正反対の隣人A
都立桜ヶ丘高等学校は、桜並木が綺麗なことで有名だ。春になると、学校をぐるっと囲むように植えられたソメイヨシノが咲き誇り、ちょっとした観光客が訪れるほどになる。そんな桜も、夏になると綺麗な新緑に染まり、涼しさを演出する。しかし、近年の異常気象の前では、葉桜を見ても涼しくなれず、時間が経つにつれ新緑は徐々に散っていく。
夏休み明けの9月。旧暦上では秋の終わりだというのに相変わらず真夏並みの気温で、多くの生徒が気怠げに登校していた。鳴海もそのうちの一人だ。連休明けというのは、どうしてこうも身に力が入らないのか。大人になってもこうなのか。鳴海は今日何度目かわからないため息をつく。
"マジあち〜"とハンディファンを顔に当てながら声をかけてきたのは、幼馴染の森蔭耀太だ。森蔭と鳴海は幼稚園の頃からの幼馴染だ。家族ぐるみで仲が良く、昔は毎週のように土日になるとキャンプや紅葉狩りにお互いの親が連れ回していた。今は子供も大きくなり、さすがに毎週というわけではないが、それでも年に一度は顔を突き合わせてご飯を食べる仲だ。
森蔭とは今までずっと同じ学校で、何度かクラスが被ることもあった。高校は連続して同じクラスである。さっきの電車から一緒だったが、お互い一人の時間を大事にするタイプで、昔馴染みだからといって仲良しこよしを強要してこない森蔭との距離感を気に入っている。
「お前いいもん持ってるな」
「この暑さだぜ? 扇風機ないと死ぬって」
"熱波しか来ないけど"と項垂れる姿は、大型犬がしょぼくれているようで、鳴海は笑った。森蔭は笑われていることに気にせず、そんなことよりと携帯を見せてきた。そこには、転校生が来るらしいというクラスの情報通からのメッセージが映っていた。情報通が送ったメッセージをきっかけに、送信先である鳴海と森蔭のクラスラインが忙しく動く。
【男? 女?】
【分かんないけど名前は平井明日香って聞いた】
【女子じゃね?】
【名前だけ見たら女子だな】
【かわいい女子来い!】
【だから知らないってば】
【男子だったらイケメン来ちゃったりして】
【それは最高すぎ】
ピコンピコンと通知が鳴り止まない。森蔭は「転校生だって〜どんな子だろうね」と鳴海に振るが、そうだなと曖昧な返事しか返ってこない。横を向くと眉間に皺を寄せた鳴海がいて、今度は森蔭が笑う番だった。
鳴海は夏生まれのくせに暑さにめっぽう弱い。昔から暑い日は一日中部屋に引きこもってクーラーと友達になる男だ。クラス中が気になる転校生よりも、今自分を襲う猛烈な暑さの方に気がいっていて、多分森蔭の話を聞いていない。
「教室までダッシュする?」
「しない。つうかそれ貸してくれ。暑くて死にそう。」
「もう9月なのにな」
「それな〜」
ああ、本当に嫌になる。茹だるような、夏みたいな、秋だ。
*
担任の鶴見が連れてきた平井を見て、クラスの誰もが転校生に夢を見ていたことに気づいた。黒髪で黒縁メガネ。前髪は眼鏡にかかるくらいの長さで、よく目が見えない。本人も人前に立つのが苦手なのか、若干俯いている。体つきがいいと言われればそうでもないと思うし、明るそうと言われれば前髪と眼鏡のせいで暗そうに見える。
性別は男。転校生といえば美少年か美少女。そこから自分と特別な繋がりができて、というシナリオ。創作物でよくあるやつ。けれど、平井明日香という名前だけで女子だと盛り上がっていた奴らも、イケメンだったらどうしようと騒いでいた女子も、自分の夢見た転校生ではないとわかると興味が薄れていくようだった。現実とはそんなものである。
「平井明日香です。親の都合でカナダから日本に来ました。英語は、その……あっちに住んでいたので一応は喋れます。趣味はギターを弾くことです。」
よろしくお願いします。平井が頭を下げると、クラスメイトたちは控えめな拍手を送った。クラス中から向けられる視線に居たたまれなくなったのか、平井はさらに俯いた。鳴海は拍手しながら、平井のことを上から順に目でなぞり思った。
第一印象が大事だってのに、こいつ前髪切ってこなかったのか?
