【エピソード3:副業は正義の味方!?・その6】
高層マンションの一室。
シャワーを浴びた槞牙は、湯気を纏いつつ脱衣所から出てきた。
内部は高級なのだが、家具などが全く見当たらない殺風景ぶりだった。
ここは槞牙の新居。
菻音を介抱する場所を思い当たらなかった槞牙は、川原から近い自宅に連れてきたのである。
ミス白雪姫の状態な菻音。まさか、彼女が露出仮面とは。
槞牙は髪に残る水気をタオルで揺さ振り飛ばしながら菻音の顔を見た。
物静かで目立たないタイプの彼女がだ。
仮面戦士。正義の味方。パステル使い。ありていに言ってどれも似合わない。
体術も。バリアや槍もどきの攻撃だって。
何より、この胸。私服のときは隠れて分からなかった。着痩せMAX! だなんて。
予想を遥かに超える、この――
槞牙は双子惑星に急接近していた自分に気が付き、慌てて離れた。
タオル一枚はやばいので服を着る。
――いかん、いかん。
いつの間にやら、思考が胸に。
その題材なら、あと五時間は一人議論が出来たが、今は控える。
大抵、彼女のような種類の人間は、強大な力を得てもそれを隠蔽する傾向が強い。自己防衛や身内が窮地に立たされたとき以外は使わないのが普通であろう。
だが彼女はどうだ? 自ら戦いを仕掛け、周囲など気にする事無く己の正義を遂行した。第一印象から記憶を辿っても、ありえない出来事である。
何が彼女をそうさせるのか……。
槞牙は溜息を吐いた。
パターンからして、今回も大変な労力を使いそうだと予測したからだ。
「ん……」
菻音が苦しそうに吐息を漏らした。
「おっ、意識が戻り始めたか」
槞牙は菻音の上体を左腕で抱き上げ、左右に揺らした。
菻音の瞼が半分ほど開く。首を動かして辺りを見渡した後、 正面の光景を眺めたまま固まった。やっと槞牙に気付いた様子だ。
目を見開き、困惑の表情を続けること数秒。
「あ……!」
両手を口元に持っていき、目は涙ではっきりと潤んでいる。菻音ダム崩壊寸前。槞牙は菻音の心情を理解し、倉皇としながら訂正に入る。
「待て。これは違うって。そのな……、事情が変わったと言うか何というか……。もともとお互いに友好関係を深めるべき相手だったんだ」
「友好関係……ですか?」
涙声で言う菻音。水没した黒い瞳、ゆらゆら。
「そう、実は仲間だ。最初から仲間で、人類は皆が兄弟」
必死の説得で菻音を宥める槞牙。
「あはは……」
なぜか抑揚のない笑い声を出す菻音。
『…………』
沈黙。その場の空気が何となく穏やかな雰囲気に包まれた。
その砌――
「きゃあああああああああああああああーっ!」
嵐の前の静けさだった。
菻音は立ち上がり、槞牙を蹴立てまくる。槞牙は抵抗すら出来ず、連撃の錆と消えた。
菻音の顔はデフォルメ全開。
滝のように流れる涙の直産地が異常に大きく強調され、身体のラインはどこかへ旅立った。
「私はもうダメです! 凌辱された汚れた身体で生き恥を晒すよりも、サランラップを顔に巻いて死んでやります!」
槞牙は『凌辱』と『汚れた身体』と云う言葉に反応し目を覚ました。
「うおっ!!」
目の前では、物凄い速さで台所を荒らす菻音の姿があった。
菻音は広いキッチンを余す所なく探索すると、溜息を吐く。幾分か失望した表情で槞牙の前に正座する。
「何ですか、このキッチンはっ!? サランラップどころか、包丁すら置いてないなんて!」
相当、気に入らないのか説教。本当に自殺を決意していたのだろうか?
