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ハーデンベルギアの咲く頃


幼馴染の鳴海潤がよく笑うようになったことに、森蔭耀太が気づいたのは、始業式から二週間ほど経った頃だった。


二学期初日の始業式。平井明日香という転校生がクラスにやってきた。前髪が重く、眼鏡をかけている。おまけに声も小さい。見た目だけで判断してはいけないと分かってはいたが、暗そうな子だなと思ってしまったのを覚えている。

その平井が鳴海の隣の席になったと聞いて、鳴海は本当に隣人運がないなと思ったものだったが、始業式の翌日から二人はいつも一緒にいた。


鳴海が心を開いているのなら、平井もきっと悪い子ではないのだろう。二人の後ろ姿を眺めながら、森蔭はそう思っていた。


「潤〜、平井くん。俺も一緒に行っていい?」

「おー、いいぞ」

「うん、もちろん」


平井は森蔭をチラリと見て、「明日香でいいよ」と笑った。見た目に反して、凛とした綺麗な声だ。


「じゃあ明日香ね。二人とも昨日から急に仲良いじゃん」


詳しく聞いてみると、どうやら好きなものが一緒らしく盛り上がったらしい。もちろん、鳴海の好きなものはほぼ森蔭も通ってきているので、三人の会話は自然と弾んだ。


「いや〜明日香って、もっと無口な子かと思ってたけど、結構話すんだな」

「デリカシーがないやつだな、お前は」

「いや、でもほんとに」


そんなやりとりを聞いて、平井が笑う。


「明日香も、笑うところじゃないぞ。怒っていいんだからな、今の」

「いいんだよ」


平井はさらりと言った。


「よく言われるから、もう慣れてるよ。耀太みたいに、ちゃんと分かってくれる人がいればそれでいいんだ」


その言葉に、森蔭は少し驚いた。

自分のことを誤解されたままでいいなんて、思っているわけじゃなかったんだな。そんな意外な一面が見えた気がした。



第2節(修正版)


次は体育だ。着替えるのが面倒だから、いっそ朝から体操服で過ごさせてほしい。そう思いながら、制服のボタンを外していく。

そのとき、ずっと気になっていたことをふと思い出した。


「お前の口癖って、“明日香”だよな」

「……うん?」


そう、鳴海の口癖だ。この一ヶ月弱、多分誰よりも何よりも、鳴海の口から最も多く発されている言葉。それなのに、本人はまったく自覚がないらしい。


本人は「そんなに呼んでるか?」とキョトンとしていたが、傍から見ればかなり呼んでいるし、森蔭なんて耳にタコができるほど聞いている。それでも、口に馴染んだ言葉に疑問を持つ人間は少ないのだろう。


今日は珍しく、平井がそばにいない。何か用事があるとかで、先に行っているようだった。


もちろん、鳴海が平井を何と呼ぼうが、どれだけ呼ぼうが、森蔭にとっては正直どうでもいい。ただ、人が恋愛している様子というのは、知人であればあるほど、からかいたくなるか、応援したくなるかのどちらかだ。

今の森蔭は、完全に前者。


それに、鳴海が平井に恋をしているかどうかは微妙なところだが、表情や口癖までが誰かによって変えられるのだとしたら、それはたとえ恋じゃなくても、“特別”の証なのではないか。


