心の距離感1メートル
ジリリとアラームの音が鳴る。鳴海は寝ぼけ眼の中、手探りでスマホを探し当ててアラームを止めた。いつもは3回目でようやく起きるのに、今日はよく眠れたせいか1回目で目が覚めた。
通知がたくさん並んだ画面に、平井からの連絡はなかった。寝て起きたら昨日のことが全部夢だった――なんて都合のいいことは、現実では起こらないらしい。
いつもなら寝るまでLINEのやりとりをしていたのに、昨日はスタンプひとつ来なかった。夜が、やけに静かだった。
やることもなく暇だったので早く寝たら、その分早く起きた。やっぱり人は早寝早起きだな、と妙に実感する。リビングに降りると、母親が驚いたような顔をした。
「おはよう。あんた今日早く行く日とかなの? お弁当まだできてないよ」
「おはよ。たまたま早く起きただけ。二度寝してこようかな」
「起きられなくなるよ」
時刻はまだ六時を少し過ぎた頃。家を出るまで一時間以上ある。平井に会うまでは二時間弱。どんな顔をして会えばいいのか――まずは謝ろう。それが一番だ。
その次は……と考えた時、昨日の森蔭との会話が脳裏をよぎる。平井への気持ち。それが、まだよく分からない。なぜあんなにムカついたのか。
うう〜と唸っていた鳴海の頭を、母親がぺしりと叩いて配膳を手伝わせた。
ご飯と、豆腐となめこの合わせ味噌の味噌汁。「セールで安くなってたから、たくさん買っちゃった」と笑う母親。あとは簡単なおかずと卵焼き。平井の好きな卵焼き。
あいつは、いつもどんな朝ごはんを食べてるんだろう。
「なあ母さん」
「何?」
「友だちの話なんだけどさ、その子が大事な子と喧嘩しちゃったらしくて」
鳴海の母親は少し驚いた。鳴海が相談してくるなんて珍しい。でも口には出さず、思春期にはいろいろあるだろう、と笑って聞いていた。
「へえ、付き合ってる子とってこと?」
「いや、普通に友達」
「普通の友達なのに“大事な子”って、その子は思ってるんだ」
母親の言葉に、鳴海ははっとした。
そうか、自分は平井のことを“大事な子”だと思ってるのか――。
「で、とあることをきっかけに言い合いしちゃってさ」
「その喧嘩した理由、お母さんに聞いてもいい?」
母親のこういうところを、鳴海は好きだと思った。子どもの話をただ聞くだけでなく、その話を聞く“許可”を取る。
昔からそうだった。「なんでそう思ったのか、話してくれる?」と聞いてくれる。結果だけを褒められたい人もいれば、過程まで聞いてほしい人もいる。母親は、相手が何を求めているのかをちゃんと考えて、聞いてくれる。
きっと、こういう人だから人間関係がうまくいくんだろうと、鳴海はひそかに思っていた。
「その友達がさ、知らない女の子と仲良くしてて、なんかモヤっとしたらしい。で、『俺がモテたら困るの?』って言われて、何も言えなかったって」
今の鳴海の気持ち、それ以上でも以下でもなかった。モヤっとの正体はまだ分からない。モテたら困るわけじゃないけど、困る気もする。そんな、はっきりしない感じ。
「ふうん、なるほどね」
母親はニヤニヤした顔で鳴海を見た。
バレたくなくて、「友達の話だから」と鳴海は慌てて付け足す。
「お母さんは、その友達がなんでモヤッとしたか、分かった気がする。でも、それはその子自身が気付かないと意味がないことだよ」
――自分の気持ちは、自分で気付くべき。
昨日の森蔭と同じことを言った。
「でも、その友達は分かんなくて悩んでるんだよ」
そう、悩んでる。今のところ、“寂しい”という曖昧な感情が着地点になっている。でも、そこじゃない気がしている。きっと、もっと違う場所に本当の答えがある。
