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未必の山  最終話 死者のアベンジ(1)

 八月に入ると、東京は猛暑がぶり返した。

 マスコミ、メディアは、武蔵国分寺病院での入院患者の死亡が、病院長と看護師によって引き起こされた事件だったと報じ、さらに病院の副院長を殺害しようとした疑いで、病院長と関係する薬局の責任者が逮捕された事も報じていた。

 空木健介は報道の喧騒をしり目に、南アルプスへの山行に出かけた。

 北岳(きただけ)間ノ岳(あいのだけ)農鳥岳(のうとりだけ)白根三山(しらねさんざん)を二泊三日のテント泊で縦走した空木が、猛暑の甲府駅に着いたのは、八月十一日木曜日、山の日の祝日だった。帰路の中央線は、東京吉祥寺駅での人身事故のため大幅に遅れ、ダイヤが乱れている事を構内放送や、テロップで案内していた。それは、空木が下界に戻って来たことを否が応にも知らせるものだった。


 木内香織(きうちかおり)が、亡くなった夫、木内範夫(きうちのりお)の強盗致傷の容疑で国分寺署の家宅捜索を受けたのは、葬儀の二日後の七月二十三日土曜日だった。捜索に訪れた河村刑事から亡夫の容疑を聞かされ、捜索令状を見せられた香織は呆然としていたが、直ぐに我に返り子供たちを部屋に入っているように促した。

「死んだ主人は、本当にそんな事をしたのでしょうか……」

 河村には、その香織の声は細く、やっと聞き取れた。

 主人を山の事故で突然亡くし、気丈に葬儀を終えたばかり。二人の子供とともにこれからの生活の事を考えれば、暗澹な気持ちになって当然の所に、亡夫が強盗致傷犯だと警察に言われれば、そのショック、動揺はとんでもないものだろうと、河村にも容易に想像出来た。

 そんな思いを抱えながらも河村は、七月八日金曜日に発生した中央線国立駅でのひったくり事件の際に、片倉隆文が転落負傷した事、その際駅の構内カメラに写っていた逃げる男が、木内範夫だった事、そして一昨日押収したカバンの中に入っていた書類がひったくられた物だった事をゆっくりした口調で説明した。

「そのカバンというのは、主人の部屋にあった黒い書類カバンでしょうか」

「そうです」

「あれは会社の桑田さんから預かった物では……」

「預かった物ではなくて、その桑田から盗むように(そそのか)されて片倉さんから盗った物だったんです」

「そんな……」

「それと、書類と一緒に木内さん直筆と思われる片倉さん宛の手紙もあって、それには償いと悔いる言葉がありました」

「手紙ですか……」

「はい。それでその手紙が、ご主人が書かれた物か、筆跡の鑑定も必要なので、お宅にあるご主人の書かれた物をお貸しください」

「その手紙を見せていただけませんか」

 河村は、ショルダーバッグから手紙のコピーを取り出し香織に渡した。香織は食い入るように手紙を見た。

「主人の字に間違いないと思います。……この黒塗りにされている所は人の名前では……」

「そこはお見せすることは出来ませんので……」

 河村は香織から手紙のコピーを受け取りカバンに戻した。

「主人は何でそんな事をしたんでしょう。そんな事を、そんな悪い事をするような人ではないのに……」

 香織の目から涙が溢れた。悔し涙なのか、新たな悲しさが込み上げてきたのかは、河村には分からなかったが、夫を失った妻の涙を見るのは切なかった。

「被害に遭われた方は、大丈夫だったのでしょうか。今はどうしているのですか」と香織は涙を(ぬぐ)って訊いた。

 こういった状況にあっても、被害者を気遣う事が出来る香織に、河村は驚くとともに感心した。

「一つ間違えれば大事になっていたところですが、運よく大事にはならなかったようです。今は、自宅で療養されている筈です」

「良かったです。その方のご住所か、連絡先を教えていただけませんでしょうか。お見舞いに伺いたいのですが」

 河村は暫く考えた後、手帳を取り出し、香織に教えた。

「もう一つ伺いたいのですが、山梨の警察の方が主人のスマホを持って行ったのですが、何か分かった事があるんでしょうか」

「……それは私には分かりません」

 河村は、木内範夫が桑田弘と一緒に山に行っていた事は、口にしなかった。それは管轄外の事だからという理由だけでなく、香織に余計な不信を抱かせたくないとも思ったからでもあった。

