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【エピソード6:兄として……。妹として……・その5】

 その後、何とか許しを得た槞牙は、柚菜と別れ、ある店の前に来ていた。

 そこはコスプレで有名な喫茶店。槞牙いわく、病院らしいが。

 全面ガラス張りの構造を持つ壁からは、店員のコスプレ姿が閲覧できる。しかも揃いも揃って現実では際どい衣装である。更に店員のレベルが、この上ない程に高い。面接で合格する確率は、おそらくどこぞの有名大学よりも低そうだ。

 そんな場所だからこそ、槞牙の虹彩はクリスタル並みに輝いていた。売り物にすらなるだろう。エロリアント・カットで。

 手動式のドアを開く。古風にも風鈴がその綺麗な声を小さく漏らし、反響の範囲を広め、やがてそよ風に運ばれた。

 入店と同時に、美女ロード。エロ思考と最上級接客術の狭間を貫いた時に現れる、幻の空間だ。

 そこを通ってレジまで進んでいく。狂いなく並んだ美女の大半が満面の笑み。そして一部は怪訝顔。

 これは事件を起こしたばかりなので、仕方のないことではあるが。


「小森さんはいるかな?」


 衣装室に通じる隘路の方を見ながら、店員に尋ねる。


「いますよー」


「わー!」


 本人から直接の返答に、つい大声を上げた。なぜなら小森が背後から耳元で囁いて来たからだ。

 いつの間に回り込んだのか。気配を感じさせない辺りは、さすがは忍者である。コスプレだけだが。

 ついで言うと今日の小森は、薄紫の髪に紫のバンダナと着物っぽいワンピースで固めたア〇ネスタイルだ。


「なんで背後から音もなく現れる。俺がビビリの主人公だったら慌てて揉んでるとこだぞ? うわ、やっべー、なんて美味しい場面を見逃してしまったんだ……」


 本気で己の愚鈍さを悔いる槞牙。

 しかし、相対する小森は妙なリアクションだった。眼を見開き、喫驚しているような表情でマジマジと槞牙を見つめつつ、


「もしや……貴方様は……!」


「知っているのか? ……俺を……って、いきなりキャラに成り切るのは止めぃ!」


「うふふ……槞牙君はノリがよくて助かりますー」


 上機嫌になった小森は、槞牙を席へと促し始める。


(たった二回目の来店で専属案内人を得られるのは、槞牙ならではの人徳の成せる業だ)


 ……ふっ、今頃はこんなことが地文に書かれているのは疑う余地もないぜ。

 疑う余地しかない妄想はさておき。

 両側を客席で挟んだ通路を歩き、小森を追随する。少しも迷いのない歩速は、まるで最初から場所を決めているような印象を受ける。壁一面の窓ガラスを近隣に置いた席まで来ると、切れている通路を左に曲がった。

 そこで槞牙は気付いた。通路を曲がり切った後の正面――正確には右手にある手前から三番目の席。

 その席の地面でごそごそと動いている物体があった。急いで隠れようと潜り、不意に頭を上げてテーブルに激突している。『あうぅっ』と声を漏らし後頭部を摩る姿に、槞牙は見覚えがあった。

 あれは間違いなく白石菻音だ。

 しかし、なぜ隠れるのか? それも明らかに槞牙を避けるようにして。

 当然のことながら、槞牙は面白くない。

 黒い――いや、隠れピンクな感情を出し、得意のワキワキの手とスケベ面を全開。


「菻音のやろー、この俺様を避けるとはいい度胸だ。これはサービスショット的な措置を取らないとな。むふふ……」


「あらあら。槞牙君……ド外道ー」


「外道ではなーい! 誰もが体験する空前の青春いっちょくせぇーーーん!」


 そう叫ぶと、物凄い勢いで菻音の隠れている席まで突撃していく。埃が茶色の煙として描写されるあたりが何ともお決まり。

 百パーセント間違いない空席に腰掛け、テーブルの下を覗く。

 そこでは菻音が四つん這いで埋まっていた。後頭部を打たないように頭を下げているため、尻が突き出された状態となっている。

 槞牙は両足を菻音の脇腹の辺りから差し込む。ひっ、と掠れた声を出し過剰に反応する菻音を無視し、内側に封されていた二つの球体を足の甲で押し揺らす。 ……うはぁ、これはいい! これはいいぞ!