でも、その場所に行くための考えがうまくできない。行き止まり。そんな感じだった。
「相手の言い分を、もっとちゃんと聞くことが大事だと思うよ。その子、自分の気持ちでいっぱいいっぱいみたいだけど」
母親は優雅にコーヒーを口にしながら、柔らかい目で鳴海を見た。
その目の奥には、愛しさが滲んでいた。ああ、きっと全部バレてる――そう思った鳴海は、心の中で白旗をあげた。
――平井とちゃんと話をして、謝ろう。
【今日の放課後、一緒に帰れる?】
一行送るだけなのに、心臓がうるさい。いつもならすぐに送れるのに。
既読がついて、すぐに「いいよ」のスタンプが返ってきた。
*
連絡を取った時、いつも通りのやりとりに安堵した。だから、顔を合わせても大丈夫だと思っていた。――なのに。
顔を見た瞬間、昨日のことが蘇ってきて、どうにも言葉が出てこない。
「おはよう」
「おはよう」
それだけの挨拶が、胸に突き刺さるほど辛い。
沈黙が続くのが耐えきれなくなって、鳴海は森蔭のもとへ逃げるように向かった。
「耀太、助けてくれ……」
「おはよう~。って、何? 助けるって何を?」
森蔭は鳴海の目線の先――席で本を読んでいる平井を見て、すぐに察する。
「……無視されてるんだ、可哀想に」
「無視されてないわ。話しかけたら返してくれるし」
「でも、自分からは話しかけてくれないんだろ?」
鳴海と森蔭が話しているのを、平井は本の陰からこっそりと見ていた。
今朝、「放課後一緒に帰ろう」と鳴海から連絡が来た時、正直ホッとした。昨日は色々あったけど、今日は普通に戻れる――そう思っていた。
けれど、やっぱり顔を見ると、昨日の出来事が思い出されて心がチクチクしてしまう。
鳴海と話せば、また昨日のように傷つけてしまうかもしれない。そんな気がして、わざと本に目を落として距離を取っていた。
平井も、鳴海の気持ちが分からなくなっていた。
少し前までの鳴海は、ちょっと意地悪だけど嫌なことはしてこなくて、面倒見が良くて、ときどきすごく優しい顔で話してくれた。
そんな鳴海に、平井は少しずつ惹かれていた。
でも――昨日の態度は、なんだったのか。
知らない女の子と話していたことをやたらと突っかかってきた。
もしかして、鳴海は自分がモテるのが気に入らないのかもしれない。
“俺と一緒にいるからって、勘違いするなよ”――そんなふうに言われてる気がした。
……本当に鳴海って、そんな心の狭い奴だろうか?
違う。たぶん絶対に違う。
でも、思い当たる理由はそれしかなくて。
一瞬でも、“鳴海が女子に嫉妬してくれてるのかも”なんて思った自分を、平井は殴りたくなった。
鳴海は優しくて、誰もが認めるイケメンだ。
それに引きかえ、自分は――前髪の長い、地味で暗いただの男。
最近になって、女子たちが自分を褒めるようになってきたけど、正直その理由もよく分からない。
……そんな自分が注目されるのが、鳴海は嫌なのかもしれない。
あるいは、ただそばにいてくれる“都合のいい奴”がほしかっただけかもしれない。
ずっと隣が空いていた席に、たまたま平井が来て、ちょっと話が合ったから一緒にいる。それだけのことなのかもしれない。
──それだけの、存在。
鳴海の本音がどちらだったとしても。
たとえ自分がモテようが、ただの都合のいい相手だったとしても。
鳴海が友達でいてくれるなら、それでよかった。
……いや、そう思おうとしていた。
本当は、もっと違う形を、何かを、望んでいたくせに。
そのことを、平井はずっと見ないふりをしてきた。
