スパイト(3)
中央線国立駅で下車した空木健介は、自宅兼事務所への徒歩十分余りの帰路の途中、『平寿司』の暖簾のかかった寿司屋に入った。
間口二間半のこの寿司屋は、平沼という夫婦と、男女の従業員二人の四人で切り盛りしている店で、平沼の『平』を屋号としている。
空木はこの平寿司に来始めて二年余りになるが、比較的新しい常連客の一人だった。登山の後、ここで烏賊刺しを肴にビール一杯、焼酎の一杯を飲むことを楽しみにしているのだが、今日は依頼された仕事の調査手順を考えようと暖簾をくぐった。
「いらっしゃいませ」の声に迎えられた空木は、カウンター席に座り、鉄火巻きと烏賊刺しを注文しビールで喉を潤し、「フー」と一息つき改めて考えた。
今日の高野鮎美の話からは、池永由加が結婚を苦にしていたというような話を聞くことは無かった。結婚しても看護師の仕事を続けようとしていたというのも、結婚を前向きに捉えていた証と言える。だとすれば、由加の家族の心の片隅にある自殺という行為は、結婚を苦にしての事とは考え難い。自殺の可能性がゼロとは言えないが、由加の転落はやはり事故と考えるのが妥当なのだろう。そう考える空木だったが、ただ一つ引っかかっている事は、「フワッと落ちた」という高野鮎美の目撃談だった。由加の兄の雄造も、その目撃談から疑問を感じたようだった。
空木は十年ほど前、雪の八ヶ岳の赤岳の頂上直下の下りで、前を歩く登山者がバランスを崩して数メートル落下した場面を、目の前で見たことを思い出していた。その男性は幸いにもハイマツ帯で止まり無事だったが、その時の倒れ方がスローモーションを見ているようにふわりと倒れたのを思い出した。その登山者は、雪山を重いザックを背負っての疲労からバランスを崩しての転落だったが、由加は雨の中の歩きになったとは言え、倒れる程の疲労があったのだろうか。高野鮎美の話からはそんな様子は窺えなかった。
「女将さん、結婚したくない相手と行掛り上結婚する事になってしまったら、女将さんならどうします?」
「突然何を言うのかと思ったら、空木さんとんでもない事を聞くのね。今どきそんな事があるとは思えないけど、私なら逃げるわね。良子ちゃんならどうする?」
女将は、店員の一人の坂井良子に話を向けた。
「好きな人がいれば、その人と、いなかったら女将さんと一緒です。逃げます」
「自殺するという選択肢はありませんか」
女将と良子は顔を見合わせて「ありません」と声を揃えた。
空木は「そうだね」と呟いて、芋焼酎で水割りを作って飲み始め、明日以降面会すべき人物と、確認しなければならない事を整理した。
まず由加の葬儀で、涙一つ見せなかったという由加の結婚相手だった五島育夫。その五島から聞き出したい事は、結婚に関連して由加を悩ませることがあったかどうかだ。 そして入院中の望月愛。この二人には必ず面会する必要がある。あとは、由加の職場の上司、同僚の看護師、さらに転落後の様子を知るためには薬師岳直下の山小屋の小屋番と山梨県警の救助隊員、そして協力してくれたという単独行の男性にも話を聞く必要があるだろう。
これで結婚に関する事と、転落前後の状況に関しての調査は一通り済むのだが、空木にはもう一つ確認しておきたいと思う事がさっきから頭に浮かんでいた。それは、高野鮎美の五月の甲武信ヶ岳の山行で、鮎美に倒れ掛かって来た鮎美の友人のその時の状況、体調を確認しておきたかった。由加の「ふわりと落ちた」という落ち方に、空木自身が納得していなかった。
数日後、空木は三鷹市の杏雲医科大学附属病院の外科医局で五島育夫と面会した。
由加の葬儀では涙一つ見せなかったという由加の兄の話を聞いていた空木は、五島に冷たいイメージを抱いていたが、目尻が少し下がった顔は、柔和な雰囲気を漂わせていた。年齢は三十代半ばのように見えた。
空木は五島に名刺を渡し、面会の主旨である、結婚を秋に控えた由加が悩みを抱えているような事が無かったか、家族に代わって確認をしているので協力して欲しい、という事を改めて伝えた。
「あなたの質問の意味が私にはよく理解出来ないのですが。彼女の転落と、その悩みが関わっていると、ご家族は考えているという事なんですか」
