さみしいと好きの境界線
薄手のカーディガンを着ていた平井が、いつからかダッフルコートを着始めていた。吐き出す息は白い靄となって消えていく。いつの間にか本格的な冬がやってきたようだ。鳴海もさすがに寒くて、フード付きのパーカーに制服を羽織っている。そんな冬のある日、二人には少し変わった出来事が起きていた。
「あ、あれって鳴海くんと平井くんだよね?」
「朝から二人を見られるなんて眼福」
「相変わらず平井くんはメガネ姿だけど、イケメンって知ってるんだから」
「急に強風が吹いてメガネ飛ばしてくれないかな?」
二人の五歩ほど後ろにいる女子たちの会話が耳に届く。こそこそ話しているつもりだろうが、丸聞こえである。平井は特に反応しなかったが、隣の鳴海は我慢できず吹き出した。
「メガネ飛ばすほどの強風ってどんなだよ」
笑いすぎて息が上がった鳴海を見て、平井もついに笑う。
「台風とかじゃない?」
「なるほどな。台風の風でメガネ飛ばされるとこ想像するとウケる」
「ウケないで」
先月のバスケ以降、平井は時々女の子に声をかけられるようになった。試合中にメガネを外した平井の顔を見た女子が「素の平井くんってすごくイケメンじゃない?」とクラスメイト同士で話題にしたことから、そんな噂が広まったのだ。一体どこでその噂を聞きつけたのか。女子の噂話は一夜にして世界を駆けるとはよく言ったものだと鳴海は思った。
そして平井に関するもう噂がもう一つある。それは「"鳴海くんが可愛いと言っている平井くん"」だった。
先日、教室で耀太たちは恋バナをしていた。女子みたいなことをしているなと思いながら、鳴海はいつものように平井と過ごしていた。そこへ森蔭が聞いてきた。
「潤はどう思う?」
「急に何?」
「この学校で一番可愛いって思う子は?」
クラスの女子たちは『耀太ナイス!』と思った。高校生にして180センチ近くあり、手足が長く整った顔に小さな頭。八頭身、もしくは九頭身のモデル体型で、芸能人になれると誰もが納得するほどの美貌の持ち主だ。芸能関係からもスカウトされることがある鳴海のタイプだ。
鳴海に向ける感情が好意かどうかは別として、このイケメンが褒める相手だ。女子たちがウキウキして思考を巡らせているとは知らず、鳴海の脳内にはあの日見た平井の顔が浮かんでいた。つい口から出てしまったのだ。
「明日香」
「え?」
「あ?あ〜だから、うん。明日香が可愛いかなって」
よく考えると、森蔭が鳴海に聞いたのは「可愛いと思う子」であって「可愛いと思う顔の子」ではないのだが、女子たちの中の「可愛い」は顔のことなのだろう。とにかく、その日クラス中が変な空気になった。
それから平井は女子から声をかけられるようになった。男子たちもふざけて平井のメガネを外そうとするが、横を見ればまるでボディーガードのように鳴海がいて、平井自身も「目が悪くて取ったら見えないから」と言ってうまくかわしている。
そんなわけで、女子に噂される平井くんは鉄壁のガードの末、いまだ「眼鏡の平井くん」のままである。
*
帰りのホームルームが終わると、教室の空気が一気に緩む。部活に向かう人もいれば、すぐには帰らず教室でおしゃべりする人、他のクラスから友達が来て騒がしい人もいる。
「明日香、帰ろうぜ」
鳴海はいつものように平井に声をかけた。しかし平井には一緒に帰れない理由があった。
「ごめん、今日鶴見先生とちょっと用事があって」
平井は見たことのない英語の本や薄い写真のアルバムを何冊か持っていた。鶴見と一体何の用事なのだろう。
「長くなりそう?」
「どうだろう。たぶん1時間もかからないと思う」
「じゃあ待ってる」
「遅くなりそうだったら連絡するね」
「ごめんね」と言いながら平井は教室を出て行った。さて、どうしたものか。時間ができてしまった。鳴海は本を読むのが好きで、自室には細い本棚にぎっしり小説や漫画が詰まっている。あいにく今日は持ってきていないため、スマホで動画でも見て過ごそうと手を伸ばしたところ、森蔭に声をかけられた。
「あれ、お前一人なの?珍しいな。明日香は?」
