未必の山 第二話 未必の山(1)
医療法人源会武蔵国分寺病院は、東京都の郊外多摩地区と呼ばれる一角、国分寺市の北部、玉川上水近くに位置し、ベッド数160床で消化器疾患の治療を中心に、療養病棟も併せ持つ6階建ての病院だった。
その武蔵国分寺病院で六月の下旬、外科医長の水原の執刀で、十時間に及ぶ胆道癌の手術を終えた岩松兼男は、術後暫くしてICUを出てVIP用の個室に移った。そして、手術後の補助療法として抗がん剤による薬物療法が始まった。
外科病棟の看護師長の内村理沙は、VIP用の個室に担当看護師の松宮加奈とともに入室した。
静かに眠っている岩松兼男の横で、妻の久仁子が旅行雑誌だろうか、目を落としていた。
「師長の内村です。奥様も水原先生からお聞きになっているかと思いますが、GSC療法という抗がん剤による治療が始まりました。抗がん剤とお聞きになって不安に思うかも知れませんが、手術は成功していますから安心して下さい。GSC療法はあくまでも補助療法ですので、1クールの治療を済ませたら退院出来る予定ですから頑張って下さい」
内村理沙は、眠っている岩松兼男を起こさないように、声を落として久仁子に話した。
「水原先生からお話しは聞いています。どうか宜しくお願いします」と久仁子は深々と頭を下げた。
「それから看護師さん、先生にもお話ししたのですが、一回目のその点滴治療の後、主人は吐き気が酷くて辛かったそうなんです。続けられるんでしょうか」
久仁子は不安そうに聞いた。
「水原先生にお話しされているのでしたら、次の治療の時には対応していただけると思いますから安心して下さい。私からも先生にはお話ししておきますから」
「宜しくお願いします」
「ところで岩松さんは、うちの理事長とお知り合いのようですが……」
「ええ、麻倉さんとは小学校、中学校の同級生で幼馴染みだそうで、こんな立派な個室に入院させていただいて……」
「水原先生から、岩松さんは理事長の知り合いの患者さんだと聞かされてはいたんですが、そういう事だったんですね。立ち入った事をお聞きして申し訳ありませんでした。特別な事は出来ませんが、私たちもしっかり看護させていただきます」
内村理沙はそう言うと個室を出てナースセンターへ戻った。
今日の予定手術を終えた水原は、院内のレストランで遅い昼食を食べ終わり、夕方の回診に備え外科病棟のナースセンターで、入院カルテの確認を始めた。今は、大病院を中心に外来も、入院も電子カルテが導入されている病院も多いが、この武蔵国分寺病院は、外来は電子カルテの導入がされたが、入院カルテは未だ紙ベースだった。
水原悟三十六歳、独身。杏雲医科大学を卒業後、附属病院に勤務していたが、手術の応援で武蔵国分寺病院に何度か出向く中、理事長の麻倉から是非にとの声がかかり、武蔵国分寺病院の外科医長として招かれた。
ナースセンターへ戻った内村理沙は、カルテを確認している水原を見ると、「あ、先生」と声を掛けた。
「先生、今岩松さんの奥様からお話を聞きましたが、抗がん剤の副作用で辛かったようですね。次回はどうしますか。三日後ですけど」
内村理沙の声に、水原はカルテから顔を上げた。
「師長自ら出向いていただいたんですね」
「先生、その師長と言う言い方は止めて下さい。前から言っているじゃないですか。先生が理事長の知り合いだって言うから挨拶ぐらいは、と思って行ったんですけど。それより抗がん剤はどうしますか先生」
内村理沙の口を尖らせた話し振りに、水原はニコニコしながらカルテを取り出した。
「抗がん剤の量を減らして、それに加えて制吐剤を使おうかと思う。カルテに指示を書いて置くから準備をお願いします」
水原はカルテを内村理沙に渡した。
梅雨が明けたかと思うほど猛暑の晴天が続いていた。
岩松兼男の二回目の抗がん剤治療の、点滴所要時間の三時間が終わろうとした頃、VIP用個室から看護師の松宮加奈がナースセンターに駆け込んだ。
「内村さん、大変です。岩松さんの容態が急変しました。直ぐ来てください」
看護師のひどく慌てた様子は、内村理沙のみならず、ナースセンターにいる全ての職員に事の異常さを伝え、緊張感を一瞬でナースセンターに充満させた。
「内視鏡室の水原先生に至急連絡して」
内村理沙は横に居た看護師にそう指示すると、岩松の個室に急いだ。
岩松兼男七十二歳は、七月一日金曜日午後二時二十五分死亡が確認された。
病院に駆け付けた妻の久仁子が兼男と対面したのは、夫の兼男の死亡が確認されてから一時間近く経った頃だった。
「信じられません。昨日まで元気だった主人が、何故急にこんな事になるんですか。何があったんですか」
久仁子は兼男の横たわるベッドの傍らで、声を震わせた。
「私たちも何が起こったのか驚いています。急変した後、手を尽くしましたが残念です。今考えられる事は、薬の副作用ではないか、ということですが、はっきりした事は言えません」
水原は言葉を選びながらゆっくりと話した。
「……癌のお薬の所為なんですか」
「分かりません」
「癌のお薬の所為なら、先生にも看護師さんにもお話ししました。主人は吐き気が酷くて辛いと言っていたと……。なんでこんな事に……」
「………申し訳ありません」
「もう直ぐ息子が来ます。息子と一緒にお話しを聞かせて下さい」
目を真っ赤にした久仁子は、水原を睨みつけるように見て言った。
六階の理事長室には、理事長の麻倉源一の他、病院長の植草と担当医の水原、内村理沙そして担当看護師の松宮加奈の計五人が応接用のテーブルを囲んでソファに座っていた。
