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観測記録

作者: やぎさん

観測記録


プロローグ 夢


私は夢を見ていた。


小学生の頃の理科室。白い棚の上に置かれた、透明なプラスチックケース。中には砂と細いトンネル、そして忙しなく動くアリたち。


息を潜めて覗き込むと、アリは私の存在に気づかない。ただ決められた通路を行き来し、餌を運び、時折ぶつかり、また流れに戻っていく。


「ちゃんと見なさい。世界は、触るものじゃないのよ」


背後から、落ち着いた声がした。


振り返ろうとした瞬間、ケースの蓋が小さく鳴り——


私は目を覚ました。


第一部 日常


第一章 夢の中の理科室


夢の中で、私は小学生だった。


理科室の窓は高く、曇りガラス越しに白い光が差し込んでいる。机の上には、透明なプラスチックケースが並べられていた。土と枝、砂糖水を含ませた脱脂綿。蓋には、針で開けたような小さな空気穴が、几帳面に並んでいる。


アリたちは忙しなく動いていた。だが、よく見ると、動きは驚くほど単調だった。同じ経路を、同じ角度で、何度もなぞる。私は鉛筆で記録用紙に線を引き、その軌跡を書き写していた。


「ちゃんと見なさい。触っちゃだめよ」


背後から、母の声がした。柔らかいが、逆らえない声だった。


一匹だけ、隊列から外れたアリがいた。ケースの角で立ち止まり、触角を振り、外を見上げている。


——そこに何がある?


私が顔を近づけた瞬間、ケースの蓋がわずかに鳴った。


世界が、ひっくり返る。


私は研究室の椅子で目を覚ました。


第二章 日常


高瀬 恒一は、世界が安定していると信じていた。


目覚ましは毎朝、同じ電子音で鳴る。六時三十分。止める前に二秒だけ鳴らすのが習慣だった。長く鳴らすと、夢の続きを忘れてしまう気がした。


洗面所の鏡に映る自分の顔は、少し疲れているが、異常ではない。髭を剃り、ネクタイを結ぶ。結び目が一度で決まると、その日はだいたいうまくいく。


家を出ると、住宅街はまだ静かだった。角のパン屋は七時きっかりにシャッターを開ける。駅までの道にある自動販売機は、去年一本だけ配置が変わったが、今ではそれも元に戻っている。


電車は混んでいるが、毎日ほぼ同じ場所に立てる。ドアから三人目。吊り革には手を伸ばさない。揺れの周期は身体が覚えている。


研究所に着くと、カードキーをかざし、白い廊下を歩く。床の模様の継ぎ目を無意識に避けながら、研究室へ向かう。


モニターを起動し、前日の続きから作業を始める。数値は正直だ。入力に応じて結果を返す。誤差はあっても、理由がある。


高瀬は、そうした世界の振る舞いを信頼していた。


昼前、斎藤がコーヒーを淹れに来る。


「今日も早いな」


「いつも通りだよ」


斎藤は笑い、紙コップを二つ持って戻っていく。その背中を見送りながら、高瀬は画面に視線を戻した。


そのときだった。


計算結果の末尾が、わずかに揃っていることに気づいた。


気にするほどではない。処理の癖だ。丸め誤差の範囲内。


高瀬はそう判断し、チェックを入れて次に進んだ。


夕方、報告書を書き終え、ファイル名に日付を入れる。数字は今日も、きれいに収まっている。


帰宅の電車の中、窓に映る自分の顔を見ながら、高瀬はふと考えた。


——世界が、いつも同じ形で応答することは、本当に自然なのだろうか。


その考えは、次の瞬間には消えた。


考えすぎだ。


世界は安定している。


第三章 違和感の輪郭


違和感は、ある日突然現れたわけではなかった。


高瀬はそれを、最初は疲労のせいだと思った。睡眠の質が落ちているのか、集中力が続かないのか、その程度の理由はいくらでも考えられた。


だが、数字は嘘をつかない。


前日のデータを再解析し、さらにその前、そのまた前へと遡る。保存されたファイルを一つずつ開き、同じ処理をかけ、同じ条件で比較する。


結果は変わらなかった。


誤差は、常に一定の範囲に収まっている。問題は、その範囲が狭すぎることだった。


通常、測定値は揺れる。環境、装置、解析手法——どれかが変われば、揺れ方も変わる。だが、高瀬の前に並ぶグラフは、違う実験であるはずなのに、どこか似通っていた。


「似ている」というより、「揃っている」。


その言葉が、頭の中に浮かんだ瞬間、高瀬はノートを開いた。


日付、測定対象、装置名、解析条件。箇条書きで淡々と記録していく。感想は書かない。評価もしない。ただ事実だけを並べる。


それでも、ページが進むにつれて、同じ語句が何度も現れ始めた。


——最終桁が一致。 ——誤差幅が一定。 ——説明可能だが、説明しきれない。


違和感は、少しずつ輪郭を持ち始めた。


それは現象というよりも、境界に近かった。


どこまで理解できて、どこから理解できないのか。その線が、最初から引かれているように見えた。


高瀬は、いくつかの仮説を立てた。


装置の不具合。解析ソフトのバグ。自分の操作ミス。どれも検証し、潰していった。だが、原因が消えるたびに、違和感だけが残る。


説明が完成する一歩手前で、必ず何かが足りなくなる。


それは偶然だと言い切るには、回数が多すぎた。


夜、研究室に残り、一人でモニターを眺めているとき、高瀬はふと考えた。


——もし、世界が最初から、ここまでしか理解されない前提で作られているとしたら?


