スパイト(4)
実家の車を借りた空木は、南アルプス警察署の地域課を訪れた。
池永由加と望月愛の救助に当たった深沢という警官は、救助隊が到着した時には、池永由加は心肺停止状態だったことを報告書のファイルを見ながら話し、望月愛も骨折によるショックと低体温症の危険性が高まっている状態になっていたと話した。悪天候でヘリが飛べなかったことが、池永由加の死にどの程度影響したかは分からないが、雨による岩場の状態を含め、天候が悪影響を及ぼしたことは間違いなく、不運だったと語った。
救助に当たった警察は、由加の転落という事故に何の疑念も抱いていない事を、空木は改めて認識した。
南アルプス警察署を後にした空木は、薬師岳直下の山小屋から麓に下りて来ているという小屋番と面会した。
その小屋番は、高野鮎美の救助要請を受けて県警に連絡したが、ヘリが飛べない事から小屋の簡易テントを持って現場へ向かった、と話した。そして、高野鮎美とともに観音岳直下の現場に着いた時は、転落した二人は望月愛とともに池永由加もまだ生きていたと思う、と語った。雨を防ぐ為に、簡易テントと傘で二人を覆ってくれていた片倉と言う単独行の男性のお陰かと思うが、二人のうち由加は意識が無い状態で危険な状態だったと思うと話した。救助隊が到着した時には、由加は死亡していたらしいが、何時亡くなったかと空木が訊くと、小屋番は分からないと首を振った。
片倉と言う男性の連絡先を聞いた空木は、東京へ戻った。
片倉康志は、新宿のIT企業に勤務する三十八歳の会社員だった。埼玉県さいたま市に住む片倉は、リモートワークの中、空木からの面会依頼を快く受けた。
自宅近くのファミリーレストランで空木と向かい合った片倉は、渡された名刺をテーブルの上に置いた。
「六月三日の事故の事で聞きたいというのはどんな事でしょう」
「その前に、亡くなった池永由加さんのご家族と、あの日片倉さんに協力を依頼した高野鮎美さんが、あなたに大変感謝していました。直接お会いしてお礼が言えないので、私から伝えて欲しいとのことでした」
「私は人として当たり前の事をしただけです。まして山の事故ですから、協力しなかったら罪の意識に一生後悔しますよ。それにしてもあの方が亡くなられたのは、協力した私にとっても残念でした。出血が酷くて意識も無かったので危ないとは思いましたが……」
「池永由加さんは残念でしたが、もう一人の望月愛さんはあなたのお陰で助かったのかも知れないと救助に向かった小屋番の男性が言っていましたよ。それで片倉さんにお聞きしたいのは、亡くなられた池永由加さんについてなのですが、片倉さんが付き添ってからずっと意識は戻らなかったんでしょうか」
「ずっと側にいて彼女を見ていた訳ではないので分かりませんが、最低限言葉を発することはありませんでした。まるで眠っているようでしたが、呼吸はしていました」
「やはりそうですか。片倉さんに協力を求めた女性と、小屋の男性が到着するまでどの位の時間か分かりませんが、そんな状態だったんですね」
「お二人が来るまで一時間ぐらいだったと思いますが、変わりは無かったですね。もう一人の怪我をしていた女性は、全く動けませんでしたが、何度も何度も「由加ごめんね」って言っていたのが耳に残っています。落ちるのを止められなかったことを詫びていたんでしょうね」
先頭を歩いていた望月愛の体をかすめて落ちて行った由加を、止められなかったことを詫びている言葉だと空木も理解したが、突然転落して来た由加を、女性一人の力で止められるとはとても思えなかった。
「片倉さんは、三人の女性たちとは過去に会った事は?」
空木の問いに、片倉は驚いたように「勿論ありません」と顔の前で掌を振った。
さいたま市から自宅兼事務所に帰った空木は、転落事故の関係者の中で最後に残った望月愛の自宅である実家に連絡を入れた。既に転院して東京に戻っていた望月愛に面会するためだった。転院先は高野鮎美の言っていた通り、杏雲医科大学附属病院だった。面会も可能ということで空木は面会日を家族に一任して連絡を待つことにした。