 くすくすと笑いながらテーブルの横に立っている小森に、


「あれ? なんだか柔らかい物体があるんだけどぉ?」


「それはエアークッションですー。最近の喫茶店では流行りなんですよー?」


「おおー! 納得!」


 わざとらしい口調での問答。今度はスカートの上から菻音の尻を両手で掴む。もにゅひぁ! との奇声をまた無視し、


「あれ? このエアークッションよりは少し硬い、台みたい物体は?」


「それは『王家の台座』ですー。最近の喫茶店では必需品なんですよー?」


「おおー! 完璧に意味わからんが……もう無条件で納得ー!」


「さ、最初から私って解ってますよね!?」


 やっとツッコミを入れる菻音。肩越しにこちらを見る瞳が、少し揺れている。久々の菻音ダムだが、健在のようだ。木陰となっているテーブルの下でも、赤く――いや朱く頬を彩っている。

 抗議の視線を送る菻音に、槞牙は十八番のエロ魂フル稼動の笑みで、


「まだまだ……ここからが本番だぞ、菻音」


「え……?」


 困惑顔の菻音はやはり置いておき、両手で菻音の太腿を掴む。またもや、ひっ、と漏れた菻音の小さな悲鳴は、身体を引き上げられた時の騒音に掻き消された。

 目の前まで尻を引き寄せ、両手で相手の両足を固定し最後にミニスカートを捲って完成。


「お〜! お〜! うはー、こりゃ何と言うか……すっげー……」


 感嘆の声を挙げるのも無理はない。今の槞牙の視界には、素晴らしい光景が広がっていた。

 極限までドアップされた菻音の尻。それを白と青の横縞の薄い布が包み隠すも、逆に形の良さを余計に強調している。サイズがほんの少し小さいらしく、尻以外にも山の狭間が微かに浮き出ている。敢えて表現を変えれば、尻ヶ丘の下方にもう一つの小高い丘。その合間に狭そうでいて意外な面積を持つ入口の亀裂。


