スパイト(終)
内村理沙との面会を終えて店を出た空木の胸に、ある疑念が生じていた。それは高野鮎美への疑念だった。
高野鮎美は甲武信ヶ岳の山行で、友人の内村理沙が眠剤の持ち越し作用で転倒した現場に、直接関わったことで薬の作用を目の当たりにした。そしてそれと同じことを鳳凰山の山行で、池永由加に実行することを思いついたのではないか。しかし、それを思いつき実行出来る立場に居たとしても、何の為に高野鮎美は池永由加に眠剤を飲ませたのか、そんな恨みを抱いていたのだろうか。それに薬を飲ませたところで必ず由加が転倒するとは限らない。仮に転倒したとしても内村理沙と同様の軽傷で済む可能性が高いだろう。何の為に飲ませたのか分からないが、池永由加が薬物の作用の影響で転倒した可能性が否定できない以上、薬を飲んだのかどうかの事実確認をすべきだと空木は考えた。
その日の夜、空木は平寿司の暖簾をくぐった。国分寺東高校の同級生の石山田巌と会う約束をしていた。
石山田巌、四十四歳、妻と中学生の娘一人の三人家族で、国分寺警察署刑事課係長という現職の刑事だった。空木とは高校時代からお互いを「空木」「巌」と呼び合う仲で、探偵業に就いた空木には心強い相談相手だった。
「巌、もう来ていたのか、早かったな」
空木はそう言うとカウンター席に座っている石山田の隣に座った。
「大きなヤマは無いからね。空木のお誘いに待たせちゃ悪いでしょう。ご馳走になる訳だし」
石山田はビールを空木のグラスに注いだ。
「ところで聞きたい事って何?」
空木はビールを飲み干し、いつもの通り鉄火巻きと烏賊刺しを注文した。
「(未必の故意)という事についてなんだけどね。他人にある事をした時に、こんな事をしたら怪我をするかも知れないけど、それでも良いと思ってする行為だよな」
「まあ、そんなところだな。それで怪我をしたら未必の故意による過失傷害だし、もし死んだら過失致死で立派な犯罪だよ」
「殺人にはならない?」
「さあ、俺は法律家じゃないから分からないけど、はっきりとした殺意を持っていたのか、まさか死ぬとは思っていなかった、という故意なのかの区別は難しいようだから、その行為をした本人の意思を裏付ける証拠が無い限り、殺人罪で起訴するのは無理なんじゃないか。しかしなんで(未必の故意)のことなんか聞くんだ」
石山田はビールが空になると、空木様と書かれた芋焼酎のボトルで水割りを作り始め、ちらし寿司を注文した。ちらし寿司のネタを肴にするようだった。
「……登山中に睡眠薬を飲んだらどうなるか、巌には想像できるかい」
「登山の途中で飲んだら危ないだろう。山で眠くなったりしたら場所によっては大怪我すするか、死ぬ事もあるんじゃないのか。…それを承知で他人に飲ませたら、未必の故意という事になる」
「………」
「空木、お前面倒な仕事を引き受けたみたいだな」
空木は石山田の「面倒な仕事」という言葉を聞いて、確かに池永由加が睡眠導入剤を服用していたとしたら面倒な仕事になることは間違いないと思った。由加が自ら服用したのか、そうでないのか。そうでないとしたら、誰が何の為に飲ませたのか。転落事故から三週間近く経過してそれを確かめる方法は、当事者の証言しかない。つまり高野鮎美と望月愛に確認する術しかないと空木は思った。
面会の依頼をした望月愛の家族からの連絡がないまま、空木は内村理沙と面会した翌日の夕方、吉祥寺南町の高野鮎美の働くスナックに鮎美を訪ねた。時刻は夕方五時半を回ったところで、夏至の時期のこの時間の空は、雨模様ではあったが空は明るかった。
店内にはまだ客はおらず、ママと高野鮎美が手持無沙汰な様子で話をしていた。
ママの「いらっしゃいませ」の声の後に「あ、空木さん。どうしたんですか」と高野鮎美が驚いたように声を出した。それと同時に立ち上がったママは「ああ、探偵さんか」とがっかりしたように呟いた。
空木はママの許可をもらい、ボックス席に鮎美と向かい合った。
「昨日、紹介してもらった内村さんの話を聞いて、改めて高野さんに聞きたい事が出来たんです」
「内村さんの話を聞いてですか?…それって由加の事と関係する事なんですか」