ぎゅっと、胸が苦しくなる。
鶴見が教室に入ってきて、ホームルームが始まる。
お互いの顔を一度もちゃんと見ないまま、また、新しい一日が始まってしまう。
*
変わらずに一日が進む中で、クラスメイトたちは気付いていた。鳴海潤と平井明日香の間に、どこかギクシャクした空気があることに。授業中も必要最低限の会話しかなく、何より目立ったのは、ふたりが一緒にいないということだった。
鳴海は森蔭と行動を共にし、鳴海がいないなら、と、普段平井と話してみたいと思っていた男子や女子たちが、自然と彼の周りに集まっていた。平井は少し戸惑った様子ではあるものの、どうにかうまくやれているように見えた。
「お前の明日香は人気者だねえ
パンを齧りながら森蔭が言う。
「俺のじゃねえし。アイツはもともと優しいから、人気なのは知ってる」
鳴海は平井の方を見ずに答える。弁当には今朝の残り物、卵焼きが入っていた。平井の好きな卵焼き。
「まあ、明日香もお前以外と話せて楽しいんじゃない?」
森蔭の何気ない言葉に、鳴海は顔を上げた。
「どういう意味だよ」
「そのまんまの意味。いつも潤が明日香を独占してるからさ、話したがってる子、いっぱいいるんだよ?」
普段、平井は鳴海と一緒にいることが多く、ひとりになるタイミングが少ない。そのため、他のクラスメイトが話しかけづらいというのも事実だ。中でも、鳴海と会話している平井に割って入る勇気のある人間は少ない。ちなみにそのハードルを軽々と飛び越えるのが森蔭耀太である。
「マジか。全然知らなかった」
「お前、それ無自覚なのがいちばん怖いって」
鳴海は、今日めずらしく大人数でご飯を食べている平井をちらりと見る。話しかけられすぎていて、弁当がまったく減っていない。
確かに思い返せば、転校してきた日から平井と一緒にいた。あの案内の日から、ずっと。最初こそ「鳴海があの平井を構っている」とクラスの視線を集めたが、今ではすっかり定番のペア。だからこそ、ふたりが一緒にいない今は、かえって目立っていた。
「なんか明日香に悪いことしてたな、俺」
「明日香の気持ちは、明日香にしか分からないでしょ」
「お前、たまにこの世の真理みたいなこと言うな」
「何だそれ」
鳴海は、朝の母の言葉を思い出す。相手の言い分をちゃんと聞くこと。平井のことを、分かった気でいただけだった。
【一緒に帰る前に話があるから教室に残っててほしい】
送ってしまった。ちゃんと向き合おう。覚悟を決めて。
【うん、俺も言いたいことあるから】
すぐに既読がつき、珍しくスタンプなしの返信が返ってきた。鳴海は思わず平井を見た。そして驚いた。平井も、こっちを見ていたからだ。
教室の中に、一本の細い糸のような線が伸びていた。ふたりの目線がぶつかる、その一瞬だけ。確かに何かが通じ合っていた。でもその線は、目をそらした瞬間にふっと切れてしまった。
放課後まで、あと数時間。早く来てほしいような、来てほしくないような。鳴海の胸の中で、言いようのない感情がふわふわと渦巻いていた。
*
用事がある日に限って頼まれごとが増えるのは、なんでだろう。職員室に日直日誌を持っていくだけのはずが、気づけば鳴海は屋上で掃除をしていた。
「いや〜鳴海、悪いな」
「すぐ終わるって言ってましたし。だからまあ、いいかなって」
鶴見は放課後、屋上を掃除するよう教頭に頼まれていた。先生たちは月に一度、放課後に点検も兼ねて清掃をしているらしい。そこに偶然現れた鳴海が、「夕暮れ時の屋上なんて、そうそう入れるもんじゃないぞ」と言葉巧みに手伝いに巻き込まれたのだ。
