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ゴールテープはすぐそこに


昨日から降り始めた雪は朝になっても変わらず降り続けていた。電車に揺られながら窓の向こうに映る雪景色を見て、久しぶりに雪が積もったな、と平井は思った。外は寒いのに電車の中は暖房が効きすぎている。巻いているマフラーの中が蒸れてきて、少し痒い。段々と近づく学校の最寄り駅。こんなにも学校に行きたくないと思ったのは転校してきてから初めてだった。


一昨日、鳴海と喧嘩をした。喧嘩をしたというか言い合いになったというか、いや、それを喧嘩と呼ぶのか?とにかく、自分で驚くほど大きな声を出して先に帰るという子供じみたことをした。少々大人気なかったなと思っている。しかし翌日の自分はもっと大人気なく、情けなかった。大声で責めてしまったことを謝るだけだったのに。


── 男と付き合うとか、そういうの、どう思う?


なんてことを言ってしまったのか。鳴海の顔が見られなかった。どう考えても引かれたに決まっているのに。屋上で二人きり、なんて漫画だと良い雰囲気になるのが定番だったのに、自分たちは最悪だった。そしてまた言い逃げをして一人で帰ってきたのだ。耳元のイヤフォンは音楽を流し続けているのに、平井には全く聞こえていなかった。頭の中は今から会う鳴海のことでいっぱいだった。なんて顔されるんだろう、昨日のことについて何か言われるのかな。触れられたいような触れられたくないような、変な気持ちだった。もし仮に昨日の出来事がなかったかのように関わってくれたらどれほど楽だろう。聞かなかったことにしてくれたら、何もなかったことになるのだろうか。その場合の平井の気持ちを考えてまた落ち込んだが、友達でいられなくなるなら自分の気持ちなどやっぱりなかったことにした方がいいのだ。


電車のアナウンスが最寄りを告げる。ここで降りるのはだいたい生徒だけなので、同じ制服を着た学生について降りる。改札を出て歩き出そうとしたとき、後ろから誰かに肩を叩かれた。


「明日香、おはよう。一緒に行こ」


そこにいたのは鳴海だった。一緒に過ごすようになってから朝も共に登校していた。待ち合わせは改札を出てすぐのカフェの前。昨日の今日だからいないと思ったのに。


「おはよう。今日は潤くんいないと思ったのに」


鳴海に会うのは学校に着いてからだと思っていたのに。思わぬ早さで鳴海と会い、平井は緊張している。なんだか今日は鳴海と一緒に話すのが怖い気がした。いつ昨日のことを言われるかと思うと気が気じゃない。


「いつも一緒に行ってるだろ。あ〜、まあ一昨日は一緒じゃなかったけど」


「つうか昨日のテレビ見た?」といつものように話しかけてくれる鳴海に、平井は少し安心した。もしかしたら鳴海は昨日のことなんて気にもしていないのかも、と。それなら自分から触れることもない。胸の奥がズキっと痛んだが、気づかないふりをした。


学校まで十分。遠くも近くもない距離を二人で歩く。なんてことない会話をしながら、二人並んで。いつもと変わらない日常。なのに、平井は鳴海に違和感を覚える。向かいから車が走ってくる。縁石があるのでよっぽど車がぶつかってこない限り車と接触することなんてないはずなのだが、鳴海は自然な流れで車道側にまわり、平井を歩道側に寄せる。


「お前、歩くのこっちな。車危ない」


「何、どうしたの急に。いつもそんなこと言わないじゃん」


「今急に気になった。これからは俺が車道側歩くから」


「今日の潤くん変だね」


「優しいって言ってくれよ」


カラフルな傘たちが真っ白な風景の中で鮮やかに映える。雪に音が吸い寄せられるように、街は静かだ。今日はお互いの声がよく聞こえる。


「今日はすごく寒いから優しくしてくれてるの?」


平井の斜め上の問いかけに鳴海は吹き出した。笑わないでよと拗ねる平井の顔を見て、鳴海は可愛いなと思った。雪は最悪だし寒いのも大嫌い。だけど、鳴海がいつもより優しい気がする今日、平井は初めて冬の恩恵を受けた気がした。



