白獣(終)
夕方、高齢のクライアントの病院付き添いの仕事を終えた空木は、堀井と飯豊の二人と会う約束をした平寿司へ向かった。
今日、突然の警察の訪問を受けた二人は、警察から空木の名前を聞かされた上での聞き取りだった事から、連絡を取り合い、そしてどうしても空木から話を聞こうということになったようだった。
「いらっしゃいませ」と女将と店員の坂井良子の声に迎えられて空木が店に入ると、二人は既に小上がりに座っていたが、空木を見ると立ち上がって小さく頭を下げた。
空木は、鉄火巻きと烏賊刺しを三人前注文しながら二人と向い合せに座り、運ばれて来たビールでグラスを合わせた。
「空木さん、一体何が起こっているんですか。空木さんの名前を出されてレンタカーの事を随分聞かれました」飯豊が待ちきれないというように口を開いた。
「僕は、植草院長はレンタカーを何時、何に使ったのか根掘り葉掘り聞かれました」堀井が続いた。
空木は二人にどこまで話して良いか躊躇った。
「警察の捜査に影響する事なので口外しないで欲しい」と前置きした上で、「青山先生は、何者かに跨線橋の上から投げ落とされた可能性が高い。その現場にレンタカーと思われる軽トラックが停まっていたんだ」と明かした。
「それに僕の借りたレンタカーが使われた……」と、飯豊は天を仰いだ。
「俺が飯豊に頼んだんだ」
「その車が使われたかどうかはまだ分かっていないし、君らには何の責任も無いよ」
二人の沈んだ顔を見た空木は、いたたまれず慰めの言葉を口にしたが、知らなかったとは言え、犯罪に関わったかも知れないという二人のショックは、空木にも理解できた。
二人は暫くの間、通夜の膳を囲む弔問客のように、押し黙ってビールを口に運ぶだけだったが、空木に促され漸く警察に話した内容を話し始めた。
飯豊は、レンタカーを土曜日の午後三時過ぎに、病院の職員駐車場にキーを付けたまま届け置き、翌日の日曜日の午前十時過ぎに引き取りに行き、そのまま小平駅前のTレンタカーに返した。車は傷ついたりはしていなかった、と話した。
堀井は、植草のレンタカーの使用目的について聞かれ、植草からは娘の部屋に荷物を運ぶ目的だと聞いたことを警察に伝えたと話した。
気持ちが落ち着いたのか堀井は、「空木さんのお陰で僕たちは疑われずに済んだのかも知れませんね」と言い、植草に関する話をさらに続けた。
「院長がセロンの緊急安全情報の件をどこから知ったのか分かりましたよ。うちの本部長から聞いていたんです」
「本部長……」空木は首を捻った。
「熊川本部長です。院長と本部長は、院長が湘南医大の助手時代からの、MRと医師の付き合いらしくて、今も懇意にしていると、院長が言っていました」
「四十年近く前からの付き合いですか。プロパー時代の医師との関係は、濃いからね……」
と返した空木の脳裏には、今月初旬のある事が思い出された。それは、オーシャン製薬の内部で、セロンの副作用の対応が問題となった時、確か熊川が緊急安全情報を早急に出す事に熱心だった事を思い出していた。
そして、そこにある推理が持ち上がった。あれは植草からの依頼だったのではないかと。セロンの副作用によって岩松が亡くなったという事にする為には、オーシャン製薬から緊急安全情報が出る事が、最も説得力があり、裏付けとしてはベストだと考えたからではないだろうか。
「植草院長は、セロンの緊急安全情報が出ないことを聞いてどんな様子でした?」
「「そうですか」としか言いませんでした。それともう一つ驚いた事は、院長のお嬢さんと熊川本部長の息子さんが付き合っているそうなんです。びっくりです」
「家同士の付き合いという事ですか」
空木は、前職の万永製薬に入社したての頃、先輩たちからプロパーと呼ばれていた時代の医師との付き合いにどれだけ金、物品、体力を使ったのか、しばしば自慢話のように聞かされた事を思い出していた。現在のMRたちの意識とはかけ離れた、売上を上げるためには交際費をいくら使っても良い、使えないのはダメな営業マンだという意識の時代だったようだ。
二人と別れた空木は、夜の九時を回っても、蒸し暑さが収まらない国分寺崖線の上り坂を歩いた。そしてほろ酔いの頭で考えた。
植草は、レンタカーを使って青山を築山橋まで運び、投げ落としたのだろうか。一人では不可能だ。共犯は……考えられるのは上阪だ。
石山田たち捜査本部の捜査員は、割烹料理屋『まさむね』の店長が手配したという青山と上阪を乗せたタクシーを捜し、青山の足取りを追う班、防犯カメラに写った軽トラックを周辺の防犯カメラで追跡する班、青山の自宅付近を地取り捜査する班、そしてレンタカーを利用した植草への聴取を担当する班に振り分けられ捜査を進めた。
浦島と石山田は、任意出頭に応じた大東京調剤の上阪の聴取に当たった。
上阪は、青山とは半年に一回、内科の処方傾向についてアドバイスを受ける為会っていたと言い、先週の土曜日は青山を国立市東のマンション付近までタクシーで送った後は、知らないと供述した。