鳴海自身は、屋上に特別興味があったわけではない。ただ、鶴見のあるひと言で手伝う決心をした。
「18時までだったら、ここの屋上で好きにしてくれていいぞ」
本来は平井と教室で話すつもりだったが、今日の様子では教室では落ち着いて話せそうになかった。ちょうどふたりきりになれる場所を探していたのだ。
平井にはすでに連絡済みで、鶴見が職員室に戻ったタイミングで来てもらうように伝えてある。
まだ17時前だというのに、空はすでにオレンジから紺色へと染まり始めている。冬本番だな、と鳴海は思った。
十分ほどで掃除は終わり、鶴見は屋上の鍵を鳴海に託すと、「帰るときに職員室に預けておいて」と言い残して去っていった。
【今終わった。待たせてごめん。上で待ってる】
【うん、今行くね】
鳴海は屋上から、部活中の生徒たちや帰宅する人たちの姿をぼんやり見下ろす。
普段は滅多に来ることのない屋上。ひとりでいると、広く感じる場所だ。でも、昼休みなんかは人がたくさん集まっていたりするのだろうか、と思うと、少し不思議な気持ちになる。
ギィッと寂れた扉が開く音がして、鳴海は振り返った。平井がいた。
「潤くん、ここ寒い」
「あ〜じゃあ、中の階段で話すか」
「うん。……あ、でも屋上って滅多に来ないから新鮮で、いいね。ベンチで話そ」
「どっちだよ」
「ベンチ」
たぶん今日、初めてちゃんと会話した。
少し時間が経って、お互いに気持ちが落ち着いてきたのか、いつもの調子で話せたことに、鳴海は安堵した。
ダッフルコートにマフラー姿の平井が、「ほんと寒いね」と言いながらベンチに座る。
鳴海はふと、平井が「この冬の必需品」と言っていた、あの暖かそうなチェック柄のマフラーのことを思い出した。
*
「その……昨日のことなんだけどさ」
平井が先に口を開いた。
「強く言っちゃって、ごめんね」
「俺のほうこそ、ごめん。なんか、お前が告白されてるって聞いたらムカついちゃってさ」
鳴海も素直に謝る。それは嘘じゃない。あのとき抱いた気持ちは、まぎれもない本音だった。
「やっぱり、僕がモテるのがムカつくってこと?」
平井はイタズラっぽく笑いながら聞いてくる。
「違うってば」
鳴海は慌てて首を振った。
「明日香に彼女ができるんだって思ったらさ……寂しくなったんだよ、多分」
平井の心臓が、一瞬で跳ねた。ドクン、と音がして、それが耳の奥で反響する。潤くん、もしかして。そんな淡い期待が、胸の奥からこみ上げてくる。
「だってさ、昼とか彼女と食うようになるじゃん。もう一緒に帰れなくなるのかなとか……それって、寂しいじゃん?」
鳴海の言葉に、体から熱が引いていくのを平井は感じた。
──なんだ、そういうことか。結局、都合のいい奴がいなくなるのが困るだけか。
鳴海が、ただ誰かに取られるのが嫌だっただけなら……少しホッとする自分もいた。
けれどその直後、心の奥にあった期待が音を立てて崩れる。自分は鳴海にとって、それだけの存在なんだと知って、胸の内が重く沈んでいった。
鳴海は平井の顔を見て、言葉の選び方を間違えたと気づいた。さっきまではいつもの明日香だったのに、今は視線を落とし、目を合わせてくれない。
「違う、そういう意味じゃなくて……寂しいって、そう思うけど、それだけじゃないんだ」
言葉にしようとするたびに、何かが喉元で詰まる。今、伝えなければ――。そう思っても、気持ちはうまく言語化できない。
明日香に彼女ができて、幸せになるならそれでいい。自分と過ごす時間が減っても、友達だから仕方ない。…仕方ないはずなのに。
──なんで、あんなにイライラしたんだ?