いつの間にか鳴海と平井はセット扱いされるようになった。そのため、片方が一人だともう片方の行方を気にする人が多い。特に鳴海は平井にベッタリだ。本人に言ったら否定されるだろうが、森蔭はそう思っている。
「なんか担任と用事があるってさ。英語の本とか持っていった」
「ああ、そんなこと言ってたな」
「言ってたなって、お前知ってたの?」
やばい。口を滑らせてしまった。鳴海に言ってなかったのか。森蔭はたまたま鶴見と平井が話しているところを見かけて、放課後の予定を知っていた。偶然の産物だが、鳴海は自分が知らないことが気に入らない様子だった。
「たまたま聞こえただけで、細かいことは知らないよ」
「カナダ旅行を計画してるとか?」
平井の荷物から連想したのだろう。まあ、そういうことにしておけば丸く収まるか。森蔭は自然に鳴海の前の席に座った。
「まあ、もしそうなら海外のことは慣れてる人に聞くのが一番だよね」
「アイツ、写真とか持ってたし可能性あるな」
グラウンドからそれぞれの部活が始まる音が聞こえる。遠くで吹奏楽部の合奏が聞こえてきて、その曲に覚えがあった。
「うわ〜この曲懐かしい」
「マーチングソング?もうそんな時期か。絶対二度とやりたくない」
鳴海の顰めっ面が面白かったのか、森蔭は手を叩いて笑った。
中学時代、鳴海と森蔭は吹奏楽部に所属していた。鳴海はパーカッション、森蔭はトランペットを担当。男の先輩も多く、肩身は狭くなかった。夏の合奏大会や秋のマーチング、定期演奏会など、忙しくも充実した日々だった。
ただ、マーチングの練習が厳しくて、二人は中学で吹奏楽部をやめることに決めた。高校では運動部も検討したが、体力面で断念。文化部には興味が持てず、結果的に部活はやっていない。
「トランペット、たまには吹いてる?」
「めっちゃたまにね。この間部屋片付けてたら楽譜が出てきてさ」
「ああ、そういう時演奏したくなるよな」
家にドラムセットはあるが、近所迷惑になるため卒業以降はほとんど叩いていない。代わりに叩きたくなったらゲームセンターの太鼓のリズムゲームをしに行くことにしている。
鳴海が吹奏楽部に入って唯一得たことは、太鼓のリズムゲームがめちゃくちゃ得意になったことだけだと思っている。
それ以外はない。むしろマーチングでバスドラムを背負ったせいで、13歳の時から腰が悪い。勘弁してほしい
*
しばらく懐かしい話に花を咲かせていると、廊下を通り過ぎる女子たちの話が聞こえてきた。
「さっき平井くんが女の子と二人っきりで空き教室にいたの見た?」
「見た見た。あの子、1年生ぽかったよね」
「告白だったりして」
あることないことを楽しそうに話しながら、去っていった。耀太と森蔭を呼ぶ鳴海の声は、若干怒気を含んでいるようにも聞こえる。
「鶴見と用事あるんだよな、アイツ」
「あ〜まあ、そうだね」
森蔭の濁した返答を、鳴海は聞き逃さなかった。森蔭はこれ以上鳴海と目を合わせたくなくて、携帯でゲームを始める。
「本当か?」
「そうだといえばそうだし、厳密に言えば違うかな」
ゲーム画面に視線を落としたまま返答する。まだ頭の中で処理しきれない鳴海は、森蔭を問い詰めようとした。
その時、扉がガラリと音を立てて開いた。二人は音のした方に視線を向ける。そこに立っていたのは平井だった。行く時には持っていなかった小さな紙袋を持っている。薄いピンクの紙袋にはゴールドのリボンがつけられている。明らかに女の子からの贈り物であるそれを見て、鳴海は息が詰まる。
「潤くん、お待たせ。思ったより早く終わってよかった」
森蔭を見つけると、「耀太もいたんだ」と二人に近付いてくる。淡々と帰り支度を進める平井に、鳴海はモヤモヤとした気持ちが膨れ上がってくる。
放課後という時間、女子たちの会話、最初は持っていなかった紙袋。告白という言葉が脳裏によぎる。なんとなく恥ずかしくて、告白されることを友人に隠す気持ちはわかる。しかし平井は鶴見と用事があると言って出ていった。嘘をつかれたわけではないと思う。森蔭も何となくだが知っている様子ではあったし。ならなんで、鶴見と過ごしていたはずの平井が女子と一緒にいるところを目撃されたのか。
「その紙袋、誰かからもらったの?」
平井は鳴海の方を向いたのちに、紙袋に視線を落とす。