同じ日、空木は、麻倉が外来診療を終えた後面会した。
空木は、四年前の薬局選定に関して、これまでの関係者との面会で得られた情報を麻倉に報告し、そこに空木の推測も加えた。
「大東京に決まる裏には、萩山ファーマシーから植草院長に金銭が渡された事実があり、さらにそれを上回る大東京からの何かが渡っていたという事ですか」
麻倉は深いため息を吐いた。
「しかもその後も、大東京と院長との関係は続いています」
「金銭ですか」
「その可能性があります」
「……四年前のあの時、私がもっとしっかり調べていれば良かったんですね」
「それから、『病院の幹部が薬局を強請っている』という告発文ですが」空木がそこまで言った時、ドアがノックされ事務部長の寺田が河村刑事とともに入室して来た。
河村が、麻倉と空木を見て挨拶もしないまま話し始めた。
「あ、空木さんもいらっしゃったんですか、丁度良かった、先程、科警研から印字の鑑定結果の報告があって、例の二つの印刷物は同じ機種から印刷された物で、機種はE社の18製だという事です。この病院で使われている物だと寺田さんから確認が取れました」
河村の横に立っていた寺田が、言い難そうに顔をゆがめていた。
「それで、うちの病院でE社の18製は一台だけなんです」
「どこで使っているんだ」麻倉の語気が強くなった。
「院長室です。他は全てうちの病院は入札で決まったC社なんですが、院長だけはE社なんです」
「そう言えば、当時、植草院長がE社にしてくれと騒いでいたね。そうか……」
麻倉は天を仰いだ。それは何かを覚悟したかのように空木には見えた。
空木は、二つの印刷物が同じ機種で作られたという鑑定結果に驚きはしなかった。驚くよりも得心した。植草が作ったものであれば、告発文の存在を知っていて当然であり、あの時、植草は空木とのやり取りに興奮して口を滑らせたのだ。しかし二つの印刷物を作った意図は何だったのか。遺書めいた物は、青山を自殺に見せかけて殺害する為と思われるが、それは岩松兼男へのKCL投与を青山の仕業にする為でもあった。それが意味するのは、投与したのは植草だという事だ。とは言え、上阪は何故共犯として手を貸したのか、植草の命令に従わざるを得なかったのか、若しくは青山を共通の邪魔者とする何かがなければならない。告発文は空木の推理通り、青山の自殺を警察が疑った時、全てを知る上阪に疑いの目を向けさせる為であり、その上阪を青山同様に自殺に見せかけて殺害することも考えていたのではないか。だとすると植草という人間は恐ろしい男だ。
「植草院長は在室なのか」
麻倉が寺田に目をやった。
「いえ、青山先生の見舞いに行くと言って出かけました」
「本部には既に連絡していますから、重要参考人として身柄の確保をさせていただき、任意同行をお願いすることになります」
河村はそう言うと、空木と麻倉に黙礼をして部屋を出た。寺田も後を追う様に部屋を出て行った。
「……空木さん、大変な事になりそうです」
麻倉の額の皺が深くなった。
「麻倉さん、辛いお気持ちは分かります。ただ私にはもう一つ気になる事があります。それは、植草院長と上阪さんが定期的に会食していた『まさむね』で、亡くなった岩松さんと遭遇していたのではないかという事です」
「岩松が院長と……」
「しかもその事が、岩松さんの死亡に関係しているかも知れない。それを確認したいのですが、岩松さんの息子さんに連絡を取っていただけませんか」
「もしや最初にKCLを入れたのも植松院長ですか……」
「私はそうだと思っています。その理由が『まさむね』にあるような気がします」
捜査本部には、各捜査班から情報が集まっていた。
上阪と青山を乗せたT観光タクシーの運転手は、土曜日の夜八時半頃二人を乗せて国立東まで行ったが、一人の客は乗車してからずっと眠っていて、もう一人の客が抱きかかえるようにしていたと証言した。さらに二人を降ろした付近に、一台の軽トラックが停まっていたとも証言した。その事は地取り捜査班からも付近の住民の情報として入った。
周辺の防犯カメラでは、築山橋以外で一台のカメラに土曜日の九時過ぎに軽トラックが通過している画像があった。そして、武蔵国分寺病院の職員駐車場の防犯カメラには、土曜日の午後六時二十分と午後九時二十八分に白い軽トラックが写し出され、運転しているのは植草によく似た男だった。
多摩急性期医療センターに入院中の青山の病室には、面会時間外にも拘わらず、二人の刑事が座っていた。そこに、白衣を着た初老の医師が入って来た。それは植草だった。
任意同行を求められた植草は、動揺する風も無く、白衣を車に置きたいと言った。刑事の一人が白衣の両ポケットに何かが入っているのを見つけた。それには『KCL注射用キット』と書かれていた。
植草の聴取には、浦島と河村が当たった。
植草は、レンタカーを使ったことは認めたが、青山を築山橋から投げ落とした事は全否定し、「築山橋には行っていない。娘の荷物を杉並に住む婚約者の部屋に運ぶ為に使った」と言い張った。