それが鳴海の平井への第一印象だった。男子にしては長すぎる前髪のせいで、全体の顔が見えない。まるで目を隠すように前髪を伸ばしているみたいに。そこからチラチラと見え隠れする瞳は、不安そうな色を映していた。
それに加え声も小さく、静かな子というスタンプを誰もが押した。もちろん鳴海も。
「席は鳴海の隣な」
鶴見が鳴海の左隣の席を指差す。鳴海の席は一番後ろの列で、窓際と鳴海の席に挟まれた平井の席は教室では当たりと呼ばれている。平井は軽く頭を下げると、クラス中の視線を集めながら鳴海の隣に座った。
鳴海は近づいてくる平井を見ながら、内心マジかと思っていた。どう考えても喋んないだろ、こいつ。
「鳴海よかったな〜。ついに隣人ができたぞ」
鶴見が鳴海を揶揄うように言うと、クラスからクスクスと笑い声があがった。
「そうだよ、鳴海よかったじゃん」
「ひとりは寂しいもんな〜」
他のクラスメイトからも野次があがり、鳴海は「うるせえよ」とスルーする。鳴海の前の隣人は滅多に学校に来ない不良生徒だった。四月から今日まで数えて数回、月に一回きたらいい方で、夏休み前についに自主退学。いつも空席だったその席に平井が座ることになったというわけだ。
騒ついたまま、いつもようにホームルームが始まる。鳴海は隣に座る平井を見る。あたかも気にしていないそぶりで、窓の向こうに見える残り少ない新緑を数えるフリをして。
平井は慣れない空間に居心地が悪そうだ。鳴海にも見慣れない風景で、ついじっと見てしまう。太陽の光で照らされた黒髪は艶々と光っている。黒縁メガネだと思っていたそれは、黒に近い濃い深緑で、お洒落眼鏡という感じだ。
同い年の男とは思えないほど肌が綺麗でツヤッとしている。女子みたいに色白で、髪の毛からチラリと見える右目の下に黒子がある。泣きぼくろって生で見るとちょっといいな。耳は縦耳で……と観察していると、あの、と小さな声が聞こえた。
「ごめん。そんなに見られるとちょっと……」
恥ずかしい。その時、窓から強めの風が吹いて平井の前髪を揺らした。小さな星が詰まっているような、母が気に入っているアクセサリーで見た宝石のような、柔らかい光が入り込んだような瞳が晒される。あ、と思った時には瞼に隠され、ゆらりと揺れる前髪の向こうへしまわれてしまった。
「あ、ごめん」
いつの間にかホームルームは終わっていて、鳴海はなんとなくさっき見た瞳のことを考えた。一瞬見えただけだったけど、綺麗だったな。
「鳴海ちょっといいか」
担任の鶴見の声に現実に引き戻された。
「何ですか?」
「お前、始業式終わったあとなんか用事ある?」
「ないですけど」
鳴海の返事を聞くと、鶴見は良かったと安堵した。
「申し訳ないんだけど、始業式終わったら平井に学校案内してやってくれないか?」
「え」と声に出たのは、鳴海も平井も同時だった。
「先生が案内してくれるんじゃなかったんですか?」
「ごめんな〜。先生、このあと職員会議なことすっかり忘れててさ。2時間くらい待たせるのも申し訳ないだろ?」
平井は迷子の子供のような視線を鶴見に送るも、鶴見はよかったよかったと勝手に話を進める気だ。
「今日はどこも部活もないし、ゆっくり見れる時に見ておいたほうがいいだろ? どこに何があるか軽くでも把握しといたほうがいいと思ってさ」
「頼むぞ鳴海」
鶴見は鳴海の肩を叩いて廊下に行く。確かに予定はないし、取りあえず平井がどんなやつか知るのも悪くはなかったが、あまりにも平井が不安そうで鳴海は少し考えてしまう。こいつ、前の学校でいじめられてたとかか?