 河村たちは、パソコンや仕事関係の手帳、木内の直筆の物などを押収し、捜索を終えた。

 河村は、その翌週から『築山橋跨線橋転落事件』に奔走する事となった。


 片倉隆文の住むマンションは、小金井市本町にあって、退院した片倉隆文は、七月二十日から自宅療養に入っていた。

 木内香織からの電話は、二十四日日曜日の午後にあった。片倉は、香織の強い希望に、見舞いに来ることを拒まなかった。

 数日後、香織は見舞いの花と菓子を手に片倉を見舞った。首に巻かれたコルセットが痛々しい片倉を見て、香織は深々と体を折った。

 玄関口では近所の目もあるからという片倉夫妻の言葉に香織は頷いた。

 部屋に案内された香織は、亡夫の葬儀後の始末や、子供たちの面倒などで、見舞いが遅くなったと詫びた。

「お子様は?」片倉の妻が心配そうに聞いた。

「小学校五年の娘と小学校一年の息子がおりますが、静岡の母が来てくれていますから……」

「そうですか、それは大変ですね。私はまだコルセットははずせませんが、他は無事でした。こうして元気ですし、八月の盆明けには出社も出来ると思いますから、どうぞ心配しないでください。それより、ご主人がご不幸な事になってしまって、木内さんの方が……」

 片倉隆文の言葉に、香織は「ありがとうございます」と頭を下げた。

「それにご主人からは、警察を通じて私宛に書かれた手紙をいただきました。ご主人も書類の中身も知らずに、先輩から言われた通りにしたのでしょうが、悩んだようです。ある意味、ご主人も被害者かも知れませんね」

「先輩ですか……」と俯き加減だった香織が顔を上げた。

「先輩というのは、どなたの事なのでしょうか、宜しかったらお話していだけませんか」

 香織の変化に、片倉は背筋を伸ばすように顔を上げ、妻に手紙を持ってくるように頼んだ。

「これです、読んでください。ご主人の書かれた手紙のコピーです。原文は警察にあるようです」

 香織は手紙を見るのは二度目だったが、片倉から渡された手紙には、黒塗りの部分は無く、それを読むと、そこには(指示したのは片倉さんの上司であり、私の大学の先輩でもある桑田さん)と書かれていた。

「私の上司でもある桑田弘GMです。私の気を引き締める為と言ったそうですが、意味が分かりません。警察の取調べで何の為に木内さんに盗らせたのか分かると思いますが……」

「桑田さんが主人に盗らせたんですか……」

 香織は桑田が葬儀の後、書類の入った黒いカバンを取りに来たことの理由が、ぼんやりと見えた。

「ご主人は、桑田GMと山登りに行った時に転落してしまったようですが、この事の悩みが影響していたのかも知れませんね」

「え、桑田さんと一緒に……知りませんでした」

 香織の唖然とした様子に片倉は慌てた。

「すみません、私もある人から聞かされたので、確かな話ではないかも知れません」

「……」香織は考え込んだ。

 桑田は葬儀の時そんな事は一言も言わなかった。書類を盗めと主人に指示した事に加え、山に一緒に行った事など全く口にしなかった。何故……。

「片倉さん、お見舞いに来た人間がお願いするのは、大変失礼な事だと思いますが、主人と桑田さんが一緒に山に行ったようだと言われた方を教えていただけませんでしょうか」

「その人は、ご主人と桑田GMが山登りの格好で駅にいるところを見て、その写真も持っているんですが、その写真を、ご主人の生前の最後の姿だからあなたに届けたいと言っていたので、それで奥様もご存知なのかと思っていました」