朝から少し変だと思っていた鳴海は、やっぱりいつもと違っていた。

「耀太もそう思うよね?」

「あ、今ゴール入ったな」

「ねえ俺の話聞いてる?」

点数板の数字が一つ増える。

「なんか今日、すごく潤くんにくっつかれてる気がする」

「明日香がそう思うならそうなんじゃないの」

「あといつもより心理的な距離感も近い気がする」

「寒いからとかじゃなくて?」

「そうなのかな」

「そうそう」

ここまでが朝から繰り返される会話だ。森蔭が毎回、『寒いからくっついてくるのかな?』と真面目に考えて、すぐに『いや、絶対違う!』と否定する平井を見るのは面白いが、朝から同じことを何回も聞かれているのでそろそろ面倒になってきたし、鳴海の真意に気付いていないのは平井の方なので適当に返答する。

登校時の車道の時はまだちょっと変レベルで済んだのだが、そこからが問題だった。

まず手始めに鳴海は教科書を忘れたから見せて欲しいと平井に頼んだ。もちろんと快諾したのはいいが、鳴海は肩がぶつかる距離感まで近付いて教科書を見るのだ。そんなに近付かなくても見れるのに。平井は離れたほうがいいか聞くと、『俺はこれがいい』と返されてしまい、授業どころではなくなってしまった。平井はぶつかる肩にばかり集中がいってしまい気付いた時には授業は終わっていた。今日の範囲がテストに出ることになったらどうしてくれるんだと授業後真っ白なノートを見て思う。

それから鳴海は移動教室の時に肩を組んできた。森蔭もそれが露骨だと思ったが、指摘はしていなかった。平井自身も嫌ではなかった。なんならむしろ嬉しいのだが、昨日までされなかったことを急にされると戸惑う。慣れていないから。 

「潤くんってこんなにひっつき虫だっけ」 

「そう、明日香にだけ」

そしておまけにこれだ。朝から鳴海の発言がおかしい。おかしいと言うと失礼かもしれないが、やけに平井に甘い言葉をかけるのだった。平井はそれを真に受けていいのか、スルーすべきなのか分からず、毎回変な反応になってしまう。何かのドラマに影響されてそれに自分に実践しているのかと疑うほど、とにかく昨日の鳴海と今日の鳴海は別人なのだ。平井は、鳴海が自分の気遣う姿を見ながら、『鳴海の恋人になる人は幸せ者だ』と思い、少し落ち込んだ。友達にすらこんな風に接するのであれば恋人ともなればもっとだろうと。

今は体育の授業中だ。森蔭と平井は同じチームで出番が後のため、今は得点板の担当をしている。試合をしている鳴海を見て女子たちの黄色い歓声が耳に届く。

「鳴海くんって身長高いからちょっと飛んだらすぐゴールについちゃうのカッコよすぎ」

「顔が良くて運動ができて優しくて理想の王子様って感じ」

「モテないわけない」

体育館の天井からネットが降りていて、男女のコートを分けている。鳴海にネットの向こうから聞こえる女子たちの声援が聞こえているかどうか分からないが、女子たちは体育教室に注意されて大人しくなった。

「明日香も潤にキャーキャー言ってやんなよ、喜ぶよ」

「俺に言われたって嬉しくないと思うから言わない」

「そんなことないでしょ」

ピピーっと第一試合終了の音がする。ここから3分の休憩を挟んで第二試合が始まる。平井たちは第三試合から参加の予定だ。鳴海は森蔭と話す平井のもとに真っ直ぐやってくる。

「ジュンくんお疲れさま」

「ありがと。上着着てやるのしんどいわ、明日香俺の持っといて。あ、寒かったら着ていいから」

渡された上着からは鳴海からいつも香る柔軟剤の匂いがして、平井は少しドキッとした。こんなに近くで鳴海の匂いを感じることは普段はないからだ。その様子を森蔭はニヤニヤしながら見ていた。

「潤くん明日香には本当に優しいんだから〜」

「別に普通。つうか、さっき明日香と何喋ってたの?」

試合中見えた。と鳴海は平井を見つめる。森蔭が嫉妬かよと爆笑している。

「潤くん今日変じゃない?って話」

「普通だって。朝から言ってるじゃん」

「いいや絶対変だよ」

「変じゃない」

変だよ、違う普通だ。そんな押問答を仲裁したのは森蔭だった。笑いすぎて涙が出てきていたのか目元を拭っている。

「は〜…笑った。明日香あのね、潤が変っていうか多分隠さなくなっただけだと思うよ」

なあ、森蔭に視線を投げられて鳴海は居心地が悪くなる。どうやら森蔭には全てお見通しのようだった。平井は森蔭の言葉の意味が分からず鳴海を見つめるが、ちょうどその時試合再開の合図が鳴る。