内村理沙と担当看護師の松宮加奈は、岩松兼男への抗がん剤の投与準備から開始、そして容態急変までを説明した。午前十時三十分過ぎから抗がん剤療法のGSC療法の準備を始め、注射剤のGとCを用意、1Lの点滴バッグに水原の指示通り前回の80%の量の薬剤を注入し、十一時から投与開始。開始後三十分は松宮加奈と内村理沙が交代でベッドサイドに付いた。異常がない事を確認後は、松宮加奈が十分から十五分間隔で入室して容態の変化の有無を確認していた。そして終了二十分前に制吐剤を2バイアル、バッグ内に注入した。制吐剤はセロトニン受容体拮抗薬に分類される薬剤だと説明した。制吐剤注入後ナースセンターに松宮加奈が一旦戻り、十分程してベッドサイドに確認に戻った時に、岩松兼男の異変に気付き、ナースセンターへ駆け込み内村理沙に連絡した。以上が二人からの説明だった。
「抗がん剤の投与は、今日が初めてだったのですか」
理事長の麻倉が、最初に質問した。
「いえ、今日が二回目でした」内村理沙が答えた。
「抗がん剤の副作用は考えられないと思いますが……」水原が続けて言った。
「手術そのものの影響はどう考えますか、水原先生」
「オペは三週間前に、理事長もご存知の杏雲医大の五島先生の応援で、ラパロ(腹腔鏡下切除術)でスタートして、開腹へのコンバートで十時間以上かかりましたが、うまくいったと思っています。補助療法としてGSC療法を選びました。感染も起こしていませんし、オペそのものの影響は考えられないと思いますが……」
「そうですか。……残る可能性は制吐剤ですが、制吐剤も前回使っているのですか」
「いえ、今日初めてです。抗がん剤の投与終了に合わせて入れることにしました。奥様から前回の治療の後の吐き気が酷くて辛い、というご主人の訴えを聞いていましたので今回から処方に入れることにしました」
「理事長、これは制吐剤の副作用と考えるのが妥当ではありませんか」
院長の植草が初めて口を開いた。
「……その可能性はありますね。制吐剤のメーカーさんはどこですか」
「確かオーシャン製薬だったと思いますが、制吐剤を使うのは、岩松さんは初めてですが、これまで多くの患者に使っていて副作用らしき経験はしていないのですが……」
水原はそう言って内村理沙の方に顔を向けた。
「血管痛を訴える患者さんは何人かいましたが、血圧が低下したり、ショック症状になったりした患者さんは見たことがありません」
内村理沙は硬い表情で答えた。
「水原先生、オーシャン製薬を呼ぶべきでしょう。私は、これは制吐剤の副作用だと思いますよ」
植草は白いフレームの眼鏡を外して眉間に皺を寄せた。
「分かりました。メーカーに副作用の可能性有りとして報告します。それと警察への届け出も必要かと思います。私から管轄の警察に届出しますか、それとも院長からしますか?」
水原は理事長の麻倉に話した後、植草に顔を向けた。
「副作用によるステルベン(死亡)なんだから、警察への届け出は要らないんじゃないですか」
「いや院長、その可能性があるというだけで、はっきりと死因が決まったとは言えない以上、異状死として届け出ておかないと医師法違反に問われますよ。届け出ておくべきだと思いますが……」
「そうですね。届け出ておくべきでしょう。水原先生から警察に連絡しておいていただけますか。この地域の管轄は国分寺警察署ですから、お願いします」
麻倉の指示に、水原は「分かりました」と応じた。水原と対面している植草の表情は、不満そうに水原には見えた。院長の立場としては、警察が病院に入る事が嫌なのだろうと水原は想像した。
「理事長、この後岩松さんのご家族に説明しますが、私一人でお会いするということで宜しいですか」
「……私の幼馴染みのご家族だからね。ここにお連れしてくれないか。私も同席しますよ」
水原は再度「分かりました」と応じた。
岩松久仁子と息子の義男は、理事長室で水原から、夫であり父である岩松兼男の現時点で推測される死因について、今朝の点滴スケジュールを基にしての説明を受けた。そして、理事長であり兼男の幼馴染みでもある麻倉からは、自分の病院でこんな事になってしまった事を深く詫びる言葉とともに、死に至った責任の所在に拘らず、病院として出来るだけの事をしたいと伝えられた。
「麻倉さんのお気持ちは、良く分かりましたが、主人が急死したしたことがまだ実感できずにいます。手術も全て順調でしたのに……」久仁子は声を詰まらせた。
「先生方は、こうして頭を下げてくれていますが、その吐き気を止める薬の会社からの謝罪はないのですか」
息子の義男は充血した目で二人を睨みつけるようにして言った。
「現時点では、薬の副作用が原因なのかどうか断定は出来ません。その可能性があるということなのでご承知ください。メーカーにはこれから話をすることになります」
「……そうですか。……メーカーは責任を認めるのでしょうか」
「薬というのは、効果というプラスの面と、副作用のマイナスという面が付いて回りますから、責任という言葉を使うのが適切かどうか分かりませんが、因果関係が否定出来ないとなれば、行政つまり国とともに何らかの対応をしてくれると思います」
「分かりました。それでしたら原因がはっきりしたら、私たちに連絡してもらえるということで連絡を待っています」
義男は横に座る母の久仁子を促した。久仁子は二人に小さく頭を下げて、理事長室を出た。
麻倉と水原は深々と頭を下げた。