黒曜石の煌めき
隣に人がいるというのは、案外楽しいもので。
平井が転校してきてから、早一ヶ月と三週間。高校に入ってから、こんなふうに一ヶ月があっという間に過ぎたのは初めてだった。それまでは、月曜日から金曜日までを指折り数えてやり過ごし、土日を待ってはまた、同じ日々の繰り返しだった。けれど平井が隣に来てからというもの、一日が本当にあっという間に終わっていく。
ただ隣の席に誰かがいる――それだけのことだったはずなのに、気づけば毎日が楽しみになっていた。
この学年になってから、鳴海の隣はほとんど空席だった。だからこそ、その反動なのかもしれない。最初の印象では、平井は「静かなやつ」だった。だが、話しかければ返事をくれるし、会話のキャッチボールも成立する。慣れてくれば、自分からも話すタイプ。ただの人見知りだった。そして、何よりいい奴だ。
まず、授業中は静かに真面目に受けてくれる。それだけで、かなりポイントが高い。
当たり前に思えるけど、前の隣人なんて月に一回出席すればマシなほうで、真面目に授業を受けてるところなんて一度も見たことがなかった。むしろ途中退出の常連。そんな相手に慣れてしまっていたから、平井の「ちゃんと授業を受ける」という、たったそれだけのことが、鳴海には信じられないほど眩しく見えた。たぶん、周りにはわかってもらえないかもしれない。でも、そんなほんの些細なことで、鳴海の中の平井への好感度は、もう天井を突き抜けそうなくらいだった。
めちゃくちゃ真面目で、すごくいい。
これが平井を気に入っている理由だ。
それから、平井は頭もいい。鳴海も悪いわけではないが、要領よくやるタイプで、何かを掴むのが早い。その結果、クラスで「平井先生」というあだ名がついた。とくに英語が苦手な鳴海は、平井に教えてもらうことが多いが、彼は教え方も上手かった。
最近はクラスメイトとの会話にも慣れてきたようで、誰に対しても平等に優しい。とにかく、挙げていけばキリがないほど「普通にいい奴」なのだ。
相変わらず声は大きくないけれど、耳に届くその声はとても心地いい。雑音がなく、クリアで、春の日差しのように柔らかい。たまに小さすぎて顔を寄せないと聞き取れないこともあるけど、それも別にマイナスポイントではない。
そして何より――聴いている音楽、見ているドラマやアニメ、好きな食べ物まで、まるでパズルのピースのように互いの好みがピタリと一致した。
自分の好きなものに共感してくれて、意見をくれる存在。これほど好感度が上がることがあるのかと、鳴海は驚いている。
繰り返しばかりだった日々に、突然現れた「平井」という存在。それは鳴海の中で、一本の木のように静かに、でも確かに育っていっていた。
*
次の時間は体育だ。体育館でバレーをやるのだが、こんな暑い日に室内で運動なんて、絶対にしんどい。熱中症患者が出たらどうするつもりなんだ。鳴海は憂鬱な気分で準備をしていた。
平井を学校案内して以来、移動教室や昼休み、下校の時間もふたりで過ごすようになっていた。いつもなら一緒に向かうのだが、今日は平井が担任に用事があるとかで、ついでに向かうと言っていたため、鳴海は珍しく一人だった。
そんな鳴海を見つけたのは、ひとりの人物。
「いや〜、本当によかったな潤」
後ろから肩を組んできた男に振り返ると、子供のようににこにこと笑っている。
「何がだよ」
「何がって、明日香のこと。隣の席に来てくれてよかったなって」
「前のヤツは大変だったもんな〜」と、森蔭は大げさに涙をぬぐう仕草をしてみせた。「えんえん、潤くん本当によかった」とふざけたセリフつきで。
「まあ、明日香といて楽しいのは事実だけど」
「だよな?! お前、毎日楽しそうだもん」
森蔭は「本当によかった」と何度目かの安堵の言葉を繰り返した。始業式以降、鳴海が平井と行動をともにしていることにクラスメイトたちも気づいていた。そんな様子を見て、みな密かに安心していたのだ。
たかだか隣の席に人がいないだけ。それだけなのだが、授業中にペアで行う作業は少なくない。鳴海が毎回、誰かの前の席に入れてもらうのを申し訳なく思っていることを、みんな知っていた。そして、いつもひとりで受ける授業はやっぱり寂しいだろうと。
