【エピソード2:偽りのビネヴォレンス・その6】
礼拝堂の扉の前に着いた。礼拝堂の外壁は白と青の二色で彩られ、扉は焦茶色をしている。
槞牙は、普段は立ち寄らない場所なだけに、違和感を感じずにはいられなかった。
扉を開く。重々しく動いた扉が低音を立てる。
中は普通の教会と変わらない様子だった。横の幅が長い椅子が列を作り、床には赤い絨毯。正面には麗々とした十字架の存在。
はっきり言って、これほどの設備は一介の学園にしては異常だ。
礼拝堂。噴水付きの庭園。実は校舎の屋上に屋根つきのプールもある。真一にこの話題を振ると、必ず答えは一つ。
『裏権力だっ!!(エコー付き)』
まあ、どうでもいい話だが。
――その十字架の下。両手を指を胸の前で組んで祈り捧げる少女。進藤瑠凪だ。ステンドグラスから差し込む光に灯され、晃々としている。
「お祈りとは意外だな。聖戦士」
妙なあだ名で呼んだ槞牙に気付き、瑠凪が立ち上がり振り向く。
「またあんたなの……」
顔をしかめ、思い切り蔑むような睨む。にべもしゃしゃりも無い。
「まあな。敵さんの位置を、彷徨うゼーレたちの鼓動から聞き取ったのさ」
槞牙は罰が当りそうな台詞を軽く放る。
瑠凪は鼻で笑う。やれやれ、と肩を竦める動作の後、
「あたしは忙しいからパス。また今度にしてくれる?」
そう言って、槞牙を睥睨しながら真横を通り過ぎる。その時の瑠凪の表情。それは最初に会った陰鬱な感じでなく、なぜか悽々としていた。
少なくても、槞牙にはそう見えたのだ。
遠くなる彼女の小柄な背中を見つめ、溜息の混じった声を零す。
「なんだか複雑そうだな……」
頭を掻き、ばつが悪いようで落ち着かなくなる。やがて舌打ちから、
「あー、くそっ! ……しょうがねぇな」
足を進め、瑠凪の背中を追い掛けた。
その後、瑠凪は校門を出て十分ほど歩いた花屋で大量の花束を購入し、そこから少し離れた病院まで歩いた。
不審者と化した槞牙は、木の影から病院を眺めた。
「美人と重要な悩みがセットの確率って高いよな〜」
誰に言うでも無く独白する。瑠凪が入り口の自動ドアの向こうに消えたのを見計らい、追跡を続行する。
自動ドアに抜けた槞牙は、正面の光景に驚き通路に身を隠した。
驚いたこと。まず、少し進んだ場所に瑠凪がいたこと。そして、その行動。
嗚咽を漏らす五、六歳の少年を見て、花束から一本だけ抜き取ると、それを目の前に差し出していた。
少年は綺麗な花を見て、崩れた顔を必死に元に戻す。瑠凪も口元を和らげ、微笑む。
それから花を渡し、頭を軽く撫でると、その場を跡にした。
「そのお花、どうしたの?」
診察から戻ってきた、少年の母親らしき女性が隣に座り話し掛ける。
「綺麗なお姉ちゃんに貰ったの!」
「そう。良かったわね」
「うん!」
親子の会話を背後から聞き取れた。槞牙は怪訝顔で首を捻りながら瑠凪に続く。不思議なことは一つ。瑠凪の態度と性格の違い。
そういうタイプには見えないし、場面の絵にも当て嵌まってない。
後者は役柄としてだ。
いったいなぜ?
