……あの」
「ん? ああ、今お友達と下校中だったんだ」
「そ、そうです」
「ふーん。でも、まぁいいじゃん。行こうよ。ねぇ、お友達のお二人も別にいいよね?」
そう言って、ヤンキーは僕と桐生さんに顔を向けてきた。
明らかにナンパだった。
対象は勿論僕ではなく、かといって桐生さんでもなくて、それは宇木さんだ。
「……さ、笹村くん」
涙目の宇木さんが僕を見る。……いや、そんな目をされても。
帰り道でヤンキーとの遭遇。
こっちに転校してきてすでに三度目。ただすれ違うだけならまだしも、声を掛けられるのが三回目。この街、本当にヤンキーが多いんだなぁ。もっと注意して街を歩かないといけないなぁ。犬も歩けば棒に当たる、ならぬ、街を歩けば不良に当てられる、なんて言葉が良く似合う、うん。
「……有紀ぃ」
宇木さんの涙目は、救出申請を気づかないフリでスルーした僕から桐生さんに移った。
「……」
一方の桐生さんはブスっと黙ったままだ。だからといって、ビビっているという感じには見えない。まさか、宇木さんがナンパされて自分に声が掛からなかったとかでいじけている訳じゃないよな。桐生さんも宇木さんに劣らないくらいのルックスの持ち主だけど、ナンパされなかったことでいじける人ではないだろう。
「うん。お友達も了解してくれたようだし、行こうか」
僕らの沈黙を了承と捉えたヤンキーは、宇木さんの腕を掴んで立ち去ろうとする。
「ちょっと、は、離してください」
「なーに、いいじゃんよぉ。これで俺と君、このお友達二人の男女ツーペアの完成だぜ?」
ヤンキーに引っ張られながら、宇木さんは縋るように僕と桐生さんを見た。
まん丸の両目から溢れんばかりの涙。
って、これマジでヤバくないか?
いや疑問形ではなく、マジでヤバい。
けれど、状況を理解できていても僕にできることなんかない。
端から結果は見えている。
殴り合ってもどうせ負けるだけだ。そして、宇木さんはヤンキーと何処かへと『遊び』という名目で連れて行かれる。
立ち上がるだけ無駄なのだろう。
……。
だがしかし、男としてここはクラスメイトの女の子を連れ去ろうとするヤンキーに立ち向かわない訳にはいかない。
いくらヘタレで根暗な僕でも男気の欠片ぐらいは持ち合わせがある。とかいってコンビニでは返り討ちに遭った訳だから自信はないのだけど……それでも。
やってやろう。ヤンキーを負かすとまではいかなくとも、宇木さんが逃げる隙と時間ぐらいは稼げるはずだ。
そう僕が決心して、『ちょっと待ちな、お兄さん』と無益な格好をつけた台詞を吐こうとした時だった。
「宇木が如何わしい所へ連れ込まれるのは黙っていられないな」
桐生さんがヤンキーの背後まで近寄って行き、彼の襟首を掴んで、そのまま地面にブン投げた。続いて、倒れたヤンキーの顔面のすぐ横にローファーを勢いよく、突き刺す。スカートの中身は全く気にしていないようだ。
「ひっ」
「お兄さん目の前にそれはそれはとてもとても可愛い美少女が二人もいるのにその片一方にしか声を掛けないっていうのはどういうことなのでしょう?」
冷たい笑顔と声で桐生さんが読点も入れずに言った。
……いじけてたのか、アンタ。
「あ? 俺はオマエみたいのはタイプじゃな うぐっ」
桐生さんの蹴りがヤンキーの腹に直撃。クリーンヒットだ。
「そうですか。別に構いませんけれど」
何か、キャラ変わってますよ、桐生さん。
「別に、アタシが無視されたことは毛ほどにも気に留めてはいませんが、親友の宇木の貞操を奪おうとする無礼極まりない生物がいるのは黙っていられないだけですっ」
「うげっ」
さっきと同じ場所に蹴りを見舞われるヤンキー。
「ゆ、有紀……ててて、てい、てい⁉」
っておい、紅潮するな、宇木さん。空気読めてない。
「蹴り二発でお引き取りいただけないようでしたら 」
「わぁーかった、わかった、わかりました。すぐに帰らせていただきます、ハイ。もう今すぐ光の速さで消えさせてもらいますんで、勘弁してくださいっ!」
言って、ヤンキーは光には到底及ばない速度で逃走していく。ありゃ、相当痛かったんだろうな、桐生さんの蹴り。まぁ蹴りが効いたということよりも桐生さんが怖かったということの方が原因なのだろう。
ということで、宇木さんナンパ事件は犯人撃退という形で無事に解決。僕は貢献度ゼロだったけれど。
「全く近頃は阿呆が多くて困るな。なぁ、笹村君」
「そ、そうだね」
切り替え早っ!
