ハーデンベルギアの咲く頃
幼馴染の鳴海潤がよく笑うようになったことに、森蔭耀太が気づいたのは、始業式から二週間ほど経った頃だった。
二学期初日の始業式。平井明日香という転校生がクラスにやってきた。前髪が重く、眼鏡をかけている。おまけに声も小さい。見た目だけで判断してはいけないと分かってはいたが、暗そうな子だなと思ってしまったのを覚えている。
その平井が鳴海の隣の席になったと聞いて、鳴海は本当に隣人運がないなと思ったものだったが、始業式の翌日から二人はいつも一緒にいた。
鳴海が心を開いているのなら、平井もきっと悪い子ではないのだろう。二人の後ろ姿を眺めながら、森蔭はそう思っていた。
「潤〜、平井くん。俺も一緒に行っていい?」
「おー、いいぞ」
「うん、もちろん」
平井は森蔭をチラリと見て、「明日香でいいよ」と笑った。見た目に反して、凛とした綺麗な声だ。
「じゃあ明日香ね。二人とも昨日から急に仲良いじゃん」
詳しく聞いてみると、どうやら好きなものが一緒らしく盛り上がったらしい。もちろん、鳴海の好きなものはほぼ森蔭も通ってきているので、三人の会話は自然と弾んだ。
「いや〜明日香って、もっと無口な子かと思ってたけど、結構話すんだな」
「デリカシーがないやつだな、お前は」
「いや、でもほんとに」
そんなやりとりを聞いて、平井が笑う。
「明日香も、笑うところじゃないぞ。怒っていいんだからな、今の」
「いいんだよ」
平井はさらりと言った。
「よく言われるから、もう慣れてるよ。耀太みたいに、ちゃんと分かってくれる人がいればそれでいいんだ」
その言葉に、森蔭は少し驚いた。
自分のことを誤解されたままでいいなんて、思っているわけじゃなかったんだな。そんな意外な一面が見えた気がした。
*
第2節(修正版)
次は体育だ。着替えるのが面倒だから、いっそ朝から体操服で過ごさせてほしい。そう思いながら、制服のボタンを外していく。
そのとき、ずっと気になっていたことをふと思い出した。
「お前の口癖って、“明日香”だよな」
「……うん?」
そう、鳴海の口癖だ。この一ヶ月弱、多分誰よりも何よりも、鳴海の口から最も多く発されている言葉。それなのに、本人はまったく自覚がないらしい。
本人は「そんなに呼んでるか?」とキョトンとしていたが、傍から見ればかなり呼んでいるし、森蔭なんて耳にタコができるほど聞いている。それでも、口に馴染んだ言葉に疑問を持つ人間は少ないのだろう。
今日は珍しく、平井がそばにいない。何か用事があるとかで、先に行っているようだった。
もちろん、鳴海が平井を何と呼ぼうが、どれだけ呼ぼうが、森蔭にとっては正直どうでもいい。ただ、人が恋愛している様子というのは、知人であればあるほど、からかいたくなるか、応援したくなるかのどちらかだ。
今の森蔭は、完全に前者。
それに、鳴海が平井に恋をしているかどうかは微妙なところだが、表情や口癖までが誰かによって変えられるのだとしたら、それはたとえ恋じゃなくても、“特別”の証なのではないか。
そして、相手の名前を呼ぶというのは、いちばん簡単な愛情表現だと、森蔭は思っている。
「一説によると、人間は好意を持ってる相手とか、仲良くなりたい相手の名前を、ついよく呼ぶらしいよ」
鳴海が平井にどんな種類の好意を持ってるかはともかく、少なくとも好意があるのはバレバレだ。森蔭はそれを、それとなく伝えてやることにした。
体育館に着くと、すでに8割くらいのクラスメイトが集まっていた。授業開始まではまだ数分ある。そう思っていたとき、隣から鳴海の声が聞こえた。
「明日香、まだ来てないな……あっ」
鳴海は、森蔭と目が合った瞬間に「しまった」という顔をした。
森蔭は思わず笑って、鳴海の肩を軽く叩く。
「お前、本当に明日香大好きだなあ」
*
「痴話喧嘩に巻き込まれるって、こういうことを言うのかもな」
森蔭は少し他人事のように、二人のやり取りを眺めていた。
「待っててもらったのにごめん。今日は一人で帰る」
そう言って、平井は荷物をまとめると早歩きで教室から出ていってしまった。
残された二人の間には、重たい空気と沈黙が漂っていた。
鳴海は自分のことで精一杯で、森蔭の存在なんて目に入っていないだろう。そう思った森蔭は、口を開く。
「お前さ、無自覚に明日香のこと囲ってんの、気付いてない?」
「何が?」と返されて、森蔭は思わず笑いそうになる。
こんなに態度に出てるのに、自分の気持ちに気付いてないってか。
無自覚でいる分、タチが悪い。鳴海がその調子では、平井も森蔭も、ただとばっちりを食っただけだ。
