神様が僕につけ忘れたもの……
誰かを愛するために、自分を傷つける。
そんな方法でしか、人を愛せない僕が生きるには、
心をどこかに捨てるしかなかった……。
カーテンから差し込む梅雨明けの乾いた日差しを顔に受け、松本広翔は目を覚ました。
正常に動くまでに時間を必要とする身体は、年老いた人間のようにずしりと重い。
広翔は布団から左手を伸ばし、ガラステーブルの上にあるテレビのリモコンを取り、電源と書かれた赤いボタンを押した。
テレビ画面の左上に映し出された六時二分という時間を、まだ睡眠を欲しがる脳が確認する。
手元の原稿を重く沈んだ声で読む女子アナウンサーを、広翔のぼやけた視界がとらえた。
「昨夜、桜町にあるマンションから、六歳と三歳の子供の遺体が発見されました。主な原因は母親による虐待で、発見された子供たちは食事を与えられず餓死したもようです」
悲しみを前面に押し出した女子アナウンサーは、今日も華やかな服と綺麗に化粧された顔だった。
テレビ画面の中にいるこの人も、長い時間努力してこの場所にたどり着いたのだろう。でも、どこかで広翔は理不尽さを拭えないでいた。
(人は生れ落ちる場所を選べない……)
岩を詰めたように重い広翔の頭の中は、そんな漠然とした答で埋め尽くされる。
この子供達は、どんな意味をもってこの世に生まれて来たのだろう。
『人は長く生きる事を目標にするのではなく、深く生きる事を目標にするべきだ』
こんな言葉は、大人になるまで普通に生活できた人間の心にしか響かない。 母親に首を絞められた事がある人間は、そんな綺麗な言葉を使えない。
広翔は小学六年生の時、母親に首を絞められた経験があった。もしあの時父親が、仕事の書類を取りに家に帰ってこなければ、確実に広翔は死んでいた。
生れ落ちる時と場所は選べなくても、死ぬ時と場所は選びたい。そのことがあってから、広翔はずっとそう思って生きてきた。
でも、この世界がそんなに甘くない事もわかっている。普通なら死ぬはずの大きな事故にあっても、生きる人間もいれば、頭を軽くぶつけただけで、死ぬ人間もいるのだから。
本当に神様がいるのなら、せめて最後ぐらいは自分で決める事を許してほしい。
階段を足早に駆け上がるように、今日も二階にある広翔の部屋のドアを、一階の居間で悲痛な声で叫ぶ、母親の罵声が容赦なくノックする。
「あなた、あの子の事どう思ってるの? 私、あの子が何を考えているのか、分からなくて怖い……」
「広翔だってもう十六歳なんだから、自分で将来のこと考えてるだろ」
父親はいつも通り、うんざりした声色でそう答えた。
「あなたは、会社っていう逃げ場所があるけど、私はあの子とずっと居なきゃいけないのよ。正直に言うけど私、一度もあの子を、愛したことないわ!」
「そんなこと言うなよ。自分の子供だろ……」
「自分の子供だから悩んでるんでしょ! 他人だったらどんなに楽か。あんな子……、産まなきゃよかった」
なんで僕はこの人たちのもとに生まれてきたのだろう。なんで母親がこんなにも自分を嫌うかわからなかった。
三百六十五日母親は、広翔に罵声を浴びせた。さすがに今は力では勝てなくなったので、手をあげる事は無くなっていたが、その日によっていろんな角度から言葉のナイフは振り下ろされる。
言葉のナイフは、確実に人の心を壊せる武器だ。傷つけられた心を治す薬など、どこにも売っていない。自然と治るのを待つか、心を捨てるか……。
広翔は後者を選んだ。
重い身体を無理やりおこし高校の制服に着替え終えた広翔は、ベットに腰掛深いため息をついた。
「キミたちからすれば僕はかなり恵まれているよね……」
会った事のない、悲運な死を遂げた子供たちに自然と話しかけていた。
「でも、僕はもう生きていたくはないんだ……」
階段を一歩、一歩、母親のヒステリックな声に同調させながら降り、洗面所で寝癖のついた髪と、血色の悪い顔を手早く洗った。
髪を乾かす時間を惜しむように、バスタオルで水分を拭い取り、錆びた蝶番のきしむ玄関のドアを素早く開け、広翔は近くの公園に向かって逃げるように歩き出した。
梅雨明けの太陽は今までの鬱憤をはらすように、公園を照らしていた。
広翔は木陰に設置されているベンチに座り、いつものようにコンビニで買ったパンとコーヒーを口に運んだ。
高校に入ってから両親と食事をすることを避けていた。あと一週間で七月になるので、三ヶ月は一緒に食事をしていないことになる。
公園の柵越しに幸せそうに母親と手をつなぎ幼稚園に向かって歩く小さな男の子を見つめた。
「あんなふうに、手を使って欲しかったな……」
広翔自身気づかぬうちに、自然と心の声がもれていた。記憶にある母親の手は、幸せの象徴ではなく、恐怖そのものだった。
突然脳みそを鷲づかみされたような痛みと共に、過去の映像が鮮明に蘇る。頭の中を流れ続ける映像は、幸せとは程遠いものだった。
母親の手がコマ送りのようにゆっくりと自分の首に近づいてくる。首元に触れた母親の指先は氷のように冷たく、そこからは憎悪があふれ出している。
母親の手の力が強まる。
まるで巨大な蛇が獲物に巻きつき、徐々に生命を奪うみたいに、どんなにもがいてもそこからは逃げ出せない。
目の前が明滅し涙が頬をつたうと、研ぎ澄まされた聴覚が拡声器を通したような歪んだ母親の叫び声を直接脳に響かせる。
「何で言った通りにできないの!」
「… ご…めん…な…さい」
「本気で思ってないでしょ!」
「……ご…め………」
「なんで出来ないの! なんで出来ないの! なんで出来ないの! なんで出来ないの!」
「お前なにやってるんだ!?」
父親の取り乱したその声を最後に、広翔は気を失った。気が付くと自分のベットの上にいて、父親が心配そうな顔で広翔を見ていた。
「大丈夫か?」
広翔は「うん」と答えようとしたが、旨く声がでず、大きく二度うなずいた。
父親はほっとした顔を残したまま、耳を疑う言葉を言った。
「誰にも言っちゃだめだぞ。こんな事誰かに知られたら、父さん会社に行けなくなるからな」
少しだけ残っていた理性と両親への信頼は、この時砕け散った。
広翔は口元を手で押さえ喉の痛みを忘れたかのように、声にならない声で大笑いした。
頭の痛みがゆっくりと治まり、目を開けると幸せそうに手をつなぎ歩いていた親子は、もういなかった。
広翔は小さな声でそっとつぶやいた。
「首を絞められた、手の感触を抱えたまま、僕は生きていけそうにありません。あと少し辛抱してください。あなた達の前から消えますから……」
どうして人を愛すると、その人のすべてを知りたくなり、
壊れると知りながら、心をすべて相手に見せて
しまうのでしょう。