ある日、鳴海がふと漏らした「お前は隣に人がいていいよな」という言葉。鳴海自身はすぐに「なんでもない」とごまかしたが、聞いていた森蔭や他のクラスメイトには、胸に残るものがあった。
「あと、お前さ、表情が豊かになった」
森蔭は鳴海の右頬を人差し指でつまんで、そのままぐいっと引っ張る。
「痛えよ」
「悪い悪い」
へらへらと笑いながら言うもんだから、本当に反省してんのかと内心ため息が出る。でも、悪意がないのは分かっているので、鳴海はそれ以上言わなかった。
「で、俺がいつから表情豊かになったって?」
「明日香と出会ってから」
「出会う前も今も変わらなくね?」
「いや、違うって。明日香の前ではよく笑うよ、お前」
思いがけない指摘に驚いた。そんなに人前で笑っていなかったのか、という驚きと、平井の前ではよく笑っているのか、という驚き。後者には、なんとなく心当たりがあるからこそ、少し恥ずかしい。
「なんか、幼稚園の時に戻ったみたいな?」
「それ、ギリギリアウトじゃね?」
「そうかも」
「お前なあ……」
幼い子供みたいにケラケラ笑っていたかと思えば、何かを思い出したように表情を変える森蔭のほうが、よほど表情豊かだと思う。だが今この流れでそれを言ったら、ただの悪口になりそうだったので黙っておいた。
「あと、口癖!」
「口癖?」
まったく心当たりがないので、鳴海の頭の上に疑問符が浮かぶ。
「お前の口癖って、“明日香”だよな」
「……は?」
たかだか一ヶ月ちょっと一緒にいただけで、口癖ってレベルで呼んでたか? 鳴海の心を見透かすように、森蔭は「めっちゃ呼んでるから」と追い打ちをかけてくる。
「それは今、初めて気づいた」
「マジ!? 無意識ってこと?」
「あ〜怖い怖い」と身震いして見せる森蔭に、軽くパンチを入れる。
「大袈裟だ」
「いやいや、大袈裟じゃないって〜。明日香明日香って、好きすぎだろ」
まさしく藪から棒。いや、斜め上からの見解と言うべきか。鳴海の心音が不意に跳ね上がる。
「なっ、好きとかそういうんじゃねえから」
「はいはい。一説によるとさ、人間って好意を持ってる相手とか、仲良くなりたい相手の名前をよく呼ぶんだって」
だから、お前の“仲良くなりたい”って気持ちが出てるんじゃないの?
予鈴を告げる鐘が鳴る。会話の結末は曖昧なまま、ふたりは体育館へと向かった。鳴海は、自分の口に馴染んでいた“口癖”を思い返す。人から指摘されて、平井への好意が自分の中から漏れ出していたことに気づくとは——。
これは平井にも伝わっているだろうか。ほんの少しの恥ずかしさを感じてポーカーフェイスを装った鳴海だが、体育館に着いた途端、「明日香まだ来てないな」と口にしてしまい、森蔭に大笑いされるのはあと数分後のことだった。
*
昼休みの時間は、一日で一番学生が気楽に過ごせる時間だ。鳴海たちの学校は規則が変わっていて、昼休みであれば外出してもいいことになっている。普段は閉まっている屋上も、この時間だけは施錠が解かれていて、そこで食べる生徒も多い。そのため、クラスに残る人数は半分以下で、比較的穏やかだ。鳴海と平井はいつも教室でお昼を食べていて、たまに外にも出る。
「お前ってバスケ上手いんだな」
自席で弁当を広げていた平井に、鳴海は唐突に聞く。
「上手いかは分からないけど、カナダでもやってたから」
体育の授業で平井はちょっとした人気者になった。授業内容はバスケットボール。前半は基礎のルール説明とパス練習で、後半は試合だ。男女別に試合をしていたのだが、平井が次々とゴールする姿に、鳴海を含めたクラスメイトが驚いた。平井の運動神経がいいのは以前から体育で知っていたが、球技は向き不向きが出やすい。バスケ部に引けを取らない、もしかしたらその上のレベルかもしれない平井は、授業後バスケット部から恐ろしいほど勧誘を受けていたが、当の本人は「二年の途中からだし」と断っていた。一年からこの学校にいたら、バスケ部だったのだろうか。鳴海自身は帰宅部なのだが、平井を応援しに試合に行ったりしたら楽しいだろうなと空想を巡らせる。