「ひぇー! み、見ちゃダメですぅー!」


 何とか身体をよじって逃げようとする菻音。しかし脚を固定されているため動かない。

 否、正確には動きはあった。それは支え切れてない尻に生じる微かな動作。

 右によじると、左の尻が浮く。左によじると右の尻が浮く。

 浮くと同時に沈むものがあった。況んや『天女の羽衣』だ。先程よりも食い込んで、余計にそそられる光景へと進化を遂げた。もう、辛抱たまらん。

 それでも槞牙は未完成の絵画を見るような顔をして『王家の台座』に手を置く。


「よーし、菻音。これからお前に質問をする。因みに虚言や拒否は認めない。もしルールを破れば……」


「や、破れば……?」


 菻音は地面を見つめたまま、震える声で聞き返す。身体を曲げるのが辛いのだろう。

 だが、そんなことを構う槞牙ではない。肘よりも前部の腕にスナップを効かせ、菻音の尻を叩いた。


「んにゃーーーっ!」


 瞬く間に大音声の悲鳴を発する。手加減しているとはいえ、初めて味わう感触が相乗効果となった。

 槞牙はやっと満足そうな笑みに変わる。


「解ったか? 意外と古典的な罰でよかったなー」


「良くないです! これセクハラの域を越えてますぅー!」


「越えたところで第一問!」


「開き直って無視ですかー!?」


 槞牙は飲み込みの悪い回答者を見てから溜息を吐き、手で頭に押さえて悠然と頭を振った。

 そしてスナップ効かせて、もう一発。叩いた時の弾力は、まるで潰れることを知らないマッシュルームのような柔らかさだ。

 パチンッと音がしてから、菻音の奇声が響く。


「わ、解りましたぁ! 開き直ったのは私でしたごめんなさい〜!」


「うんうん、理解ある対応で何よりだ」


 ふと横を見ると、奇声を聞き付け様子を探りに来ていた店員を、小森がやんわり笑顔で引き止めていた。 ……なるべく長期で楽しみたいが、やっぱり無理か。

 残念な気持ちを抑えつつ、本題へ。


「単刀直入に聞こう。何で俺を避けたんだ?」


「避けてません……」


 声を送った細い背中から、返答は一瞬だった。

 その言葉を受け取った槞牙は、両手に勢いを付け始め、


「ダブルでいくぞ〜?」


「さ、避けました! で、でも悪気は無かったんです……本当です! 出来心なんです、ごめんなさい!」


 菻音が本気の口調で謝り出す。アピールするように、腕の振り付きで。

 気持ちを察した槞牙は、すぐさま拘束を解いてやる。普段ならオマケで後一発は行きたいとこだが、時間がなく、場所が場所である。

 両足に自由を得た菻音は這って向こう側に移動し、両手で尻を押さえて立ち上がった。怒ってはいるが、目が半泣きなので迫力はない。


「まーまー……座って、座って」


 悪びれもせずに悠々と腰掛けてる槞牙。菻音は何度か口をモゴモゴさせた後、諦念した表情で席へと落ち着いた。

 座ってからも、何か言いたそうにしてから、目を地面に伏せるのを数回は繰り返してから、


「み、皆さんも……なんですから……」


 意味不明な前置きを自分に言い聞かせように唱え、


「私だって……槞牙さんとお付き合いすると決めた時から、このくらいは……覚悟してました……」


 気恥ずかしくなったのか、俯いて赤くなっている頬を隠した。

 想定外の台詞に呆然としていた槞牙だったが、我に返って意味を反芻してみる。

 ……い、今のって……。 続きは二つある。一つはこちらの性格を知った上での呆れからくる、半ば我慢している気持ち。もう一つは許せるくらい、自分に好意を寄せているから。それもお触り自由な状態な程に。

 すでに単純な思考である槞牙は後者を取りたがっている。いや、世の中の男には前者などを取る本能は備わっていない。態度と表情から察すると、明らかに後者。それでいいじゃないか。いや、それがいいんだ。 ゲームなら十字キーの下を一回、後に決定ボタンで大ハッピー。

 ……よ、よし! 続きはまた今度にしよう。むふふ……。

 そこで、なぜか菻音が自身で抱いた身体をブルッと震わせた。

 悪寒が、との言葉を発した菻音を無視して、槞牙はテーブルの上に置いてある手元の紙を掴む。束になっているのは放っておき、バラの方を。ついさっき気付いたが、何か書かれているようだ。

 それは女性の絵だった。ここの店員をモデルにしたことが、体付きや服装などで看取できる。


「実はぁ……漫画の参考にするために、ここに来たんです」


 まだ頬に赤みを残しながらも顔を上げる菻音。その理由では納得できない事がある槞牙としては、すぐに問う。


「……なら、別に俺を避ける必要なんてないんじゃないか?」


 菻音は一度、視線をテーブルの隅にやり、それから上目遣いで槞牙を見る。


「そうなんですけど……。でも……」


「でも?」


 詰問ではなく相手のペースに同調させて優しく聞く。

 一息の溜めを作った菻音の唇が、決意を固めて動き出す。


「こういう場所に一人で来ると……槞牙さんにオタク娘だと思われちゃうじゃないですか……」


「いや俺の中では菻音の評価って、すでにそんなもんだぞ?」


 言下に答えられたのも相乗してか、ええー、と叫んでテーブルに突っ伏してしまった。

 槞牙は菻音が打ちひしがれている内に、束になっている方の見始める。

 こっちは漫画だった。以前に見たものとは違うが、やはり絵は上手い。肝心の内容は、有りがちな恋愛ものではなく、『恋愛要素を含んだ格闘バトルもの』らしい。

 主人公は不真面目、不誠実で頼りなく、傍から見たら引くくらいにスケベな男。だが特技の格闘と人知を超えたファンタジックな技で、襲い来る凄腕の美少女戦士を次々と撃破。意外と熱い面もあり、その美少女たちの悩みを解決し、ハートを鷲掴み。今や美少女に取り囲まれハーレム状態だ。