そして、相手の名前を呼ぶというのは、いちばん簡単な愛情表現だと、森蔭は思っている。


「一説によると、人間は好意を持ってる相手とか、仲良くなりたい相手の名前を、ついよく呼ぶらしいよ」


鳴海が平井にどんな種類の好意を持ってるかはともかく、少なくとも好意があるのはバレバレだ。森蔭はそれを、それとなく伝えてやることにした。


体育館に着くと、すでに8割くらいのクラスメイトが集まっていた。授業開始まではまだ数分ある。そう思っていたとき、隣から鳴海の声が聞こえた。


「明日香、まだ来てないな……あっ」


鳴海は、森蔭と目が合った瞬間に「しまった」という顔をした。

森蔭は思わず笑って、鳴海の肩を軽く叩く。


「お前、本当に明日香大好きだなあ」



「痴話喧嘩に巻き込まれるって、こういうことを言うのかもな」

森蔭は少し他人事のように、二人のやり取りを眺めていた。


「待っててもらったのにごめん。今日は一人で帰る」

そう言って、平井は荷物をまとめると早歩きで教室から出ていってしまった。


残された二人の間には、重たい空気と沈黙が漂っていた。

鳴海は自分のことで精一杯で、森蔭の存在なんて目に入っていないだろう。そう思った森蔭は、口を開く。


「お前さ、無自覚に明日香のこと囲ってんの、気付いてない?」


「何が?」と返されて、森蔭は思わず笑いそうになる。

こんなに態度に出てるのに、自分の気持ちに気付いてないってか。

無自覚でいる分、タチが悪い。鳴海がその調子では、平井も森蔭も、ただとばっちりを食っただけだ。


「お前は、明日香が誰かのものになるのが嫌なんだよ」


それはもう、森蔭にとっては“ほぼ答え”なのだが、鳴海はまだ頭を捻っている。

どうしたものかと思っていると、今度は鳴海がぽつりと口を開いた。


「さっき俺、明日香に彼女ができるって思ったとき、“おめでとう”って言えるかなって考えた」


“言えるかな”って思って――なんか、胸が苦しくなった。


なるほど。そう思うと同時に、森蔭は鳴海の感情が、どこか別の方向にすり替えられていることに気付いた。

明確な言葉を知らないから、無理やり別の場所に落ち着かせてる。そんな感じだった。


森蔭は驚いていた。こんなにも鳴海って、恋愛に対して初歩的だったか?と。


確かに、森蔭の知る限り鳴海は誰とも付き合ったことがない。


「告白なんてしょっちゅうされるんだし、取り敢えず付き合ってみたら?」


そんなことを、森蔭はかつて鳴海に言ったことがある。そのときの返事を、森蔭は今でもはっきり覚えている。


「ちゃんと“好き”とか“特別”って思える相手じゃないと嫌なんだよ」


――女子が俺に告白してくるなんて、大体“顔が好き”ってだけだし。


鳴海はそう言って、どこか寂しそうに笑っていた。


容姿端麗であるということは、まず外見的な好みをクリアするということだ。

でも中身までちゃんと見てくれるかどうかは、結局人それぞれ。

努力して手に入れた成果でさえ、「顔がいいから」と嘲笑されたり、「顔がいいなら中身なんてどうでもいい」なんて言われることもある。


森蔭はずっと近くで、鳴海が良くも悪くも“顔”によって態度を変えられてきた様子を見てきた。

だからこそ今、鳴海のささやかな心境の変化に誰よりも気付いている。


「ちなみに、その心は?」


「寂しいなって思った」


「寂しい?」


「そう。明日香に彼女ができたら、昼一緒にご飯食べられなくなったり、帰れなくなったりするのかなって思うと、寂しい」


――やっぱりズレてるんだよなあ。


森蔭は、幼馴染の少女漫画みたいな恋愛観に思わず失笑した。

あの日のお前の返事を思い出してくれ、幼馴染よ。

“誰かに取られるのが寂しい”って思うくらいには、もう平井は“特別”な存在なんだってことを。


さっきまではなんとか気付かせてやろうと思っていたが、ここまで来たらもう、自分で気付かせるのがいい。

初恋ってやつは、だいたいそんなふうにして苦労するもんだ。



朝から、クラスではちょっとした騒ぎが起きていた。

――あの鳴海と平井が、一緒に過ごしていない。


昼休みにもなれば、平井の周りには人だかりができていた。

森蔭はパンをかじりながら、その光景を眺めていた。


「お前の明日香、めっちゃ人気じゃん」


「俺のじゃねえし。アイツはもともと優しいから、人気なのは知ってる」


「ていうかさ、結局どうしたの? お前ら」


朝から「助けてくれ」と森蔭に泣きついてきた鳴海(※本人いわく“泣きついてはいない”)は、黙々と弁当を食べ進めている。


「まあ、なんていうか、色々あったんだわ」


「その“色々”を俺は聞いてんの」


後ろからは、黄色い声を上げる女子たちと、たどたどしくも受け答えする平井の声が聞こえてくる。

鳴海の耳にも届いているはずなのに、彼は決して振り返ろうとはしなかった。


鳴海が話そうとしないなら、無理に聞くこともない。森蔭は話題を変える。