「あっちでは部活入ってなかったの?」
「入ってないよ。何となくまた転勤するって思ってたし、すぐ辞めちゃうから申し訳ないなって」
「カナダどれくらいいたんだっけ」
「中学からだから四年ちょっとかな」
「親の都合だっけ」
「そうそう。あ、でもこれが最後って言ってたから安心してね」
「安心ってなんだよ」
「なんとなく?」
「はあ?」
平井の親は転勤族で、小さな頃から引っ越しが多かった。カナダへ行った時はまだ小学生で、行きたくなかったが、一人で生きているわけにもいかず、渋々着いて行ったそうだ。
「言葉通じないところって怖いよ」
今思えばだけど、あの頃が人生で一番勉強してたかも。母親が作ったという卵焼きを口にしながら、平井は笑う。鳴海は平井からカナダにいた時の話をたまに聞く。いつも楽しそうで、最後には「また行きたいな」と溢こぼす。その度に新しい平井を知れて嬉しい気持ちと、カナダを恋しく思う平井に少しだけモヤモヤしていた。今は楽しくないのかな、と。
「カナダに帰りたいって思う?」
鳴海はピーマンの肉詰めを齧りながら平井に聞く。口から出た言葉に「あっ」と思ったけど、その言葉を訂正する前に平井の耳に届いてしまった。うーん、と唸る姿を見て、しまったと思った。帰りたいって返されたらどうしようと思う自分に驚く。いやいや、どうしようってなんだよ。平井が帰ってまた一人の学校生活が来る。元の生活に戻る。それだけのことだ。なのに、人は一度味わった甘い蜜を奪われると、それを取り返そうと必死になる。考えただけで気持ちが落ち込む。人はそれを寂しいと呼ぶのだが、鳴海の心は正しい言葉で表現できなかった。霧がかかったように、ただぼんやりと嫌な気持ちを漂わせる。
「帰りたいとかはないかな。こっちのほうが楽だし」
「やっぱり母国語が一番だよな」
「そうそう。あと今の方が楽しいよ」
潤くんがいるから。
平井は何事もないかのように言い放つと、タコさんウィンナーをパクッと口に入れる。もぐもぐと食べる姿を見る限り、自分が今、結構衝撃的な発言をしたことに気がついていないようだった。よくもまあ、そんな歯が浮きそうな発言ができることだと思ったが、これは外国の人特有のストレートに褒めるってやつなのか? 日本人にはハードルが高すぎるそれを、いともやってのける。こういう時に鳴海は平井が外国育ちだったことを思い出す。
「そう」
「うん」
喋りながらも食べる手を止めない平井は、今度はレタスをムシャムシャと食べている。ウサギみたいだと思いながら、鳴海もゴボウのきんぴらに手を伸ばす。
「潤くんがいるから」
その言葉は鳴海の気持ちをふわふわと持ち上げ、どこかに飛ばしそうになる。心なしか心拍数は上昇していて、室内はクーラーがついているのに暑くなってきた。じわじわと体温が上がる感覚。これは心が嬉しいと喜んでいる証拠だ。しかし、鳴海は俗にいうツンデレで、素直に言葉に出せない。そのことを昔から森蔭に揶揄われている。
「お前俺のこと好き過ぎじゃん」
「うん、好きだよ。友達はみんな好き。」
最後の言葉が妙に引っかかった。みんな、とは。クラスメイト全員って意味なのだろうか。この一ヶ月で平井はクラスに馴染んだ。それこそ鳴海の時のように最初は人見知りを発揮するものの、喋れば意外と普通に話してくれるし、いい奴、という共通認識になった。平井にとって鳴海は他の奴よりも特別だという自信があった。学校案内したのも、教科書を見せたのも、友達になったのも、全部鳴海が最初だ。そんな自分と他の奴らが同じだとは。鳴海は何故かムカついてる自分に気付いた。
「みんなねえ」
「そうだよ。みんな。友達。」
「俺がお前の一番最初の友達なのに、他のやつと一緒なの?」
不安そうというか、怒ってるというか。妬いてるみたいな。鳴海の見たことのない顔に平井の心臓がドクンと波打つ。綺麗な顔の眉間に皺が寄っている。なあ、と頬杖をついてこちらを見る姿は、さながら少女漫画に出てくるモテ男のそれだ。イケメンに見つめられるというのは、少々居心地が悪く視線を逸らしてしまう。