 ……くそっ、漫画とはいえ羨ましい奴だ。

 湧き出てくる率直な感想を胸襟で巡らす。現実なら美少女を賭けて勝負したい所である。

 真剣に読んでいると、すでに立ち直っていた菻音がこちらを見ていた。しかも、その瞳は期待に輝いている。まるで宇宙に点在するプラネットのようだ。

 そんな感想待ちの菻音に、意味のない咳を一回してから、ゆっくりと言った。


「前よりもいいんじゃないか? 相変わらず絵は上手だし、何より俺好みだからな。内容も単純な恋愛モノよりは、捻りがあって面白いと思うぜ」


 賛辞を呈していく槞牙に、菻音はなぜか首を傾げて心底、不思議そうな表情になる。

 それには構われずに、感想は続いていく。今度は僅かな嫉妬を覚えただけに苦々しい口調で、


「……にしても、この主人公だけはどうしようもねえ奴だな……」


「え……、それってネタですか? ネタですか? ここで私はツッコミを入れるべきですか?」


「真面目に聞けよ。続きだけど……でもこの主人公には何故か共感しちまうんだよな。不思議なもんだな……。もしかして菻音って凄い才能があったりするんじゃないか?」


「本当に気付いてないんですね……」


 うなだれた菻音。しかし槞牙が、あ、と声を漏らすと同時に顔を上げた。その表情は明るく。


「気付きましたか?」


 声も弾む。


「ああ。今、気付いたんだけど……」


 菻音は真剣な顔の槞牙を見て、うんうん、と頭を縦に振る。


「メインの美少女たちに、水着ショットがないな」


「そんな個人の嗜好は聞いてないですぅー!」


「違うのか? ――ああ、そうか!」


「やっと気付いてくださいましたか!?」


「ごめん、菻音……。言い忘れてたよな? 俺……縞パンも好みだって」


「どんどん離れていきますね……。しかも私のトラウマになりそうです、それ」


 そんな遣り取りも交えた会話が一時間も続いたが、結局、槞牙が気付くことは無かった。

 ……あ、やべっ。

 レジの近くにある洒落たデザインの時計で時間を確認すると、時刻は四時半を過ぎていた。そろそろ雫が買物を終えて家に来る頃だ。遅れると不機嫌になるし、最悪の場合は手料理を食べ損なうことになりかねない。


「んじゃ、悪りぃけど俺はこの辺で帰るな。雫に寄り道するなって言われてるんだよ」


 そう言って、注文していたアイスコーヒーの残りを飲み干す。


「また来て下さいねー」


 席を立つと、ちょうど席の近くに来ていた小森が声を掛けてきた。

 槞牙はわざとらしくスケベ面を作り、両手をわきわきさせ、


「おうよ。来るよ来ちゃうよ、小森さんの胸を見にさー」


「あらあらー、若いってセクハラねー」


「いや……確かに若くてセクハラだけど、言い方が間違ってないか?」


「そんなことないですよー。言わば、気分次第でそう聞こえるんですー」


 小森理論の難解さに首を傾げつつ、時間がないので話もそこそこにして、レジへと向かう。

 そんな槞牙の背後から弱々しい声がした。


「あの……槞牙さん……」


 菻音だ。先程まで笑顔だったが、今は深刻そうな面持ちでいた。よく観察すると『深刻』というより『心配』かもしれない。

 しかし雫との約束に傾注していた槞牙は、深くまで読み取ることを怠った。


「どうした? 新キャラ作りのために鬱ガールの練習か?」


 そんな軽口に、菻音は本当の作り笑いを浮かべる。


「ええ、実はそうなんです」


「新キャラもいいけど、水着サービスも期待してるぜ」


 槞牙は不信の念を一片も持たずに、手を振ってから菻音たちに背を向けた。

 レジで会計を済ますと、足早にコスプレ喫茶を後にした。



 槞牙が去った後、菻音は自責も含んだ溜息を吐いた。まだ少し乱れの残る服を丁寧に直し、胸ごと視線をテーブルに投げ下ろす。

 ……言えませんでした。 思い出すのは、真実を全て知った雫の反応。彼女は冷静だった。ずっと仲間外れにされていた事実を告げられても、だ。まるで今日の夕食の献立を聞くかのような軽微さ。

 おそらく彼女の性格からして、菻音たち女性陣に怒りをぶつけてはなるまいと、懸命に抑えたのだろう。 だからこそ逆に怖い。その怒りの矛先が親愛している兄へと向かってしまうのが。あの二人の関係が一気に瓦解してしまうのではないか。もう学校での仲睦まじい光景が見られなくなるのではないか。

