表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

SF時代劇シリーズ

荒縄アンダーザブリッジ

作者: 大嶺双山

 橋の下でございました。

 わたくしが過ごしておりました街には、東西を横切るように一本の川が流れておりました。それほど幅のある、大きな川ではございませんでしたが、緩やかな、ただそこに身体を横たえる女のような、静かな流れの川でございました。

 川の上には北と南を繋ぐ三本の橋がございました。わたくしたちはそれを西側から順に上橋、中橋、下橋と呼んでおりました。最も近くに架けられたのが上橋、最も大きく、最も往来の多いのが中橋。そして、最も小さく、最も古くて、使われた材木がいよいよ朽ちかけ、車はおろか人ですら滅多に通ることのなくなった寂れた橋が、下橋。ひとびとの生活の要が西側に移り、今では忘れ去られつつある橋でございました。

 その橋の下に、縄を打たれて、わたくしは吊されておりました。

 わたくしは東部の貧しい家の出でございます。わたくしが生まれた頃、下橋の辺りはすでに過疎化が進み、閑散としておりました。この辺りはもとより川の氾濫の多い地域で、住んでいる者の多くが、できうるならばもっと西へ移住したいと思っておりました。

 当初、現在の中心地である西部はまだ山で、宅地化されておりませんでした。それが、父の生きていた頃の町長であった某かという者が大掛かりな宅地開発を進め、わたくしが幼き頃より目にしていた街の景色をかたちづくった、ということのようでございました。今では余裕のある者は皆新たに拓かれた西部に移り住み、東部に残っているのは、なにがしかの理由で土地を動けない者と貧乏人ばかり、という塩梅になってしまったのでございます。

 長じてからわたくしは、中橋の近くにある酒場で給仕を勤めるようになりました。己ではわかりませんでしたが、わたくしはそれなりに目見麗しい容姿を与えられていたようで、そういった職に就くには、さほどの苦労をいたしませんでした。特に、わたくし自身は邪魔で窮屈に思っておりました、他の女人の方より二回りほど大きい膨らみは、殿方の好奇を惹くのに大いに役立つようでございました。

 一年ほど勤めた頃でございましょうか。

 店長から、一緒に温泉に行かないか、と誘われました。温泉への誘いは店長の趣味のようなもので、店で長く働く者は皆、この誘いに応じておりました。

 わたくしはお断りいたしました。それほど強い貞操観念を持っておった訳ではございません。職のために殿方と一夜を共にするくらいは、それまで生きてきた中での理不尽と比べれば、とてもやさしいものでございます。

 わたくしが恐れたのは、同僚の女たちから聞いた噂。店長は女を縛り上げるのが好きだという、その噂でございました。

 縄。その言葉を口にするだけで、わたくしは身体に震えが走ります。幼い頃。わたくしが何か過ちを犯す度、父はわたくしを打擲し、縄で縛り上げました。わたくしの胸が膨らみはじめてからは、毎夜裸に剥き、股の間に縄を通し、緊縛しては、にやにやといやらしく笑いながら一升瓶を傾けていたのでございます。毛羽立った畳の上に転がされたわたくしは、それはもう、何とも言えぬ惨めさ。悔しさで胸がいっぱいでございました。

 あのような思いをするのは、二度と御免でございました。

 潮時であると思い、わたくしは逃げるように店を後にいたしました。戻るつもりは、ございませんでした。

 数日後。わたくしは新たな職を探すため、街を彷徨っておりました。働いていた酒場からは離れた場所で、仕事を見つけるつもりでした。

 芳しい手応えがなく、東へ戻る頃には、日が暮れかけておりました。下橋を渡りきる頃にはすでに薄い闇が辺りを覆っており、人影と気配をかき消しておりました。

 突如、口を押さえられました。そしてそのまま橋の下へ、土手を引きずられるようにして、強い力で引っ張られていました。転がされたのは、長く生い茂った草の中です。

 待ってたぜ、という声は、やはり店長のものでした。どういう手段を用いたのか。身上書には記さなかったはずのわたくしの住処を突き止めていたのでございます。

 どうして、と、かすれた声でそれだけを申しました。暗闇で、男の顔は見えません。ですが、男はいやらしい笑顔を浮かべているだろう。そう思いました。父のような。

 あんたに縄を打ちたくて、仕方ないんだよ。縛られたあんたを見たくて、仕方ないんだよ。耳元で、男の声がします。わたくしの身体に、震えが走ります。縄。汚らしい、縄。

 わたくしは立ち上がり、走りだそうといたしました。だけれどもその後ろ帯を、力強い指が掴んでおります。

 そのまま橋の真下へ引きずり込まれました。下橋は古い木の橋で、川からの高さはさほどございません。増水時には、完全に沈み込んでしまうこともある。そのような粗末な橋でございます。