「うるせぇえええー!」
逆襲の――いや、逆ギレの槞牙。菻音を指差し、
「そこに座れっ!」
と、すでに正座中にも拘らず叫んだ。
その頃の柚菜と瑠凪。
掃除中でも話は盛り上がり、両者の関係は一気に友人にまで昇格していた。
現在は瑠凪の家の前まで来ていた。柚菜の相談ごとを受けるため、瑠凪が誘ったのだ。
合鍵を使いドアを開けると、奥から慌ただしい足音が聞こえてくる。
瑠凪は『またか』と思い、つい溜息を漏らした。
「ルナちゃーん! お帰りなさぁーい!」
夏の太陽のごとし明るさで現れたのは、瑠凪の母親であった。
瑠凪の母――恵は柚菜を見た途端に硬直してから、すぐに我に帰ったように動作を復活させた。
「きゃー! ルナちゃんのお友達!? どうしましょ! 数年ぶりだから緊張しちゃう!」
歓喜の声を上げ、満面に喜悦の色を浮かべる。
瑠凪はこめかみに青筋を立てながら頬を赤くする。
「……無視して入って」
瑠凪は性格が一変した母親を無視して中に進む。
「えーと……、お邪魔します」
躊躇いがちに、瑠凪の後を追う柚菜。アイドルのように笑顔を絶やさない恵を一顧しながら。
「数年ぶりって……、悲しいな」
「ほ、ほっといて」
柚菜に痛い所を突かれた瑠凪の口調が沈む。
階段を昇る途中、またもや後ろから弾んだ声調。
「後でおやつ持ってくねー!」
「持って来なくていい!」
怒声で返す瑠凪。
「あ、そっか。瑠凪ちゃん、好きな子が出来たからダイエット中だっけ?」
「う、うるさいっ!」
悪戯っぽく笑い、テテテと走り去る恵。
柚菜は微妙に辟易した様子で、瑠凪に言った。
「なあ。お前の母親の性格だけどさ」
「それ以上は言わないで」
その話題を振られたくない瑠凪は、急いで部屋のドアを開け、柚菜を招き入れた。
「ちょっと待ってて」
それだけ言ってドアを閉め、超スピードで階段を降りキッチンへ。
ドアを開けると、思った通り、恵が持て成しの準備をしていた。
「いらないって言ってるでしょ!? それから好きな奴がいるとか勝手に決め付けないで!」
「いるんでしょ? それくらい分かるよ。母親だもの。隠さないで私には何でも話してね?」
瑠凪は唖然とした。まるで不思議な国の住人とでも話している心情だった。
とにかく部屋に来られたら面倒なので、準備してあったクッキーと紅茶を持っていくことにした。
階段を昇り、片手でお盆を支えてドアを開ける。
その瞬間、瑠凪は力いっぱい声を張り上げた。
「何やってるのよっ! あんたはっ!」
それは瑠凪にしては珍しい砕けた語調。
ツッコミを入れた先には、瑠凪のピンク色のブラジャーを自分の胸部付近に当て、何やら感心している柚菜の姿があった。
「でっかいなー、お前」
さらに感嘆する柚菜。
瑠凪は戦闘モードよりも早い動きでブラを取り上げた。
「まったく。小学生みたいなことは止めてよね」
「悪い、悪い。オレ、着けたことないから気になって」
「…………。やっぱり小学生?」
舞台は戻って、槞牙。
頬杖を衝きながら所在なく横になっていた槞牙が起き上がる。
「やっと戻ってきたか」
「え? 何がですか?」
怪訝そうな面差しで菻音。
「気にすんな。こっちの話だ」
それとなく流すと、昨日コンビニで買ったクリームパンを頬張った。
菻音は訳の分からないまま、とりあえず頷く。それから丁寧に、頂きます、と告げてからクリームパンを『はむっ』と噛った。
槞牙は事情を説明して落ち着いた菻音と暫し談笑していた。
彼女の生真面目な性格が功を奏してか、馴れれば軽いもの。他人の位置からは、かなり距離を詰めることができた。
そこで槞牙は本題に入った。
「んで、何でヒーローごっこなんてしてたんだ?」
「何でと言われましても、私の趣味ですから」
急に控えめになる菻音。
槞牙は暗くなった雰囲気を悟りながらも続ける。
「いや、でも。白石はそういうタイプには見えなかったぞ」
「えぇっ!?」
菻音は大声で仰天する。
そんなに驚くことを言っただろうか?
