【エピソード4:ある〜ひ♪ くまさんが……・その3】
走る、走る、ひた走る。
槞牙は突風を巻き起こし、廊下を駆け抜けた。
赤やら黄やら青やらと、捲れ上がる女生徒のスカートの中身をチェックして。
赤とか、も少し観賞したいなぁ。
階段を降りて一階に。
この階には、生徒が昼食を摂るための食堂や、娯楽室が設けられている。
とはいえ、ここの設備の大半は二、三年で独占しているので、一年は滅多に利用しない。年功序列な精神が無理矢理に蔓延っているのだ。
そんな中、槞牙は堂々と『逃げ込んだ』。
もはや逃走経路に構っていられない。逃げなければ。何からって? もちろん、虹野ソラとか云う、ストーカー擬きからだ。
「すげぇ場所だな」
まずは設備が充実していることに驚いた。
通路には自動販売機やソファー。通路と繋がった扉の先には、ゲームセンターで見かける筐体があった。防音設備まで整っている。
正面は浩々とした食堂となっていた。クラス教室で計ると、ざっと三、四室分ほどある。
沁銘院真一が裏権力だのと言う理由も分かる。
ソファーに腰掛ける。上級生からの視線が注がれるのも無視だ。
天井を見つめ、瞼を閉じて休む。
寸時してから、クイクイっと服を引っ張れた。
「ん?」
正面を見ると、緑色の髪をした着ぐるみ姿の小学生――ソラがいた。
左手で自動販売機を指差し、少し潤んだ瞳で口を開く。
「ジュース……」
「そうか、そうか。ジュースが欲しいのか? 仕方ないなぁ〜。お兄さんが買ってあげるよ」
ポンッとソラの頭に手を置き撫でる。
自動販売機の前に立ち、百円玉を入れようとしたが、そこで手を止めた。
がっくりと肩を落とす。自販機に寄り掛かり、数瞬してから、
「なんでお前にジュース奢らないかんのだ! ってか、見つかってるし……」
ノリツッコミが成立した所で、一人の上級生が槞牙に近寄ってきた。
「お前、一年だろ? なんで此処にいるんだよ。先生に頼まれた用事が無ければ入って来るな」
横柄な口調で、忠言する。
「ああ。悪いな。もう少しで出ていくよ。ご苦労さん」
槞牙はヘラヘラとふざけた笑みで言った。上級生に対する敬意も何もあったものではない。
男子生徒は顔を歪め、槞牙の胸倉を掴んだ。
「おい! 先輩に対しては敬語を使ったらどうだ?」
怒声の染み込んだ言葉を投げられても、槞牙は表情を変えない。
男子生徒は完全に激昂し、腕を振り上げる。
だが、その時。
もう一人の男子生徒が、掴み掛かっている生徒の肩に手を乗せた。
どうやら友人のようだ。
その表情は恐懼しているように見える。
「お、おい、やめとけって。こいつ繞崎だよ」
幾分が震えた声。
掴み掛かった方も、『繞崎』と聞いた瞬間、急いで手を放した。
「マジなのか……」
「間違いない」
耳元でボソボソと話している。
槞牙は様子を窺っていたが、やがて重要なことを悟り、恐る恐る言った。
「もしかして、お二人はそういったご関係で?」
辟易のあまり、敬語になる。
『違うに決まってるだろっ!』
二人同時に否定すると、槞牙は大笑し、胸の内で安堵した。
危うく、『新〇〇学園 男子の秘密』などというマニアックなタイトルが付いてしまうところだった。
最初の生徒が溜息を吐き、
「その、なんだ……。ともかく、早めに出ろよ」
それだけ言うと、そそくさと立ち去った。
(おお! そうだ!)