「そりゃあ、学校案内してくれたのも、一緒にお昼食べたのも潤くんが最初ではあるけど…」
「あるけど?」
「だから、その、潤くんは…」
「潤くんは?」
相手の顔が見れなくて、平井の視線はふらふらと彷徨う。どうしよう、何か言わないと。
「潤くんは…」
「…フッ、で、潤くんは?」
鳴海が漏らした笑い声に視線を上げる。何だよ、と笑う鳴海に平井は揶揄われていると気付いた。
「潤くんは意地悪だ」
平井は鳴海のお弁当から残っていたピーマンの肉詰めを奪うと、そのままパクッと口に入れる。
「あ!お前!最後の1個だったんだぞ!」
「潤くんが意地悪するから悪い」
「そう、潤は好きな子に意地悪する典型的なタイプだよ」
登場した後ろから聞こえてきた声に二人して驚く。誰だと思って振り返ると森蔭が立っていた。
「ビッ…クリした。お前外で食ってくるんじゃなかったのかよ」
「財布忘れてさあ」
「ごめんごめん」と財布を見せる。
「ところで明日香、俺の話聞いてた?」
急に振られて反応が遅れる。
「ごめん、何だった?」
「潤は幼稚園の時から好きな子に意地悪するって話」
「マジで今すぐ静かにしろ」
鳴海がパンチをお見舞いするも、ヒョイっと避けられる。もう少し二人に絡もうと思ったが、森蔭は携帯を見てヤバっと呟く。
「二人の時間を邪魔するつもりはないから安心して。マジで財布取りにきただけだから、そんな怖い顔すんなよ」
「明日香も驚かせてごめんね。じゃあまた〜」と一人で完結させて、さっさと外に行ってしまった。
「マジでびっくりしたな」
「ホラーだったね」
「ホラーだった」
少しの沈黙。それを破ったのは鳴海だった。
「つうか、マジで英語ペラペラなのは羨ましいわ」
「え?急に何?」
「ほら、次英語だろ。ALTの先生と話すの苦手なんだよ、緊張するし」
二人は森蔭の言葉を聞かなかったことにした。平井は問い詰めて何か明確なことを言われたら、それしか考えられなくなってしまうと思ったし、鳴海は平井に何か聞かれたら困ると思った。体育前に言われた森蔭の言葉も相まって、平井への気持ちがよく分からなくなっていた。それとなく話題を変えたまま会話は続く。
「そりゃ生まれも育ちもあっちだから」
「でも日本語もペラペラだ、ずるい」
鳴海はムッと口を尖らせる。いつもはクールで何でも出来そうな雰囲気(実際手先が器用だからなんでも平均以上にできる)の鳴海が、たまに見せる年相応の部分を平井は可愛いと思っていた。大人っぽい見た目だから最初は緊張したけど、やっぱり同い年なんだな。
「それは親が日本人で、家では日本語だったから」
「明日香!俺が英語できるようになるために、英語で話しかけて」
「いいけど潤くん絶対すぐ飽きると思うよ」
変わらず過ごす昼休み。だけど、いつもよりちょっとだけ相手のことが気になるふたりの昼休み。
*
十月の終わりともなると、日が沈むのが早くなる。見上げる夕焼けは赤やオレンジに染まり、秋の夕暮れらしい、柔らかな色合いと光を感じさせた。遠くに金星が見える。平井と出会った九月はまだ暑かったのに、今の夕暮れ時は肌寒く感じるほどだ。鳴海は冬になる準備をするこの時期が好きだ。ようやく忌々しい夏が終わり、冬がやってくる。もちろん寒すぎるとは毎年思うが、暑いよりはマシだ。鳴海は本当に寒くならないと、カーディガンもマフラーもしないのだが、対して隣の平井は、すでに薄いカーディガンを着ている。寒さに弱い平井にとって、辛い季節がそろりそろりと抜き足で近づいてきていた。
「まだ十月なのに、この寒さってどういうこと…?」
「最近、朝晩冷えるよな」
「早く冬終わってほしい…」
「まだ始まってもないのに無茶言うな」
平井は恨めしそうに鳴海を見ると、「明日急にめちゃくちゃ暑くなればいいのに」と恐ろしいことを言うもんだから、鳴海は笑ってしまった。駅まで徒歩十分。近くも遠くもない距離を、今日もふたりで並んで歩く。最近気づいたことだが、平井は寒いと機嫌が悪くなる。人に当たったりするわけではないが、寒さにムカついているような感じだ。寒いところにいると眉間に皺が寄るし、よく手を擦って暖をとっているところを見かける。今も平井は「寒い寒い」と手に息を吹きかけ、暖をとっている。その時、メガネに吐息がかかり、レンズが曇った。平井がメガネを外して、いつもは隠れているあの瞳が鳴海の視界に映る。