――想念していると、瑠凪がエレベーターへと足を踏み入れていた。
槞牙は扉が完全に閉まるのを確認し扉の前に。
『4』の上の赤いランプが点灯したと同時に、階段を駆け上がる。
通路に顔を半分だして、辺りを確認。普通にストーカーだ。
丁度、通路には瑠凪の姿があった。ある部屋の前で立ち止まっている。
逡巡とでも言うべきか。その様子を表すのに相応しい言葉。
暫らくすると、意を決したように顔を上げ、軽く扉をノックし中に入っていった。
槞牙は、例によって扉の前まで行こうとする。
だが、違う部屋から突然でてきた看護婦に、道を塞がれる形となった。
「あ、ごめんなさい。大丈夫?」
音量は小さいがよく透る声。
「問題ないです。お構い無く」
「……君、見ない顔ね?」
完璧に通行人のAさんを演じた槞牙だが、やはりバレた。
目を泳がせる槞牙。しかしこの際、破れかぶれで話を逸らす作戦に踏み切った。
「えーと、隣の病室の娘は、何のために此処へ来てるのか分かりますか?」
「ええ……。隣では昏睡状態にある、進藤さんのお父さんがいます。彼女は、そのお見舞いに来ているんです。それも大きな花束をいつも手にして」
槞牙は風懐で感嘆した。
すると次に、看護婦さんが言いにくそうな顔で続けた。
「それと最近の進藤さんのことで、あまり良い噂を聞かないわ。同僚からも、毎日のように知らない中年の男性と遊んでる、と聞きますし……」
言い終えると、表情を沈ませた。
なるほど。つまりは援助交際のようなものか。
槞牙は確信した。瑠凪の性格が変化するのは、これが原因だと。
「……だからしっかりと繋ぎ止めるのよ! それが彼氏の役目でしょ!?」
「は……?」
いきなりの言葉。覚束ない返事をする槞牙に、
「そんな返事じゃ駄目よ! しっかりしなさい! 彼女を救えるのは貴方だけなのよ!」
と凄い剣幕で言う。最初のキャラはどこへ?
「ああ……。青春って素晴らしいわね!」
壊れた。槞牙は看護婦の暴走と蹙蹐し、踵を返した。階段を下り、受け付けの前を通り過ぎ、外へ。
一定のリズムで鳴る、静かな機械音だけの部屋。
瑠凪はベッドの傍の椅子に腰掛けていた。正面には父親が寝ていた。
死んでいるかのように眠り続ける。
――ねえ、どうして目を開けてくれないの?
進学する高校が決まった日からずっとこうだった。
不慮の事故により意識不明となり、一命を取り留めるも意識は回復せず……。
あたしの何が悪かったの? いけない場所とかあったら直すから、その代わり目を覚まして。
涙が頬を伝う。戻らなくなった時を悔恨する涙。
瑠凪は手で顔を拭い、立ち上がる。
そして病室を跡にした。
瑠凪は、ここを訪れるのはこれで最後にすることを決心していた。
理由は簡単。いつまでも起きない人間に希望を注ぐほど善人ではないから。
否、この時のために真面目に生きる道を捨てたのだから。
もう戻らない。何もかも。すべて壊れた――
何かを話掛けようとした受付けの看護婦を無視し、外に出た。
「遅かったな。不良娘」
瑠凪は『無』へと変わり始めた感情が引き戻され、目を丸くし声の主を見た。
その主とは、礼拝堂で別れたあの男。
「何、あんた? ストーカー?」
不快感から渋面になる瑠凪。
「偶然にも腹痛でな。いま診察を終えたとこだ」
男は腹部を押さえ、大根役者ですら顔負けの演技をする。
「頭おかしいんじゃないの? そっちを見てもらうべきだわ」
「ご忠告に感謝するぜ」
あっさりと返され、瑠凪は舌打ちをした。
「それで何の用?」
苛立ちを押さえて問い掛ける。
「だから勝負の続きをやりたいんだ」
「負けたくせして、よくも抜け抜けと言えるわね」
「それはどうかな? 最初から〈パステル〉を使うと決めたなら俺が勝つ。」
自信満々に主張する男。
だが言われてみれば、納得する言い分でもある。
そして瑠凪はハッとさせられた。
