真実
何秒かの時間が永遠に思えるほど長く感じた。上村あきの言葉はそんな重みを含んでいた。
「私妊娠したよ。 わたしにんしんしたよ。 ワタシニンシンシタヨ」
手を強く握りしめ、身体を少し震わせながら今にも泣き出しそうな表情で何も言わず上村あきは、広翔の目を見つめていた。
上村あきの目を見つめ返す広翔の頭の中で、徐々に出来上がる記憶のパズルは、中学の時上村あきに初めて手紙を貰った頃の場面で止まった。
中学の頃の上村あきは男子の評判も良く、女子からも色々相談される人気者で、成績も学年でかならず五番以内に入るような、非の打ちどころのない女子だった。
そのころの広翔は今と変わらず、いつも最後を迎える場所を探していた。
ある時クラスの男子が広翔にこんな質問をした。
「松本っていい感じに生きてるよな」
広翔は反射的にこう答えていた。
「良い感じに死んでるからね」
一拍の間をおいて周りにいたクラスメートが笑い出した。その時の広翔はなぜみんなが笑っているのか不思議でしかたなかった。
居心地が悪くなり席を立とうと腰をあげたとき、上村あきだけが一切笑うことなく自分を見つめていることに気づいた。
その目は今まで誰にも知られることがなかった、広翔の重い過去を覗いてしまった、驚きと悲しみに包まれていた。
広翔はそんな上村あきの視線から逃げるため教室から足早に出て行った。
『松本くん、笑ったところ見たことないけど、何か悩みごとがあるんですか?』
隣の席の上村あきからそんなことが書かれた手紙をもらったのは、数学の授業中突然大粒の雨が教室の窓を叩いた時だった。
今まで挨拶ぐらいしかした事がなかったので、驚いて彼女を見ると真剣な顔で黒板に書かれた数式をノートに書き込んでいる。
広翔は心の中を勝手にのぞかれたような恥ずかしさと同時に、初めて自分のことを知ろうとしてくれている異性に戸惑った。
広翔はノートの端を破って『笑えるような楽しいこと、何もないから』と書いて誰も見ていないことを確認してから、彼女の机にそっと置いた。
『松本くんにとっての楽しい事ってどんな事ですか?』
すぐにそう書かれたノートの端が返って来た。
自分にとって何が楽しい事かなんて考えた事もなかった。今でもはっきりと首に残っている母親の手の感触が、お前は楽しいことなど望んではいけないと、見えない鎖でいつまでも自分を縛りつけている。
今になってあの時なぜみんなが笑ったのか、わかった気がした。十五歳の人間にとって死とは恐怖の対象ではないのだ。極論だが、死は年老いた人間にだけ訪れる出来事であって、決して十五歳の自分には訪れない、そんな確信の中でみんな生きているのだ。
小さな頃から死について考えて来た広翔とはみんな別の世界で生きている。そう思うと右手に持つシャープペンがずしりと重くなり、そのあと返事を書くことが出来なかった。
「あっ!」
窓際に座る誰かが短い声を上げた。広翔はその声に誘われ視線を向けた。
いつの間にか雨が止み、黒雲の隙間から洩れたひとすじの光が大きなアーチを描く虹を照らしていた。
楽しいことを求める心は失ってしまったけど、まだ美しい光景を素直に美しと感じる心は残っていた。
広翔は頬が微かに濡れたのを感じて咄嗟に左手で頬を拭った。