Epilogue.
二学期の終わりを告げる終業式が、今日、無事に幕を閉じた。
夏休み明けの始業式が、つい昨日のことのように思える。それでも季節は確実に移ろい、夏は秋を越えて冬になり、鳴海と平井の関係も、ただの友達から“恋人”へと静かに変わっていた。
最後のホームルーム。担任の鶴見が冬休みの過ごし方や課題の話をしている。
鳴海はその声を話半分に聞きながら、ふと隣の平井に視線を向けた。
平井はまじめに前を見ているように見えたが、鳴海の視線に気付いたのか、ちらりとこちらを見る。
「何?」とでも言いたげなその目が愛しくて、呑気に「かわいいな」なんて思っていたところで、案の定、鶴見に注意された。
慌てて目線だけ前に戻す。だが心は、また別のところを漂っている。
鳴海はときどき、あの嵐のような三日間を思い返すのだ。
12月半ばに降った雪の冷たさ。
行き違いが何度も重なって、もうダメかもしれないと思った瞬間。
そしてカフェで、初めて手を握ったときの、平井の体温。
あのときのひとつひとつが、まるで昨日のことのように、今も鮮明に思い出せる。
あの瞬間、自分と向き合って、本当に良かったと、心の底から思う。
いま感じている幸福は、あのとき迷い、苦しんだ自分のおかげだ。
そしてこれから先の幸せは、今後の自分次第。だからこそ大切にしようと、鳴海は何度も何度も、自分自身に言い聞かせるのだった。
*
冬休みは、年末年始を挟む長い連休だ。
旅行に出かけたり、友達と遊んだりと、みんな思い思いに予定を立てている。鳴海も平井と一緒に出かける日がいくつかある。その中には、平井の誕生日も含まれていた。
付き合って初めて迎える、恋人の誕生日。
それはもう盛大に祝いたい。数字のバルーンを飾ったり、花びらを散らしたり、そういう演出が頭に浮かんでくる。
「だから発想が幼稚っていうか、独りよがりっていうか……だな」
「俺、そんな盛大に祝ってもらわなくていいよ」
…潤くんと一緒に過ごせたら、それだけでいい。
控えめな平井を見て、鳴海は胸の奥から愛しさがこみ上げる。
「惚気るなら他所でやってもらっていいですかあ?」
森蔭は呆れたようにため息をついて、店員に苺パフェを注文した。
「てか、なんでお前までいるんだよ」
「明日香がいいって言ったし。ね?」
「そうだよ潤くん。冬休みに入ったら、しばらく耀太とは会えなくなっちゃうんだから」
冬休みだからといって、宿題がないわけではない。夏ほどの量ではないにせよ、早めに片づけてしまったほうがいいだろう――そう思って、二人は勉強会をすることにした。
平井の家には小さな兄弟も両親もいて静かに集中できないため、夜までひとりだという鳴海の家ですることになった。その前に駅前のカフェでひと休みしていこうと話していたら、なぜか森蔭までついてきたというわけだ。
「勉強会は参加しないんだからいいじゃん」
「耀太も来る?」
「ダメだ。俺は明日香と二人がいい」
「やだ〜潤くんってば、エッチ」
「うるさい!」
鳴海が森蔭に怒ると、森蔭も平井も吹き出した。
森蔭は、向かいに並ぶ鳴海と平井の姿を見て思う。やっぱり、この二人はセットだな――と。
そういえば、と彼はふと思い出す。
「言い忘れてたけど。二人とも、両想いおめでとう」
不意に言われたその言葉に、二人はキョトンとしたあと、同時に「ありがとう」と声を揃えた。
「本当に似たもの同士っていうか、不器用な二人っていうか。一生くっつかないと思ってたよ」
届いたイチゴパフェを一口頬張りながら、森蔭は目の前の二人を見つめる。
「まあ、確かにな。いろいろあったし」
「友達にすら戻れないかも、って思ったこともあったよね」
