小さな手紙
あの出来事から、一週間が過ぎ、二週間が過ぎ、段々と自分の心の変化に私は戸惑う事が多くなった。
そんな不思議な感覚の中で生きているのが心地よくなり始めた頃、突然数学の授業中教室の窓を飴玉ぐらい大きな雨粒がけたたましい音をたて激しく叩きつけた。
クラスのみんなが激しく窓を叩く雨に気を取られている隙に、ずっと頭にあった疑問を隣の席で息を殺し黒板を見つめる彼にノートの端に小さな文字で書いた手紙を渡した。
『松本君笑ったところ見たことないけど、何か悩み事があるんですか?』
なぜそのタイミングでそんな質問をしたのかわからない。もっと訊きたい事は山ほどあったはずなのに。私の心の隅にあるドアが勝手に開いて、そこから知らない自分が手紙をだした。無理やり理由をつけるならそんな白昼夢をみているような感じだった。
彼の机に手紙を置いた瞬間から私の頭は真っ白になり、小刻みに震える手で、黒板に書かれた数式をやみくもに書き写した。
すぐに返事が返ってきた。
『笑えるような楽しいことないから』
自分から手紙を書いておいて、おかしな話だが、彼が返事をくれたことがとても意外だった。誰とも交わらない事が彼のルールだと思っていたから。
ノートの端に書かれたその短い返事は私の心をしめつけた。やっぱりあの時聞いた彼の言葉の意味は私の考え通りだったかもしれない。でも、なぜ彼は死を求めているのだろう。
確かにクラスの中で浮いた存在ではあるが、いじめられている訳でもないし、寡黙な彼のことを好きだという女子もいた。決してクラスメートに嫌われている訳ではなかった。
彼が悩んでいるのは学校や友達のことではないのかもしれない。もっと深いところで苦しんでいるのかもしれない。そう思うと彼のとても綺麗な字がやけに痛々しく見えた。
私は自分の丸い字がとても幼稚に思え、一文字ずつ彼の字を真似て次の手紙を書いた。
『松本君にとっての楽しいことってどんな事ですか?』
いくら待ってもその答えは返ってこなかった。私はつかの間の幸福から簡単に奈落の底に突き落とされる恐怖を感じた。そして自分でも信じられないほど彼を好きになっていることに気づかされた。
「あっ!」
私を奈落のそこから引き上げるように、窓際の席の男子が短い歓喜の声を上げた。
その声に誘われ、私は顔を向けた。
いつの間にかあんなに激しく降っていた雨が止み、微かに虹が架かっていた。
先生を含めクラス全員が窓の外を見ていた。こんな時彼はどんな表情を浮かべているのだろう。私は隣の席の彼の様子をそっと窺った。
今にも零れ落ちそうなほど目に涙を浮かべ彼は窓の外を見ていた。そして数秒後ひとすじの涙が頬をつたった。
私は彼の頬に触れたい衝動を必死で抑えた。