「私は由加さんも、内村さんと同様に睡眠導入剤を飲んでいたんじゃないかと推測したんです。その薬の持ち越し作用で転落してしまったんじゃないかという推測で内村さんと面会したんですが、その思いがより強くなったんです」
「由加が薬を飲んでいた……。私は全く気付きませんでしたけど」
「望月愛さんにもそこは確認したいところですが、由加さんが前夜に薬を飲んでいないとなったら、残された確認はあと一つです」
「残された確認?」
「残された確認は、由加さんが誰かに薬を飲まされていないか、ということです」
「……誰かに飲まされた?ですか」
「そうです。それも由加さん本人は、それと気付かないうちに飲んでしまったのではないかということです」
空木はそう言うと、高野鮎美の顔の変化、目の動きを注意深く追った。
空木の視線を感じたのか、鮎美は驚いたように「私はそんなことしていません」と声を上げた。
鮎美の声を聞いたママが、カウンター席から振り向いて、「どうかしたの」と訊いた。
鮎美は慌てたように「あ、何でもないんです」と掌を顔の前で左右に振った。
「由加にそんな薬を飲ませることが出来る人間って、私と愛しかいないじゃないですか。私も愛もそんなことする筈ありません。する理由もありません」
鮎美の言葉には、怒気が入り混じっていた。
「泊まられた小屋には、三人以外には誰も泊まっていませんでしたか」
「五島さんという由加の彼氏からも同じことを訊かれましたけど、六十代ぐらいのご夫婦だと思いますが、その二人が泊まっていました」
「由加さんの彼氏……。五島さんも同じことを訊いてきた……。それでそのご夫婦らしき二人とは一緒に食事とか摂ったんですか」
「夕食は一緒の時間に摂りましたけど、朝食は、私たちはおにぎりを作ってもらいましたから一緒にはならなかったです。私たちが六時過ぎに出発する頃に二人は食事を始める感じでした」
空木は頷きながらメモの手帳を捲った。そして「フー」とため息を吐くと「高野さん、ビールをいただけますか」
「え、飲むんですか?空木さん気を遣わなくて良いですよ」
「いえ、時間も時間ですし、飲みたくなりました。ください」
鮎美は微笑みながら立ち上がって、カウンターの中に入って行き、冷えたビールとグラス、そしてつまみを持って戻って来た。
空木は、鮎美が注いでくれたビールを一気に飲み干し、「プハー」と息を吐いた。ママと鮎美は、息を吐いた空木を見て笑った。ビールの泡が空木の上唇にベッタリ付いていた。
「高野さん、事故の起こった日のことですが、小屋を出発して薬師岳頂上までは雨もまだ降っていなくて、順調だったんですよね。それで、薬師岳の山頂で朝食のおにぎりを食べて、コーヒーを飲んでいる辺りで雨が降り始めてきた」
手帳を見ながら確認するように話す空木に、鮎美は頷いた。
「薬師岳から観音岳への道で、ふらつく由加さんを後ろから見たと仰っていましたが、それは薬師岳を出発してからどの位の時間が経っていたか憶えていますか」
空木は手帳から目を上げて鮎美に訊いた。
「……三十分くらい経ってからだったと思います」
「三人の食べたおにぎりは、小屋で作ってくれたおにぎりといっていましたが、三人とも中身は一緒でしたか」
「確認した訳ではないですが、一緒だったと思います。別々の物を作るなんて考えられないですよ」
「そうですよね。コーヒーは望月さんが淹れたと聞きましたが、インスタントのコーヒーか何かですか」
「一人用のドリップコーヒー三つで、それぞれ紙コップに淹れてくれたんです。お砂糖とミルクは良くある細い包みで渡してくれて、三人で飲みましたから三人一緒でした」
「お湯はコンロで沸かしたんですか」
「いえ、愛が持って来た保温ポットに山小屋でお湯を入れてもらったんです」
「なるほど。ところで高野さんは、望月さんが東京に転院されて来てから会いましたか。私はご家族に面会を頼んでいるんですが、連絡がないのでまだ面会が出来ないんです」
「私は一度だけですけど見舞いに行きました。もうリハビリも始める頃じゃないでしょうか。いつでも面会出来る筈なのに、ご家族がうっかりしているのかも知れませんよ。私が直接連絡してあげましょうか」
「……望月さんのご家族には申し訳ないと思いますが、高野さんにお願いして早く面会出来るならお願いしたいです。宜しくお願いします」
