未必の山(2)
堀井文彦が武蔵国分寺病院に到着したのは、夕方の五時を過ぎていた。
堀井文彦三十三歳独身。オーシャン製薬東京支店西東京営業所に所属のMR(医薬情報担当者)として、武蔵国分寺病院を含めて近郊エリアの病医院を担当して三年になる。
水原から副作用の連絡を聞いた瞬間から、堀井は猛暑日にも拘わらず暑さを感じなくなっていた。MR在職中に副作用での死亡例を経験することは極めて稀であり、製薬業界に入って十年になる堀井にとっても、重篤な副作用それも死亡例を目の当たりにするのは初めてだった。担当MRとしてどう対応すべきなのか、緊張感で暑さも感じず、周りの景色も目に入らなくなるのは当然だった。
この病院のMRの訪問規則は、薬剤情報の窓口である薬剤部の訪問に関しての制限は無かったが、医師との面会は月に二回、事前に面会の約束が取れている場合に限られていた。面会場所は外来のみとされていたが、今日は三階の外科病棟に来るように指示されていた。その特別な場所での面会という事も、堀井を緊張させる一因にもなっていた。
エレベーターを三階で降りると、目の前がナースセンターだった。
水原の所在を確認しようとセンター内に目をやると、堀井に気がついた水原が椅子から立ち上がり、手招きして中に入るよう合図をした。
ナースセンターの奥には、看護師の休憩所があり、堀井はそこに通された。
水原に少し遅れて内村理沙が、テーブルを挟んで堀井の向かい側、水原の横に座った。
「電話で話した通りで、オーシャン製薬の制吐剤による副作用の可能性の有る死亡例が、今日発生してしまったんですが、堀井さんに確認したいことは、死亡例は過去にあったのかなんですが、いかがですか」
「本社の医薬情報本部に、直ぐに一報入れまして確認してもらいましたが、発売以来七年になる製剤ですが、死亡例は出ていませんでした。重篤な副作用は血圧低下が数例で、大半は血管痛の副作用のようです。今回の症例はどのような患者さんで、どのようなタイミングでご使用になられたのか教えていただけませんか」
堀井はカバンから副作用報告書と書かれた用紙を取り出した。
「第一報は電話で本社に入れましたが、死亡例については詳しい報告を出来るだけ早く求められていて、二十四時間以内に厚労省への報告が義務付けられています。ご協力を宜しくお願いします」
水原には、堀井が緊張で口が渇き、うまく口が回っていないように思えた。
「先生、すみません。ペットボトルの水を飲ませていただきます」と断って堀井はカバンから水の入ったペットボトルを取り出し、飲んだ。
それを見た水原は小さく笑った。
「堀井さん、そんなに緊張しなくて良いですよ。山に一緒に行った仲間と話しているんですから、もっとリラックスして話してください。ねえ内村さん」
水原から声がかかった内村理沙もほんの少し頷いた。
山に行った仲間とは、五月のゴールデンウイークの後、甲武信ヶ岳から奥秩父主脈縦走路を日本三峠の一つの雁坂峠へ歩いた山行を、水原、内村らとともに堀井も含めた六人パーティーで、一泊二日で行った事を言っていた。
「内村さんから、詳細を堀井さんに説明してあげてくれますか」
水原はそう言うと、テーブルにあるカルテを開いて内村理沙に渡した。内村理沙は、堀井には岩松兼男の名前をIKというイニシャルで伝え、午前十一時からの点滴の薬剤の内容の他、患者の血圧等のバイタルサインを説明し、抗がん剤の投与終了間際の制吐剤の投与、そしてその後の容態急変を発見した時刻から死亡の確認までを丁寧に説明した。
「ありがとうございます」と言って、堀井は報告書から顔を上げた。
「先生の印象としては、抗がん剤というよりは、制吐剤の副作用と考えておられるということですか」
堀井は水原に顔を向けた。
「抗がん剤は先週も使っていますし、しかも今回は量も減らして処方しているんで、副作用は考え難いんですよ。そう考えると、堀井さんの会社の制吐剤の副作用ではないか、となるんですが、本当にこの薬の副作用だけの結果なのか、私には確信はありません。この制吐剤は今までにかなりたくさんの患者に使っていて、こんなに厳しい副作用は出たことが無かったですからね…。そうだ内村さん、容態急変後の患者の血液の結果はもう出たのかな」
水原は、正面に座る堀井から、横に座っている内村理沙に顔を向けた。
「いえ、まだ出ていません。明日になると思います」
「それで何か分かれば良いんだけど、難しいだろうね。そういう状況なので、警察には薬の副作用と思われる異状死として届け出る他なかったので、それは承知しておいてください」
「警察ですか……」
警察という水原の言葉を聞いた堀井は、不安げな表情を浮かべた。
「この後、国分寺警察署から確認に来ることになっているんです」と水原は壁に掛かっている時計に目をやった。
「先生、内村さんお疲れの所ありがとうございました」
堀井は礼を言って頭を下げた。
営業所に戻った堀井は、本社の医薬情報本部に、作成した副作用報告書を発信した後、所長の鈴木と改めて今後の対応を相談した。
「因果関係が否定できない以上、厚労省への報告は当然としても、死亡例に本社としてどう対応していくのか。我々としては指示を待つしかないだろう」
堀井の帰所を待っていた所長の鈴木が、暗い面持ちで口を開いた。
「因果関係有りとなったら、患者さんへのお詫びとか、補償とかすることになるんですか」
「……国が認可した薬とは言え、全て国任せにして良いのかという事だな。患者には医薬品副作用被害救済制度が適用されるだろうけど、製造販売している企業としての道義的責任はどうなんだ、ということになると難しいことになるかも知れないな。本社がどう判断して、どう対応するのか、だな」
「……僕はどうしたら良いんでしょう」
その時、堀井のスマホが鳴った。本社の医薬情報本部からだった。
「市販後情報部長の竜野です。堀井さんから送られた報告書は受け取りました。今後のこの症例の対応は、本社が対応しますので、堀井さんには病院との連絡役をお願いすることになりますので宜しくお願いします。ついては週明けの早い時期に担当医の水原先生に面会したいのでアポイントを取ってください」
電話を切った堀井は、本社からの連絡に安心はしたものの、今後の本社の対応によっては、病院を担当するMRとして辛いことにならないか、という不安は拭えなかった。