妊娠
体の中に自分以外の命が宿るってどんな気持ちだろう?
もしその命が生まれてくる前に、自分の想像していた子供と違うと
知っていたら、その子を産むのだろうか……。
公園のベンチから立ち上がり、重い心をその場に捨てて、学校に向かう。今の自分には、そこが一番安全だから。毎日同じ席に座り、周りと同じことをしていれば、生きていける場所。早くその無機質な箱の中に、逃げ込みたかった。
校門の前に着くと、ポケットの中で携帯が震えた。取り出し画面を見ると『父』という文字が浮かんでいた。
「もしもし広翔か?」
「うん……。電話なんてめずらしいけど、何かあった?」
「母さん、心配してるぞ」
「……」
「ゆっくり、三人で話さないか?」
「何を話すの?」
「父さんはお前がこれからどうしたいかを聞きたいだ……」
「父さんは……、母さんが僕に何をしたか知ってるよね」
「すまないな……」
「何で謝るんだよ!」
謝って欲しかったんじゃない。ただ認めて欲しかった。もう家族という集合体では、いられないことを。
その集合体は、いびつな形のままではいられないことを。そして、いびつにねじ曲がった集合体が元の形に戻ることは、二度とないということを。
「本当にすまない」
「もう、何もかも……手遅れなんだよ」
少しの沈黙の後、父親は電話を切った。
広翔は皮脂で汚れた携帯画面を見つめた。何故だかその汚れが、自分と両親とのつながりを感じさせ、乱暴に制服の袖で拭い取り、校門をくぐった。
クラスに入ると、独特な臭いがした。自分をより良く他人に見て欲しい、 そんな臭いでこの箱の中は満たされている。
その臭いをかきわけるように、窓際の一番後ろにある自分の席に向かう。そこには、誰も座っていない。あたりまえのように、自分の居場所が確保されている。
今の広翔にはその場所がとても神聖に見えた。
席に座り窓の外を見ていると、隣のクラスの上村あきが校庭をゆっくり歩いて来るのが見えた。
中学の卒業式の日、広翔は上村あきと穢れた約束を交わした……。その約束は、純粋な気持ちを求めすぎて、とても残酷なものだった。
前の方で二人の女子が、彼女のことを話す声が聞こえた。
「ねえ、あれ隣のクラスの上村あきじゃない?」
「本当だ! あの子学校辞めたんじゃないの?」
「そうだよね!」
「隣のクラスの友達に聞いたんだけど、あの子いきなり数学の授業中立ち上がって、『わたし妊娠したので学校やめます』って言ったらしいよ」
「よくそんなこと言っときながら学校にこれたよね!」
「あの子どこか変だったじゃん、誰とでもヤッテたみたいだし」
「マジキモいんだけど!」
広翔にはそんな話をしている二人の顔が、ライオンの食べ残しを狙う、ハイエナとかさなった。
自分の体の中にもう一つ命が宿るって、どんな感じだろう? 十ヶ月もお腹の中で大切に、時には自分の生命よりも大事に思うその物体が産まれてきて、想像していた物と違えば、それだけ憎しみも増えるのかもしれない。
母さん、僕にどうなって欲しかった……。
命をかけて産んでくれたのに、想像していた幸せな未来をあげられなくてごめんね。
自分の体の中にもう一つ命が宿る。その経験を経て
女性が母親になるのだとしたら、男は何を経て
父親になるのでしょう。