空木は残ったビールを空け、ママに礼を言って店を出た。雨模様の空は、やっと暗くなろうとしていた。
空木の推測通り、由加が睡眠導入剤らしき薬物を飲まされたとしたら、それが出来る人間は、鮎美の言う通り鮎美か望月愛のどちらかの可能性が高い。その一人の鮎美が否定しているということは、残るは望月愛しかいない。
睡眠導入剤の持ち越し作用から来るふらつきを、甲武信ヶ岳での経験から知った鮎美に対して、病院薬剤師の望月愛は、薬学知識上この作用を知っていても不思議ではない。由加とともに転落して大怪我をした愛は、ある意味の被害者だったことが空木の目を彼女に向けさせなかった。しかも、由加に薬物を飲ませるチャンスがあったのは、薬師岳の頂上でコーヒーを淹れた時だ。高野鮎美は、由加は薬師岳頂上を出発してから三十分位でふらつき始めたと言っていた。睡眠導入剤の中でも、超短時間作用型なら作用が発現する時間と符合する。病院薬剤師ならその知識は持っている筈だ。どの様にしてコーヒーに混入させたのかは分からないが、由加に睡眠導入剤を飲ませるとしたらそこしかない。しかし、親友の由加にそんな事をするのだろうか。山で睡眠導入剤を飲んだらどうなるか、怪我どころか命に係わること位想像はつく筈だ。現に由加は急坂の岩場で転落死してしまった。まさか死ぬとは思っていなかったにしても、標高の高い山で睡眠導入剤を飲むリスクは認識していただろう。
空木はその時、高野鮎美とすれ違い、救助協力してくれた片倉康志の話を思い出し、手帳を開いた。救助を待つ間、望月愛は、骨折の痛みに耐えながら、何度も「由加ごめんね」と謝っていたと片倉は語った。その言葉を空木は、自分の横を転落する由加を止められなかったことを悔やんでの言葉だと思っていたが、それはそうではなく、薬物をコーヒーに淹れて飲ませたことを悔いての言葉だったのではなかったかと。
望月愛に面会したいが、会えるのだろうかと思いながら、ハケと云われる国分寺崖線の坂道を上がっていく空木だったが、もう一つの気になる事を考えていた。それは高野鮎美に五島育夫が連絡して訊いてきた事だった。五島は何を思って、何の為に鮎美に小屋の宿泊者を訊いてきたのだろうか。
自宅兼事務所に帰ると、空木のスマホが鳴った。望月愛の母親からの電話だった。
面会出来ると思った空木だったが、母親からの電話は思いがけず、会えないという断りの電話だった。その理由は、親友の死にショックを受けているので、その件では会いたくないという理由だった。空木は由加の家族の想いも汲んで欲しいと電話口で話したが、母親は申し訳ないと繰り返すだけだった。電話を切った空木は、高野鮎美からの連絡に微かな期待を持って待つしかなかった。
翌日も雨模様の天気だった。トレーニングジムで汗を流した空木は、インストラクターの池永雄造に、あくまでも空木自身の想像で証拠も何も無いが、由加さんはもしかしたら睡眠導入剤を飲んだことで、ふらつき転落してしまった可能性がある。しかし、事故から三週間経過してその確証を得るのは難しいと説明した。
空木の話を聞いた雄造は「そうですか…」と俯いた。
「空木さんの調査の結論が出るまでは、由加のザックはあの時のまま置いておこうと思って触らずにビニール袋に入れてあるんですが、そろそろ処分することにします」
雄造の言葉に、空木は耳を疑った。
「え、処分せずにそのまま置いてあるんですか。本当ですか」
まさか、由加が転落した時のザックが、そのまま保管されているとは思いもよらなかった。そこに睡眠導入剤を飲んだという証があるとは思えなかったが、そのザックを、その中身を見ておきたいと空木は思った。
「濡れたザックをそのままビニール袋に入れて妹の部屋に置いてありますが…」
「差し支えなかったら、処分される前に一度見せていただけませんか」
「分かりました。明日にでもジムに持ってきますから、見ていただいて結構ですよ」と雄造は快く応じた。
