死者のアベンジ(3)
空木が南アルプスから帰った翌日の八月十二日金曜、テレビではお盆休みの期間の車の混雑予想を報じていた。
空木は、昨日、中央線の吉祥寺駅の人身事故の影響で遅い帰宅となり、平寿司で山帰りの一杯が飲めなかった事が心残りだった。
朝から両足の太腿、脹脛の筋肉の張りと痛みに心地良さを感じていた空木は、山から帰った翌日の、この張りと軽い痛みが、山の残り香のように、上り、下り終えた登山道を蘇らせてくれるのを楽しんでいた。
空木が平寿司のランチを食べようと、ぎこちない歩きで向かっていた時、スマホが鳴った。
国分寺署の河村刑事だった。
「桑田の行方が分からないそうです。地検から連絡がありました。空木さんは先日、桑田に会えないかって連絡してきましたが、お会いになったんですか」河村の声は慌てていた。
「習志野まで行ったんですが、会えませんでした。保釈になったばかりで疲れているとかで、会いたくないと」
「それは何時ですか」
「先週の金曜日です。桑田は行き先を奥さんに言っていなかったんですか」
「熊川という人物に会いに行くと言って出かけたそうです」
「熊川ですか……」
「空木さんご存知なんですか」
「ええ、恐らくオーシャン製薬の営業本部長の熊川さんのことだと思います」
「空木さんに電話して良かった。参考になる話が聞けました」河村の声は弾んだ。
ランチを食べ終え、自宅兼事務所に戻った空木のスマホが、また河村からの電話で鳴った。
「桑田は死んでいました」
「え、本当ですか」
「吉祥寺の駅で、電車に飛び込んだのか轢死していました。さっき武蔵野東署から連絡があって、今私たちも向かっているところです」
「自殺ですか?」
「分かりません。所轄も自殺とは断定していないようです」
電話を切った空木は、ベランダに出た。肌が焼け付くような暑さだった。桑田が死んだ。自殺なんだろうか、空木には俄かには信じられなかった。保釈金を払って一時的な自由を得て自殺した。罪を悔いて死を選んだのだろうか。
「暑い!」空木は五分と居られずベランダから部屋に戻った。
武蔵野東署に入った河村と石山田は、遺体安置場で桑田と思しき轢死体と対面した。その遺体の損傷は激しく、左肩から先、左膝から下が切断され、全身は損傷していたが、顔面は僅かな傷だけだった。
「桑田弘ですね。家族の確認は済んだんですか」
河村が、ここまで案内してくれた所轄の松屋という刑事に訊いた。
「いや、まだです。今こちらに向っているところでしょう」
松屋は死体を確認した二人を、会議室へ案内した。
「桑田弘は保釈中だと伺いましたが、熊川という人物は、桑田とはどういう関係なのかご存知でしたか」
松屋は、二人のどちらに聞くともなく訊いた。
「いえ、知りません。桑田の関係した事件の関係者ではないと思いますが……」
河村が、石山田に同意を求めるように顔を向けながら答えた。
「同じ会社の先輩のようですね。部署は違うようですが、大学の先輩、後輩の関係だそうです」と松屋が手帳を開いた。
「……桑田は自殺ですか?」河村が訊いた。
「それが、駅構内のカメラでは誰かがぶつかって転落したように見えるので、何とも断定出来ません。ぶつかった男はいなくなってしまったので探す必要があるんですが、今のところは全く手掛かりはありません」
「熊川という人物から聴取は済んだのですか」
「聞き取りはしています。十一日の十二時半に吉祥寺駅で待ち合わせて、鰻屋で昼飯を食べたそうです」
「どんな用件で二人は会ったのか分かっているんでしょうか」
「会社の懲戒処分についての相談だったそうです」
「という事は、桑田から連絡を入れたという訳でしょうね。二人は何時まで一緒にいたのか?」
「二時過ぎまで一緒だったと言っています。かなり日本酒を飲んで、酔っ払って店を出たところで別れたらしいです」
「構内カメラに写っている男は、熊川ではない?」石山田だった。
「聞き取りに立ちあった刑事は、写っているのは熊川ではないと言っていますね。構内カメラの画像をお二人に見てもらった方が良いですね」
松屋は手帳を閉じて席を立った。暫くしてパソコンを両手に抱えて戻った。
河村と石山田は、パソコンの画像を見たが、マスクをした顔は若そうだ、という事しか分からなかった。今も、駅構内、電車内でマスクをする人は多く、夏でもマスクをしている人間に違和感を持つ人はほとんどいない。
「これを見る限り、ぶつかったというより、ぶつかりに行った感じですね」
河村は、石山田に同意を求めるように言った。
「そう見えるな」石山田は腕組みをした。