「あ、そういえば潤くん。さっき女子たちが応援してたよ」

今からも応援してくれると思う。平井はネットの向こうにいる女子たちを指差す。鳴海は指の先を追うように視線を向けた。女子たちが騒ぎ出すが、それを気にしている様子はなく、一瞥しただけですぐに平井に向き直った。

「俺はお前に応援されたいし、それが一番頑張れる」

それだけ言い残すと、行ってくると鳴海はコートに戻っていった。試合が始まると応援の声やコート内にいるクラスメイトの掛け声が聞こえてくる。騒がしいはずなのに、平井の耳にはドクンドクンと心臓の音しか聞こえないようだった。自分が試合に出ているわけではないのに心拍数が上昇し、身体が熱くなる。

「やっぱり今日の潤くんは変だよ」

平井の呟きは誰かに消化されることなく、ただただ平井の心にふんわりと着地した。そわそわするような、むず痒いような、そんな心の場所に。



相変わらずホームルーム後の教室は騒がしく、それぞれが自分のことに集中している。午後には雪が止み、天気も徐々に回復しつつある。青天まではいかないが、朝に比べて雲も薄くなった。まだまだ寒いだろうが、雪が降るほどではないということだ。平井はカバンに教科書を詰めながら鳴海を見る。朝は一緒に来たけど、帰りはどうするのだろう。鳴海は身支度を終えて座ったまま携帯をいじっていた。誰かを待っているのか、それとも何か用事があって時間を潰しているのだろうか。声をかけようか悩んでいた時、一人の女の子が現れた。


「潤いる?」


聞き慣れない声だった。扉の方を見ると、綺麗な女の子が立っていた。


「誰かと思ったら、うちの学校のマドンナ様じゃないですか」


「これはこれは、大きいわんちゃんだこと」


「誰が犬だよ!」


「そっちこそマドンナって何よ、今どき言わないからね、そんなこと」


森蔭と親しそうに話している女子は隣のクラスの南星羅だ。学年で一番綺麗な女子で、同学年はもちろん学校中の男子から一目置かれている存在だ。左目の下に泣きぼくろがあり、可愛い笑顔が評判だ。サッパリした性格の割に可愛いもの好きというギャップが人気である。部活は弓道部に入り、去年は全国大会にも出場した。文武両道で頭脳明晰、完璧美少女と名高い彼女は鳴海に用事があるらしい。


「潤〜南がお前をご所望だよ」


「ちょっと変な言い方やめてよ」


鳴海は触っていた携帯から顔を上げると南に近づいていく。


「南じゃん、なに?」


「いや、あのさ。このあとって時間ある?」


「あるよ」


「話があるんだけど」


南の口から発せられた『話がある』という言葉に、クラス中の誰もが察した。これは告白に違いないと。クラス中の誰もが察し、教室の空気が静まり返った。あの美人が誰とも付き合わないのは、好きな人がいるからだという噂が、今この瞬間確信に変わった。南星羅の好きな人は鳴海潤だ。


「ここじゃ話せない話?」


「うん」


「分かった」


鳴海は歩いていく南に後を追いかけようと一歩踏み出す。平井は南を追いかける鳴海を見られなかった。南について行き、告白される。なんて答えるのだろうか。平井は詳しくは知らなかったが、男子たちが南星羅の話をするのを聞いたことがある。やれ誰々が告白して振られたらしいとか南が誰かと一緒にいるところを見たとか、所詮噂程度のことだったが、よく話題にあがるので注目されている子なんだろうなという理解でいた。転校してから一度も南を見ていないと言ったら嘘になるが、平井もぼんやりしているところがあり、クラスメイト以外にあまり興味を示さなかった。しかし、南星羅本人を見て確かに男子たちが注目する、噂になるだけあるなと思った。長い髪は艶やかでサラサラとしており、丁寧にケアされているのがわかる。肌も白く、目は丸くて大きい。一見すると冷たい美人に見えるが、笑った顔は平井も可愛いと思った。あの南星羅からの告白を断る男が、この学校にいるだろうか。鳴海が良い返事をしたら嫌だな。鳴海を見ずに、素早く身支度を整える。鳴海が教室を出たらすぐに帰ろう。だから早く追いかけて。でも追いかけていくということは告白をされるということで。鳴海にもう少しだけ教室にいてほしいなと思った。しかし、それでは自分がいつまでも帰宅できないということに気付いた。このまま教室にいてほしい気持ちと、早く行ってほしい気持ちが交互にせめぎ合う。