翌日の午前中、空木はトレーニングジムをトレーニングではなく、池永由加の残したザックの中を見る為に訪れた。ジムの片隅で空木は大きなビニール袋からピンク色のザックを取り出し、中身を一つ一つ床に並べた。着替え、コンロ、コッヘル、水タンク、ゴミを入れたビニール袋と、何ら特別な物は無かったが、これを背負って由加は歩いていたのだと思うと、同じ登山の趣味を持つ人間として切ない思いが込み上げてきた。
取り出した物をザックに戻そうとゴミ袋を持った空木は、その袋の中に紙コップらしき物を見た。縛られているそのビニール袋を開けると、それはまさしく紙コップだった。空木はその紙コップの底に茶色いしみが色濃く残っているのを見て、体に電気が走るような感覚を覚えた。
「コーヒーだ」空木は呟いた。
由加が薬師岳の山頂で飲んだ、望月愛が淹れてくれたコーヒーを飲んだ紙コップに違いないと空木は確信した。空木はその紙コップ、ゴミ袋、ザックを並べてスマホの写真のシャッターを押した。
ザックに全てを戻した空木は、ザックを雄造に返して言った。
「池永さん、このザックですが、もうしばらくこのまま残しておいていただけませんか」
予想していなかった空木の言葉に雄造は、「ん?」という顔をした。
「何か気になる事でもあるんですか」
「何とも言えないんですが、私から連絡があるまでもう暫くだけ残しておいてください」
空木は自分の推理を雄造に話す事はしなかった。
自宅兼事務所に戻った空木は、高野鮎美に自ら連絡を入れる事にした。それは何としても望月愛に面会しなくてはならないという思いからだった。
「スマホのメールで愛と連絡を取っているんですけど、今は会えないって言うんです。何か変なんです」
「変と言うと?」
「三日前まではそんな感じじゃなかったのに、昨日は会えないって言うなんて……」
愛に何があったのか分からないが、空木は何としても愛に面会しなければならない。
「……高野さん、どうしても望月さんに会いたいのですが、入院している病室を教えていただけませんか」
「え、空木さん愛に連絡なしで直接行くんですか。それは……」
「どうしても会って確かめたい事が出来たんです。教えていただけないのでしたら、病院に直接行って調べることも出来ますが、高野さんにも同席して欲しいと思っているんです」
「私も一緒ですか……空木さんがそこまで言うんでしたら、分かりました。明日の午後の面会時間に一緒に行きましょう」
空木の勢いに押されたのか高野鮎美は同意した。
高野鮎美との電話を切った直後、今度は空木のスマホが鳴った。発信者番号非通知と表示されていた。空木の認識では、非通知と表示される発信元は、多くは官庁、企業本社部門、公衆電話だ。探偵業を始める前までは、非通知表示のコールには一切出ないと決めていた空木だったが、今は職業柄そういう訳にもいかず全て応じるようにしている。
「スカイツリー万相談探偵事務所所長の空木健介さんですか。こちらは山梨県警南アルプス警察署刑事課の名取と申します。お尋ねしたい事があって電話させていただきました」
「……南アルプス署の刑事課ですか。私に何を……」
空木は南アルプス警察署の地域課ではなく刑事課と聞いて、疑問が膨らんだ。
「空木さんは、先日うちの地域課に来て、六月四日土曜日の鳳凰山で起こった転落事故について調べていらっしゃるようですが、間違いありませんか」
「……ええ、調べたというか、確認させていただきましたが、それが何か……」
「実は先日、匿名であの事故は、事故ではなく事件だから調べて欲しいという電話があって、それについては空木という探偵が調べているから聞いてみろと。あなたがうちの地域課に調べに来たことも言っていました。それで地域課に確認したらあなたの名刺があったという訳で、こうして電話をさせていただいたんですが、どういう事か話していただけませんか」
名取という刑事によれば、匿名の人間からの通報で、空木が由加の転落事故を、事件だとして調べているという。南アルプス警察署に行ったことも知っているとも言った。その事を知っている人物は、由加の兄池永雄造しかいない。
「事件だと決めつけている訳ではありません。亡くなられた方のご家族の依頼で、事故だったのか、自殺ではなかったのかを調べて欲しいと頼まれて調べている状況ですから、警察にお話しするような事はないのですが……」
「ご家族が自殺を疑っているんですか」