 いい高さにあるじゃねえか、とそれを見た男が口笛を吹きます。そして鞄を探るとついに、恐ろしい荒縄を取り出したのでございます。

 安心しな。あんたが怖がっているようなことはしねえよ。ただ、あんたが縛られている姿を、見てえだけなんだ。

 ああ。何と言うことでしょう。よくある別のことだった方が、どれほどよかったか。

 職探しのため身に着けていた、わたくしが持っている中でも上等の着物の上から、男が縄をかけ始めました。

 あんたはスタイルがいい。亀甲や菱に縛っちゃ勿体ねえや。

 そうして緩やかに、胸の上、下と縄を通しはじめます。

 男の手が、裾を割って忍んで参りました。

 穿いてねえのか。今どき古風だねぇ。

 貧しい者どもの暮らしなど、西に住む者たちには、到底及びもつかないのでございましょう。

 全身に縄化粧されたわたくしを、橋に吊し上げます。緩く締めてあったはずの縄が、わたくしの肉に食い込みはじめました。

 やめてください。お願いですから、もう堪忍してください。

 わたくしは訴えますが、男は聞く耳を持ちません。

 なあ、あんた。こうされるのは、初めてじゃねえだろう。

 わたくしは硬直いたしました。闇に慣れた目が、微かに男の顔を浮かび上がらせます。

 縛られ慣れているんだよ。身体が。そういうのは、簡単に消せるもんじゃねえよ。消そうと思ったって、消せはしねえやな。己の過去は。

 薄ぼんやりと見える顔は、父の顔のようにも思えました。その顔は、橋の下で揺れるわたくしを見上げて、満足そうでありました。

 やっぱりだ。綺麗だ。綺麗だよ、あんた。

 この闇の中で、わたくしの姿がはっきりと見えているのでしょうか。そうは思えません。にも関わらず、男は確かにわたくしを見ていたのでございます。

 俺に恋をさせてくれないか。なあ、あんたとなら、できる気がするんだよ。

 男が熱っぽく、問いかけます。ですがわたくしの耳には、半分方届いてはおりませんでした。

 数年ぶりに味わう感覚。数年ぶりに感じる痛みが、わたくしを現世に呼び戻していたのです。

 目を閉じて生きて参りました。耳を閉じて生きて参りました。何ものにも関心を持たず、目立つことなく、ただ日々過ごすことだけを生業にして、この日まで参りました。

 ああ、そうか。わたしは、死んでいたのか。

 生きているつもりで、もう、死んでいたのか。

 縛られている痛み。ただそれだけが、わたくしが生きているという、その証であったのでございます。生まれに縛られ、父に縛られ、法律に縛られ、金に縛られ、街に縛られ。

 そうして、男に縛られ。縛られているときの、その痛み。心を閉ざしていても貫いてくる痛み。

 それだけが、わたくしの、証であったのでございます。

 気がつくと、着物がしとどに濡れておりました。強い雨の音が、取り戻した耳に届いて参ります。男の姿は、どこにもございません。

 目に、土手の景色が飛び込んできます。何年も、まったく気にしたことがなかった景色です。野芥子、薄、彼岸花が一面を埋めております。

 ああ、秋が来るのだな。そう思いました。

 水が足下まで迫っております。足袋の先が、水面に触れております。その脚を、何かがぬるりと掴みました。

 お父さま。こんなところに、いらっしゃったのね。

 そういえば、わたくしが父を投げ捨てたのも、この橋の上からでございました。

 お父さま。わたくしももうすぐ、参ります。

 水が迫って参りました。


(完)

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