「潤たち始業式! 早く廊下こいよ」
森蔭に呼ばれて席を立つ。今から始業式。1時間くらいで終わって、それから平井に学校案内する。
「平井も参加するんだよな、始業式」
「うん」
「じゃあいくか」
「うん」
今のところこいつの返事は“うん”だけだな。隣なんていつもいないようなものだったから、例え平井が静かで話さない奴だったとしても気にすることはない。結局、鳴海も隣人に夢を見ていたのだ。
*
始業式は滞りなく進み、あっという間に2回目のホームルームだ。午前中に学校が終わるということで、クラスメイトたちは浮かれている。あちこちから終わったあとの予定が聞こえてきて、鶴見が終わりを告げると、我先にと外に出ていくクラスメイトたちを鳴海は「楽しめよ」と視線で見送る。
「潤、このあとどうする? どっか行く?」
帰り支度を終えた森蔭が鳴海に声をかけてきた。鳴海は、あー今日はちょっと、と平井を横目で見る。
「このあと平井に学校案内するから」
森蔭は意外そうな顔をしたあと、へえ、とにやりと笑う。
「潤がそんなことをねえ」
「担任に頼まれたんだよ」
「それでもだよ。じゃあ案内頑張って。平井くんもまたね」
森蔭はそう言い残して颯爽と出ていった。遠くから森蔭をカラオケに誘う声が聞こえる。時刻はまだ昼前。学生が遊ぶにはうってつけだ。鳴海も暑くなる前に帰りたいので、平井を連れてさっさと案内を終わらせたい。
「ごめんね」
唐突に平井が言う。鳴海は一瞬、面食らった。今日会ったばかりの奴に何か謝られるようなことをしただろうか。考えてみれば、先ほどの森蔭との会話だけを聞くと、鳴海が嫌々案内するように聞こえなくもない。嫌々ではない。ちょっと面倒だとは思ったが、鳴海はさっきの瞳をもう一度見れないだろうかという下心もあるのだ。
「なんで謝るの?」
「学校案内とか面倒だよね。どこか行きたいところとか、早く帰りたいとか」
ごめんね、と小さな声で謝る。やはり誤解している。
「面倒じゃないよ。誰もいない学校を歩き回れるのはなんか楽しいし、本当にこのあと特に用事もないから」
普段の生活では必要な場所には行けるが、それ以外の場所には縁がない。もしかしたら卒業するまで数えるほどしか行かない場所だってある。少しの冒険というのはいくつになっても男児の心をくすぐるものだ。
「取りあえず行こうぜ」
クーラーの効いている部屋から廊下に一歩踏み出すと、むわりとくたびれた熱風が二人にぶつかる。窓が開いているとはいえ、風がない夏の日は最悪だ。
鳴海たちの通う桜ヶ丘高校は、裏門と正門がある。駅から歩いて一番近い裏門は先生や来賓が使う用で、大きめの駐車場があり、弓道場も設置されているのが特徴的だ。裏門を通り過ぎて約20メートルほどのところに正門があり、学生が使う用となっている。入ってすぐ右手に体育館があり、体育館は二階にあって校舎側に渡り廊下が続く。反対側には少し狭めのグラウンドと水泳場が見える。体育の時以外に鳴海が足を踏み入れたことはない。
正門側の一階は下駄箱で、奥は剣道部やフェンシング部が使う道場がある。さらに奥に進むと自転車置き場があり、人目につかないことから告白スポットとなっている。下駄箱の階段を登って体育館前に行き、渡り廊下を使って校舎に行く。この校舎には一年から三年まで全ての学年のクラスがあり、二階から順に学年が若くなる。なので一年の頃は四階まであがるのに毎日苦労したものだ。
一階には職質室があり、一番上の階に化学室や視聴覚室などがあるが、この辺も水泳場と同じく授業以外で利用したことはない。生徒は帰宅し、教師たちは会議中。鳴海と平井以外いない静かな学校を歩く。
鳴海の軽い説明に平井は頷いたり、興味深そうに学校を見て回る。穏やかな時間だった。特に喋らなくても、九月だというのに元気な蝉の鳴き声がBGMになってくれる。プールの後に感じる塩素の匂いと、微睡んだ空気に近いと思った。
鳴海は昨年過ごしたクラスまで来ると、平井を手招いて呼んだ。
「俺、去年この席だったの」
今は平井の席になっている昔の席に座ると、うーんと伸びをする。平井は立ったままで、座ろうとしない。見かねた鳴海は自分の前の席を指さした。おずおずと座る平井を見て鳴海は言う。
「このあと予定はないし、別に早く帰らなきゃいけない理由もない。マジで」
「うん」
「だけど、これ以上暑くなる前に帰りたいよな」
太陽の光が降り注ぐ席で窓の外を見る。鳴海はここ数年、この国の季節は夏か冬の二択と言っても過言じゃないと本気で思っている。春と秋は来たと思ってもすぐに消えさる。お気持ち程度に添えられた生クリームのように。