「現時点ではそれは無かったと思っていらっしゃいますから、もう直ぐ私の調査は終わる予定です」
「……そうですか、分かりました」
名取という刑事は突然の電話を詫びて電話を切った。
池永雄造が何故匿名で警察にそんな事を言ったのか、空木には全く理解できなかった。そう思ったなら直接自分に言えば済む筈だ。
空木は、直ぐに池永雄造の携帯番号を選び出した。
「僕はそんな電話はしていませんよ。由加の事で僕が匿名で通報する意味は無いですし、疑問があったら空木さんに直接言います。誰か他の人間ですよ」
「私が南アルプス署まで行った事を誰かに話しませんでしたか」
「誰か……、五島さんに話しました。空木さんがしっかり調べているのかと聞かれたので、警察の事も単独行の男性と面会してくれた事も話しました」
「五島さんが……」
電話を終えた空木は、五島育夫が由加の転落死について何かをしようとしている事は間違いないと感じた。高野鮎美への確認の電話、そして南アルプス警察署の刑事課への匿名の電話。もしかしたら五島は、入院中の望月愛に会いに行ったのではないか。それは何の為か、恐らく自分と同じで、確信はないが、望月愛に何らかの疑いを持ったからだろう。婚約者だった由加の転落に疑いを持ったからだろう。
翌日の午後二時、空木は高野鮎美と杏雲医科大学附属病院のリハビリテーションセンターの玄関で待ち合わせた。
「由加に何て言うんですか。私は空木さんに連れて来られたって言いますからね」
高野鮎美はそう言うと受付の訪問簿に記帳した。
病室を恐る恐る覗いた鮎美は、「あら、いないわ。談話室かな」と、広い廊下を歩いて談話室と書かれた広い部屋を覗いた。
「あ、いました。あそこで、車椅子で窓の外を見ている、栗色の髪でピンクのトレーナーを着ているのが愛です。空木さん、先に行って下さい」
鮎美は空木の後ろに隠れるように後ずさりした。
空木が近付く足音、気配は感じている筈だったが、愛は窓外に目を向けたままだった。
「望月愛さんですか。空木健介と申します。スカイツリー万相談探偵事務所の空木と申します」
「えっ」
愛は少しの驚きを見せ、振り向いた。
「愛ごめん。空木さんにどうしても愛に会うと言われて、私も一緒に来いって言われたの」
「………」愛は黙ったまま、また窓の外に顔を向けた。
「あなたに池永由加さんの転落死についてお聞きしたいことがあってお会いしに来ました。これは由加さんのご家族の想いでもあります」
愛は窓外から空木たちに目を移した。
「そこのテーブルの椅子に座って下さい。鮎美もそこに座って」
愛も車椅子をテーブルの一角に移動させた。
空木は名刺を車椅子の前のテーブルの上に置いた。
「……私にお聞きになりたい事と言うのはどんな事でしょうか」
愛は空木の置いた名刺に目をやったままだった。
「六月四日土曜日の、あの日の由加さんの転落に私は疑問を持っています。それははっきり言って、ある薬物の作用で転落してしまったのではないかという疑問、いや疑惑です。薬剤師の望月さんでしたら、どんな薬物を飲んだらそうなるのかご承知だと思いますが、そういう薬物をあの日あなたは山に持って行っていたのではありませんか」
「………」
「そして、その薬物を由加さんに飲ませた」
「………」
「空木さん、何でそんな決めつけた言い方をするんですか。愛が何でそんな事を由加にするんですか。いい加減にしてください」
高野鮎美は、もう我慢出来ないというばかりに、空木に食って掛かる言い方で割って入った。
「私も親友の望月さんがそんな事をするとは思いたくありませんし、する理由も分かりません。ただ由加さんが、薬物を飲んでしまったとしたら、ふらつき始めた時間から考えて薬師岳の頂上で飲んだと考えるのが妥当なんです。そしてその薬物は、コーヒーが入ったカップの中に入っていた。状況的にそんな事が出来るのは望月さんしかいないんです」
「コーヒーは私も飲みました。愛も飲んでいます。愛はそんな事はしていませんでした」
鮎美の声は泣き声に近い声になっていた。
空木は、鮎美の訴えかけをまるで無視するかのように続けて話した。