この男、生身で〈パステル〉を食らってから間もないのに、もう……。
「判ったわ。続きは学校でやりましょ?」
「決まりだな。俺は繞崎槞牙。古今無双の強さを持つ男だ」
自称最強の男――槞牙は勝負の意気に燃えだした。
今日は記念日だしね。
あんたみたいな馬鹿な男を引っ掛けようと思ってたとこさ。
学校に戻ってくると、やはり柚菜のことが心配だった。だが、それより先にやらなければならないことができた。
進藤瑠凪。似てるよ、お前。昔の俺に……。
だから気付かせる。今のお前の全てが、つまらねぇものだと。
その為にも、この勝負は絶対に負けられねぇんだ。
――学園内の庭園。槞牙にして見れば、少し間を置いてから来たかった場所だが、仕方なく了承した。
傍にあるベンチを極力気にしない振る舞い、口を開いた。
「そんじゃ、お互いマジでいくか。〈パステル〉ありの無制限一本勝負みたいなノリでいいな?」
瑠凪は無言で頷く。
その様子を見て、槞牙は僅かに肩の力を抜き、息を吐き出す。
「なあ、進藤。つまらなくないのか?」
「な、何が……?」
槞牙の言葉に、少し落ち着きをなくす瑠凪。
「自分が一番よく分かってるはずだろ? 蔑む心を抱えながら生きても虚しいだけだ。憎しみの捌け口がこの世界なんて考えるな」
槞牙は熱を帯びた口調で語り掛ける。
「はぁ? あんた、なに言って――」
「父親のことが好きなんだろ? 好きで好きで、しょうがなかったんだろ? だけど奪われた」
間断した槞牙の言葉を聞いた瞬間、瑠凪の瞳に殺気が宿った。それは鋭く冷たい凶器。
「あんたに何が分かるのよ。何でも知ってるような口振りは止めて!」
声にも怒気が籠もり始めている。
「小さいんだよっ! 進藤瑠凪っ! 大切なものを失い掛けている時こそ、明るく前向きに精一杯に生きろ!」
槞牙も激声を発す。握り締めた拳が小刻みに震えている。
「止めろって――」
瑠凪は俯き、微風のような耳への当りが弱い声を出す。そして両の掌に白い光を集め、正面を睨み付けた。
「――言ってるのよっ!」
全身を支配する憎しみを解放。叫ぶと同時に掌の光を前方に放った。
光は一瞬にして槞牙との距離を詰める。
槞牙は横に飛んで躱す。
しかし光は途切れることなく何発も飛丸する。
木の影に隠れるも、数発しか防ぐことができない。地面や木々の形を変えていく。
槞牙は周りの被害も考え、強引にでも瑠凪に接近を試みた。
光線を寸前で避けていき、間合いに入る。赤い光を纏い左拳を突き出す。
しかし、瑠凪は腕を前に出し白色のバリアを発生させた。
エネルギーの狭間となる部分からは、大量の電気のようなものが、上下に岐れ走り抜ける。
「あの少年に花を差し出した時、お前はいい表情ができたっ! それが本当の自分だと、何で気付かないっ!?」
「出会ったばかりの赤の他人が、本当のあたしの在り方を断言するなっ!」
瑠凪はバリアを解いて拳の軌道から逃れると、掌低で鳩尾を狙う。
それに反応し後ろに下がった槞牙は、そこから右の回り蹴りを放つ。
右足は空を切る。
続けて低くした上体を戻している瑠凪に、左拳を迫らせる。
タイミングは抜群――だったが、瑠凪の手によって水流の如く流され不発に終わった。
そして瑠凪は、力なく彷徨う左腕を掴み体ごと引き寄せ、再び掌低。
今度は命中。槞牙の身体は飛ばされる。
「シュトラールッ!」
追撃ちの光線。何とか避けた槞牙であったが、序盤と変わらない展開となってしまった。
(くっ……! 右腕さえ使えれば……)
役に立たない右腕に、意識が寄ってしまう。するとその直後、右腕が奇妙な感覚に包まれた。
腕の中が熱くなる感覚。
数瞬すると腕の感覚が冴え渡り、健常な状態へと戻ったのだ。
「よっしゃーッ! これなら勝ったも同然!」
勢いよく右腕を振りかぶり、瑠凪の方向の虚空を突く。
その瞬間、緑色の光に巻いた真空の弾が瑠凪の左肩に当たった。