「な、なんで私の名前……。えっ! えっ!?」
菻音は自分の顔の周囲で両手を動かし『あるもの』を探す。
その行為を何度か繰り返すと、顔を真っ青にして、
「仮面がない! 素顔を見られてしまったなんて……」
「気付くの遅っ!」
「もうダメです。サランラップを……」
彼女はどうしても、それで自殺したいらしい。
「だーっ! 早まるなって。別に皆に言い触らすつもりもないし、秘密にしといてやるから」
それを聞いた菻音はキョトンとし、やがて笑顔で槞牙に詰め寄った。
「本当ですか!?」
「ああ、本当だ」
「本当に本当ですか!?」
影が射すほど、菻音の顔がアップする。
しつこい詰問に槞牙のストレス値が上がる。槞牙はいきなり菻音の頬を両手で引っ張る。
「はにゃー! ひらひでふ(痛いです)ー!」
手を離すと、菻音は頬を擦りながらベソをかいた。
「ぐすっ、ひどいです……。ひっく、あんまりです……」
恨みがましく目付きの菻音。
槞牙は悪党モードになり、両手を『わきわき』させて言った。
「そんなこと言ってると今度は違う場所を引っ張るぞ。例えば、その豊満なバストなぞをっ!」
ぐばぁーっと襲い掛かる。スケベモードの間違いだった。
菻音は両の腕で身体を抱き寄せ、これから起こることを想像し、目を瞑って震えだした。
しかし菻音が不幸な少女になることはなかった。
何も起こらないことを不思議に思ったのか、菻音は目を開け顔を上げた。
そこへすかさず槞牙のチョップが飛んだ。
「マジで恐がるなよ。自慢じゃないが、俺は学園でも一、二を争う紳士だと自負してるんだ」
場の空気が固まる。
菻音は再びむせび泣き、
「もうダメです。お父さん、お母さん。お嫁に行けない私を許してください」
「信用ゼロかよ」
振り返れば、菻音が見た槞牙の姿は『スケベで女好き』な印象のシーンばかりだった。
これで信用される方が逆に無理がある。
槞牙は菻音の頭を優しく撫で、柔かい笑みを作ってから口を開いた。
「あのさ、教えてくれないか? どうしてヒーローごっこをしてた理由をさ」
菻音は趣味だと語ったが、槞牙にはどうしてもそれが本当の理由だとは思えなかった。
「え? ですから、それは――」
そこで言葉を切った。
槞牙が見せたことのない真剣な表情をしていたからだ。
菻音は長い逡巡の後、意を決したように槞牙の瞳を見つめて言葉を継いだ。
「私……、目立たない人間ですよね?」
「……まあな」
突然の質問に戸惑いながらも、槞牙は答えた。
「理由は分かってます。内気で暗いものですから」
「それが原因か?」
「はい……。それも原因の一つです。あとは、その……」
口籠もる菻音に槞牙は明るい口調で返した。
「言いたくないなら無理しなくていいぞ。人間ってのは一つくらいは機密事項を抱えてるもんだよ」
「あ、……はい!」
菻音は莞然とした顔と元気な声で答えた。それから訴え掛けるような仕草で本音を吐露した。
「私は勇気が欲しいんです! 甘藷仮面の時みたいに、何事にも負けない勇気が!」
「なるほどな」
槞牙は彼女の言葉の一つ一つに深く首肯する。
露出仮面との二面性には、そういう個人の願望があったのか。
ようやく霧の向こうが晴れ、『崖』が見え始めた。あとは、さり気なく菻音の目の前に橋を架けてやればいい。
勇気、だな……。
「よーし、この俺様が一肌脱いでやろう! 白石。お前に勇気をプレゼントしてやる」
間を置かず話を切り出した槞牙に、菻音は喫驚した様子だった。
そこまで驚いたのは、話のタイミングよりも内容のことでだろう。
「ど、どういう意味ですか?」
当然の疑問。
だが槞牙はあたかも当然といった態度で話を続けた。
「そのまんまさ。勇気を会得できるように俺が白石を鍛える。簡単だろ?」
「で、でも、どうやってですか?」
食い付いた菻音を見て、槞牙の瞳が妖しく光った。