「私の推測ですが、望月さんあなたは、予め三つの紙コップのうちの一つに薬物をいれておいたのではありませんか。そしてそれを三つ重ねて持って行って、山頂でそれにお湯を注いだ。二つ目か三つ目のカップなら薬は零れませんし、どれを由加さんに渡すのかも間違えることもなかったでしょう。違いますか望月さん」
「………」
望月愛は何も答えず、テーブルを見つめたままだった。
「ここに写っているザックと紙コップは、池永由加さんがあの日使っていたザックと、あの日薬師岳の頂上で飲んだコーヒーが入っていた紙コップです。ザックも中身も、処分しきれずにいるご家族の想いがこれです。今もコーヒー残渣がこびりついています。この残渣の成分分析をすれば、由加さんが薬物を飲んでしまったのか、そうではなかったのか判るでしょう」
空木は取り出したスマホから写真を選び、愛に前に置いた。それを見た鮎美が、体を乗り出す様にしてその写真を覗き込んだ。
「その紙コップがあの時の紙コップなんですか。そのピンクのザックは、確かに由加のザックですけど、この紙コップは……」
必死で訴える鮎美を空木は、じっと見つめた。そして語り掛けるように話した。
「高野さん、由加さんのご家族は、結婚を控えた娘の死を悔やみ、あの日のザックをそのままビニール袋に入れて残してあったんです。捨てられなかったそうです。この紙コップは、そのザックの中のゴミ袋に入っていたんです。間違いなくあの日使った紙コップですよ。言い換えればこの紙コップにはご家族の由加さんへの想いが詰まっているのかも知れません」
「……すみません。そんなつもりで言った訳ではなかったんです」
鮎美は泣きそうな顔を愛に向けた。
「………ごめんなさい……」愛は絞り出すように言うと、顔を両手で覆った。
「愛……」
鮎美は言葉を失った。そして愛の座る車椅子の後ろに回って愛の肩を撫でるように擦った。空木は二人を静かに見つめた。そして落ち着くのを待って、また話し始めた。
「望月さん、数日前に由加さんの婚約者の五島先生が、あなたに面会しに来ましたね」
膝に目を落としたまま、愛は微かに頷いた。
「五島先生は、あなたが薬物を由加さんに飲ませたのではないかと疑って会いに来たのではありませんか。動揺したあなたは、それ以後由加さんの転落死に関係した人、それからその話を聞きたいと連絡して来た私に、会うのを拒んだんですね」
愛は顔を上げた。その頬には涙が零れていた。
「五島先生は、(玉の輿)と書かれた紙を私に見せて、これは由加宛に来た嫌がらせの手紙だけど、私が出したのではないか、そして山で由加に薬を飲ませたのではないか、と聞きました」
「その手紙はあなたが出したんですか」
愛は首を横に振った。
「先生にはどう答えたんですか」
「知りませんと答えました。私も巻き添えになった被害者です、と言ってしまいました」
愛はまた俯いた。
「あなたは、救助が来るのを待つ間、何度も「由加ごめんね」と謝っていたと、救助に協力して、あなたと由加さんに付き添ってくれていた片倉さんという男性から聞きました。まさか由加さんがこんな事になるとは、あなたは思ってもいなかった。それがその言葉「由加ごめんね」だったのではないですか。あなたも激痛に耐えていた中でのあなたの真の思いだったと思います。聞かせていただけませんか、何故由加さんに薬物を飲ませてしまったのか」
「愛、話して、由加に何故……」
鮎美はテーブルの椅子に戻り、目を真っ赤にして訊いた。愛は再び顔を上げ、鮎美に顔を向けた。
「……由加に意地悪したくなったの。結婚するつもりで三年間付き合っていた彼と別れることになって…。二人にも言えなかったの。私は結婚出来ないのに、由加はもうすぐ結婚する。妬んだの、意地悪してやろうと思ってしまったの」
愛はまた顔を両手で覆った。
「薬物は超短時間作用型の睡眠導入剤ですね」
「………」
「職場の薬局からもちだしたんですか」
愛は黙って頷いた。
「錠剤のままでは飲ませることは出来ないと思いますが…」
「家で、乳鉢で砕いて細かく潰して、紙コップと紙コップで挟むようにして持って行きました。こんな事をしちゃいけないという思いと、少し位の意地悪なら良いという思いが入り混じっていました。でも意地悪したいという気持ちが勝ってしまったんです。ごめんなさい……」