「あ、明日香!俺が帰ってくるまで待ってろよ」

不意に名前を呼ばれ、鳴海の方を見てしまった。クラスメイトたちも視線を鳴海たちから平井に変える。

「一緒に帰るから」

だから待ってて。そう言い残して、鳴海は教室を出て行った。平井は驚きのあまりその場で固まってしまう。言葉も出てこない。


鳴海が出て行くと、教室の空気がふわっと緩んだ。クラスメイトたちは、抑えていた感情が一気に溢れ出すように、あれやこれやと口々に話し出した。さっきまでの張り詰めた空気はどこへやら、といった感じだ。

「アイツ、南の前で明日香と帰るとか言う?」

「ありえね〜振る気満々じゃん」

「星羅ちゃんより平井くんってこと?」


クラスメイトたちが鳴海にあらぬ誤解を生みそうになっていたので、森蔭は助け舟を出す。

「アイツ最近、明日香と喧嘩して仲直りしたの。だから今は明日香と一緒に過ごしたいとか、そういうのだと思うよ」

お前たち変な誤解するなよ、と釘を刺す。

「確かに仲直り後って喧嘩前より仲良くなるよね」

「まだ南を振るって決まったわけじゃない」

「そもそも告白かも分かんないよな」


森蔭の言葉を聞いて、それぞれ納得してくれたようだった。

潤、一つ貸しだぞ、と森蔭は思っているし、平井は森蔭の人望の厚さに感動していた。鳴海に変な意図はきっとないだろう。そう思うと、森蔭の言う通り喧嘩後だから自分に優しくしてくれているんだと思えば納得できた。さすが鳴海をよく知っているだけある。

けれど、平井はさっきの空気に取り残されたまま喋れなくなってしまったようだった。


朝からずっと感じていた違和感は解決したはずなのに。さっきの言動は何なのか。鳴海の考えてることがわからない。ただただそれだけだった。

あのタイミングで自分と帰ると言う意味とは? もし告白がうまくいっても自分と帰るって変じゃない? と、なれば「振るよ」って言ってるようなものだから、さすがにデリカシーなさすぎじゃない? 頭がパンクしそうだ。


帰り支度をしていたのに帰れなくなってしまった平井は、鞄を枕にして顔を埋める。目を閉じると、教室のざわめきが遠のいていき、瞼がくっつきそうになる。

平井は右に顔を向けた。鳴海の席を見ると、そこにいたのは森蔭だった。森蔭が自分を呼ぶ。むくりと顔を上げて見つめると、森蔭はよっこいしょと鳴海の席に座る。窓際寒いな〜と軽く身震いをする。


「潤、南に告白されるだろうね」

「俺もそう思う」

「でもアイツは南を振る」


そうして明日香と帰る。森蔭は当たり前のように言ってのけた。


「なんでそう思うの?」

「なんでって、俺の知ってる潤ならそうすると思うから」


鳴海と森蔭は幼馴染で仲がいい。きっと喋らなくてもお互いが分かるというやつだ。それなら平井は森蔭のことも分からないなと思った。


「耀太の言ってること、なんかよく分かんなくて……混乱してる」

「本当に分からない?」


森蔭は平井の言葉を聞くと、「うわ、マジか。ふたりって本当似てる」とボソボソと呟く。平井が怪訝そうにすると、「二人って似てるなって思っただけ」と教えてくれた。


「潤は気付くまでが遅いだけで、気付いちゃえばそこに向かって走るだけのやつだよ。ただゴールに向かってひたすら」


平井は森蔭の真意がわからず、首を傾げた。

「どういうこと?」

「つまり、アイツは自分の気持ちに気付いたから南を振るってこと」


自分の気持ち。鳴海の気持ち。南のことは好きじゃないから振る。ということは、他の誰かを好きってこと?


「潤くん、好きな人がいるの?」

「さあ?それはどうだろう。俺は潤じゃないから分かんないよ」


気になることがあるなら、直接本人に聞けば? 一緒に帰るんだろ?