「写真があるんですか……。是非その方にお会いしたいです」

 片倉は隣に座って話を一緒に聞いている妻を見た。

「教えて上げたらどうですか」

 妻の言葉にスマホから『空木健介』の連絡先を引っ張り出した。そして、自分が盗られた書類の探し出しを依頼した探偵である事を伝えた上で、携帯の番号を教えた。


 空木健介の携帯電話に木内香織から連絡が入ったのは、八月二日火曜日の午前十時を過ぎた頃だった。

 空木は、亡くなった木内範夫の妻という女性からの電話に、テレビのスイッチを切った。香織は、片倉隆文から紹介されたと話した上で、死んだ夫の事で話を聞きたいので会って欲しいと言った。

 空木は、木内の妻であれば、聞きたいという話の想像はついたが、それを確認するかのように何を聞きたいのか訊いた。香織は、山梨の山で転落死した夫が、桑田という男性と一緒に山に行ったのかどうか知りたいと言い、空木の写したという写真を見せて欲しいと話した。

 空木は片倉から写真の話を聞いたのだと思いながら、高尾駅で撮った写真を木内の遺族に渡そうと考えていた事を思い出した。

 香織は今日の午後にでも会いたいと言い、空木も応じる事にした。二人は目印となるように、お互い服装を伝えあい、国立駅の改札南口で午後の三時に待ち合わせた。


 猛暑日の午後三時の国立駅の人通りは少なかった。

 空木は、白地に青い縦縞の半袖のボタンダウンシャツを、香織は横縞のボートネックのTシャツを目印にしたが、少ない人通りの中、人待ち風に立っている空木は、目立った。

 空木は、喪服の香織を葬儀の時に遠目から見ていたが、カジュアルな服装の今日は、その時よりも若々しく見えた。簡単な挨拶を済ませると、南口を出て旭通りと云われる通りを二、三分歩いた喫茶店に香織を案内した。

 空木は改めて『スカイツリー万相談探偵事務所所長』の名刺を渡すと、直ぐにプリントした高尾駅で撮った写真を香織に渡した。

「桑田さんと主人です。間違いなく二人一緒だったのですね」香織は写真から目を離さなかった。

「二人はずっと一緒だったという事でしょうか。主人が転落した時も……」

「知り合いの警察関係者からは、そう聞いています」

「桑田さんは主人を助けようとしたんでしょうか」香織は顔を上げた。

「分かりません。はっきり分かっている事は、救助要請しなかったという事です」

「あの日、主人は夜になっても帰って来ませんでした。それで心配になって警察に相談したのですが、桑田さんが救助要請してくれていれば、もしかしたら……」香織はまた写真に目を落とした。

「桑田さんは、主人の葬儀の時も山に一緒に行っていたなんて一言も言いませんでした。それどころか、主人のお骨まで拾っていたんです。どうして……」

 あの時、葬儀の終了を待っていた空木たちが、火葬場へ行くバスに乗り込む桑田を見て、この男が本当に一緒に山へ登った男なのだろうか、と思った事を空木は思い返していた。

 アイスコーヒーに口をつけた香織は、改めて空木の名刺を手に取った。

「探偵の空木さんが、この写真をどうして持っておられるのですか。主人が盗った書類を捜す事と関係があったという事ですか」

 空木もアイスコーヒーを口に運び、暫く考えた。

「……写真は偶然です。が、これがきっかけで木内さんが桑田さんに(そそのか)されて片倉さんから書類を盗ったというところまで行き着きました」

「偶然ですか……。その偶然から主人が盗った事まで……、ですか。空木さんは、もしかしたら、桑田さんが主人に書類を盗れと言った本当の理由を知ってらっしゃるのではないですか」