愛は嗚咽を漏らし、涙を流した。
その時、他の患者が談話室に入って来たのを鮎美が見て、「空木さん、そろそろ…」と声を掛けた。空木は壁時計に目をやりながら「そうですね」と言って立ち上がった。
「私は、もう少し愛の側にいてあげたいので、空木さんとはここで失礼させてもらって良いですか」と鮎美も椅子から立ち上がった。立ち上がった鮎美に空木が小声で話し掛けた。
「高野さんにお願いしたい事があるので、少しだけ時間をください」
鮎美は頷いて、空木とともに談話室の外の廊下に出た。
「私は近日中に、由加さんのご家族に全てを報告することになります。私の報告をご家族がどう思い、どう対応するのか私には分かりませんが、警察に相談するか、もしかしたら訴える可能性もあります。そうなれば警察が動き始めるでしょう」
「警察が……」
「実は、既に警察に匿名で、事故ではなく事件だとする電話が入っていて、警察から私にその件で電話があったんです」
「え、匿名の電話ですか…」
「私の推測ですが、その匿名の電話を入れたのは、恐らく五島先生だと思います」
「五島先生……」
「それで、高野さんあなたへのお願いですが、いやアドバイスと受け取ってもらった方が良いかも知れません。親友のあなたが、望月さんに南アルプス警察署に全てを話す様に勧めて、いや説得して欲しいんです。もしかしたらあなたが説得しなくても、その覚悟でいるかも知れませんが。彼女は由加さんの死を知ってから、自分がしてしまった事の罪深さを悔やみ、苦しんでいた筈です。誰にも言えず、警察に行く勇気もなかった。高野さんは、こんな経験をしていませんか、子供の頃友達にちょっとした意地悪だと思ってした事が、大事になってしまって自分がしたことだと誰にも言えなくなってしまった、という経験です。人間には、自分も我慢しているんだから、損をしているんだから他の人間も我慢すべきだ、損をすべきだという思いから意地悪な行動、スパイトな行動をしてしまうことがあると言います。私の勝手な推測ですが、望月さんは自分のしてしまった事を、誰かが突き止めてくれることを待っていたような気がします。苦しみから誰かが解放してくれることを待っていたのではないでしょうか。高野さん、あなたにそのお手伝いをしてあげて欲しいんです。彼女の支えになってあげて下さい」
「……支えます。友達ですから」
鮎美は空木に頭を下げ、談話室に戻って行った。
数日後、空木宛に高野鮎美から手紙が届いた。
その手紙には、望月愛は空木の推測通り、警察に全てを話す覚悟を既にしていて、その日のうちに南アルプス警察署に罪の申し出の電話を入れた、と書かれていた。さらにあの日、空木が去った後、愛が鮎美に打ち明けた話も書かれていた。
井之頭女子学園高校当時、望月愛は学年で一、二を争う好成績で、卒業後、薬科大学に進学した。高野鮎美は短大、そして池永由加は看護学校へそれぞれ進んで行った。それぞれの夢や思いをもっての進路選択だったにも拘わらず、愛はその頃から、三人の中で自分が最も上位にいるという勝手な思い上がりが、心を支配し始めた。その思い上がった心に、ある日付き合っていた彼から突然別れを告げられた事がきっかけで、由加に意地悪をしたいという悪魔の心が生まれたと、涙を流しながら鮎美に心の内を明かしたと書かれていた。
話をした後の愛は、すっきりとした表情で、由加の家族への謝罪の手紙を書くつもりだとも言い、いずれ罪を償ったら、由加の墓前で手を合わせ、許される筈は無いが詫びたいという愛の気持ちが書かれ、最後は空木への感謝の言葉で締めくくられていた。
空木は、ベランダへ出た。空は相変わらず梅雨空でどんよりとしていた。
空木は自問した。自分は他人の不幸を喜ぶ人間なのか、それとも人の幸せを心の底から喜べる人間なのか。どちらの人間になりたいのかは、はっきりしている。しかし、今の自分がどっちの人間なのかは分からない。多分、その両方を持っている普通の人間なのだろう。これまで何度も、スパイトな、意地悪い行動をしてきたのではないだろうか。
空木は部屋に戻り、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。缶を空ける音が響いた。