ペンと紙を取出しスラスラと何かを書いていく。紙を半分に折り、菻音に手渡した。
「内容は家に帰ってから見ろ。その内容に従って行動するんだぞ?」
菻音は一瞬だけ怪訝顔になったが、すぐに微笑み、
「はい! ご指導のほどをよろしくお願いします」
ペコリと頭を下げた菻音は、上機嫌で玄関に向かった。玄関で振り返り、可愛らしく手を振る。
槞牙も手を振って答えると、菻音は帰っていった。
「むふふ……」
不気味な笑い声を漏らす槞牙。にやけ面を全面に展開し、お得意のテンションで言った。
「こりゃー、明日の朝が楽しみになってきましたなぁ」
◆
翌朝。
空寂とした教室の窓から通り抜けた、バットの快音。野球部員な時間帯に登校した槞牙は菻音を待っていた。
朝でもすっきり顔だが、締まらない表情。
欠伸を一つ。何気なく雫の席が目に入ると、昨日のことを思い出す。
――菻音が帰ったあと、数分も経たない内に雫がやって来た。それから『お兄ちゃん大好き』と言って抱き付き、ドアが閉まる。
ハッピーエンド! な訳がない。
雫の不機嫌ぶりは果てしなく、槞牙は掃除をサボったことついて、こってりと絞られた。陣頭指揮での失敗が、鬼軍師にあれほどのストレスを与えるとは――
思考がバッドエンドに到達した所で、教室のドアが開いた。
開けたのは白石菻音である。今日の服装は、青いラインの入った白いフリルのシャツと黒のミニスカートという、少しイメージが違うものだ。
「よお。来たな。修業の地へようこそっやつだな」
いつにも増して抜群の覇気を含み、槞牙は席を立った。
「……本当にするんですか?」
「勿論! その為だけに、俺も朝早く起きてきたんだぞ」
食い付きそうな勢いの槞牙に押され、菻音は机の横に鞄を引っ掛けてから戻り、少しの間だけ黙考してから静かに答えた。
「は、始めます……」
槞牙は『うん、うん』と首を縦に振り喜色満面。気色が悪い。
菻音は躊躇いがちにシャツのボタンに手を掛け、上から順番に外しだす。三つ目くらいまで外すと、シャツの中から形、大きさとも申し分ない胸がご登場。
ピンクを基調としたチェックのブラに包まれて。
「サイズの合う水着はこれしかなかったので。その……、いいですか?」
「いや十分、十分! 十二分だって!」
どこまでもテンションが高い槞牙。理由はこれだった。
菻音はシャツを脱ぐと、綺麗に畳んで近くの机に置いた。次に頬を赤らめ、俯きながらスカートを脱ぎ始める。スルリと緩くなって腰から放れ、地面に落ちた。落ちたスカートもシャツと同様に綺麗に畳む。
上下ともお揃いのビキニ姿となった菻音を、槞牙は矯めつ眇めつする。
余談だが、ビキニの名前の由来は、核実験と大きく関わっている。ミリタリーとビキニの意外な繋がりを露呈した処で、それはさておき。
「はい、はい! 笑って、笑って!」
槞牙はいつの間にやら取り出した使い捨てカメラで菻音を撮影する。
「ふぇー! は、恥ずかしいです!」
菻音は白くて細い腕で必死に身体を隠す。
その様子を見て、槞牙は宥めるようにして菻音に言い聞かす。
「これも試練だ。羞恥心は勇気と密接な関係にあることが精神論でも証明されている。これで白石も勇気百倍の凛々だぞ」
絶対にデマカセだ。
よい子の皆様は本人の許可をとった上で、他者の闖入のない二人だけの空間で、デジカメを使って撮影しましょう。健全にね☆
「で、でも、誰か来たら困ります」
「大丈夫。こんな時間に誰も来ないって。もし来たら『プールの授業が待ち遠しくて』とか言って適当に誤魔化せば平気だよ」
「プールは故障中じゃないですか」
槞牙はツッコミを入れられても、全く意に介すことなく撮影を続ける。
やはり菻音は上の玉。
しなやかな白い肌。きゅっと引き締まった腰に、程よい丸みを帯びたヒップ。
そして何といっても胸。
まさに特上の、瓜、二つ。『瓜』と『二つ』の間に点一つは欠かせない。