 今こそ忠告して、穏便に済む方法を一緒に模索するのが道理ではなかったのか。

 だと言うのに――

 再び深い溜息を吐くと、包むような感触が肩へと伝わって来た。小森の手だ。 彼女の、のほほーんとした笑みは崩れることを知らない。


「心配いりませんよー」


 顔を上げた菻音の目尻の水滴を優しく拭い、


「あのセクハラのされ方は、間違いなくヒロイン級ですからー」


 グッと胸の前に持ってきた親指だけを上げてのサインがキマる。菻音は槞牙並のずっこけを見せてから力いっぱい叫んだ。


「そんなこと心配してないですしトラウマえぐり出しで酷いですぅー!」


 すでに鮮明に甦っている現場。お尻の部分に、また幻痛で出てきそうだ。

 すると小森はハッとした表情を見せ、次に笑顔を消し、鋭く冷徹な瞳で菻音を見つめる。


「貴女はいつも、ヒロインだった……」


「えー!? 急にですか? 急にですか?」


「駄目ですよー。そこは『貴女に私は倒せない』って言わないとー。あ、でもまだ勝負は着いてませんねー。私の予想ですとー、最後に悩殺アタックを放つ私の大勝利なんですー」


「話がどんどん飛ばされていきますね……。『悩殺アタック』って何ですか? お尻を叩かれるよりも凄いんですか?」


 小森は意味ありげな目付きで、妖艶に微笑み、


「大人の世界はそんなものではありませんよー。うふふ……」


「し、質問の仕方を間違えましたぁー!」


 数分後、大声を挙げ続けた菻音は店からブラックリスト扱いを受けた。



 空は夕日の影響で、薄い朱の色が青の平野に差し込もうとしていた。一部では薄紫が境界線のように空の陣地を占めている。

 夕刻になった街の風景はどこか神秘的な雰囲気となり、冷気の増した微風が頬を撫でると、一握りの風の匂いもする。

 特に影響を受け易い高層マンションの壁は、紺に混じった赤みを目立たせる。靴が階段を打つ音や、エレベーターの駆動音が、やけに板につく。そんな風景。 買物を終えた雫は、静かな廊下を歩いていく。手に提げたビニール袋がお馴染みの摩擦音を立てながら、槞牙の部屋へと近付く。

 黒髪が風に流されるのは少しばかり不快だが、清涼具合が相殺してくれる。

 ……今日はお兄ちゃんの好物ばっかり。喜んでくれるかな?

 鼻唄を乗せた満面の笑顔で、ドアの取っ手を掴んだ。

 ……あれ? 帰って来てるの?

 鞄から合鍵を探るも、開いていることに気付いて驚く。あの槞牙が自分の言い付けを守るなどと、始めから期待していなかったのだ。こうして守られると、逆に気味が悪くさえある。


「お兄ちゃん」


 ドアを開けると、上機嫌な声に若干のリズムを添えてみせる。だが、部屋の中を見た雫は一瞬にして笑顔を解いて目を丸くした。部屋に居たのは、槞牙ではなかったのだ。

 袴姿の初老。白髪、白眉に、威厳ある顔付き。長く整った美髭。年齢に釣り合わない良い体格をしている。

 それは、雫がよく知っている人物だった。

 繞崎膳邇。拳聖繞崎流派の最高権力者であると同時に、槞牙と雫の祖父だ。


「済まぬが、少しばかり邪魔している」


 言葉を詰まらせていた雫を見兼ねてか、膳邇が先に喋り掛ける。その口調は僅かに澱んでいた。そんなに言いにくいことでもないはずなのに。

 それに雫だからなのか、面持ちも普段より柔らかい。槞牙の時とは大違いだ。 健在な膳邇の様子を見た雫の脳裏に浮かぶのは、今朝のこと。すぐさま出てこなかったのは、それほど意外な人物の来訪だったからである。