その考えは、危険だと感じた。


彼は椅子から立ち上がり、窓の外を見た。街の灯りは規則正しく並び、遠くのビルの赤い航空障害灯が、一定の周期で点滅している。


世界は、整っている。


そう自分に言い聞かせ、高瀬は研究室の灯りを落とした。


だが、その夜、夢は見なかった。


第四章 報告


異変が、個人の感覚から公共の事象へと変わったのは、その翌週だった。


昼休み、研究室のテレビがついていた。誰かがリモコンを触ったのだろう。音量は小さく、普段なら気にも留めない。


だが、画面の下に流れるテロップに、高瀬は目を奪われた。


《未明、関東上空で正体不明の発光現象》


キャスターの声は落ち着いている。いつもの語調だ。


「本日午前二時十六分ごろ、複数の地域で強い光が観測されました。防衛省は、航空機や隕石ではない可能性が高いとしています」


映像が切り替わる。


夜空を背景に、白く歪んだ光点が映っていた。流星のように尾を引くが、減速せず、途中で不自然に角度を変えている。


「……おかしくないか、これ」


最初に口を開いたのは、斎藤だった。


「ドローン?」と若手の宮本が言う。


その隣で、資料を抱えたまま黙っていた女が、小さく首を振った。


「違うと思います」


声の主は、解析担当の**黒川くろかわ みお**だった。研究室でも口数の少ない彼女が、珍しく会話に割り込んだ。


「この光、ノイズ処理をかけた後のデータみたいに見える。実体じゃなくて……表示の問題に近い」


「表示?」と宮本が聞き返す。


「ええ。見えてはいけないものを、無理に表示した感じ」


一瞬、場の空気が止まった。


高瀬は黙って画面を見ていた。


違和感は、映像そのものよりも、説明の仕方にあった。


キャスターは『原因不明』と言いながら、どこか結論が決まっているような口調だった。これ以上深掘りしない、という線が引かれている。


画面には、専門家と肩書きのある人物が映る。


「現時点では自然現象の可能性が高いですね。プラズマ発光の一種と考えられます」


説明は滑らかだった。だが、理論の前提がいくつも省かれている。


高瀬は、無意識のうちにノートを開いていた。


光の強度、移動速度、進行角度。画面から読み取れる限りを書き出す。


——合わない。


数値が、彼の頭の中で拒否反応を示していた。


「高瀬、どう思う?」


斎藤がこちらを見る。


「……説明が簡単すぎる」


それだけ言うと、高瀬はノートを閉じた。


その日の午後、研究室ではその話題が繰り返された。


「偶然だろ」 「報道が大げさなだけ」 「最近多いよな、こういうの」


言葉は軽い。だが、誰も映像を笑い飛ばさなかった。


夜、自宅に戻り、高瀬は録画を見返した。フレーム単位で止め、光の輪郭を追う。


光は、ぼやけているのではなかった。


まるで、解像度が合っていないように見えた。


そこにあるのに、こちらの世界の焦点が合わない。


——観測対象として、想定されていない。


そんな言葉が、頭に浮かんだ。


第五章 境界の理論


高瀬は、すべてを一つの仮説にまとめ始めた。


世界は連続している。


そう教わってきた。空間も時間も、無限に滑らかだと。


だが、もし——


もし世界が、観察される前提で区切られているとしたら?


高瀬は、子供のころの記憶を思い出した。


夏休みの自由研究。透明なプラスチックケース。中に入れたアリ。


決められた広さ。決められた餌。決められた時間。


アリたちは、それを世界だと思って生きていた。


外から覗く視線に、気づくこともなく。


高瀬は、震える手で数式を書いた。


観測可能範囲。解像度。干渉。


説明できない現象は、異常ではない。


仕様だ。


世界が“キット”であるなら、管理者がいる。


管理者がいれば、巡回がある。


——光は、巡回者だった。


UFOではない。侵略者でもない。


管理用の存在が、誤ってこちらの解像度に映り込んだだけ。


高瀬は、笑いそうになった。


荒唐無稽だ。証明不能だ。誰も信じない。


だが——


数字は、最初からそれを示していた。


理解できる範囲が、最初から決められていることを。


翌日、高瀬は斎藤にノートを見せた。


斎藤は、最初は笑った。


だが、ページをめくるにつれ、口数が減った。


「……冗談だよな?」


「証明はできない」


高瀬はそう答えた。


「でも、否定もできない」


斎藤は、しばらく黙っていた。


「……黒川も、似たこと言ってた」


「黒川が?」


「表示の問題だって。世界のほうが合ってないんじゃないか、って」


高瀬は、ゆっくりとうなずいた。


「それなら説明がつく」


「何がだ」


「僕らが“見せられている側”だってことが」


斎藤は、それ以上何も言わなかった。


その日の夜、ニュース速報が流れた。


《同様の発光現象、太平洋上でも観測》


頻度が、増えている。


——観察が、終わりに近づいている。


高瀬は、確信していた。


エピローグ 観察者側


私は、透明なケースを見下ろしていた。


縮小された太陽系が、静かに回っている。


惑星の一つで、微かな光がまたたいた。


「ねえ」


背後から、声がした。


母だ。


「ちゃんと観察する気がないなら——」


ケースの縁を指で叩きながら、母は言った。


「もう観察しないなら——捨てるわよ。これ、場所も取るし」



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