「まあ、明日香も、たまにはお前以外の人と話せて楽しいんじゃない?」


鳴海は森蔭を見つめる。まるで、言葉の意味が分からないというように。


「どういう意味だよ」


「どういう意味も何も、そのまんま。いつもは潤がお前を独占してたから、明日香と喋りたいって子、いっぱいいるんだよ?」


「マジか。全然知らなかった……」


ようやく、鳴海は平井の方を見やる。

男女問わず好かれているのは知っていたが、あんなふうに多くの人に囲まれている姿を見るのは初めてだった。

――いつもは、自分がその隣にいたから。


「明日香に悪いことをしたな……」


そうつぶやいてしょぼくれる鳴海に、森蔭は穏やかに言った。


「明日香の気持ちは、明日香にしか分からないでしょ」


だから、お前が一人でどうこう考えることじゃない。

分からなければ、聞けばいい。


そう伝えると、鳴海は何かを決意したようにスマホを取り出し、平井にメッセージを送った。


「耀太、ありがとな」


「どういたしまして。今度、飯でも奢ってもらおうかな」


「おうおう、焼肉でも何でも奢ってやる!」


「じゃあ、回らない寿司」


その言葉に、鳴海は笑った。


「しゃあなし! 奢ってやるよ!」

 


やっといつもの鳴海に戻ってきたか?

森蔭はそんなことを思いながら、パンの残りを齧る。

あとはちゃんと自分で頑張れよ、と心の中でそっと背中を押していた。



昨日とは違うざわめきがクラス中を包んでいる。

原因はさっき鳴海が平井に放った言葉だった。


当の平井は呆然とどこかを見つめていて、放心状態だ。


「おーい明日香、大丈夫か?」


平井は呆然としたまま森蔭を見つめると、むくりと顔を上げる。

よっこいしょと森蔭は鳴海の席に座った。


「アイツは南を振る」


鳴海の今朝からの行動を考えると、疑いの余地がない答えだった。

しかし平井自身は信じられないと言うような目で森蔭を見る。


「俺の知ってる潤なら、するそうと思うから」


というか、昨日と今日で別人すぎる鳴海の行動に、平井は「変だ」と抽象的な感想しか抱いていない。


森蔭なら鳴海に対して「コイツ俺のこと好きすぎだろ」って思うけど、

平井自身も恋愛経験が乏しいから、あんなにストレートにアピールされても受け止め方が分からないのかもしれないと思った。それならこの反応も納得だし、本当に二人して不器用だ。


怪訝そうに森蔭を見る平井に、

『似てるなって思っただけだよ』と笑う。


「アイツは自分の気持ちに気付いたから南を振るってこと」


鳴海に好きな人がいるのか聞かれたけれどはぐらかした。

もうすぐ鳴海が帰ってくるだろうし、今日中にでも鳴海は平井にちゃんと話すだろう。



自転車通学である森蔭が駐輪場に歩いていくと、人の話し声が聞こえた。なんとなく深刻な雰囲気を感じ取った森蔭は足音を潜めて近付く。壁から少し顔を出して確認すると、南と鳴海がいた。


森蔭は思い出す。

この場所が一目につかないところで、告白スポットとして有名だと。


噂に聞くだけで、実際の場面を見るのは初めてだった。しかも幼馴染が告白されているところとはなかなか気まずい。とりあえずどいてくれないと帰れないので、しばらく時間を潰すことにした。


しばらく、というかだいぶ待ったと思う。


そろそろかと動こうとした時に、目の前に南が通って不覚にも驚いた。目元が濡れていた気がする。

もしかしたら泣いたのかもしれない。罪な男め。


さあ帰ろうと壁から一歩進もうとした時、

教室に戻ろうとする鳴海と鉢合わせた。


南が出てきたんだから鳴海も出てくるかと思って、森蔭は驚きはしなかったが、鳴海は軽い悲鳴をあげた。


「びっ……くりした。お前なんでここにいるんだよ」


「帰ろうと思ったらお前らが喋ってたから、空気読んで待っててあげたんだけど」


「それはごめん。ありがとう」


じゃあ、と自転車を取りに行こうとするも鳴海に引き止められた。


「俺、南のこと振ったんだ」


正直分かりきっていたことだが、そうなんだと答える。


「今好きな人がいる。その人に告白するつもり」


鳴海の真っ直ぐな瞳を見て、もう大丈夫だなと思った。

迷いがなくて、心を決めたかっこいい瞳だった。


「うまくいくといいな」


「それだけ?頑張れとか応援するとか言ってくれよ」


「はいはい、頑張れ頑張れ応援してる」


雑だな〜と拗ねたような顔をしている鳴海の肩を軽く叩くと、今度こそ帰るからと自転車置き場に向かう。鳴海も教室に戻っていったようだ。


空は暗いし、寒さは昼と比べて増しているように感じる。森蔭はこんな雪の日に自転車で来たことを後悔した。


でも、と思う。雪解けはもうすぐだ。

春がきた時、森蔭は幼馴染に小さな春がきていたらいいなと思った。


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