「いいねー。次は髪を掻き上げた仕草のままでストップね」
「こうですか?」
素直に言う通りにする菻音。なんと健気なことか。
カメラのフラッシュが菻音を余すところなく捉えていく。
「次は机に座って片膝だけを抱えて枕にしてみようか」
指示に従いポーズをとった菻音は、やっと疑問に思うことを口にした。
「あの……、これで勇気が出るんでしょうか?」
「間違いないって。実はな、我が妹の雫もこの方法で今の性格を手に入れたのだよ」
堂々と嘘を言った。
「本当ですかー!? そんな歴史のある方法を私などに……。もう、お礼の言葉もないですぅー!」
しかし菻音は瞳を輝かせて、感銘を受けたようだ。
雫の、槞牙を叱る時に出る専用の性格は有名なのだ。寧ろ、有名でない方がおかしい。
その後、嘘の事例も手伝ってか、菻音の表情や動きに固さが無くなり、順調に撮影が進んだ。
フィルムがゼロになったことを告げると、菻音は飛び跳ねんばかりの勢いで喜ぶ。
だが槞牙は正反対に厳しい面持ちだった。目付きは鋭く、どこか余憤を残した感じだ。
カメラを机に置き、菻音に冷然とした口調で言い放った。
「悪いけど、今のは全部うそだから……」
激しい温度の陽光が差し込む教室に、冷気が漂う。実際に感触ではなく、場の空気がだ。
菻音は当然、驚いていた。何を言ったかも、耳に届かなかったようだ。
そんな菻音に槞牙は更に言葉を浴びせる。
「写真だって俺の趣味だし、こんなんで勇気は手に入らない」
「じゃあ……、なぜ……こんなことを……?」
畏懼するように訥々とする菻音を睨み、槞牙は答えた。
「単なる遊びだよ」
冷酷な一言。
菻音は俯き、その場に固まってしまった。
言った槞牙は無表情で菻音を注視するだけ。自分の犯した悪意ある行動への罪の意識など、微塵も感じていないようだ。
やがて菻音が動きを見せた。拳を握り締めて小刻みに震わせている。
その感情は怒りだろう。当然だ。自分の心を弄んだ男が目の前にいるのだから。だが、拳を解いて顔を上げた菻音は、優しい表情だった。多少の落胆はあるが、それをも包み隠そうと努力している――そんな顔だ。
「例えそれが事実でも、私は今の自分をちょっとだけ叱る勇気くらいは出た気がします。……ありがとうございました」
菻音は深々と頭を下げる。しかし、それよりもっと深く頭を下げる男がいた。
「ごめん。悪かった。許してくれとは言わないけど、単に遊んでただけじゃないってことは分かってほしい」
菻音は謝る槞牙を見て、慌てふためいた。
「え!? そんな……。頭を上げてください。私、怒ってませんから」
槞牙は菻音に近付き、右肩をガシッと掴んだ。いつもの油断しまくりな顔で、
「いーや! 何か償いをしないと。例えば海にデートしに行くとか。それもサンオイルを背中に塗りながらマッサージのサービス付きだ。ご希望なら全身にも変更できるオプションも用意するぞ」
全く償いにならない。早くも左指を『わきわき』させている。
菻音は口元を押さえ、吹き出して笑った。
「海ですか。一応、考えるだけならしておきます。何だか簡単に受けると、オプションが勝手に変更しそうで恐いですし」
「なぬっ!? なぜわかった! じゃなくて、俺は紳士だから恐がることは何もないよ?」
くすくす笑う菻音は、考えておきます、と繰り返した。
――まあ、成功なのかな。屈託のない菻音の笑顔に、槞牙は胸間に安堵の念を立ち籠めさせていた。
確かに水着撮影は槞牙の趣味だった。だが単なる遊びなどとは微塵も思っていない。
全ては『勇気は自分で奮い起こすもの』だと彼女に理解してほしいが為の行動。もしも彼女が怒り、平手打ちの一つでもすれば、何の抵抗もせずに殴られるつもりでいた。
おとなしい彼女なら、その行為にさえ違った形の勇気を覚えただろう。それが切っ掛けとなり、強引にでも悩みの解決に繋がれば尚いい。