「いやぁ、最近は道場に行っていないから不良相手に真面にやりあえるか不安だったけど、雑魚で助かった」
「道場?」
「そうだ。こう見えても、アタシは柔道の黒帯だぞ」
「へぇ」
「意外だったかい、笹村君?」
「うん。まぁ」
意外だ。
桐生さんが柔道の黒帯を持っているということもそうなのだけれど、空手をやっている人間の戦い方が意外だった。
あんなの柔道じゃあないだろ!
そこで、心の中でツッコむ僕とエッヘンと胸を張る桐生さんに、
「ありがとう、有紀、笹村くん」
ホッと安堵の表情を浮かべる宇木さん。
「気にするな、友人として当然のことをしたまでだ。なぁ、笹村君」
「うん、当然だよ」
繰り返しになるけれど、僕は何もしてない。けどまぁ、雰囲気的にそんなことを言う必要はなさそうだから、同意しておこう。
と、そこで。
「そういえば、前にもこんなことあったよね」
思い出すように宇木さんは言う。
「確か……鈴城くんが転校してきて、ちょっと経ってからだったよね。私たち三人が不良に囲まれて」
「そんなこともあったな。あの時も宇木だけが誘われていた記憶がある」
桐生さんはむぅと厳しい顔をする。
まだそこに拘るのか。
「あの時は大変だったよね。四、五人いたから」
「しかし、アタシの柔道黒帯のおかげで宇木の貞操は守られたがな」
「ちょ、っと有紀、変なこといわないでよっ! 笹村くんもいるんだから」
「笹村くんがいても問題ないだろう。なぁ、笹村君」
確かに僕がいるところで貞操と発言しても問題はない。気にしないフリをしておくから。
問題はないから、話を少しもとに戻してみよう。
戻す意味があるのか、ないのかはさて置いて。
「その時、鈴城はどうしてたの?」
不意に頭に浮かんだ素朴な疑問を僕は宇木さんと桐生さんに投げかけてみた。
「……」
宇木さんは俯いて。
「……」
桐生さんは遠い目をした。
……聞かなかった方が良かったかな。二人ともあまり話したくなさそうな顔してる。
と、僕は思ったけれど、
「あの時の鈴城君は勇敢にヤンキーに立ち向かっていったよ。今日の笹村君と違って」
アイロニーに桐生さんは笑った。
「でも、ボッコボコのズタズタにされてしまったんだけどね」
鈴城がボロ負け。……ってそういえば、転校してきた時の鈴城は僕みたいな高校生だったのか。それを考えると、まぁ当然の結果なのだろう。
「それからだよ、鈴城くんがあまり学校に来なくなったのは」
「きっと自分が情けなかったんだろうな。女の子も守れないなんてって具合で」
「そうなんだ」
そんなことがあって、鈴城は学校にあまり顔を出さなくなったのか。
そんなことがあったから、ヤンキーになったのか。
転校してきて。
友達になってくれた宇木さんと桐生さんを。
守れなかったから、ヤンキーになって。
強くなろうとしたのか。
「……いや、これは短絡的か」
「ん、どうかしたのかい、笹村君」
あり、思考が口から洩れていたらしい。
「いや、何でもない」
けれど、僕の考えが短絡的でなかったとしたら。
僕と鈴城は似たもの同士じゃあない。
だって、鈴城は強くて、僕は弱いのだから。