【エピソード3:副業は正義の味方!?・その2】
ぽっかぽっかを通り過ぎた蒸し暑い教室で、柚菜は椅子に座ったまま机に突っ伏していた。
「あぢ〜、オレは寒いのも苦手だけど、熱いのも苦手なんだよ」
「要するにどっちも苦手なんだな」
隣の席の槞牙が団扇で涼みながら続けて、
「しっかし、こんな時にプールが故障なんて……。本当なら水着美女の麗しき身体をじっくり観賞できたのに。くそっ!」
心底、沈痛そうに告げた。柚菜はだらーっとして動かない。喋るのも億劫なのかもしれない。
槞牙はその様子を見て溜息を吐き、
「半端なとこだけ男な柚菜ちゃんはいいよな。欲がなくて」
さすがに聞き流せなかったのか、柚菜はムッとなり唇を尖らせて返した。
「お前に欲望が多過ぎるんだ。だいたいそんなの見て何が楽しいんだ?」
「女の柚菜にゃ判らんよ」
照りつける太陽は無遠慮に窓から侵入し、室内の温度を増加させる。
槞牙は背もたれに体重を掛け、椅子の前脚を浮かした。頻りに溜息。
すると突然、柚菜が机から顔を離して弾んだ声で言った。
「そうだっ。休みの日にプールに行こうぜ。そうすれば水着の女が見られる。それにオレも泳ぎたいから、特別に拝ませてやるよ」
妙に自信に満ちた笑みで提案する柚菜。
だが槞牙の表情から曇りは取れず、更に落胆の色すら見せる。
「街にこの学園ほどのレベルはいないだろ。んで、お子様の柚菜は論外」
贅沢な男だ。
それと槞牙もその方法はすでに考えていた。
公言した通り柚菜はそれでも、瑠凪を連れていけば目の保養にはなる。しかしそうなると自然に雫も同行するだろう。
どんな事態になるかは予想できる。大方、封印が解けて魔王神シズクの降臨がオチだ。
やはり水泳の授業でなければ――
水泳の授業でも似たような惨状を容易に想像できた読者の思考は捨て置き。
提案を呆気なく否定されたからなのか、柚菜は『ぶすぅ〜』としている。
次に蹴り。目標は槞牙の椅子の前脚。
不意を突かれた槞牙は転倒した。
「何すんだっ!」
「ふん! 頭でも打ってバカを治せ」
「このやろう……」
戦闘の空気を感じ取った柚菜が即座に椅子から飛び出る。
槞牙も立ち上がり、一旦後ろに退いた。
両者は距離を置く。もはや名物にまでなった、乱闘が始まろうとしていた。
だが、すぐに中止となった。
戦闘態勢に入っていた槞牙が急に構えを解く。
「止め止め。こんな暑い日に無益な戦いなんてバカらしい」
そう言うと窓際に行き、壁に寄り掛かる。
校庭には早くから中等部の連中が列を作っていた。
この学園は中、高とエスカレーター式の一貫した環境での教育方針を取っている。従って中等部の生徒を目にするのも稀なことではない。ただ高等部と一つだけ違うのは、学園生活に制服着用が義務付けられている点だ。
それはともかく、こんな早くからどこへ行くのだろうか?
