【エピソード1:青い小星・その2】
「……ちゃん」
何かが聞こえる。
女の声?よく聞き取れなかった。
まだ頭がぐらぐらしやがる。
本気で殴りやがって……。
「……お兄ちゃん」
今度は聞き取れた。
雫の声だ。この音程は呆れ気味だな。
――槞牙は目を開けた。
案の定、雫が注文通りの表情をしていた。
「また朝練中に何かしたの?」
上体を起こした槞牙に、雫は冷然と尋問に取り掛かる。
「何って?」
「お爺ちゃんが怒るようなこと……」
「ああ、字が雲長さんの人か」
槞牙は負けじと同じ温度の口調で流す。
「? もういいよ。どうせ変な想像をして、つい口から出したんでしょ?」
「我が妹よ。俺がそんな愚行をやらかすような人間に見えるか?」
ダメージが癒えた身体を跳ね起こし、大仰な動作付きで兄の威厳を表した。
「残念だけど、見える……」
「さよけ」
お兄さまオーラを見事に受け流した雫にやる気のない返事をし、槞牙は半端屋敷に向かった。
◆
槞牙が門の前に来ると、上が白と下が藍色の袴姿の男が近寄ってきた。
「手形を拝見させて頂こう」
そう言うとマジ役者は右手を前に出した。
「いいよ。『隣の門』から入るから……」
手で追い払う仕草をし、目の前にある外装が半分に分かれた和洋折衷の門の洋風側に向かう。
しかし、その時――
門番に後ろから肩を掴まれ、歩みを止められる。
「なんだよ。ぶっしー」
槞牙は迷惑な表情を露骨に出して言う。
すると門番はいきなり膝を折り地面に頭を着いて土下座し叫んだ。
「どうか、この門をご利用ください! 配属以来、たったの一人も通ったことがないのです! どうかご慈悲を……!」
もはや悲痛とも取れる叫びに、槞牙は男に惻隠する。おそらく長い門番人生。自らの役目を果そうと真摯な態度で努力している男。
そんな男の心情をどうして蹂躙できようか。
――槞牙は眼下にいる男の人生を見透かす。そして男を見捨て洋風の門から中に入った。
面倒なものは面倒でしかないのだ。
(ぶっしー。お前の犠牲は忘れない……)
外から男の慟哭が響き渡ったが、槞牙は足を止めることをしなかった。
『お帰りなさいませ! ご主人様!』
入室と同時に通路の両側に立ち並ぶ、可愛いメイドの壁。
全員、愛想の良い満面の笑み。
槞牙がこちらから入る理由の九割はこのためである。華やか且つ艶やかな通路を惜しみながら歩いていく。
「槞牙様よ。格好いいわ〜」
「こちらにお住みになられないかしら。そしたら朝には『誠意』を持って、起こして差し上げることができるのに〜」
槞牙が通り過ぎると、メイドが小声で囁く。
槞牙は内心ではウハウハ状態になっていた。
だが、すぐに辛気臭い雰囲気になると知っていた彼は、なんとか外面はクールに無表情で決めることができた。
やがて二画面にしたテレビのような、洋と和の風景が広がる。
槞牙は足取り重く渋々と和の方の通路を歩いていく。すると何やら前方で和の格好の男と洋の格好の女が口論していた。
「なんですか! 私はただ書類を届けて帰る途中なだけです!」
「いいや。例えどのような理由があろうと、こちらの敷居を跨ぐことは許されない」
槞牙はその様子を見て溜息を吐くと、二人に近寄った。
「どうした? 揉め事か?」
「槞牙君! いいところに来てくれたわ」
女は槞牙の存在に気付くと、金色の髪を左右に振って接近し右腕に身体を寄せた。
「何だ。朋香さんか……」
彼女は澤村朋香。
美しい顔立ちに怜悧な風貌、そして男を魅了する身体。
澤村家の養子にして洋風の城を主である婆さんの腹心である。
「この武士を追い払ってほしいのよ。さっきからしつこくて……」
朋香が少し動く度に柔らかな感触が槞牙の腕に伝わる。
槞牙はそれに操られ、男に向けて言葉を発す。
「分かったよ。おい、この人のことはもういいから、他を警備してくれ」
「はぁ……。はっ! 了解しました!」
明らかにエコヒイキな発言を、男は渋々と承諾し引き下がった。
「ありがとう。助かったわ」
朋香が腕から離れる。
「いえいえ、女性を助けるのは紳士として当然のことですよ」
槞牙は名残惜しさを全身で噛み締め、柄にもない口調で答えた。
「またね」
朋香は洋風の方――自分の陣地に帰っていった。
実はこんな揉め事は、取り分け珍しい部類ではないのだ。
元は普通の大邸宅だったこの場所がこうなってしまったのは、爺さんと婆さんの価値観の違いを原因とした夫婦喧嘩が引き起こした由々しき事態だ。
お髭さんは風情ある和が好きな拳聖繞崎流派。
婆様はいい年こいて洋風への憧れを重視する、旧姓から取った拳聖澤村流派。
そして好きな方に付いた部下。
そうして二つの流派は些細なことで歪み合うようになった。
ありていに言って、くだらない。
そして幼かった槞牙は強制的に繞崎流派になり、雫は澤村流派になっている。
――槞牙と雫は、滑稽なようでも重い現状に悶々としながらも、避難所の学校で心休める日々を送っていた。
あの日までは……。