そう言って、森蔭は帰っていった。


ひとり、またひとりと教室からいなくなり、片手に収まるほどの人数になった。

静かな教室は、外の音がよく聞こえる。校内放送の音。運動部の声。吹奏楽部の音。

遠くから聞こえる音楽を聞きながら、鳴海の言葉、そして森蔭の言葉の意味を考えた。


南の前で平井と一緒に帰ると宣言したこと。昨日の今日でこんなことになるなんて。

それに鳴海は、鳴海の“気持ち”とやらに気づいたらしい。昨日の平井の言葉を受けて気付いた気持ちなら、なんと言われるかなんて簡単に想像がつく。


頭では理解していても、実際に鳴海の口から、鳴海の声で言葉として届けられたら、いつもの自分を保てる自信がない。

平井はまた昨日のことを悔やんだ。鳴海の言葉に浮かれて、そして傷ついて、思わず口にしてしまった。あんなことを言われても、鳴海を困らせるだけだったのに。

鳴海が帰ってきて、なんと言われるかと思うと怖い。断頭台で待っているようで、お腹が痛くなってきた。


「早く家に帰りたいな」


空は少しずつ暗くなり、冬の夜空が広がりはじめていた。

昨日は見られなかった金星が紺色の空に浮かんでいるのに、平井は気づかないままだった。



17時を少し過ぎた頃、鳴海は教室に戻ってきた。16時半前に出て行ったから、およそ30分ぶりだ。残っていたクラスメイトたちは我先にと鳴海に近づくが、鳴海は真っ直ぐ平井の元にやってきた。


「明日香、ごめん。待たせた」


いったいどんな長い告白をされたのか。そんな冗談が脳裏に浮かぶものの、口から出ることはなかった。南と鳴海の間にあったことを、なんとなく聞きたくなかった。鳴海は周囲の人間を適当にあしらい、平井を連れて下駄箱へ向かった。


外はまだ一面銀世界だ。地面に残る雪を踏むたびに、足跡が刻まれる。降り積もった雪たちが明日には溶けてしまうと思うと、少しもったいないように感じた。


「雪だるまでも作って帰る? どうせ明日には溶けちゃうけど」


鳴海が、まるで平井の心を見透かしたように言う。思わず「エスパー?」と口にすると、鳴海は今朝のようにまた笑った。さすがに寒いと、ここ数日つけ始めたマフラーの下で鳴海が笑う。紺色一色の、どこか有名なブランドのものらしい。決してもこもこではないものの、保温性は抜群だと言っていたのを思い出す。冬の鳴海は、特別カッコよく見える気がして、ドキドキする。


「寒いからやだ」


「じゃあ、カフェに寄ってから話そうよ。俺、明日香に話があるんだ」


「ほら、行くよ」と歩き出す鳴海。その背中を追いながら、平井の胸が痛いほど高鳴った。

話って、きっと告白のことだよな。そう思うけれど、結局何も言えず、黙って鳴海を追いかけた。


「雪とか見るの久しぶりだな」


「日本って、あんまり雪降らないんだっけ?」


平井はカナダの冬を思い出す。マイナスの気温が当たり前で、雪なんてしょっちゅうだった。だからこそ冬は嫌いだが、雪は嫌いじゃなかった。むしろ好きな方だと思う。大人になったらどうか分からないけれど、今のところは雪を見ると地味にテンションが上がるし、触りたくなる。冷たくて、ふわふわで、握れば硬くなる。そしてそのうち溶けてしまう。そんな刹那的なところが好きなのかもしれない。


「ここはあんまり降らないかな。北海道とか北の方は、毎年降ってるイメージ」


「そうなんだ。カナダは毎年降るから、実はあんまり珍しいって思わなくてさ」


「あっちって、冬寒いんだっけ?」


「マジで人が住める温度じゃないから」


話しながら歩いていると、あっという間に駅に着いた。10分なんて距離は案外近いのかもなと、平井は思う。


いつも待ち合わせている改札横のカフェに入る。待ち合わせのときに覗いたことはあったけど、中に入るのは初めてだった。室内は暖かく、コーヒーのいい香りが漂う。


「俺、この店入るの初めてだわ」


鳴海たちは店の奥のソファーがけの席に座る。赤いベロア素材の生地は、触り心地がいい。


「俺も。いつも待ち合わせの時に覗くくらい」


黒の皮革で覆われたメニューを開く。コーヒーやソフトドリンクはもちろん、しっかりとしたご飯系にデザートまで充実している。時刻は17時半を少し過ぎた頃。家に帰れば夜ご飯が待っていると思うと、ドリンクだけ頼むのが無難だと思った。