「ああ、これ。さっき後輩の子にもらったんだ」
「女子?」
「うん。あれ、何で知ってるの?」
俺、言ったっけ。そう言って首を傾げる平井に、鳴海は異様に腹が立った。
「本当は告白だったんじゃないの、今日」
「え?」
平井は困惑する。確かに先ほどまで女子と過ごしていたが、だからと言って告白とこじつけるのはどうなのか。それに鳴海は何故だかイライラしていて、いつもと雰囲気が違う。
「違うよ、鶴見先生と用事あるって言ったじゃん」
「なのに女子と一緒に過ごしてたんだろ、お前」
平井は鳴海にちゃんと事の顛末が伝わっていないことに気付いた。たまたま用事を取り付ける時に居合わせた森蔭は知ってるはずだと目線を送る。
「耀太は今日のこと知ってたよね」
「知ってたし、潤にも聞かれたから一応答えたよ。用事あるとか言ってたなって」
「それじゃ言葉足らずだよ」
「ごめんごめん。でも明日香の用事だし、潤に詳しく言う必要はないかな〜って思ってさ」
森蔭の言うことは間違っていない。平井自身の用事のことを鳴海に1から10まで説明する必要はないのだ。ごめんねと手を合わせて謝る森蔭を責めるのはお門違いである。
「耀太は詳しく知ってたんだな。俺は知らなかったのに」
「なんで潤くんがそんな感じなの」
「そんな感じってお前たちだけで楽しそうだし、告白されたのがよっぽど嬉しかったのかと思っただけだ」
相変わらず鳴海は不貞腐れている様子だ。平井は何でこんなに鳴海が怒っているのか分からなくて、とりあえず説明しようと試みた。
「鶴見先生と用事があったのは本当だし、後輩の女子と過ごしたのも本当だよ。嘘じゃない」
「でもさっき女子たちが話してたよ。空き教室に2人きりで告白かもって」
相変わらず鳴海の見当違いな発言に、平井の心はチクチクとした棘が生えてきていた。後輩の子の本心の部分は分からないし、平井に好意があるのかもしれないが、それと鳴海に何の関係があるというのだろうか。少なくともさっきまでの空間でそんな甘ったるい空気になってはいないし、平井は楽しかったのに。鳴海は紙袋を見ながら「そんな可愛い紙袋持って帰ってきちゃってさ」と駄々をこねる子供のように言い続けるので、平井の中の棘が外に飛び出す。
「だからそんなんじゃないってば!」
平井は自分自身の声の大きさに驚いたし、鳴海と森蔭も平井が声を荒げるのを初めて聞いて、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。ハアハアと平井の息遣いだけが教室の空気と触れ合い、溶けていく。自分が何でこんなにイライラしているのか分からなくて、余計にイライラするし、鳴海が何でイライラしているのか分からなくて困惑する。
「鶴見先生の部活の子に、カナダへ留学を考えてる子がいるんだ。その子が俺に色々聞きたいって言ってるって、鶴見先生から教えてもらって、それで場所を作ってもらったの。2人きりじゃ気まずいと思うから、ちゃんと鶴見先輩にも同席してもらってた。廊下からじゃ確かに2人きりに見えたのかもしれないけど。そしてその紙袋はその子からお礼にもらったもの。これで分かってくれた?」
平井が悲しそうな、呆れているような、感情が読めない顔をしていて、鳴海は我に返った。
何してるんだ、俺。何でこんなにイライラしてるんだ。
「だったらちゃんと言ってくれればよかったのに」
その言葉が、平井のトゲに火をつけた。
「ちゃんとって何? 鶴見先生と用事があったのは嘘じゃないし。そんなに俺が女子と過ごすのが嫌なの?」
厳密には鶴見との用事じゃないけど、嘘はついてない。だから平井は、鳴海に嘘をついていない。なのに、何がそんなに気に入らなくて平井に当たっているのか。鳴海はまた、自分の気持ちがわからなくなった。
「それに潤くんだってモテてるし、告白もたくさんされてるよね? 俺がモテたら嫌なの? ムカつくの?」
「ムカつく」
「なんで?」
「なんでも」
「意味わかんない」
売り言葉に買い言葉で、言い争いが続きそうだったところに、森蔭が割って入った。
「明日香は言い過ぎだし、潤は何が言いたいのかわかんないから、もうやめろ」
──そんなに俺が女子と過ごすのが嫌なの?