冬の匂いがする夕方の空気は澄んでいて、アスファルトに反射する太陽の光が平井の星屑を照らす。瞬きをするたびに光る角度は変わり、一度たりとも同じ輝きはない。まるで万華鏡を覗いているようだった。もっと見たい。もっと近くで。そう思うけれど、万華鏡にはメガネのレンズがかかり、前髪のカーテンまでついてしまった。そういえば、と鳴海は気づいた。平井のメガネしてないところ、見たことないなと。
気になったらすぐ行動できるのが鳴海の長所である。俺は今この瞬間、こいつのメガネなしが見たい。さりげなく、それとなく外すように仕向けよう。鳴海のこういう時の頭の早さは天下一品だった。
「なあ、お前、今日バスケしてたときメガネ外してただろ」
「うん」
「メガネ外しても大丈夫なの? 見えないとか」
自分の欲望のためにメガネを外させるわけだが、メガネがないと生活が不便ということもあるだろう。鳴海は目がいいため、悪い人のことを完璧には理解できないが、母親の目が悪くメガネがないとほぼ見えないと言っていたことを思い出したのだ。もし平井がメガネを外したら何も見えない、なんてことだったら申し訳ない。いや、一瞬だしいいのか?そんなことをグルグル考えている鳴海に、平井の返答はまさしく青天霹靂だった。
「全然大丈夫だよ。これ、伊達メガネだし」
「伊達メガネ? 目悪くないってこと?」
「めちゃくちゃ良い」
数秒前の俺の気遣う心を返してほしい。平井に文句を言いそうになったが、よく考えれば好都合だ。メガネがなくても生活に支障がないなら、こちらが気を使う必要はない。
「メガネ、外してみてよ」
"いいよ"とスッとメガネを外してくれると思っていたのに、平井は困ったように笑うだけだった。
「嫌なの?」
「嫌っていうか、まあ理由あってメガネつけてるから…」
「一瞬じゃん」
「一瞬でも嫌なの」
平井は基本優しい。何か頼んでも「いいよ」と笑って受けてくれる。そんな平井が、わざわざ伊達メガネまでしてまで外したくない理由があるのだろう。それをわざわざ深掘りして平井に嫌われたくない。鳴海の天秤は平井への友情と自分の欲望とで右へ左へと揺れている。
「理由とかって聞いてもいいやつ?」
鳴海の天秤は自分の欲望に傾いて動かなくなった。もちろん友情を捨てたわけじゃないが、あの瞳がどうしたって鳴海の心を掴んで離さない。平井は鳴海と一緒にいるようになって気づいたことがある。鳴海は基本優しい。意地悪な時もあるが、基本は面倒見が良く、面倒ごとを平井に押し付けたりしない。そんな鳴海が自分に頼み事をしているのだ。平井の天秤は聞いてあげたい気持ちと、眼鏡の奥の自分とで揺れている。鳴海なら笑わずに聞いてくれるだろうか。右、左、右、左。そしてついに、平井の天秤は傾いたまま動かなくなる。
「顔が女の子みたいだってよく揶揄われて」
「うん」
「それが嫌で前髪も伸ばしてメガネもしてる」
「そっか」
話してくれてありがとうな。鳴海は平井の頭をポンポンと撫でる。それは鳴海の無意識の行動なのだが、平井の心にじんわりと温かなものが広がるのを感じた。のも、束の間。
「取りあえず一回外してみてよ」
鳴海がメガネに手を伸ばすのを平井は必死に止める。
「俺の話聞いてた?!」
「聞いてた聞いてた」
だったらメガネを外そうとするその手はなんなんだ。平井の天秤がまた右へ左へとゆらゆら動く。ジリジリと壁に追いやられ、逃げ場がなくなる。
「絶対揶揄わないし、可愛いって言わないから」
世の中ではそういうのを死亡フラグという。しかし、鳴海があまりにも真剣に言ってくる。平井は鳴海の顔に弱い。イケメンには誰もが弱いとは思うが、自分を見つめる瞳というのは気恥ずかしさや嬉しさやら、色んなものが混じる。そんなわけで平井の天秤は最後には鳴海に傾いてしまうのだ。
「…一回だけだよ」