望月愛に面会することで転落事故の関係者には全て面会することになるのだが、これまでの面会では、由加の結婚への躊躇いや苦悩は少しも無かった。唯一、(玉の輿)という周囲の目や声を気にはしていたものの、その事で死を選んだとは考えられないというのが結論だった。
転落の一瞬に(?)という思いは残るが、事故という結論は変わらないのでは、と空木は考えた。しかし、(?)を考えると、由加の転落事故とは直接結びつかないとしても、高野鮎美が甲武信ヶ岳からの登山道での、軽傷で済んだという転落事故についての確認をしてみたいと空木は思っていた。
高野鮎美は三回目のコールで空木からの電話に出た。
「高野さんに、甲武信ヶ岳からの移動の時の転倒事故の事で、聞いておきたい事があって電話しました。その時、高野さんに倒れ掛かって来た友人の方は、スリップだったのかどうかをお聞きしたいんです」
「……倒れてきた原因ですか。スリップじゃなかったみたいですけど、何故そんな事を知りたいんですか」
鮎美の問いに、空木は由加がフワッっと落ちたという事が心に引っ掛かっている事を話した上で、自分は過去に目の前で疲れからふわりと転倒した登山者を目撃したが、疲れ以外にフワッと転倒する原因があるのだろうかと疑問に思い聞いておきたい、と説明した。
「あの時の彼女は、疲れからではなかったみたいです。私たちはその後、笹平の避難小屋で休んだんですけど、彼女は三十分近く眠った後で私に謝って、昨夜飲んだ睡眠導入剤の影響でふらついてしまったと言っていましたから」
「………」
空木は睡眠導入剤と聞いて、前職の製薬会社勤務時代の知識を思い返した。睡眠導入剤には効果の持続時間によって中長時間作用型、短時間作用型、超短時間作用型とある。就寝前に服用して翌日まで作用が持ち越すとしたら、中長時間作用型を飲んだ可能性が高いことを意味していると考えた。しかし、山で中長時間作用型を服用するのはリスクが高い。
「その友達は、長年薬を飲んでいるんでしょうか」
「さあ分かりません」
「……登山の経験はどの程度なんですか」
「私より長い筈ですから十年近いと思いますが……。それがどうかしたんですか」
「山で睡眠導入剤を使うのはリスクが高いので、どの程度の知識がある方かと思って聞いたんです」
「彼女は看護師ですから、ある程度の知識はあると思いますが……」
「看護師?」
「はい、武蔵国分寺病院で看護師をしているんです」
武蔵国分寺病院は、池永由加の結婚相手の五島育夫が、月に一回手術の手伝いに行くという病院だ。単なる偶然だろうか、もしかしたら……。空木の脳裏にある推理が過った。
「高野さん、その友達の看護師さんにお会いすることは出来ませんか。お会いして直接話を聞かせていただきたいんです」
「それは由加の事に関連しているんですか?」
携帯電話の鮎美の声は、そうは思えないという声だった。
「関連しているかどうかを確認する意味で話を聞きたいんです」
「分かりました。連絡して見ますから、私からの連絡を待っていてください」
「お手数かけてすみません。ところで、その方のお名前は?」
「内村理沙さんです。私より五歳年上の女性です」
高野鮎美との電話を終えた空木は、ベランダに出て煙草に火をつけた。
東京で最も安定した地盤と言われる国分寺崖線の上に建つこのマンションの四階からの眺望は、丹沢山地を前衛にして富士山が見事な姿を見せる。
今日は梅雨空で眺望は生憎だったが、冬の晴れた日に見る事が出来る、夕焼け空をバックにした富士山の姿は時を忘れさせる。空木は、考え事をする時このベランダに出て煙草を燻らせる。
高野鮎美との電話で空木の頭に過った事は、由加も睡眠導入剤を飲んでいたのではないだろうか、自らなのか意識しないまま飲んでしまったのか分からないが……。もう一つ、もし睡眠導入剤という薬物が、甲武信ヶ岳と鳳凰山の二つの事故で影響しているとしたら、両方の事故に高野鮎美が関わっている事を偶然と考えて良いのだろうか、という事だった。