嫌われたり、恨まれたりは慣れている。個人的には勿体ないけど仕方がない。
今の彼女が前に進めれば、それが一番いい。
出会って間もない人間が出来る、唯一のお節介。不器用だが、そんな方法しか知らないのだ。
「どうされました?」
物思いに耽っていた槞牙は、菻音の言葉で意識を引き戻された。
菻音を見ると、すでに服を着ている。
槞牙は大仰にショックを受けてみせた。背景に雷が走るくらいの。
「俺としたことが貴重な生着替えを見逃すとは。……不覚」
「うふふ、残念でした」
今度は二人とも笑った。
不思議な境遇を抱える者同士、出会ってまだ間もないのに馬が合う。それとなく良い雰囲気になると、菻音が突然、胸の前で手を叩いた。
「そうだ。繞崎さんに見てほしいものあるんです。いいですか?」
「おぉっ! まさかそれは後でこっそりと着替えるために持ってきていた下着とかでは!」
なぜそうなる。
「ち、違います」
全身を使って否定した菻音は、自分の机まで歩き、掛けていた鞄を漁りだした。中腰になった菻音のスカートがギリギリな状態に。槞牙は机に顎を衝き、その光景を楽しんだ。
「ありました。これです」
そう言って渡したのは、数十枚ある紙の束だった。
槞牙は、深呼吸する菻音を見てから、受け取った紙に視線を落した。
紙にはコマ分けされたスペース中の一つ一つに人物やら風景やらが描かれていた。一枚目を捲ると、その続き。
渡されたのは漫画であった。
それも素人の槞牙から見ても、かなりの出来栄えである。設定はありがちな恋愛ものだが、絵が上手い。
細部に渡り丁寧に仕上げられている。
しげしげと見つめる槞牙に、菻音は緊張した面差しで、
「どうですか?」
槞牙は再び視線を菻音に向けた。
「上手いんじゃないか? 俺は好きだよ、こういうの」
「本当ですか? 嬉しいですー!」
菻音は目に涙を溜めて喜ぶ。少し大袈裟だ。
「これが、私の夢なんです……」
紙の束を胸に埋め、静穏にそれだけを語った。羨ましい紙だ。
「漫画家になるのが夢なのか? まさかこの作品を出版社か何かに送る勇気が欲しかったのか?」
「い、いえ、違います。夢が関係してますが、もっと個人的なことです。その……、あの……」
どうやらその『個人的なこと』が勇気に関係するらしい。
口籠もって終には沈黙した菻音に、槞牙は気を配った。
「言いたくないなら無理に言おうとするな。そこまで追求したりしねえよ」
「ありがとうございます!」
眩しいスマイルで礼を言った菻音は、お辞儀してから席に戻った。
やっぱり早くも放課後。
戦鬼神シズク様が恐いので、今日は掃除をサボれない槞牙。片手で机を運ぶ。
骨折した兄をコキ使う妹に不満を感じつつ、思考と視線を他に当てた。
柚菜と瑠凪は仲良くファッション誌を見て雑談。昨日までの仲の悪さはどこへやら。
雫さーん。ザボリ一号と二号を発見しました。
菻音は謀っても難しいミスを、またもや連発。雑巾で足を滑らせバケツに顔面からダイブなど、まず常人には不可能な荒技だ。
アニメなどで魔法少女などの大半がドジッ娘なのは、案外リアルかもしれない。いくら雫といえど、教室を新品並みにする努力まではせず、適当に作業をこなす。そうして戦力外の三人を抱えた掃除が終わった。
無駄に体力を消耗した菻音は、清々しい顔で槞牙の席の前まで来た。
三人分の労力を余計に使った槞牙はぐったりとしている。
「今日は本当にありがとうございました。早速、今晩にでも勇気を試してみようと思います」
此処ぞとばかりに更に慇懃なお辞儀。
「ああ、頑張れよ」
「はい!」
菻音は踊るようにして教室を飛び出した。
夢。個人的なこと。今晩。追求はしないと断言したものの、やはり気になる。
槞牙は思考を巡らす。
今晩ということは自宅でだろう。夜遊びはしないタイプだからな。
それから、おとなしめな娘が勇気を使う場所――相手?