「当面は、自殺を含めた事故と事件の両面で行く事になります」
松屋はそう言うと、溜息ともつかない息を吐いた。
「桑田の持ち物に気になるような物はありませんでしたか」
松屋は「ちょっと待って下さい」と席を立つと、また会議室を出た。暫くして戻ると、一枚の写真を手にしていた。
写真を二人の前に置いた。
「スマホ、財布、鍵の他には、駅のコインロッカーの預かり証とでも言うんでしょうか、今は鍵じゃないんですね。交通系ICカードがカギ代わりに使えるそうですよ。これがポケットに入っていただけでした。家族が来たら渡すことになると思います」
「新習志野駅のコインロッカーですか……」
河村が、写真をじっと見て呟くように言った。
その日の夜、空木が平寿司でビールから焼酎の水割りに変えて飲み始めた頃、石山田と河村が「お待たせしました」と暖簾をくぐり、カウンター席に座った。
「桑田は自殺だったのかい?」空木は、二人とビールの入ったグラスを合わせると同時に訊いた。
「自殺は疑わしいですね」河村が答えると、石山田も頷いた。
「ホームのカメラで見る限り、桑田は若い男に後ろからぶつかられて落ちたように見えた。酒も入っていたせいもあったんだろうな、踏みとどまる仕草も無いぐらいに落ちていた。それも電車が入って来るタイミングに合わせたように落ちた。あっという間の轢死、即死だったと思うよ」
「熊川は?」
空木の問いに、河村は、武蔵野東署で松屋刑事から聞いた、熊川への署員による聞き取りの概略を伝えた。
「熊川が桑田と、どんな話をしたのか知らないが、桑田が死んだのは熊川にとってはありがたいだろうな」
「それはどういう意味なんだ」と石山田はビールを注ぐ手を止めた。河村も空木に顔を向けた。
「……これは俺の推理なんだけど、国立駅でのひったくり事件は、桑田が木内を唆して盗らせたのは事実だ。でも、その桑田にデータを病院に持って行かせないように指示したのは熊川なんだと思う」
「熊川も教唆犯という事ですか。しかし、桑田が全て自分が考えて木内を唆したと供述している以上は……」
「桑田が、何故熊川をかばっているのか分からないけど、熊川が桑田に指示した事は間違いないと思う」
「空木が、そう確信する理由は?」
「熊川と植草院長の関係さ」
「植草……」
植草の取調べを担当した石山田にとって、植草の名前がここで出てくるのは、意外であり、長年の刑事としてのささやかなプライドが揺らいだ。
「二人は昔からの付き合いで、家族ぐるみの付き合いもしている。その植草は、例の入院患者さんの死亡事件のカモフラージュの為に、薬の副作用に見せかけようとした。熊川にセロンというオーシャン製薬の薬の安全情報を、早く出すように頼んだんだ。熊川はそれを引き受けた。義理だけで引き受けた訳じゃない。合併した会社で自分の力を示すチャンスと考えたかも知れない。もう一つは、社外秘のデータを失えば、許可した人間の責任が問われる筈で、役員争いの人間を蹴落とす事にも繋がると考えた。結果、熊川は桑田にデータを病院に持って行かせないよう指示した。これが俺の推理だよ。巌は俺の推理をどう思う」
「……あり得るな。しかし植草の聴取では熊川の名前は出てこなかった……」
「それは仕方ないだろう。入院患者の死亡と、ひったくりが繋がるとは誰も考えないし、植草もひったくり事件の事は、知らなかった筈だから、熊川の『く』の字も出てこなかったんだろう。桑田が熊川から指示されたと供述しない限り、熊川の名前は表に出てこないよ」
「それをお前は気付き、俺たちは気付かなかったという事か。なんか嫌味な慰めだな」
「いやいや、悪かった。そういうつもりじゃなかったけど、言い方が嫌味に聞こえたか。すまない。たまたま俺の仕事上の繋がりがあったというだけなんだ」
「そんなに真剣に言い訳するなよ、余計落ち込む。それより植草だが、まだ地検に拘留されているだろう」
石山田は河村に顔を向けた。
「恐らくされていると思います。入院患者の死亡事件と、青山副院長の殺人未遂事件の二つで取り調べを受けていますからね。植草の聴取に行きますか」河村は自分自身にも言い聞かせているようだった。
「ああ、行く」
「植草が吐けば、熊川を強盗教唆で引っ張れますよ」
河村の大きな声に、店主と女将が驚いたように河村を見た。
「馬鹿」石山田が小声でたしなめた。
「すみません」
河村は、頭を小さく下げ、ビールを一気に空けた。
「ところで、ずっと気になっていたんですが、空木さんが桑田に会おうとしたのは何の為だったんですか」