翌日午前中、空木はトレーニングジムで汗を流し、インストラクターの池永雄造にこれまでの面会で聞き取った話からの感触を報告し、これからの予定を説明した。
「山梨の警察にまで行っていただいたんですね。ありがとうございます。先日、杏雲医科大学の五島さんから家に電話がありました。空木さんと面会した翌日だったようで、うちの親に詫びていたそうです」
「五島さんが池永さんのご実家に、お詫びの電話を…」
「ええ、由加との結婚について、うちの親に不信感を抱かせた事を自分の所為だと言って謝っていたそうです。改めて線香をあげに行きたいとも言っていたそうです。僕が考えていた
程冷たい人間ではなかったみたいで、そう思うと由加には結婚させてあげたかったなと改めて思います。後は、空木さんにも気にしていただいている由加の転落が、事故だったという事であれば調査は終了ですね」
「そう言うことですが、あと二人との面会が残っていますから、終わってから報告させてください」
そう言って話を終えると空木のスマホが鳴り、画面に(高野鮎美)が表示された。
「空木さん、内村さんが今日の午後二時半に会えるそうですがどうしますか。大丈夫ですか」
「大丈夫です。ありがとうございます」
空木が時計を見ると、昼の十二時を過ぎたところだった。
内村理沙が空木との面会場所に指定したのは、府中街道沿いにあるファミリーレストランだった。そこは空木の自宅兼事務所からミニバイクで十分とかからない距離だったが、空木は早めに行って初対面の内村理沙を、指定のファミリーレストランの入口玄関横で待った。
七分丈のベージュ色のパンツで、ボートネックの横縞の半袖シャツ、ボブヘアの女性が空木を見て小さく会釈した。それが内村理沙だった。
空木は玄関前で名刺を渡し、店に入った。店内は空いていた。
「高野さんのご紹介でお時間を取っていただいて恐縮なのですが、内村さんは高野さんとはどういうお友達なんですか」
内村理沙は少し意外だという様に空木の顔を見た。
「鮎美ちゃんから聞いていなかったんですか。テニスクラブで知り合ったテニス仲間で、山登りの趣味も同じだったので、山登りも時々一緒にする友達です。鮎美ちゃんが勤めている吉祥寺のお店にも時々行っていますよ。それより探偵の方が、何故鮎美ちゃんと知り合うことになったのか、私の方が聞きたいんですけど」
内村理沙は手に持ったままの空木の名刺に目を落とした。
「すみません。そこから先にお話しすべきですね。鳳凰山の転落事故の件は、高野さんからお聞きになっていると思いますが、その事故で亡くなられた方のご家族から、ある調査を依頼され、それでその亡くなられた方と一緒に山に登られた高野さんと面会したことで知り合った訳です」
「転落事故のことは鮎美ちゃんから聞きました。びっくりしました。しかも亡くなった人はうちの病院にお手伝いに来てくれている五島先生の婚約者だと聞いて二度びっくりしました。目の前で友達が転落するところを見た鮎美ちゃんは、凄いショックで山登りはもう止めるって言っていましたから、相当ショックで堪えたみたいですよ。でもその事故と、私が甲武信ヶ岳の山行で転倒したことと、何か関係するんですか。お聞きになりたい事はどんな事なんでしょう」
「……甲武信ヶ岳からの登山道で、睡眠導入剤の持ち越し作用でふらつき転倒したというあなたの話を高野さんから聞きました。それを聞いて、ここからは私の勘繰り、というか邪推かも知れないのですが、亡くなられた方は、もしかしたらあなたと同様に睡眠導入剤、眠剤を飲んでいたのではないかと……。それで直接あなたから話を聞きたいと考えたんです。内村さんが、どんな眠剤を何時飲んで、転倒した時の意識状態はどんな感じだったのか話していただけませんか」
空木の話を聞いていた内村理沙は「おや」という顔をして「空木さんは、眠剤の事に詳しいみたいですが…」と訊いた。
「実は、私の前職は製薬会社のMRだったんです。詳しい知識とはとても言えなくて、浅く広くという知識ですが、一般の方たちより少しだけ分かっているつもりです。ですから、眠剤の就寝前の服用で翌朝まで持ち越してしまう眠剤は、恐らく中長時間作用型の眠剤ではないかという程度の推測は出来るんです」