列の先で、拡声器を持った教師が喋り始めた。
『これから海に行きますが、くれぐれも本校の生徒としての節度のある行動を守ってください』
「なっ……」
槞牙は言葉を失った。
高等部の生徒がプールに入れないという過酷な状況下の中、浜の珊瑚と蟹のカップルが生まれようとも決しておかしくないハッピーマリンブルーに突撃するなんて。
高等部にはそんな予定もないし、プールが直る目処も立ってない。水着美女もない。
ないない尽くしな理不尽。肩を震えと、吹き出しそうな怒りを抑えてから槞牙は叫んだ。
「こんなことが、あってはならないっ!」
何に? そんなこと知ったことか。
彼は巡り来る季節ごとの享楽の一つが脆くも崩れ去ろうとしている現実を目の当たりにし、ついに奮起した。
「我々、妄想に長けた男と云う人種は、本来は絶対にありえない甘い期待感を含んだ勝手な妄想を限りない精神力で構成するのだ! それをプールの故障が云々だけで断たれることがあってはならない! また不必要な時代の到来を許さない! 俺は健全な男子生徒の代弁者だ! だから言おう! あえて言おう! プールの授業もない学園生活など、カスである、と!」
自己正当化がふんだんに詰まった演説。
「そして宣言する! 我等の道を塞ぐ壁を取り払い、水面に妖精を解き放とうぞ! これは聖戦である!」
左拳を高らかと天に突き上げる。
『うおおおおおおっ!!』
反応したのはいつの間にか集まっていた男子生徒である。彼等もまた槞牙の言葉を聞き奮起したのだ。
『我等が救世主! 繞崎槞牙、万歳!』
参集した信者が声を上げる。
そこで槞牙は、今迄とは打って変わった語調で、
「問題はこの私に、学園長ほど明確な公共物修復に於いての経済的な素養があるかどうかだ……」
もはや、一人称が定まっていない。
信者たちは口を揃え、分かりません、と答えた。
「はっきりと言う。気にいらんな」
『しかし大佐ならできますよ』
大佐って誰だ。
「ありがとう。信じよう」
周りの女子たちはアホ共を冷眼する。柚菜など、すでに眼中にすら入らない方向に顔を移動させていた。
最後に槞牙は信者たちを注目させ、深呼吸してから口を開いた。
「では改めて宣言する! 俺は必ず皆の理想を作り上げる。題して、す――」
そこで教室のドアが開いた。全員がそちらに視線を向ける。
「? ど、どうかしたの?」
入ってきたのは一人の少女だった。
腰まで届く黒のストレート。おっとりとした目付き。顔は端正で引き締まった印象。槞牙の双子の妹――繞崎雫だ。
今は視線の集まり方に異常を感じ、首を傾げている。
「帰ったか、雫! この暑い中、お疲れなこと」
全員が今度は槞牙に視線を移す。槞牙は不自然に爽やかな笑顔で妹を迎えている。
なんて変わり身の早さ。
「さあ、柚菜と楽しい雑談でもしようか。あはははは!」
「なんか……、今日のお兄ちゃん変だよ?」
「そうかい? 僕はいつもと変わりないつもりだけど?」
不自然にも程があるだろ、とクラスの全員は胸襟でつっこんだ。
槞牙と雫が席に着くと、柚菜がのろっとした動作で雫を呼んだ。
「なあに?」
「今なぁ〜。槞牙の奴が――」
言葉を間断するように隣の椅子が倒れる。槞牙は暴露しようとした柚菜の口を塞ぎ、入り口まで連れていく。
必死の形相だ。
それもそのはず。暴露されれば一環の終わり。
『むー、むー』言ってる柚菜を引き摺りドアまで後退る。
そこでドアが開いた。
槞牙は背中越しに後ろを確認する。
「何やってんの? 幼女誘拐?」
ドアを開けたのは進藤瑠凪だった。
内巻きの赤のショートヘアー。顔立ちは美しく、吊り目で気が強そうな雰囲気。スレンダーな体付きと程よく膨れた胸。モデル級の美少女である。
「いや、違うって!」
否定しても第三者からはそうとしか見えない。
槞牙は変な噂の流伝を恐れ、柚菜から手を離した。