槞牙は悪戯な笑みを浮かべ、隣でジュースをねだり続けるソラに目を向ける。
「ソラちゃーん。あの先輩たちがソフトクリームを買ってくれるそうだよ?」
ソラのキラキラ瞳が一気に二人をロックオン。
二人は驚き、口をぱくぱくさせている。
「よし! 今だ!」
注意を逸らすと共に、全速離脱。悪いね、先輩。
屋上まで来た瑠凪は、空を縦断していく雲を見上げた。
太陽も、不揃いなそれを避けるようなコースに居座っている。
「いつまでそんなとこに隠れてるのよ?」
手摺りに身体を預け、屋上のドアの方に向いた。
そこには半分だけ顔を出してこちらを見る、菻音がいた。
まるでストーカーだ。
怯えた眼に、瑠凪はとてつもない嘔を覚えた。
「あー、もう!」
瑠凪は痺れを切らし、自分からストーカー刈りに討って出た。
その様子に気付いた菻音はドアの前を右往左往。
瑠凪はそんな菻音の後ろ襟首を掴み、外に引き摺り始める。
「ひぃ……。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。許してください」
とにかく謝りまくる菻音。瑠凪が手を放すと、尻餅を衝いた。
瑠凪は手摺りに戻り、再び空を仰ぐ。
沈黙。ながーい沈黙。これでもかと沈黙。
その末に、瑠凪から解除の言葉が出た。
「別に怒ってないわよ。あんたのドジは、今に始まったことじゃないし……」
そう言われ、菻音は肩を落とし、
「ごめんなさい」
と僅かな嗚咽を含んで呟く。
「だから怒ってないって言ってるでしょ? 何だか、あたしがイジメっ子に見えるから、泣くのと謝るのは止めて」
「ごめんなさい」
「…………」
瑠凪は謝罪マシーンを睨み一瞬だけ憤慨したが、すぐにその感情を溜息にして放出する。
沈黙、再来。
だが今度はすぐに次を切り出した。もちろん、瑠凪の方から。
「ありがと、ね」
意外な台詞に、菻音は俯いていた顔を上げた。
「あいつを脅すネタが出来たじゃない。タダで触らせるほど、あたしは甘くないのよ」
邪悪な笑みの瑠凪。しかし菻音に向ける悪意は微塵も無かった。
菻音は落ち着きを取り戻し、遠慮がちに言った。
「でも、あの……、あまり槞牙さんをいじめないで下さいね?」
瑠凪は菻音と目を合わしたが、彼女はすぐに逸らしてしまった。
これは罪悪感からではない。照れ隠しの行為からだ。
「ふーん、あんたもなの?」
「何がですか?」
「やっぱりいいわ。何でもない」
怪訝そうな菻音の視線を振り払い、眼下の光景に目をやる。
「全く、どこがいいんだか……」
生み出した声は、微風に乗って流れた。誰もその声の行く末を知る者はいない。
瑠凪が眺めている風景の真下。槞牙が走っていた。
校舎を横に並走していく。一階の窓から見える室内は、上級生の可愛い子ちゃんで溢れている。
「うはー、お友達になりてー!」
願望を口にしたが、それはお預け。逃亡中の恋愛はご法度。
右側には、身を隠せる庭園が見える。しかしグラウンドの中心を突っ切るのを発見されるリスクが高い。
もののけ(熊モドキ)の眼を侮ってはいけない。
ここは正面の体育館の方角から回り込むのがベストだ。
横の風景が校舎から学生寮に移り、尚も通り過ぎて体育館の裏手に。
ここまで来れば、校舎からの発見は不可能。振り切った。
槞牙は近くにあった階段を椅子代わりに使う。
「ふぅー」
一息ついてから頭を掻き、地面と睨めっこをする。
「なんで俺が逃げないといけないんだ? つーか、なぜあいつは俺を追い掛ける?」
思案に暮れる。
しかしどう考えても結論は同じ。瑠凪の言う通り、やはり懐かれたのか。
だとしたら冗談じゃない。あんな子供に付き纏われては、薔薇色の学園生活が危うい。
ちょっとアネゴ肌の彼女からデコピンをされたりする計画や、ちょっと内気な彼女から弁当を食べさせてもらうという計画が。
はっきり言って連載が始まって以来、最大のピンチだ。
煩悶する槞牙に、人影が重なった。
槞牙はビクッと肩を跳ね、少しずつ顔を上げた。
そこには虹野ソラではなく、水無瀬靜馬が立っていた。
細身で背丈は標準。腰を越える深緑の髪を後ろで縛っている。
顔は程よい整い方だが、気弱そうな雰囲気を感じる。
「なんだ靜馬か。驚かすなよ」
靜馬は辺りを見回してから、文字通り『?』な状態になる。
「なにかあったのかい?」
「ああ。いうなれば、この国民的アイドルの俺様の危機だ」
お前は何様だ。
「そ、そう……」
気の抜けた顔で言葉を返す靜馬。それから何かを思い出したように、いきなり違う話をし始める。