平井は渋々メガネを取る。鳴海はこの時、メガネを外した平井の顔を初めて見た。前髪が風に揺れて、鳴海が見たくてたまらなかった星屑を照らす。星屑だと思っていたそれは、黒曜石の輝きに似た黒目だった。前髪に隠された黒曜石を囲うまつ毛は一本一本が太く長い。瞬きがするたびに、まつ毛からまるで妖精の粉が舞いそうだ。鼻は筋は通っているのに、主張してこず、形がいい。鼻から人中、唇から顎のラインまで、綺麗に描かれている。唇は口角が上がっていて、真顔でも愛らしい印象を与える。ツヤツヤの髪の毛も清潔感があって、前髪さえ切れば、本当に……。平井はあまりにも鳴海がこちらを見て何も言わないため、不安になってきた。何か思うことがあるなら早く言ってほしい。メガネをかけたい気持ちを抑えて、鳴海の声を待つ。そして鳴海はついに口を開く。
「明日香、お前めっちゃ顔可愛いな」
…はい? 平井は聞き間違えかと思った。つい数秒前に"揶揄わないし可愛いと言わない"と宣言した男はどこへ行ったのか。
「可愛いって言わない約束だよね?!」
スチャッとメガネをかけると、もう絶対外さないとばかりにメガネから手を離さない。
「別に嫌味とかで言ってるんじゃなくて、マジで可愛いから言ってるんだけど」
鳴海は照れた顔を見せないように視線を逸らしながら言う。そんな姿を見て、平井の心はキュッとなる。しかし平井はこの胸の軋みが何かを知らなかった。
「もう絶対潤くんの前ではメガネ外さないから!」
「ごめんってば」
ドスドスと足音が聞こえそうなほど大股で歩いていく平井を、鳴海は追いかける。追いかけながらも、鳴海の頭はさっき見た本来の平井の姿が焼きついて離れない。芸能人顔負けというか、あんなに綺麗な子は鳴海も見たことがなかった。ドキドキ、ドキドキ。心臓が大きく音を立てる。
もうすぐ駅だ。鳴海は駅の前でもう一度平井に謝った。
「可愛いって言わないって約束したのに可愛いって言ってごめん。でもマジで可愛いよ、お前。」
「潤くん!」
駅前は人通りが多い。事情を知らない通行人が「喧嘩?」「青いなあ」と小声で野次を飛ばす。平井は恥ずかしくなって、取りあえず近くの液晶看板の前まで鳴海を移動させる。
「なあ、お前のメガネ外した姿、知ってるのって俺だけ?」
ジッと見る鳴海の目は、何かを試しているような、確認したいような目つきだ。ふと昼休みのことを思い出した。森蔭の言葉。鳴海の問いかけ。
「潤くんだけだよ」
元々誰かの前で外す予定はなかったのに、鳴海の一声で外してしまうなんて。鳴海は平井の返事を聞いて嬉しくなった。自分だけが知っている平井の本当の顔。他の奴らに見せたくないな。鳴海の心にどろりとした感情が生まれた瞬間だった。
「俺以外の前で外すなよ、メガネ」
「潤くんの前でも外さないから安心してよ」
「なんでだよ、俺には見せろよ」
「本当意味わかんないよ、潤くん」
平井はため息を漏らすと、また「明日ね」と改札口に向かってしまった。人混みで姿が見えなくなるまで、鳴海は平井の背中を見送っていた。
*
平井は電車に揺られながら、すっかり紺色に染まった秋の空を見ていた。静かな車内の中で、さっきの鳴海の視線と昼休みのことを思い返す。
──潤は好きな子に意地悪する典型的なタイプだよ。
森蔭の言葉がどうしても気になって仕方がなかった。好きな子って誰のことだろう。確かに鳴海は以前から、いじめるというよりイジってくる感じで、平井の反応を楽しんでいるところがあった。別にそれが嫌というわけではなく、むしろ仲良くなれた気がして嬉しかった。でも、時折見せる鳴海の言葉が意味深だと言われれば、そんな気もする。鳴海は平井に好意があるのだろうか。
──潤くんは?
──俺だけ?
あの時も、さっきも、鳴海は平井に何て言ってほしかったのだろうか。…わからない。答えが出ない時は、平井はいつも目を閉じて、電車の揺れさえ感じないくらい呼吸を整えるようにしている。
──かわいいよ。
あんなにも言われたくなかった言葉なのに、鳴海から言われると嬉しくて。胸がじんわり温かくなるその感覚は一体なんだったのか。知りたかった。鳴海が自分に向ける気持ちも、自分が鳴海に向ける思いも。