――槞牙の脳裏に閃光が走った。
「ははーん。そうか。そういうことか。謎は全て解けた。……だとすれば、俺の出番はまだあるかもな」
「なに独りでぶつぶつ言ってんだ?」
名探偵気取りの槞牙に、柚菜が声を掛けた。
「何でもないさ。強いて言うなら、私への最大の報酬は事件自身なのだよ。柚菜くん」
「お前、ついに頭がおかしくなったか?」
可哀相なものを見る目付きの柚菜。
冬の水温よりも冷たい視線を流した槞牙は、帰宅部モードに入った。
しかし、柚菜はそれを慌てて引き止めた。
「待てって。少し話があるんだよ」
「なんだ? 愛の告白か?」
「そ、そんなわけないだろっ! バカッ!」
「悪いが今日は無理だ。明日にしてくれ」
槞牙は内容を聞きもせず、すたこらと教室を出た。
柚菜が槞牙の悪口を連発しているが、今の槞牙には効果が無かった。
◆
その日の夜。
オレンジ色が消え、青が深みを増し始めた時間帯。
菻音は部屋の電気を消して廊下に出た。
それだけで、緊張からくる心臓の鼓動が身体を突く。階段を下り、思い足取りで一歩一歩、着実に目標に近づく。
引き戸式のドアを開けると、そこはリビング。
家族で食事をしたり、寛いだりしている空間だ。馴染みの場所だが、不自然な入りにくさを感じる。
いや、菻音自身の避けようとする心が、そう思わせるだけだ。
白いソファーに座る父親は、野球のナイター中継に夢中だ。母親もルールは知らないが、付き添いで見ている。
テレビは部屋の角にあるため、二人はまだ菻音に気付いていないようだ。
ソファーのすぐ後ろまで足を運ぶと、二人は菻音に視線を送った。
母親は首を横に、父親は肩越しに。
別に条件反射で普通に見られただけ。しかし、菻音は表情を曇らせ沈黙してしまう。
「どうしたんだ? 菻音」
娘の態度を不信に思ってか、堅固な体格の父親がやや心配そうに言った。
――やっぱり言えない。
菻音は萎縮し、きゅっと両目を閉じる。
だが不思議と真っ暗の視界の中に、一人の男の顔が浮かんできた。
繞崎槞牙だ。
それから特訓の風景が、走馬灯のように脳裏を過る。そうだった。もういつもの私とは違う。勇気を出さなくちゃ。
菻音は目を見開き、顔を上げた。
そして告げたのだ。自分が隠していた正直な気持ちを。
「私……、漫画家になりたいんです! ずっと……、ずっと好きな漫画を描きたいです!」
前触れなしの突然の告白に、両親は暫し言葉を失った。
母親は目を丸くして驚き、父親は厳しい面持ちで菻音を凝視している。
やがて母親が、
「突然なにを言うの? あなたは高校を卒業したら、親戚の道場の男性と結婚するのに。それまでに色々と作法を身に付けないといけないのよ」
実は菻音の家は由緒ある道場の一人娘なのだ。空手に似た独自の拳法、白石流派の。
「勝手なのを承知の上で言います。その約束は無かったことにしてください」
言い切ってから頭を下げる。
母親は口元に手を当て、おろおろとしている。
父親は依然として沈黙を保ったままだ。
重い空気が漂った状態が続く。
そこで父親がリモコンでテレビを電源を切り、おもむろに立ち上がる。
長身で筋骨の逞しい身体が菻音の前に立つ。
「そんなに重要なことなのか? 菻音にとって漫画家になることが」
威圧するような口調。
菻音は父親の目付きに怯み、再び押し黙ってしまった。
「残念だが、俺にはそうは思えない。結婚がいやで、ただ逃げているだけではないのか?」
菻音は言葉を返すことが出来ない。
相手に図星をつかれたなどの理由ではない。根本的に小胆な性格が菻音をそうさせる。
だから正義の味方を名乗り、仮面で弱さを覆って自身の強硬を誇示した。
甘藷仮面は理想の姿だ。
ただし、理想は理想。弱さから距離を置く人間に強者はいない。
菻音は自身の弱さを確認し、反論を観ずる。またもや脳裏に過った槞牙に、胸中で謝罪をしながら。
「どうした? 答えないか」
「答えるぜ!」
いきなり、どこからともなく声がした。
次の瞬間リビングの窓に光が灯り、変な奴が登場した。獅子舞の被り物をした今世紀最大の変人だ。