「お前は、明日香が誰かのものになるのが嫌なんだよ」
それはもう、森蔭にとっては“ほぼ答え”なのだが、鳴海はまだ頭を捻っている。
どうしたものかと思っていると、今度は鳴海がぽつりと口を開いた。
「さっき俺、明日香に彼女ができるって思ったとき、“おめでとう”って言えるかなって考えた」
“言えるかな”って思って――なんか、胸が苦しくなった。
なるほど。そう思うと同時に、森蔭は鳴海の感情が、どこか別の方向にすり替えられていることに気付いた。
明確な言葉を知らないから、無理やり別の場所に落ち着かせてる。そんな感じだった。
森蔭は驚いていた。こんなにも鳴海って、恋愛に対して初歩的だったか?と。
確かに、森蔭の知る限り鳴海は誰とも付き合ったことがない。
「告白なんてしょっちゅうされるんだし、取り敢えず付き合ってみたら?」
そんなことを、森蔭はかつて鳴海に言ったことがある。そのときの返事を、森蔭は今でもはっきり覚えている。
「ちゃんと“好き”とか“特別”って思える相手じゃないと嫌なんだよ」
――女子が俺に告白してくるなんて、大体“顔が好き”ってだけだし。
鳴海はそう言って、どこか寂しそうに笑っていた。
容姿端麗であるということは、まず外見的な好みをクリアするということだ。
でも中身までちゃんと見てくれるかどうかは、結局人それぞれ。
努力して手に入れた成果でさえ、「顔がいいから」と嘲笑されたり、「顔がいいなら中身なんてどうでもいい」なんて言われることもある。
森蔭はずっと近くで、鳴海が良くも悪くも“顔”によって態度を変えられてきた様子を見てきた。
だからこそ今、鳴海のささやかな心境の変化に誰よりも気付いている。
「ちなみに、その心は?」
「寂しいなって思った」
「寂しい?」
「そう。明日香に彼女ができたら、昼一緒にご飯食べられなくなったり、帰れなくなったりするのかなって思うと、寂しい」
――やっぱりズレてるんだよなあ。
森蔭は、幼馴染の少女漫画みたいな恋愛観に思わず失笑した。
あの日のお前の返事を思い出してくれ、幼馴染よ。
“誰かに取られるのが寂しい”って思うくらいには、もう平井は“特別”な存在なんだってことを。
さっきまではなんとか気付かせてやろうと思っていたが、ここまで来たらもう、自分で気付かせるのがいい。
初恋ってやつは、だいたいそんなふうにして苦労するもんだ。
*
朝から、クラスではちょっとした騒ぎが起きていた。
――あの鳴海と平井が、一緒に過ごしていない。
昼休みにもなれば、平井の周りには人だかりができていた。
森蔭はパンをかじりながら、その光景を眺めていた。
「お前の明日香、めっちゃ人気じゃん」
「俺のじゃねえし。アイツはもともと優しいから、人気なのは知ってる」
「ていうかさ、結局どうしたの? お前ら」
朝から「助けてくれ」と森蔭に泣きついてきた鳴海(※本人いわく“泣きついてはいない”)は、黙々と弁当を食べ進めている。
「まあ、なんていうか、色々あったんだわ」
「その“色々”を俺は聞いてんの」
後ろからは、黄色い声を上げる女子たちと、たどたどしくも受け答えする平井の声が聞こえてくる。
鳴海の耳にも届いているはずなのに、彼は決して振り返ろうとはしなかった。
鳴海が話そうとしないなら、無理に聞くこともない。森蔭は話題を変える。
「まあ、明日香も、たまにはお前以外の人と話せて楽しいんじゃない?」
鳴海は森蔭を見つめる。まるで、言葉の意味が分からないというように。
「どういう意味だよ」
「どういう意味も何も、そのまんま。いつもは潤がお前を独占してたから、明日香と喋りたいって子、いっぱいいるんだよ?」
「マジか。全然知らなかった……」
ようやく、鳴海は平井の方を見やる。
男女問わず好かれているのは知っていたが、あんなふうに多くの人に囲まれている姿を見るのは初めてだった。
――いつもは、自分がその隣にいたから。
「明日香に悪いことをしたな……」
そうつぶやいてしょぼくれる鳴海に、森蔭は穏やかに言った。
「明日香の気持ちは、明日香にしか分からないでしょ」
だから、お前が一人でどうこう考えることじゃない。
分からなければ、聞けばいい。
そう伝えると、鳴海は何かを決意したようにスマホを取り出し、平井にメッセージを送った。
「耀太、ありがとな」
「どういたしまして。今度、飯でも奢ってもらおうかな」
「おうおう、焼肉でも何でも奢ってやる!」
「じゃあ、回らない寿司」
その言葉に、鳴海は笑った。
「しゃあなし! 奢ってやるよ!」
やっといつもの鳴海に戻ってきたか?
