リアル
耳元で熱い息を感じながら広翔は首を横に振った。
「無理だよ。そんなこと上村さんにして欲しいと思ってない」
あきは駄々をこねる子供をあやすように、優しく広翔の首に腕を回した。
首にかかる腕の重さが、あの時の映像を鮮明に思い出させ、広翔は反射的にあきを突き飛ばした。
ベンチから転げ落ちたあきは、背中を打ち、肺にあった空気を吐き出すような短い悲鳴をあげた。
広翔はこの状況が現実なのか、過去のトラウマが見せている悪夢なのか、わからなくなっていた。ただ、怖かった。この場所から逃げ出したかった。
立ち上がり公園の出口に走り出そうとした広翔の背を、あきの泣き声が追いかける。
その悲痛な泣き声が、広翔の足を止め、その場から動けなくなった広翔は首だけを回し、あきを見た。
あきは膝を抱え泣いていた。まるで今までの苦しみをすべて吐き出すように泣きじゃくっていた。
広翔は重くなった足を引きずるように一歩、一歩、動かし、あきの前でしゃがみこんだ。
「ごめん……。突き飛ばすつもりはなかったんだ」
あきは顔を伏せたまま小さくうなずいた。
広翔は何かを決心するように短い息をひとつ吐き、とつとつとしゃべり始めた。
「小さな頃、母親に首を絞められた事があって、何かが首に触れるたびにそのことを思いだしてしまうんだ」
自分の寂しさを押し殺し、あきは顔を上げた。
直感的に今、彼の苦しみを受け止めなかったら、二度と自分に心を開いてはくれない、そう感じた。
涙の膜でぼやけた視界に映った広翔の顔は苦痛で歪んでいた。
広翔はどこかが壊れたように、抑揚のない声でしゃべり続けた。
「どうしてもわからないんだ、自分がなんで虐待されるのか。授業中も家に帰ってもそのことばかり頭から離れなくて。何か理由があるなら……。変な言い方だけど、納得して虐待を受け入れることもできる。理由がないのに虐待されることが、とても怖いんだ。だってそれは……、終わりがないって事だから」
固く握られた広翔の両手が小刻みに震えていた。
「理由があればいいの? 納得して虐待を受けるなんておかしいよ!」
自分の事のように怒りを表すあきを見て、広翔は微笑んだ。だがすぐにその笑みは消え、地面を見つめ口を閉ざした。
「私たちが失ったものは同じなんじゃないかな?」
突然のあきの問いかけに広翔は戸惑いの表情を浮かべた。
「同じてなに?」
「家族」
「家族?」
「そう。私は両親を事故で失った。松本くんの両親は生きてるけど、松本くんの心の中では死んでるんだよ」
自分の苦しみの根源がなんだったのか知り、広翔は絶句した。
絶対に認めたくない事実が、頭の中に浮かんでは消え、消えては浮かぶ。
自分を今まで苦しめていたのは、両親を失った寂しさだったのだ。
死ぬ時に誰の記憶にも残らない自分でいたいなんて、強がりだった。本当は、寂しくて寂しくて誰かに愛して欲しくてたまらなかった。
でも素直にその気持ちを受け入れられるほど、広翔は強くなかった。
「寂しくなんかない。寂しくなんかない」
砂を噛むようなざらついた声と共に、ガクガクと身体中が震えだし、大粒の涙が広翔の頬をつたった。
そんな広翔をあきは優しく抱きしめた。
「私がずっとそばにいるから。ずっと、ずっとそばにいるから」
広翔は、何も答えることができなかった。そんな優しい言葉を人に言われたのは、はじめてだったから。
現実の世界にそんな優しい言葉があることさえ、忘れていた広翔は、ただ、あきを抱きしめた。