「あれは実は、木内範夫の奥さんから会って欲しいと頼まれたんです」と前置きしてから、話し始めた。
木内香織は、桑田が亡夫と一緒に山に行っていた事を隠していたと知り、不信感を抱いた。更には、桑田が何故亡夫に書類を盗るよう指示したのかについても、疑念を持った事から、自分に桑田と熊川に一緒に会って欲しいと頼まれた事を、空木は説明した。
「それで事件関係者は会う事は出来ないのかと聞いて来られたんですね」
「そうです。結局、俺も会えなくて奥さんに香織さんからの手紙を渡してきたよ。せっかく習志野まで行ったのにね」
「じゃあ、何故熊川に会おうとしたんだ」石山田だ。
「それは、俺が今、二人に話した推理を香織さんに話したからなんだ。香織さんは俺の推理を聞いて、真実を知りたいと言って会いに行ったんだ」
「会えたのかい」
「会えた」
「それで」
「俺の推理を熊川に話したよ。勿論、全否定したけど、植草の供述と、桑田の裁判の中で明らかになると言った時の熊川の顔は、明らかに動揺していたよ」
「……もしかしたら、それがきっかけで熊川は桑田の口を封じようと決めたんじゃないか」
「……俺のやり過ぎか」
「いや、それはないでしょう。熊川はそれ以前から、桑田をどうするか考えていたように思います」河村は周りを気にするかのように声を押えて言った。
「何か根拠はあるのか」
「はっきりした根拠ではないんですが、桑田の聴取の時の様子を思い返してみると、何の躊躇いも無く自分一人で考えたと供述していた事が、少し不自然だったようにも思えるんです。最初から誰かをかばう、つまり熊川をかばうつもりでいたかも知れませんが、熊川への切り札にしようと考えたとも思えるんです」
「切り札?脅しという事か。金か」
「金もあるかも知れないけど、桑田は会社の処分が気になっていたかも知れませんね。熊川は執行役員ですから、自分の処分を軽くしてくれる事を期待していたのかも知れません。処分によっては、退職金にも、次の就職にも大きく影響する筈ですから」
自己都合で辞めたとは言え、空木には退職金は出たが、懲戒解雇にでもなれば退職金はゼロだ。それは家族もある桑田には辛すぎる。次の就職にも障りが出る。悪くても諭旨退職に、出来れば依願退職としたいところだろう。熊川のためにやった事だけにその思いは強い筈だと空木は想像した。
「そう言えば、武蔵野東署の話では、熊川は桑田から懲戒処分についての相談で会った、と言っているそうですから、その処分が軽く済むための、熊川への圧力の切り札にするつもりでいたとも考えられます」
「将来にわたって強請られるかも、と考えた熊川は、桑田が邪魔になった。確かに動機にはなるが、熊川は駅には行っていないぞ」
「誰かにやらせたんじゃないでしょうか」思いついたように河村が言った。
「誰かにやらせたら同じ事になるだろう」
話を聞いていた空木は、その可能性は捨てきれないと、頭の片隅で考え始めた。熊川にとって、心から信頼できる人間がいればやらせる事はあり得るだろう。裏社会との繋がりがあれば金次第でやる事は出来るだろう。共通の利益に生きる仲間が、利益を守る為ならやるかも知れない。
「巌、所轄は熊川の周りの人間関係を調べるんだろうか」
「事故、事件の両面で考えると判断している以上、鑑取りは進める筈だが……。誰かにやらせた可能性があると考えているのか」
「………」空木は黙って頷いた。
頷いた空木だったが、誰かにやらせるのであれば、女性でも依頼は出来る事になる。もう一人、桑田を恨んでいるかも知れない人物がいるが……、嫌な憶測が脳裏をかすめた。その人物が桑田と熊川が吉祥寺で会う事を知っていたら……。国領駅から吉祥寺駅までは京王線で三十分とかからない。そんな事は無い。と空木は小さく頭を振った。
「空木さんどうかしたんですか?」河村が気付いた。
「いや、何でもないです。ちょっと気になる事を思い出しただけです」
空木は嫌な推測は胸に収める事にした。河村もそれ以上訊かなかった。
「係長、先ずは熊川を強盗教唆で引っ張りたいですね」声を押えた河村は、今度も周りを見た。
「青山も意識が戻ったという事だから、青山にも念のため聞き取りしてみよう」
「青山さんの意識が戻ったのか、それは良かった」
空木は、心底から良かったと思った。六月に池永由加が、鳳凰山で滑落死した事件に関わる事から始まって、武蔵国分寺病院の岩松兼男の死亡事件、データのひったくり事件に端を発しての木内範夫の本社ヶ丸での滑落死、そして青山の跨線橋からの転落と続いた中で、青山の死からの生還ともいえる意識の回復は、空木にとっては唯一の朗報と言うべき出来事だった。