そう説明した空木だったが、知らず知らずのうちに自慢げに話している自分の様に、恥ずかしくなった。それは空木の中に残る、MRとして勤めたことの誇りだったのかも知れなかったが。
「そうだったんですか。MRさんだったんですか。会社はどちらだったんですか?」
「万永製薬に在籍していました」
「えー、万永製薬ですか。じゃあうちの病院に来ている飯豊さんをご存知ですか」
「いいえ知りません。私は東京をずっと離れていて、転勤続きで最後は札幌支店でしたから、その飯豊さんと言う方は全く知らないんです。ところで、さっきの話に戻りますが、眠剤は何を飲まれたんですか」
空木は横に逸れかけた話を戻した。
「………山小屋で夕食のカレーライスを食べた後、一緒に行った先生からいただいた薬を飲んだんです」
「薬の名前は憶えていますか?」
「…うーん、エチゾ…何とかだったと思いますけど」
「エチゾラムですか?」
「そうです。エチゾラムです」
「抗不安薬ですね。それで朝起きた時、違和感があったという訳ですか」
空木は手帳にメモした。
「いえ、朝はスッキリしていたんです。朝食を食べ終わって、小屋を出発して甲武信ヶ岳の頂上に行った時もふらついたりしなかったのに、あの下りになる手前辺りからふらついて来て、下りを歩いている途中で真っ直ぐ歩いているつもりだったのですが、鮎美ちゃんに倒れ掛かってしまったんです。自分でもびっくりしました。鮎美ちゃんが大怪我にならなくて本当に良かったです」
「内村さんはエチゾラムのような抗不安薬を飲んだことはあるんですか」
「いいえ、抗不安薬も眠剤も飲んだことは無かったのですが、以前山小屋に泊まった時、興奮していたせいなのか全然寝付けなくて、次の日不安で仕方なかったんです。その事を先生に話したら、エチゾラムを飲んだら良いよと言われて、いただいた一錠を初めて飲んだんです」
「なるほど。それから内村さんが転倒した後、薬の持ち越しかも知れないと言ったのは、内村さん自身がそう思われたんですか」
「いえ、それも避難小屋で休んだ後、先生が言ったんです。でも先生は、エチゾラムは一錠程度では持ち越しはほとんどないのに、私に勧めて悪かったって言われて謝っていました」
「そうですか……」
空木はその医師が言った事と同じ事を考えていた。エチゾラムはベンゾジアゼピン系と言われる薬剤の中でも短時間作用型で、持ち越すことは滅多にない筈だと。
「その先生は、内村さんと良く山に登られるんですか」
「水原先生は私と言うより、私たちと春と秋の年二回一緒に山に登っているんです。甲武信ヶ岳は水原先生を含めて六人で登ったんです」
「山仲間ということですか。楽しそうな職場ですね」
そう言いながら空木は、メモを取っている手帳を何枚か捲り返していた。
「病院に勤務しているのは、先生と私ともう一人の看護師の女性の三人だけで、あとの三人は職員じゃありませんから、職場仲間の山登りという訳ではないんですよ。さっき言った万永製薬の飯豊さんもその一人ですからね」
「製薬会社のMRも仲間に入っているんですか。万永製薬以外の会社のMRも入っているんですか」
「ええ、オーシャン製薬のMRさんも一緒でした。そのMRさんは初めての参加でした」
内村理沙が話し終えるのを待って、空木は手帳を一旦閉じた。
「内村さん、もう一つだけ聞かせて欲しいんですが、山小屋の朝食で内村さんだけが食べた物とか飲んだ物とかはありませんでしたか」
理沙は少しの時間、思い出そうとしてなのかテーブルに目を落とした。
「私だけというのはありませんでしたね。お菓子も食べなかったし、食後のコーヒーは六人全員が飲んでいましたから、それは無かったですね」
空木は手帳を開き、コーヒーとだけメモして時計を見た。そして内村理沙に礼を言った。
「空木さん、私はこれから準夜の勤務に入るので、ここで食事をしてから出ますから、私に構わずお帰りになって下さい」
内村理沙はそう言って、テーブルの上の店員の呼び出しボタンを押した。