 香織の目が空木を刺すような目付きに変わった。

「聞くところでは、桑田さんはセロンという薬の緊急安全情報を出したいが為に、書類を盗らせたと言っているそうです。それは間違いない理由だと思います」

「そんな事のために主人は罪を犯したのですか。桑田さんは、社内の話し合いはしなかったのでしょうか。社内の話し合いでその『緊急』とかいう物を出すのかどうか決めればいい事のように思いますが、空木さんはどう思いますか」

「全くその通りです。私も同感です。バカな事を考えたと思いますが、それは桑田さん自らが考えた事ではないと私は考えています」

「え、それはどういう事ですか。桑田さんが考えたから捕まったのでは……。空木さんは、まだ別に主人に盗れと言った人間がいると……」

「………」

 空木は余計な事を口走ったと目を閉じた。

「空木さんの考えを聞かせて下さい。一体誰が考えたと思っているのか。主人は何も知らないまま……」

「……」

「お願いです、言って下さい」

「奥さんは、私の考えを聞いてどうするおつもりですか」

「……聞いたところで私の力でどうにかなるとは思っていません。それに空木さんの推測が正しいとも限りませんから…。ただ主人が可哀そうで……」

「……分かりました。私の推測をお話ししましょう」空木は意を決した。

「熊川というオーシャン製薬の営業本部長の指示だと考えています。その熊川という偉いさんも、ある病院の偉いさんから頼まれたのかも知れません」

「本部長の熊川さん……。熊川さんも主人の大学の先輩だと聞いています」

「という事は、桑田さんの先輩でもある訳ですか……」

 空木は腑に落ちた。北日本薬科大学の繋がりが熊川から桑田、そして木内にまで及んだのだと。

「空木さん、私と一緒に桑田さんと熊川さんに会っていただけませんか」

「………」

「空木さんは、この名刺の通りなら調査だけではなくて、万事(よろすごと)の相談も受けていただけるんですよね。勿論お金はお支払いしますから一緒に会っていただけませんか」と香織は、空木の名刺を両手で持って、ここに「万相談」と書いてある、と言わんばかりに空木の前に置いた。

 空木は、またアイスコーヒーに口をつけ、暫く考えた。桑田と熊川の面会にただ付き添っていくだけの話ではない。真実、香織の納得のいく真実に辿り着くまで付き合い、調べる事になりそうだ。とは言え、これは自分の推理を香織に話した事が発端だとすれば、引き受けるしかないと覚悟を決めた。

「分かりました。ただ、桑田さんは、拘留されているとしたら、今すぐには会えませんし、私の知る限りでは、容疑者は裁判が終わるまで事件の関係者とは会えない規則があると思います。もしかしたら私一人で会う事になるかも知れませんね。いずれにしても二人への連絡は、奥さんに取っていただく事になる事は承知しておいて下さい」

「桑田さんは今も警察にいるんですか」

 空木は「ちょっと待っていて下さい」と言って席を立ちスマホを手に店外へ出た。十分程して空木は「お待たせしてすみません」と席に戻った。

「知り合いの刑事に確認してきました。桑田さんは、強盗教唆と強盗幇助(ほうじょ)の罪状で検察へ送られたそうですが、聴取情況によっては起訴された後、保釈されるのではないかと言っていました。保釈されれば事件関係者以外は面会出来るのですが、やはり奥さんは面会出来ないようです」

「そうですか。……保釈というのは?」

「起訴された後、裁判までの間、殺人とかの重大犯罪ではなく、逃亡する恐れがないと裁判所が判断したら、裁判所が決めた金額を収めると一時的に自由になれるという制度ですが、旅行とか、会ってはいけない人とかの条件が付けられるようです」

「一時的にも自由になれるのですね。主人は死んだのに……。空木さんは主人が山で死んだのは事故だったと思いますか」香織は、顔を下に向けたまま、呟くように言った。

「………」空木は黙った。

「桑田に会って来て下さい。私のあの人への今の気持ちを伝えて下さい。不信感と憤りを伝えて下さい。熊川さんへの連絡は私が取りますから一緒に会って下さい」

 桑田を呼び捨てにした香織の目は、血走っているように空木には見えた。



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