──俺がモテたら嫌なの?
平井の言葉に、鳴海は今度こそ何も言えなくなった。チクリと胸に刺さる痛みは何だろう。別に平井に彼女ができたって、俺には関係ないはずだ。むしろ友人の幸せを喜ぶべきだろう。おめでとうって。そう考えた瞬間、首がキュッと締まる感覚があった。じわじわと締め付けられ、呼吸が浅くなる。
明日香に彼女ができたら、おめでとうって言えるのか?
「待っててもらったのにごめん。今日は一人で帰る」
寒いはずなのに、怒りの興奮で汗が出そうだった。熱を冷ますためにも、今日は鳴海と一緒に帰らないほうがいい。いつも来ているダッフルコートも着る気になれず、抱えて外に出る。後輩からもらった紙袋も忘れずに持って。
鳴海を思考の海から現実に戻したのは、森蔭の声だった。
「お前さ、無自覚に明日香のこと囲ってるの気づいてない?」
「ア? 何がだよ」
「マジか〜、無意識でそれってまじでタチ悪いな」
森蔭の言葉が理解できず、余計にイライラする鳴海。平井の前では抑えていた苛立ちを隠さなくなり、訳わかんね〜と頭を掻く。森蔭は「俺に当たってくんなよ」と言いつつも話を聞いてくれるようだ。
「なんでそんなにイラついてんのか、自分で考えろよ」
「考えても分かんねえからイライラするんだろ」
もっと真面目に考えろ、と森蔭は軽く鳴海の肩を叩く。外はすっかり暗くなり、紺色の空にまばらな星が浮かんでいる。
「可哀想な潤くんに1個だけヒントをあげよう」
「お前は明日香が誰かのものになるのが嫌なんだよ」
森蔭は鳴海を見たが、鳴海はうーんとうなり、答えには辿り着いていない様子だった。
「さっき俺、明日香に彼女ができるって思った時、おめでとうって言えるかなって考えた」
「うん、それで?」
「言えるかなって思ったら、なんか胸が苦しくなった」
森蔭は、鳴海がそんなことをさっきの会話中に思っていたとは知らず、驚いた。本人は気づいていないが、鳴海にとって平井は特別な存在だ。特別な存在に恋人ができる。それを想像して胸が苦しくなる。答えはひとつしかない。
「ちなみに、その心は?」
「寂しいなって思った」
「寂しい?」
「そう。明日香に彼女ができたら、昼に一緒に食べられなくなったり、一緒に帰れなくなったりするのかなって思うと寂しい」
幼馴染が恋に気づく瞬間に立ち会えるはずだったのに。ゴールの一歩、いや二歩手前で着地したような気分だ。まさに、不意を突かれたみたいな感じ。
「寂しい。寂しいかあ」
「お前って馬鹿なの?」と森蔭はまた鳴海の肩を小突く。今度は結構強めに。
「いてえな、何すんだよ!」
「そうじゃねえだろ。それに意外とお前の恋愛観が少女漫画みたいで、ちょっと寒くなっただけ」
「はあ? どういうことだよ」
「自分で考えろ」
自分で理解しないと意味がないから、森蔭はそれ以上は言わなかった。寂しいと好きの境界線はいつも曖昧で、人それぞれ違うのだから。