瑠凪は肩を押さえ、顔を歪める。砲弾が止み、槞牙に好機が訪れる。
すかさず接近。たが、その時――
瑠凪は右腕を前に出し、今までにない程、巨大な光を収束させる。
「死になっ! イスキューロステイコスッ!」
光が壁となり瑠凪の手が離れ、槞牙に襲い掛かった。面積が広く、避けきれなかった槞牙は壁に押され、後ろの木と衝突。壁と木に挟まれる体勢となった。
「ぐあぁああぁぁぁぁぁっ!」
押し潰してくる壁が、全身に激痛を与え、骨を軋ませる。後方の木でする内部から裂けるそうな音を発する。
そんな惨状の中、瑠凪は陰惨な笑みを浮かべる。
「どう? 痛いでしょ? ごめんなさいって言いなよ。あ、それとも言いたくても言えない?」
瑠凪の言葉を聞くと、槞牙は呻き声を上げるのを止めた。それから腕に力を入れ、壁を抱き抱えた。
「あ、あんた……、何やって……るの……?」
冷嘲していた瑠凪が恐慌し始める。
足に地面を着いた槞牙は、少しずつ瑠凪に向かって前進する。凄まじい重圧で迫る壁を物ともせずに。
半分ほど距離を詰めると、更に腕に力を加え、壁を押し潰していく。細長くなった壁は最後には千切れ、光の粒子となって空気に溶け込んだ。
「な、なん……、あ……んた、そん……な」
怯えいるのか、舌足らずになる瑠凪。
「くだらねえ世界観ばっかでストレス溜めてないでな……。全部、吐き出しちまえって言ってんだよっ!」
一帯に響き渡る砲号。
気力を爆発させた槞牙は地面を蹴る。接近し、白い光を纏った右拳を放った。
それに反応し瑠凪がバリアを張る。
打ち合う力。しかし一度目とは全く違った。
半円状の白い光のバリアは、槞牙の拳を押さえ切れずに撓んでいった。
最後には破裂する。壁と同じく粒となり、やがて消えた。
「そんな――」
「拳聖繞崎流、奥義……!」
槞牙は、戦意を失い掛けている瑠凪の腹部に左拳を突き上げる。
上空に舞った瑠凪の身体を追い掛け飛び上がり、
「牙翔連脚炮っ!(がしょうれんきゃくほう)」
身体を一回転させ、腹部への踵落し。すぐさま切り返し、背中への膝蹴り。
瑠凪の身体が上下に揺れる。
最後の右拳を振り上げた槞牙だったが、そこで攻撃を止めた。
瑠凪は背中から地面に落ちる頃には、気を失っていた。
「槞牙ぁー!」
「お兄ちゃーん!」
槞牙が地面に崩れた所で、ロリッ娘と恐怖の妹の登場。
駆け寄ってきた柚菜の惻隠する瞳に、槞牙は肩で息をしながら言った。
「はぁ……はぁ……、もう身体は平気なのか?」
「だいぶ休んだからな」
柚菜は何回か首肯し答える。その後、地面に右手を着く槞牙に気付き、耳元で囁いた。
「右手がやばいぞ」
「え……?」
「とにかく、なるべく声をおさ――」
全てを聞き取る前に、槞牙の右腕に異常なまでの激痛が走った。〈パステル〉の効果で治ったはずの腕が、元に戻ってしまったのだ。
「なっ……、っ……ああああああああっ!」
耳を裂くような槞牙の叫び声。
「お兄ちゃんっ! どうしたの!?」
瑠凪を看ていた雫が槞牙を注視し、声を張り上げる。柚菜は事態を予測していたような苦い顔。
槞牙は内部から膨れ上がる痛みを堪え、雫に答えた。
「大丈夫だ。それよりも……ぐっ……! 進藤を保健室に」
「でも……」
「早く! ……柚菜も手伝ってやってくれ」
柚菜は頷き、瑠凪の身体を抱え起こす。雫も渋々と瑠凪を運んでいった。
槞牙は暫くその場に座り込み、腕の痛みが和らぐのを確認してから保健室に向かった。
「痛っ! もう少し、もう少し優しく頼む」
「もうっ! 動かないで。お兄ちゃん」
誰かの声がする。一つは聞き覚えのある声。
……そうか。あたしは負けたんだ。
瑠凪は瞼を開き、最初に視界に入った天井を見つめた。
窓から射し込み、顔まで延びている光を手で遮ると、反対側からも影が重なる。校門でノックアウトした少女だった。
少女は黒色に近い濃い青色の瞳で、まじまじと見た後、後ろを向き、
「槞牙。起きたぞ」