「そういえば……お爺ちゃん。病気はもう治ったの? 門番の人が凄く心配してたよ?」


「病気? ああ……疲れから少し体調を崩してな。……全く大袈裟な」


 ははは、と一人で意味もなく笑い、辺りを見回す。やたらと空間だけが広がる室内に、次第に渋面となっていき、


「本当に何もない部屋だ。あの馬鹿者はどのような生活をしておるのか」


「でも私が調理器具とか持って来てるから、これでも少しは埋まった方なんだよ?」


 柔和な笑みでそう答えると、膳邇も同質の笑みを持って返してくる。


「これが次代の後継者になるはずの男だったと思うと……頭が痛くなる」


 対応に気を良くしたのか、大仰に手を頭に当て戯けてまで見せた。槞牙には絶対に見せない態度である。どうも膳邇は雫のことを溺愛している節があるようだ。

 しかし、それでも、

 ……きっと本題に入りたくないんだよね……。

 いつもそうだった。

 膳邇は槞牙には厳しくしているが、その実、心の底では頼りにしているのだ。それは、好き嫌いなどの個人的感情を超越した絆のようなもの。槞牙の感情はともかくとして、だ。仮に重大な事件が起これば、プライドなどは差し置いて真っ先に槞牙を頼るだろう。

 膳邇に限らず拳聖の流儀を担う者は、誰もが槞牙を頼る。繞崎流派や澤村流派の分け隔てなど、そこにだけは存在しないのだ。

 その反面、自分は頼りにされたことなど無かった。誰もが優しくて、愛されていることは感じているが、やはり足りない。確固たる信頼が。期待が。

 自分には見せてくれない、あの人達の弱さを。兄には惜し気もなく出すというのに……。兄に嫉妬している訳ではないが、この虚無感は余りに重過ぎる。

 だからこそ、その兄から少しでも頼りにされる人間に成りたかった。兄から信頼されるのは、自分に取っては皆から信頼されてるのと同様な気がしたから。鳥滸がましいのは解ってるけど、そうしていないと――


 私が私でいられなくなる気がする。


 だが結局は徒労に終わってしまったのだ。肝心の、兄からの信頼を得ることは出来なかったんだから。

 私は道化。私は虚像。私は空気。このままでは存在が終わってしまう。

 だから選択しよう。まだ残っている道を。繞崎雫を保てる、たった一つの補整済みの道路へ。ちゃんと脚を衝けて。

 雫は瞳に真摯な想いを詰め込むと、膳邇を正視した。強く引き結ばれた唇を開き、決意を押し出す。


「お爺ちゃん! あのね……後継ぎが必要なら、雫がなるよ。ううん……雫を拳聖繞崎流派の後継者にしてください!」


 部屋に響いた声が届くと、膳邇は明らかに狼狽を露にした。

 雫は眼光を更に快活にさせ、捲し立てる。


「知ってるよ? 本当はお兄ちゃんに戻って来て欲しいんだよね? でもお兄ちゃんはお爺ちゃんの後を継ぐ気がないの。だから代わり……って言っても頼りないかもしれないけど……それでも私、頑張るから! 少なくてもお兄ちゃんより真面目だし、武道の才能だってあるはずだもん! 繞崎雫が後継者になって見せるから! ね?」