五島は空木の名刺を手にして、睨むように空木を見た。
「……少しお話し難い事なのですが、ご家族は由加さんの転落は事故ではなく、自殺したのではないかと心を痛めています」
「自殺……」
「その自殺の原因が、秋に控えた結婚にあるのではないかと想像しているのですが、先日一緒に山に登られた友人の方のお話しを伺った限りでは、結婚に悩んでいたようなことは無かったと私は思っています。ただ、周囲の目や声を気にしていた様子もあるようだったので、フィアンセである先生の話を聞いておこうという事なんです」
空木の話を聞いていた五島は、顔の前で両手を組んで暫くの間考え込んでいた。
「……彼女が私との結婚を少しでも躊躇う思いがあれば、私も何かを感じたと思います。私は彼女を愛していました。彼女も私を愛してくれていたと思っています。彼女を失った喪失感はとても埋まるようなものではありません。今も彼女の死を受け入れられない、受け入れたくない気持ちがそうさせるのか、何故か涙が出ないのです。葬儀の時も、今も涙が出ないんです。冷たい人間だと思われるでしょうが、涙が出ないんです」
五島の目は中空を見つめていた。
そう話す五島の眼差しに、由加が結婚を苦にして死を選ぶとは、空木には思えなかった。
「五島さん、由加さんは(玉の輿)という言葉に心を悩ませていたような話を聞きました。それで結婚後も看護師の仕事を続けたいと思っていたようですが、その辺りの事について五島さんはご存知でしたか」
「はい、知っていました。今年の初め頃だったと思います。病院に彼女宛の封書が届いたんですが、(玉の輿)とだけ書かれた紙が入っていたんです。差出人は書かれていませんでした。その封書は私が預かって持っていますが、それ以来彼女は周囲を気にするようになりました。気にするな、と何度も言いましたが、彼女にしてみればそんなつもりは全く無いのに、そんな風に言われたり見られたりするのは嫌だったのでしょう。それで結婚後も仕事をしたいと言って、働ける病院を探していました」
「病院は見つかっていたように伺いましたが……」
「はい、私が月に一度手術の手伝いに行っている病院に、来年一月から勤務することに決まっていました」
「どこの病院も看護師不足でしょうから大歓迎でしょう。因みにどちらに決まっていたんですか」
「国分寺の武蔵国分寺病院に決まっていたんですが……」
「そうでしたか……」と空木は腕時計に目を落とした。
「先生、お忙しいところお時間を取っていただいて……」まで空木が言ったところで五島が遮るように「空木さん」と話し掛けた。
「私からあなたにお聞きしたい事があるのですが、宜しいですか」
「どうぞ、何でしょうか」空木は少し構えるように応じた。
「ご家族が自殺を疑ったきっかけは、何だったのですか。彼女の転落に何か疑問があったから疑ったのではありませんか。そのことから、自殺だとしたら私との結婚が理由ではないかと疑ったのではないのですか」
五島の問いには、何か強い意志が込められているように空木には思えた。
頷いた空木は、数日前に高野鮎美から聞いた由加の落下した瞬間の印象を話した。
「彼女はスリップではなく、ふわりと落ちて行ったんですか。それは階段を踏み外すような、夢遊病者のような感じだったということでしょうか」
「そんな感じだったのかも知れませんが、ご家族はそれを自ら落ちたのではないかと疑ったのでしょう」
「それを聞いたら私も疑うでしょう」
そう言った五島は、口に手の甲を当て何かを考えているようだった。
「空木さん、彼女から聞いている限りでは、一緒に山に登った二人の友達は、高校時代の同級生でそのうちの一人はこの病院の薬剤師でしたね。もうお一人は?」
空木は望月愛と高野鮎美について、二人の現況と連絡先を伝えた。
五島育夫との面会を終えた空木は、由加が五島との結婚についてどういう気持ちでいたのか、改めて確認ができたと感じた。由加は結婚を望んでいた。その確信を得た空木は、由加が勤務していた大学病院の病棟の看護師長や、同僚との面会の必要はないと判断し、面会は止める事にした。