あの女は明日香の何を知って、「好き」なんて言ってるんだ?俺の方が、明日香のことを知ってるのに。考え始めると止まらなかった。
「潤くんはさ、たまたま僕が隣の席になったから、構ってくれてるだけなんだよね」
「は? 何言ってんだよ、そんなわけないじゃん」
「都合よく仲良くしてくれる子なんて、僕以外にもいるよ」
鳴海の頭は真っ白になった。何言ってるんだ、明日香は。どうしてそんなこと、思うんだよ。今日の平井は、なんか変だ。……いや、俺もか
「あのね、潤くん」
平井は、いつものように鳴海の名前を呼んだ。
「男と付き合うってこと、どう思う?」
「……え?」
「彼女じゃなくて、もし俺が、男と付き合うことになったら。潤くん、それでも同じように寂しいって思ってくれる?」
男と、付き合う。
鳴海の頭の中に、知らない男と並んで歩く明日香の姿が浮かぶ。それも、明日香にとって特別な相手として。
「別に、変じゃないと思うけど……俺は、男と付き合うとか考えたことないかも」
上手く想像ができなかった。いや、想像したくなかっただけなのかもしれない。昨日、明日香が女子と一緒にいたと聞いたときよりも、胸がズキリと痛む。この感情は、なんなんだ。嫉妬? 怒り? 悲しみ?鳴海には分からなかった。
「ごめんね、変なこと言って。今日は昨日のことを謝りたくて来たんだ。……話せてよかった。もう仲直りしたから、明日からは普通に話そうね。じゃあね」
平井はそれだけ言うと、逃げるように屋上を後にしようとした。
「おい、待てよ」
「……やっぱり今日も、ひとりで帰る。潤くんも、早く帰りなよ」
「待てってば!」
鳴海は、扉に手をかけた平井の腕を強く掴む。
「お前は……男と、付き合えるのか?」
ああ、言わなきゃよかった――。平井の頭はその言葉でいっぱいになる。でも、一度口に出た言葉はもう戻せない。
「好きになったら、男でも女でも、付き合えるよ」
鳴海は何か「正しい」言葉を探しているようだった。平井は、自分のセクシュアリティを恥じたことはない。隠すつもりもなかった。けれど、それを受け入れてくれる人が少ないのも分かっていた。
特に、潤くんみたいに優しくて真っ直ぐな人ほど――。
「俺はね、潤くんが誰かと付き合ったら……寂しいよ」
男でも、女の子でも関係ない。伊達メガネの奥の目が、わずかに揺れていた。
「でもさ、俺の“寂しい”と、潤くんの“寂しい”は、きっと意味が違う」
それは、ほとんど告白だった。いつからこんな気持ちを持っていたのか、自分でも分からない。けれど、こうして伝えるつもりはなかった。できれば一生、伝えるつもりなんてなかったのに。
「……腕、離して」
明日から普通に話そう、なんて言ったくせに。明日はもう、きっと上手く話せない。もしかしたら、これが最後の会話かもしれない、そう思った。
好きになって、ごめんね。潤くん。
平井は鳴海の手を振りほどき、教室へと戻る。鳴海は、それを追ってこなかった。戻りながら、平井は小さく笑った。この期に及んで、鳴海が追いかけてくれるかもしれないなんて、少しでも期待してた自分が滑稽で。窓の外では、雪が降り始めていた。この冬、初めての雪だった。
*
18時になっても鳴海が職員室に来ないことを気にした鶴見は、屋上まで様子を見に行くことにした。ずっと職員室にいたのだから、すれ違ったとは考えにくい。でも、もしかしたら鳴海が鍵を持ち帰ってしまったのかもしれない。そんなことを思いながら扉を開けると、ベンチに座る鳴海の姿があった。
「おーい鳴海。もう時間だぞ」
鳴海は声がする方を向く。鶴見を見て自分がここに30分以上も座っていたことに気付いた。どうりで手足が冷え耳まで痛いわけだ。
「どうしたんだ、風邪引くぞ。もう遅いし帰りなさい。戸締りは先生がやっておくから」
鳴海は鶴見に鍵を渡して教室に戻る。もちろんそこに平井の姿はない。そういえば、と鳴海はぼんやりと思い出す。上から地上を眺めていた時、平井っぽい子が帰っていくの見た気がする。アイツのマフラー目立つしな、と。帰り支度をしながら、鳴海の頭の中で平井の言葉がぐるぐる回る。俺の“寂しい”とアイツの“寂しい”は違うのか?何がどう違うんだ?
そして、ふと疑問が湧いた。もしかしたら平井は女じゃなくて男が好きなのかもしれないと。そして平井には好きなヤツがいるかも、と。
「明日香が知らない誰かと付き合う……」
鳴海より平井を分かってる人で、平井のことを尊重できる人。そんな人ならいいのかもしれない。平井もきっと幸せになれる。だけど、と鳴海は思った。それが女でも男でも、嫌だな、と思った。寂しいじゃなくて、嫌だ。と。
「ああ、そっか」
これは平井に伝えないと。自分の気持ちを理解した途端、パッと視界が開けたような、清々しい気持ちになった。雪の中、猛ダッシュで家に帰る。早く明日がくるようにと祈りながら。