 最後には、安心させるために再び柔和な笑みを。思わず一歩を踏み出して。ここまで積極的になれたことに、誰あろう、雫が最も驚いていた。

 今ならどんな障害も乗り越えて行ける。お兄ちゃんに追いつける。そんな気さえしていた。

 しかし膳邇の反応は雫とは反対の性質だった。雫へ向けていた笑みなどは消え去り、困惑の極みに達していた。勢いに押されるようにして、脚を一歩引いている。

 こんな膳邇は希代である。長い年月を供にした従者でさえ、見たことはないだろう。

 瞳の輝きを衰えさせない雫。

 数瞬の間を置いて平静を取り戻した膳邇は、辛そうに、訥々と告げた。


「雫……お前の気持ちは……有り難い。だが、すまん……。お前には……、雫?」


 視界が滲んでいた。

 手に重量感を無くしたことに気付いて下を見ると、ビニール袋が地面に落下していた。

 割れた卵。容器の変形した肉のパック。角が凹んだ缶類。

 ……全部、私みたい……。

 何かが弾けた。卵よりも大きな音を立てて。堰を切ったように溢れ出す涙は、もう止まらない。

 止まらない。止まらない。


「待ちなさい、雫!」


 膳邇が必死の面持ちで訴える。

 意味が解らない。なんで、そんなことを言うのかが。

 ……あ、そっか。

 無意識の内に走り出していたのだ。どこか、遠くまで行くために。独りになれる場所まで行くために。すでに心は独りぼっちだけど、それでも行きたい。

 もう、終わっちゃったね……。



「いやー俺ってさ、自分でも驚きの超トラブルメーカーでよー車に追われるわ犬に轢かれるわで大変だったんだよマジで。え? 普通、車と犬の動作が逆だって? そりゃ、ダメだなぁ。常識に囚われたら人間はおしまいだぜ? もっと柔軟な発想で状況を理解して、ついでに俺を無条件で許せる寛大な心を持とうじゃないか! うんうん! ありがとう、この素晴らしい世の中!」


 高層マンションの駐車場付近で独白した槞牙は、顎に手を満足そうに頷いた。 ……完璧だぜ。この俺様が即興した言い訳は。斬新で先鋭的かつリーズナブルだな。

 大きく一息を吐き、短い発声で気合いを入れる。いざ、出陣。


「ひぃ……!」


 万全の備えで雫の許へ向かおうとした槞牙だが、入口から飛び出し人影を見て顔を真っ青にした。他でもない、雫本人だ。

 しかも全力疾走。あれは余程、怒っている時にしかしない走り。

 ……こ、殺される。

 とてもじゃないが走って逃げるのは無理。土下座は認知されない。下手な宥め方は即死。

 その場で凍り付き、閉口している槞牙。雫は一直線に迫ってくる。

 そこで、やっと思い出した。特訓した、死角なき言い訳があることに。今こそ、使うべきなのだ。


「ち、違うんだ、雫! 遅れたのには訳が……そう、大事な妹が貧血で倒れて……また走ってるー!」


 このプレッシャーの前では方策、尽きた。諦めて折檻を受ける覚悟を決めた。 ……え?

 その時だった。雫が泣いていることに気が付いたのは。

 彼女が走っている理由は怒りからではなかった。

 深い悲しみ。あんなに悲しそうに泣いている雫は、槞牙とて初めてだった。

 真横を通り過ぎようとする雫の腕を掴む。その面持ちからは普段の気抜け加減は無くなり、悲愴で染まっていた。


「雫……! どうしたんだ? 何かあったのか?」


 声調までも弱々しくなっていた。なんて情けない声だ、と槞牙自身が感じていた。

 それでも脚を止めた雫に胸を撫で下ろす。

 だが、そんな安堵は束の間だと思い知らされる。


「煩い! 放してよ!」


 この辛辣な声に。敵意ある目に。全身で、触れられるのを拒否する動作に。

 あ、と思った時には手を放していた。また走りだした雫は、マンションの敷居を抜け、どこかへと姿を消した。

 人格が変化したかのような雫を追い掛けることも出来ずに、寸時、呆然としているより他は無かった。

 ……なんで? なぜだ? なぜなぜなぜなぜ……。 ショックで機能低下していた脳が動き出す。すると簡単な答えが導き出される。 考えに至った時には、その方向を睨んでいた。殺気に満ちた瞳で。ただ、自分の部屋の方向だけを。

 歩きから、徐々に走りだし、エレベーターも使用せずに階段で。段を飛ばし、脚に〈パステル〉を纏い飛ぶように。

 開きっぱなしのドアから中を覗き、その人物に持てる殺意を浴びせる。


「てめえは……」


 低く、暗く、底冷えする声で呟く。

 その相手――膳邇は、槞牙を見るや否や表情を変える。沈痛から、威圧する無表情に。

 今の槞牙に、膳邇の感情を測る程の冷静さは失われていた。否、どうでも良かった。雫を悲しませた人間が目の前にいるのだ。それだけ充分だ。

 胸の奥で溶けるような熱い激情は、そう語っている。

えー、ネビリム三世は只今を持って復帰します。こっちのテンションは久々でブレーキが効きにくくなってます(笑)それとジャンルを「学園」に変更いたしますので、ご理解の程を頂きたく思います。お願い致しますm(__)m

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