森蔭はそんなことを思いながら、パンの残りを齧る。
あとはちゃんと自分で頑張れよ、と心の中でそっと背中を押していた。
*
昨日とは違うざわめきがクラス中を包んでいる。
原因はさっき鳴海が平井に放った言葉だった。
当の平井は呆然とどこかを見つめていて、放心状態だ。
「おーい明日香、大丈夫か?」
平井は呆然としたまま森蔭を見つめると、むくりと顔を上げる。
よっこいしょと森蔭は鳴海の席に座った。
「アイツは南を振る」
鳴海の今朝からの行動を考えると、疑いの余地がない答えだった。
しかし平井自身は信じられないと言うような目で森蔭を見る。
「俺の知ってる潤なら、するそうと思うから」
というか、昨日と今日で別人すぎる鳴海の行動に、平井は「変だ」と抽象的な感想しか抱いていない。
森蔭なら鳴海に対して「コイツ俺のこと好きすぎだろ」って思うけど、
平井自身も恋愛経験が乏しいから、あんなにストレートにアピールされても受け止め方が分からないのかもしれないと思った。それならこの反応も納得だし、本当に二人して不器用だ。
怪訝そうに森蔭を見る平井に、
『似てるなって思っただけだよ』と笑う。
「アイツは自分の気持ちに気付いたから南を振るってこと」
鳴海に好きな人がいるのか聞かれたけれどはぐらかした。
もうすぐ鳴海が帰ってくるだろうし、今日中にでも鳴海は平井にちゃんと話すだろう。
*
自転車通学である森蔭が駐輪場に歩いていくと、人の話し声が聞こえた。なんとなく深刻な雰囲気を感じ取った森蔭は足音を潜めて近付く。壁から少し顔を出して確認すると、南と鳴海がいた。
森蔭は思い出す。
この場所が一目につかないところで、告白スポットとして有名だと。
噂に聞くだけで、実際の場面を見るのは初めてだった。しかも幼馴染が告白されているところとはなかなか気まずい。とりあえずどいてくれないと帰れないので、しばらく時間を潰すことにした。
しばらく、というかだいぶ待ったと思う。
そろそろかと動こうとした時に、目の前に南が通って不覚にも驚いた。目元が濡れていた気がする。
もしかしたら泣いたのかもしれない。罪な男め。
さあ帰ろうと壁から一歩進もうとした時、
教室に戻ろうとする鳴海と鉢合わせた。
南が出てきたんだから鳴海も出てくるかと思って、森蔭は驚きはしなかったが、鳴海は軽い悲鳴をあげた。
「びっ……くりした。お前なんでここにいるんだよ」
「帰ろうと思ったらお前らが喋ってたから、空気読んで待っててあげたんだけど」
「それはごめん。ありがとう」
じゃあ、と自転車を取りに行こうとするも鳴海に引き止められた。
「俺、南のこと振ったんだ」
正直分かりきっていたことだが、そうなんだと答える。
「今好きな人がいる。その人に告白するつもり」
鳴海の真っ直ぐな瞳を見て、もう大丈夫だなと思った。
迷いがなくて、心を決めたかっこいい瞳だった。
「うまくいくといいな」
「それだけ?頑張れとか応援するとか言ってくれよ」
「はいはい、頑張れ頑張れ応援してる」
雑だな〜と拗ねたような顔をしている鳴海の肩を軽く叩くと、今度こそ帰るからと自転車置き場に向かう。鳴海も教室に戻っていったようだ。
空は暗いし、寒さは昼と比べて増しているように感じる。森蔭はこんな雪の日に自転車で来たことを後悔した。
でも、と思う。雪解けはもうすぐだ。
春がきた時、森蔭は幼馴染に小さな春がきていたらいいなと思った。