「少女の夢が奪われようとするとき、その瞳から輝きが薄れる。ならば光らせてみせよう。我が癒しのマッサージ――じゃなくて、オーラかなんかで」
『ジャジャン!』と効果音が付いてきそうな、無駄に大きい動作で決めポーズ。
「人呼んで、皆の街のアルファ波! 獅子マイン、ただいま参上!」
変人のアピールに三人はその場に固まった。こんな奴が現れたら、人はまずそうなるだろう。
特に菻音は、口から心臓が飛び出しそうになるほど驚いた。
何より変だし、ネーミングセンスが無い。おまけに知り合いなら正体が一発で分かる。言うまでもなく、菻音には分かっていた。
ろう――変人は調子が出てきたのか、口をパカパカ開けて喋った。
「君の『勇気』は受け取った。あとは私が両親に言い聞かせてあげよう」
なんか主張し始めた変人に、もはや当然と言うべきか、父親が激昂する。
「ふざけるな、変人め! 敷居から叩きだしてやる!」
全身に殺気を滲ませ変人に向かう父親。菻音が抑止しようと腕を伸ばしそうとする前に、変人が答えた。
なめた口調を一掃した、鋭い声で。
「やってみろよ」
父親は様子の変わった変人に一瞬だけ躊躇したが、それでも構わず接近し拳を突き出す。
変人は外に手を出し、素早い動きで拳を止めると、軽く父親を突き飛ばした。
「さすがは白石流派の人間だ。だが、俺には勝てねえよ」
尻餅を衝いた父親は、渋面を作り、二人を守るようにして後退りする。
どうやら力量の差を悟ったようだ。
「安心しな。別に暴漢の類じゃない。さっきも宣言した通り、白石菻音の話を前向きに見当してほしいんだ。彼女はずっと悩んでたんだろうよ。孤独にな……」
変人の想いの籠もった声を聴き、菻音は俯いて込み上げる感情を押し殺した。
「俺は生まれてからずっと菻音の傍にいた。孤独ではない。貴様なぞに何が分かる」
「確かに期間は違うかもしれないが、生まれてからずっと菻音の想いが同じものとは限らないぜ」
変人の指摘に、不意を付かれたような表情で唇を結ぶ父親。
「娘の幸せの為だと勝手に激しい思い込みで何でも突っ走り、婚約相手まで決め、肝心の娘の意見は思慮にもいれない。聴いたか?」
「だ、黙って受け入れてくれたものだと、か、解釈した」
父親の言葉に、自信と覇気が徐々に薄らいでいく。
「そんなこと聞いてねえ! 娘の喜びの声を、その耳で確かめられたのかって聞いてんだよっ!」
変人の激情の絡み合った荒い語気を受け、それきり父親は緘口した。
菻音は事の成り行きを黙視した。いや、そうすることしかできなかった。
しかしそれが変人の怒りを買う。
「いつまで人に泣き付くつもりだ? あとは自分で言え。黙ってても何も伝わらないぞ」
それでも菻音は、口をつぐむ。
「勇気なんてクソ食らえだぜ……。勇気が出たから言うとか、出ないから言わないとか、そうじゃねえだろ! お前が白石菻音が言うんだろ! 菻音だからこそ、言うんだろ! 答えろ、菻音っ!」
――私だから。
そう、勇気なんて口実に過ぎなかった。逆にそれすらも逃げ場所になっていた。言うんだ。私が、私であるために。
菻音は三度、顔を上げ前に出ると、振り返って自分の想いの全てをぶつけた。
「漫画家になりたい! 私の夢なの! 単に結婚が嫌なだけじゃない。そんなことより大切なものを見つけたのっ!」
涕涙は止まらない。
感情と共に流れ落ちる一滴が、力強く地面に当たる。
「描いてる時が一番、白石菻音だと……、感じるの……」
あとは泣き崩れ、言葉にならない。
変人は菻音の肩に優しく触れた。褒めているようだ。それから呆然とする両親に向かって、
「ってなわけで、ドラマっぽくなりましたが、言いたいことは分かりましたよね? あとは家族水入らずで話し合いを。俺の名前は、ぜひ忘れてください」
それ以前に、誰も覚えていない。
急に軽い口調になった変人は、窓から飛び出し塀を越えて消え去った。
菻音はその方向をジッと見つめ、やがて微笑む。
「ありがとう……。槞牙さん……」
今宵の月は、何もかも明るく照らした。闇に一片の隙間すら与えない光が、いつまでも。