顔に似合わない言葉遣いであの男――繞崎槞牙を呼ぶ。
「やっと起きたか。……もういいぞ。雫」
「骨が折れてるんだよ!? もっと包帯を巻かないと……」
椅子が暴れ、音を立てた。次には槞牙がヒョイッと顔を出す。
「どうだ、不良少女。この俺の実力は?」
やに下がって言う。はっきりと嫌みだ。
「まあまあじゃない? 人間、特技の一つはあるものね」
負けじと返す瑠凪。
「まったく素直じゃねえな。まあ、減らず口が健在なら問題ないだろ」
その時、保健室のドアが勢いよく開いた。
「瑠凪ちゃん!」
共に飛び込んできた大声。よく透る高い音程だ。声の主は、気の弱そうな三十代後半の女性だった。
一目散に瑠凪に駆け寄り、目に涙を溜めていった。
「平気なの? 倒れたって聞いて、急いできたのよ!」
声も震え、今にも泣きだしそうだ。
そんな母を見た瑠凪は渋面を作る。
「大きな声ださないで。みっともないから」
冷然とした口調で言う。しかし母親は何も答えもせずに瑠凪の両肩に手を触れた。
「今日はもう家に帰りましょ? 晩ご飯を食べてゆっくり休めば良くなるから。今日は瑠凪ちゃんの好きな――」
「いい加減にしてっ!」
瑠凪は瞬く間に激昂し、母親の両手を弾き飛ばす。
「何でいつもそうなのよっ!? そういう態度はうんざりよっ! 何なのよ。あんた……」
いつもそれ。
お父さんが事故に遭ってからずっと。ずっと何かに怯える人形みたい。知ってるんでしょ? あたしが中年の親父を相手に金を貰ってるのを。学校に行ってないのも。それなのに変わらない。無表情。いつも優しいだけのお面で素顔を隠してる。そんなの表情が無いのと一緒。
でも、あんたにそれを伝えることできない。
だって――
「瑠凪ちゃん……? ううっ……、うっ……」
母親は絶望を帯びた顔つきになった後、すぐに両手で顔を覆い嗚咽を漏らす。
「私、ううっ……きっと母親、うっ……失格、なんだ……」
ひたすら嗚咽を漏らす母親に、瑠凪は心の底から憎しみが溢れてきた。こんな人形のような母親はいらない。
瑠凪は感情を消し去り、口を開き、冷酷な言葉を告げようとした。
「ふざけんな」
だがその時、途切れた会話を繋げたのは槞牙だった。語調は重く、感情を抑えているように感じられるもの。
槞牙は瑠凪の母親の胸倉を左手で掴み、むりやり顔を上げさせる。
「母親失格だと? ぶざけるのもいい加減にしろよ。その台詞はなぁ。母親してる人間が言えることなんだよっ! てめぇみたいな奴が間違っても口にするなっ!」
槞牙は顔を怒りに歪ませ、声を張り上げる。
雫がいち早く反応し、言葉を発する。
「お兄ちゃんっ!? なんてこと言うの! そんなこと――」
「お前は黙ってろっ!」
尋常ではない槞牙の怒りに、雫はそれ以上、繋げることができなくなった。
矛先となった母親の、目元から伝う涙は堰き止められていた。ただ怯える瞳に槞牙を映している。
最も驚いたのは瑠凪だった。さっきまで敵であった槞牙が自分の為に怒った。言えなかったことを、簡単に伝えた。
そのことに驚愕すること以外にはできなかった。
「今のお前には絶対に分からない。瑠凪がどうしてこうなったのか。何を望んでいるのか。仮面で表情を偽り、泣いて逃げるあんたには、一生経っても分からねえんだよ! 母親を名乗りたいなら、今の瑠凪を見ろっ!」
槞牙が叫び終わると、そこは凄涼な空間となった。誰もが言葉を失い、まるで沈黙の住処だった。
槞牙は保健室のドアを乱暴に開けて出ていく。
雫も後に続く。
少頃してから柚菜も帰った。
残るは瑠凪と、相変わらず泣いている瑠凪の母親だけ。
だが瑠凪の心は幾分か明朗としていた。それは目の前の人間の本質を見極め、それに対する自分の気持ちを、更に明確にできたからである。
瑠凪は静かに立ち上がり、眼前の人物にそっと告げた。
「あたし、今のあんた嫌いだから。大嫌いだから……」