自由になった柚菜。意外にも槞牙を怒鳴らず、矛先は瑠凪に向った。
「誰が幼女だ! この性悪女!」
いきなり核兵器並みの罵り。
瑠凪は見る見る内に不機嫌になり、
「誰が性悪女よ。このくそガキ」
と、これまた同等くらいの威力はある面罵。
「オレのどこがガキだ!?」
「ろくに男との経験もなさそうな顔してるからガキだって言ってんのよ!」
口喧嘩している二人に最も近い距離の槞牙は狼狽していた。
喧嘩自体ではなく、その内容。言い争いはいつか終わるが、瑠凪の台詞が危険域に突入している。
「あの〜、瑠凪さん? もう少し穏やかで子供らしい口喧嘩に……」
注意するが、二人の耳には全く届いてない。
「なんだよ。経験って?」
「はっ! やっぱりガキじゃない。親にでも聞けば?」
瑠凪は見下すような目付きで冷嘲する。
それが余程くやしかったのか、柚菜は槞牙を睨み、荒げた口調で言った。
「経験ってなんだ!? 教えろ槞牙!」
「言えるかっ!」
即答する槞牙。
地獄の狩人こと雫さんがいる前で、やばいことを抜かすな。
横目で雫の表情を伺いながら、額の冷汗を手で拭った。
情けない男だ。
ようやく喧嘩が収まり、槞牙たちは自分の席に腰を落ち着けた。
「ところで瑠凪の拳法って何て名前なんだ?」
槞牙は椅子ごと後ろを向けた。
瑠凪は眉をひそめ、不満そうな表情をする。
「いきなり呼び捨て? しかも名前で」
「気にすんなって。それで質問の答えは?」
「太極拳の一種よ。あたしの場合は見よう見真似のオリジナルだけど」
「へぇー。色々とあるんだな」
大半の席が埋まったせいか、教室内がより一層にぎやかになっている。
柚菜と瑠凪は依然として顔を合わせない。槞牙が気まずさを覚え、雫に目配せする。
雫は苦笑い。同性の雫にも無理らしい。
「ろ・う・が・くん」
どうしたものかと考えていると、真横から大人の女性の声がした。
ロングの金髪に秀麗な顔。反則気味のバストが特徴(槞牙談)で、全体を総合すると利発的な印象だ。
「朋香さんか。これまた唐突な登場で」
間を測るような態度の槞牙。
朋香は少し悲しそうな顔をすると、自慢の胸を腕に押しつけて言った。
「あ〜ん、なんか態度が冷たいなぁ。もう少し優しくしてぇ? 私と槞牙君の仲じゃない」
「勝手に親しそうな仲にするな! それに朋香さんも今は教育実習生でしょうが!」
自分の立場を考えず、朋香は槞牙にべったりとくっつく。
反対側を見ると、柚菜と瑠凪が冷たい視線を送っていた。そんなときだけ意気投合。
クラスの男子も騒ぎだした。
「槞牙! 萌え少女や悪女系では飽き足らず、大人のお姉さんまでも落としたのか」
「しかも教師の卵とは、いったい夜な夜などんなプレイが……」
「我輩の調べでは相当マニアックなシチュエーチョンらしい。誰もが繞崎槞牙の毒牙からは逃れられん。妹すら例外ではない」
「このケダモノ野郎!」
「くそっ。羨ましいやつ」
なんか聞き覚えのある一人称と口調の奴が。
「ちょっと待て! 三番目の奴、前に出ろ!」
嵐の如く非難が飛ぶ中、槞牙は的確なツッコミを放った。
素直に出てきた男子生徒は、一般の生徒とは異質のオーラが漂っていた。
横に流れる薄紫色の髪。狐目で下方のみの銀縁の眼鏡を掛けている。
お偉い社長さんのような威厳を持っている。
「我輩を呼んだかな? 我が友、繞崎槞牙」
「何事もなかったように接してくる、お前が恐いぞ。沁銘院真一」
真一は顎に手を当て、黙考してから口を開いた。
「これは裏切りではない。そう、我輩は人間のデマから繋がる信憑性なき噂の実態をパブリック・オピニオンで証明したかったのだ。許せ」
「訳の分からん説明で誤魔化すな! つーか、何しに来たんだ?」
真一は眼鏡をくいっと持ち上げ、僅かに声のトーンを落し答えた。
「我輩の出番がここしかなかったのだ」
「…………」
槞牙はとりあえず、事態の収拾に取り掛かることにした。