「そうだ。あのさ、槞牙。ちょっとだけ相談に乗ってもらえないかな?」
「ほほう。珍しいな、親友。女の子の扱い方なら、手取り足取り教えてやるぜ」
「いや、そうじゃないって!」
靜馬は慌てて否定した。
ただのギャクなのに。全く、この純情ボーイは。
「まあ、話してみな」
そう言うと、靜馬は少しの間、黙考し次のように切り出した。
「例えばだよ? ずっと前から好きな人がいて、その好きな人にもずっと前から好きな人が居たとしたら、槞牙はどうする?」
聞いた瞬間、槞牙は肩の力が抜けていく感覚に襲われた。
あらまー、青春しちまって。全く、この純情ボーイが(二回目)。
「そんなの簡単だ。好きなら何が何でも手に入れろ。正直、相手の気持ちなんてのは、交際に取付けた後で考えればいいんだよ」
あっさり即答した槞牙。
靜馬は目を伏せ、微かに陰鬱と覗かす表情で言った。
「そうなんだ。やっぱり槞牙は凄いね。だから――」
そこでハッとした様子で、自らの口を塞ぐ仕草を見せる。
「『だから』、どうした?」
「いや、いいんだ。今のは忘れて……」
両手を使って、無駄に大きいリアクションをする靜馬。
「そうか。ま、頑張れよ。純情ボーイ」
槞牙はその違和感をさほど気にせず、三回目は口にして揶揄する。
「ありがとう。じゃあ、僕は次の授業の準備があるから、これで」
「おう。じゃあな」
靜馬はそれすら寛容に受け止めると、足早に去っていった。
槞牙はまた地面を睨み、次は自分の窮地について黙考した。
すると数秒もしない内に、人影が重なった。
「ん? どうした、靜馬?言い忘れたことでも――」
おもむろに顔を上げた槞牙は、目の前の人物を見て凍り付いた。
言うまでもない。ソラだ。続けようとした言葉も喉の奥に帰り、代わりに長嘆する。
ダメだ。この追跡者からは逃れられん。
槞牙はついに観念した。
槞牙たちの居なくなった教室で、雫は一人、暇を持て余していた。
基本的に学園では、勉強以外は暴走する兄へのツッコミ役か、鉄槌を下す役だけ。その兄がいないと、することもない。
さりとて、そんな無為な一時も嫌いではない。
考えてみれば、友達付き合いも浅いものばかり。
たまに話し掛けられても、内容は現在の槞牙の居場所など。
これでいいのだろうか?
思案していると、柚菜が目を覚ましたのを確認した。
「んあ? 槞牙たちは?」
お決まりの質問をされる。
「さあ? どこかに行ったみたい」
柚菜は寝呆け眼を擦りつつ、席を立った。
「霧島さんも行くの?」
雫は完全に孤立することに、強い懸念を覚えた。
「いや、トイレ……。それから柚菜でいいよ。友達なんだし」
「う、うん」
雫は動揺しながらも首を縦に振った。
実は、いつから友達になっていたのか、不思議で仕方がなかった。
槞牙との仲が良くなってから二日ぐらいで、すでに名前で呼ばれていた記憶がある。でもそれは『繞崎』の姓で学園に通っているので、最初は槞牙と分別する意味合いかと思っていた。
しかし、違った。はっきりと彼女の口から『友達』だと。
いったい、いつから。
別に拒否したい訳ではないが、気になる。
同時に認めたくなかった事柄も明るみとなり、雫は心中で悲嘆した。
私……、お兄ちゃんとセットなのかなぁ……。
少女の苦悩は果てしない。数分の間、目まぐるしいほどの疑問の嵐と対峙した。そんな折、一度に全員が教室に戻ってきた。
瑠凪、菻音、柚菜は前のドア。槞牙とソラは後ろのドアから。
「しずく〜、こいつを何とかしてくれ」
槞牙は情けない声を出し、定位置――肩に乗っているソラを指差す。
そんな槞牙の顔を瑠凪が押し退け、
「それよりも、あの娘を泣き止まさせて!」
歔欷する菻音に、瑠凪はすっかり困惑している。
「ぐすっ……良かったですぅ。嫌われてなかったぁー!」
槞牙は瑠凪の手を跳ね除ける。
「そんな事とはなんだ。見ろ、これを! 年がら年中、騎馬戦してるみたいじゃねえか!」
「知ったこっちゃないわよ! そんなの!」
バトルが始まった。互いにラッシュの応酬。
特等席のソラはケラケラと笑っている。
制止に入ろうとした雫の眼前に、縋るような目をした柚菜が現れた。
「なあ、雫。裁縫できるよな? ボタンが取れちまって」
次から次へと希求され、先程の悠然とした時間がまるで幻であったかのようにさえ感じる。
そんな中、不思議と雫の表情が柔らかくなった。悩みを吹っ切った笑み。
「もうっ! みんな落ち着きなさぁーい!」
騒動の中心で、快活な声を教室に響かせた。