「暑いの嫌いなの?」
初めて聞く平井の声は、縁側の風鈴を思い出す凛とした綺麗な音だった。そして、「うん」。以外の初めての言葉。なんだ、普通に会話できるじゃん。
「そう。夏生まれのくせに暑いの本当嫌い」
「俺は冬生まれだけど寒いのがダメ」
「誕生日いつ?」
「12月」
「めっちゃ冬だな」
「いつなの?」
「7月」
「めっちゃ夏だね」
夏生まれ夏嫌いの鳴海と、冬生まれ冬嫌いの平井。正反対の二人の会話を、蝉たちだけが聴いている。
*
すっかり話し込んでしまっている二人を見つけたのは、今日の鍵閉め当番である鶴見だった。時刻は14時。太陽の位置を真ん中としたとき、右に30度ずれた時間で、外の気温は最も熱い時間といえるだろう。
「お前らまだいたのか」
「先生、もう会議終わったんですか?」
「終わったも何も、帰る時間だよ」
「ほら、帰った帰った」教室から出るように促されて、二人は駆け足で扉に向かう。
「それにしても、お前たち仲良くなれたみたいでよかった」
やっぱり鳴海に案内をお願いして正解だったな。鶴見は嬉しそうに笑い、教室を施錠するとさっさと職員室に戻ってしまった。
「もう14時とか、時間経つの早いな」
「そうだね。今が一番熱い時間なのに、外出たくないなあ」
「俺もそれには完全同意」
二人は歩きながら自分たちのクラスに向かう。鳴海は今からの帰宅を考えてげんなりした。わざわざ夏の真昼間に外に出るなんて。しかし考えても家には帰れないし、これ以上残っていても鶴見に追い出されるだけだ。
「お前、どうやって帰んの?」
「電車だよ」
「俺も電車。一緒に帰ろうぜ」
「うん」
学校から駅まで歩いて、徒歩10分ほど。近くも遠くもない距離を二人は並んで歩く。車道側を歩く鳴海を、平井は見逃さなかった。
途中、暑過ぎてコンビニに寄りアイスを買った。鳴海はスイカ味のアイスで、平井は丸いアイスがいくつか入ったものを選んだ。
「熱い日に食べるアイスって美味いよな」
シャクシャクと齧りながら鳴海が言う。外に一歩出た瞬間からアイスは溶け始め、あと数分もしないうちにポタポタと地面に落ちるだろう。
「格別だよね」
「何個でも食える気がする」
アイスを食べる口から冷気があがる。ゆらゆらと吐き出されたそれは漂う熱風にぶつかり、消える。
「案内ありがと、潤くん」
星屑の詰まった瞳が鳴海の視線と合わさった瞬間、バチっと音が聞こえた気がして、瞬きするのを忘れそうになる。自分だけに真っ直ぐ向けられる瞳はやっぱり綺麗だと思った。
「今日、初めてお前と目があった」
平井は驚いた顔を隠さず、少し考えて本当に?とでもいうように首を傾げた。
「マジだ。あと初めて名前も呼ばれた」
潤くん。平井は確かにそう呼んだ。
「潤くんかあ。小学生の時に女子に呼ばれた以来に呼ばれたな」
「ごめん」と平井が謝る。次は鳴海が首を傾げる番だった。
「だからなんで謝るのって」
「急に名前呼びって馴れ馴れしいんじゃないかって今になって思って」
「同い年のクラスメイト相手に、初対面だからって馴れ馴れしいとかある?いや、あるのか?」
「コミュ力おばけめ」
平井からするとザ・コミュニケーションモンスターである鳴海は、良い意味で深く考えて人と話したり関わったりしない。そのため初対面の相手ともそれなりの距離感で話すことが得意だ。しかし平井は相手との距離感を何度も確かめて詰めるタイプ。この点においても二人は正反対なのだ。
「潤くんか」
「ダメだった?」
「ダメじゃない、全然好きにすればいい」
そう言おうとすると、腹の底から湧き立つ愉快さが抑えきれず、とうとう声を上げて笑い出した。高校生の男が同じ年齢、性別のやつに向かって“くん付け”って。
「は〜笑った笑った」
平井は怪訝そうに鳴海を見つめている。いかにも自分の発言のどこがそんなに面白いのかといった感じだ。
「いいよ、くん付けね。なんかお前はくん付けっぽいもん」
「何だよそれ」
む、とむくれる顔をする平井を見て、鳴海は少しドキリとした。コイツこんな顔もできるのか。
「俺は明日香って呼んでいい?それか明日香くん?」
「明日香って呼んで」
ふいっと顔を背けて足早に歩き出す平井を追いかける。
「拗ねんなよ、明日香。ごめんな」
「別に拗ねてない」
「拗ねてるだろ」
駅まであと少し。明日香、と呼ぶ鳴海の声は楽しげでありながら優しく、あと少しで隣人からの許しが得られそうだ。明日は何を話そう。鳴海の頭はそんなことでいっぱいになっていた。