「潤くん、何飲む?」


「俺、ホットコーヒー」


「じゃあ俺は、ホットのカフェラテにする」


店員に注文をして、届くのを待つ。店内にはジャズが控えめに流れているが、二人のテーブルは無言だった。何か言わなければいけない気がするのに、何も言いたくないし、聞きたくもない。緊張からか、無意識にソファの生地を撫でていた。


5分ほどでドリンクが届いた。飲み口と皿のラインがゴールドで縁取られたティーセットは、全体が白を基調としている。カップもソーサーも、縁から5センチほどの幅に青いマーブル模様が施されていた。砂糖とミルクが添えられているが、鳴海はどちらも使わずにコーヒーに口をつけた。ブラックで飲めるんだ——と、この場にそぐわない呑気なことを思いながら、平井もカフェラテに口をつける。甘さ控えめで飲みやすい。今日みたいな寒い日にはぴったりだ。


「さっき、南に呼び出されて、告白された」


鳴海の口から発せられた“告白”という言葉。落ち着いていたはずの心臓が、またうるさくなり出す。


「うん、みんなも南さんが告白するんじゃないかって思ってたと思う」


「付き合うの?」——そう口に出たのは、自分を守るためだった。傷つく準備はできている。殺されるなら、一撃じゃないと後が辛いだけだ。早く、早く答えを言ってほしい。少しずつ首を絞められている感覚から、一刻も早く解放されたかった。


鳴海の顔が見られない。平井は俯き、処刑のタイミングを待った。


「付き合わないよ」


鳴海の答えは、処刑取り消しを高らかに宣言するものだった。やっと息が吸えた気がして、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。しかし、次の一言で平井はまた打ちのめされる。


「好きな人いるから」


鳴海には、好きな人がいる。平井はまったく気づかなかったと思った。南を振る理由なんてないと思っていたが、好きな人がいるのであれば話は別だ。その事実を、平井は知りたくなかった。いっそのこと南と付き合ってくれた方が、まだマシだったかもしれない。


森蔭がこのことを知っていたからこそ、鳴海が振ると確信していたのだと、今さら気づく。そして、鳴海の「話がある」というのは、その好きな人についてだったのか、とも。


どんな人が鳴海に好かれるんだろう。平井はまた、鳴海の顔が見られなくなる。今、目を見たら泣いてしまいそうだったから。そうしたらまた、鳴海を困らせるだけだ。


それに、鳴海がモテるのはいつものことだったのに。モテ男に好かれる子ってどんな子?って、いつもみたいに冗談交じりに言えばいいだけなのに。


笑える自信がないのも、この話をこれ以上聞きたくないのも——全部、平井が鳴海を好きだからだ。苦しい。


「ね、明日香。俺のこと見てよ」

鳴海が平井を呼ぶ。その声は、驚くほど優しかった。


「見たくない」

声が震えていたのを、気づかれなかっただろうか。もうあと一言二言発してしまったら、隠しきれない。


「俺は明日香の顔見たいよ」


カフェラテを包むように持っている平井の右手を、鳴海は優しく掴むと、指のあたりを左手でそっと握る。鳴海から伝わる体温が暖かい。そのぬくもりは、平井の身体や顔にまで届き、ぶわっと熱くさせた。


「明日香がこっち向くまで手離せないな」

どうする?と握った手を優しく揺さぶる。鳴海は、平井が顔を上げるまで待ってくれるだろう。とくとくと伝わる体温に、平井はもうお手上げだった。


「明日香」

絶対に顔を上げないと心に誓っても、優しく名前を呼ばれると、その誓いはろうそくの炎のように揺らいで、最後には消えてしまう。


平井はゆっくりと鳴海を見る。鳴海は目が合うと、嬉しそうに笑った。


「やっとこっち向いた」


ああ、潤くんの笑った顔が好きだな。平井は素直にそう思う。

自覚してしまった恋心は、ブレーキをどこかに置いてきてしまったようだ。止まることなく、気持ちが走り出す。


「好きだよ」

明日香のことが好き。


カフェから覗く空は、紺色の濃度をさらに深めている。

ゆったりと空に浮かぶ雲が、店内で鳴っていたはずのジャズが、カフェラテの湯気が、鳴海の声と共に止まってしまったのかと思った。


感覚としてはずっとずっと長く、でも実際には二秒にも満たない沈黙の中で、鳴海は自分の耳に届いた言葉を理解しようとしていた。


潤くんが俺を好き、だって?