「でも、今はこうして隣にいる」
そう言いながら、鳴海は机の下でそっと平井の手を握る。
平井は耳まで真っ赤にしながら、それでも嬉しそうに笑った。
――まさか、自分の幼馴染が、恋をするとスキンシップ過多になるタイプだったとは。
そんなこと、知りたくなかったのに。
「なんか、お前ら見てるとむず痒いわ」
森蔭は胸のあたりを軽く叩いて、「胸焼けしそう」と言う。
「それ、食べすぎじゃない?」と鳴海に笑われると、平井は「お水もらってくるね」と席を立った。
やっぱり、むず痒い。
でも、幸せそうで何よりだ。
そう思いながら口に運んだパフェのイチゴが、いつもより甘く感じられた。
*
普段は学校の最寄駅で別れるのだが、二人は並んでホームにいる。
「一緒に電車で帰るの、変な感じだね」
「マジでそれ。帰り送るから」
「うん、ありがとう」
少し話をしているうちに電車が来た。二人は乗り込み、空席の多い車内で並んで座る。鳴海の家は学校から20分ほどの距離だ。
そのとき、平井の目にとある文章が飛び込んできた。
ある日、きみの人生を変えるような出来事が起きる。
恋愛映画の広告にそう書かれている。主演は今話題の女優で、来週公開予定だ。平井の前に掲げられた額面ポスターを見て、鳴海はその言葉を思い出す。
真夏の満員電車の中で、それを目にしたときのこと。「そんな出来事、あるわけないだろう」と、鳴海は心の中で馬鹿にしていた。何ひとつ変わらない日常が、また始まるのだ。
けれど、あの日、平井と出会った。それが、自分の人生を変える出来事になるなんて――あの頃は、1ミリも思っていなかった。
「潤くん、こういう映画見る人?」
「あんまり見ないけど……明日香は? これ見たい?」
「恋愛映画とか久しく見てないから、ちょっと興味あるかも」
「じゃあ、公開したら観に行くか」
自然な流れで会う約束を取り付けてくれる。鳴海は優しい。平井の好みは覚えててくれるし、興味を示せば付き合ってくれる。もちろん、それは平井も同じなのだが、鳴海のこういうさりげない優しさに触れるたびに、好きの気持ちが増していく。
「ていうか質問、答えてよ」
「人生を変える出来事、ねえ」
「潤くんにも、そういうのあった?」
平井の瞳が、好奇心にきらりと輝く。最近、平井は二人きりの時だけメガネを外す。相変わらず前髪は長いが、ふわふわと風や動きに合わせて揺れ、以前よりずっとその瞳を見つめることが増えた。鳴海は平井の瞳と見つめ合うたび、「綺麗だな」と、触れたくなる。
「あったよ」
鳴海は平井の目を真っ直ぐ見て言う。
「明日香と出会えたこと」
「なっ、何それ」
平井は照れ隠しに鳴海の肩にパンチをお見舞いする。猫にパンチされるくらいの威力なので痛くも痒くもないが、鳴海は大袈裟に痛がる素振りを見せる。そうすると平井は「ごめん、痛かった?」と焦って、パンチした場所を撫でてくるのだが――それが可愛くて、つい笑ってしまう。
「本当は全然痛くないでしょ」
「うん、痛くない」
「もう……」と呆れる姿もまた可愛くて、鳴海は中々の重症だなと内心で苦笑する。揺れる電車の中で、鳴海は幸せを噛み締めた。隣を見れば、好きな人がいて、自分に笑いかけてくれる。その人も、同じ気持ちでいてくれる。
「潤くん?」
「明日香のこと、好きだなって考えてた」
平井の左手と自分の右手を、そっと握り合わせる。平井は返事の代わりにキュッと握り返してくれて、身体を鳴海に預けてくれた。二人の体温がゆっくりと混ざり合い、このままいっそ、ひとつになれたらいいのに――。
冬の日差しが二人を照らす。穏やかな寝顔の二人が飛び起きるのは、数分後のことである。