「うん、好きだよ」


ハッと気づいた時にはもう遅かった。鳴海はククッと笑うと、「口に出てたよ」と平井の好きな笑顔で言う。


「俺ね、ずっと自分の気持ちが分からなかった。明日香に対する気持ちが」


一緒にいたら楽しいし、話も合う。一昨日、女子に告白されたって聞いた時、俺すごいイライラしたんだ。鳴海は、読み聞かせるような、自分自身を確認するみたいな声でゆっくりと話す。


「昨日まではそれが、ただ寂しいって意味だと思ってた。一緒にいてくれる子を取られちゃう、みたいな。でも昨日、明日香に『男と付き合っても寂しいと思えるか』って聞かれた時、俺すげえ嫌だなって思ったんだよ。寂しいじゃなくて、“嫌だ”って。ムカついた」


平井の特別な人が平井の横にいるということ。

そして平井はその人を大切にして、愛するということ。

それを考えた時、なんでその横にいる人が自分じゃないのかと思っている自分に気づいた。


平井の特別な人になりたい。平井に愛されたい。

そして、自分が平井を愛しているということに気付いた。


「今思えば、あの時のも“嫉妬”だったんだよな、女子の時も。俺の方が明日香のこと分かってるし、一緒にいるのに、ぽっと出の奴に取られたくないって。俺が一番好きなのに、って」


鳴海の告白に、平井の頭も胸もいっぱいになる。こんなにたくさんの幸せを、自分がもらってもいいのだろうか。


「好きな子に優しくしたいし、触りたくなるって本当なんだな」


鳴海は握った平井の指を、すりすりと撫でる。平井は、ようやく腑に落ちたように呟く。


「だから今日の潤くん変だったんだ…」

「変じゃなくて、明日香に優しくしたいだけです。あとは俺の気持ちが伝わってほしいなって思ってたよ」

「急に恋愛ドラマハマったのかと思ったし、寒いからくっついてくるのかと思ってた」

「お前、変なところで天然だよな」


軽く握られていただけだった平井の手を、鳴海は恋人繋ぎに変える。平井はギュッと握られた手の感覚に黙ってしまう。血液に乗って、心臓の音まで相手に届きそうだった。


「明日香は、俺のこと好き?」


鳴海の眉毛が少し垂れ、心配と不安が混ざった顔。

本当は少し、平井の答えが怖かった。


鳴海は自分の気持ちに気づいてからというもの、やけに平井が可愛く見えるし、平井が誰かと話すだけで気になってしまっていた。


鳴海なりに言葉や態度で伝えていたつもりだったが、昨日の今日だ。

平井が鳴海に何かしらの気持ちを抱いていたとしたら、今さらすぎると思っていたのだ。


もちろん好意がないなら、好きになってもらうまで、とは思っていた。でも、いざ平井を目の前にすると、不器用な態度しか取れない。


こんなにも誰かのことを考えたり、行動したり、何より一緒にいたいと思うのは初めてだった。誰かを本当に好きになるとは、こういうことだったのかと、初めて知る。


「俺も、潤くんが好きだよ」


控えめに握り返す平井の手から伝わる体温が、たまらなく愛おしかった。その温もりが、鳴海の胸をやさしく満たしていく。ずっと隣にいたい。この手を、離したくない。まるで少女漫画のワンシーンのような思いが、今の鳴海にとってすべてだった。


「俺と付き合ってください」


鳴海の真剣な眼差しに、さっきまで張りつめていたものが、そっとほどけていく。言葉より先に、熱いものが頬を伝った。 


「よろしくお願いします」


平井の声は、ほんのわずかに震えていた。それでも、はっきりと鳴海の胸に届く。


鳴海はそっと手を伸ばし、指先でその涙を拭った。

ゆらりと揺れた前髪の向こう、光を湛えた瞳がこちらを見つめている。


──この手を、絶対に離したくない。


そんな二人の祈りを、夜空に浮かぶ金星が、ただ静かに見守っていた。


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