防犯カメラに写っている軽トラックが、レンタカーの軽トラックと同じ車種だと河村が写真を見せても、行っていないと言い続けた。
E社のプリンターで作られた二通の印刷物も覚えが無いと言うだけだった。
白衣のポケットに入っていたKCL注射用キットは武蔵国分寺病院の病棟で戻し忘れた物だと説明した。そして
「これは任意の同行でしたね。院長としての業務もありますので、そろそろ帰らせていただきます」と植草は白いフレームの眼鏡を掛け直しながら立ち上がり、白衣を受け取って帰って行った。
一方、上阪はレンタカーについては、「全く知らない」と言い、青山を送った後は、国立駅まで歩き、バスで帰宅したと説明した。
冷静に話す上阪に、石山田が「これを見て下さい」と告発文のコピーを上阪の前に置いた。
「これは告発文ですが、強請られているのは、あたかもあなたであるかのように書かれています。強請られているあなたが、青山さんを殺害しようとしたと思われるように仕向けた告発文でしょう。これを誰が作ったか教えましょう。植草院長の可能性が極めて高いんです」
冷静だった上阪が言葉を失い、黙った。
「上阪さん、何なら今日から警護の人間を付けましょうか」石山田が真剣な眼つきで言うと、上阪は、「どういう意味ですか、私が誰かに襲われるとでも言うんですか」とムキになった。
翌日の土曜日の朝、上阪は国分寺署に自ら出頭した。そして青山を植草と共謀して築山橋から投げ落としたことを自ら供述した。
上阪は、後悔と恐怖心から自首して来たと語り、全てを話した。
土曜日の夜、六時半頃から『まさむね』で青山と飲み始め、終わりかけた頃、青山がトイレで席を外した隙に、超短時間型の睡眠導入剤をビールグラスに入れ飲ませた。タクシーを呼んでいる間に、青山はウトウトし始め、タクシーに乗った時には一人では歩けない状態だった。八時四十五分頃に国立市東にある青山のマンション近くでタクシーを降り、停車していた軽トラックの荷台に青山を乗せた。その軽トラックは植草が用意していた車で、運転していたのは植草本人だと供述した。自分はそこまでの役目だった筈が、植草に築山橋に一緒に連れて行かれた。そしてトラックの荷台を足場にして青山を投げ落とすのに手を貸してしまったと供述した。その後、自分はその車で植草が病院に戻る途中に、車を降りて帰宅した。
青山を殺害しようとした動機は、植草の怒りと青山の口封じだったと供述した。
それは敷地内院外薬局の選定から始まった。裏工作で植草への現金の授受と薬局開局後のリベートの約束により大東京調剤に決まったことで、植草には、二カ月に一回、青山には半年に一回、大東京調剤武蔵国分寺病院店での二重帳簿によって作り出した薬価差額収益を分配し、自分も適当に着服していた。それが、岩松の死亡をきっかけに青山が突然金銭の受け取りを拒否し、病院を辞めると植草に告げた。植草は怒り、それを許さないと言った。しかし青山の決心が変わらなかったために、植草は青山を殺害しようと決め、岩松兼男へのKCL投与を青山に擦り付けた上で自殺に見せかけて殺そうとした。そしてあの夜、自分に青山の誘い出しを命じた。
「青山先生に眠剤を飲ませて自宅付近まで連れて行って、後は院長に任せる事になっていたんです。それを私にまで青山先生を担がせて投げ落とさせたんです。きっと私の口も封じるつもりだったんでしょう。もう終わりにします」
上阪は「ふー」とため息を吐いた後、その目は遠いはるか彼方を見ていた。
上阪が自首した時間と同じ頃、空木は八王子市横山町の岩松兼男の息子、岩松義男の住むマンションの近くで面会していた。
やはり岩松義男は、『まさむね』の常連客だった。
四月の第二金曜日の事を、岩松義男は良く憶えていた。母親の誕生日のお祝いに三人で食事に行った日だった。父親の兼男が、用足しを済ませた後、少しばかり酔いが回っていたのか、部屋を間違えてしまった。大事な話をしていたらしい二人は激怒し、自分も店長とともに詫びたが、部屋を間違えたぐらいであんなに激怒するとはびっくりしたと話した。
「お父さんはその時、何かを見たのではありませんか」
「確か、白い眼鏡の男がお金を数えていた、と言っていましたね」
「その二人が、武蔵国分寺病院の院長と、院外薬局の店長だったことはお聞きになっていましたか」
「え、そうだったんですか………」
岩松義男は驚き絶句した。
岩松義男の驚きは、父親が亡くなった病院の人間と遭遇していた事だけではなく、父の死に疑惑が生じた事の驚きではないか、と空木には思えた。
植草は、間違いなく岩松にKCLを投与した第一実行者だと、空木は確信した。
VIPで入院して来た患者が岩松だと知った植草は慌てただろう。罪を犯した人間は、異状に猜疑心が強くなると云う。麻倉の友人の岩松が、何時、自分に気付いて理事長の麻倉に話をするのか大きな不安を持った。金の授受を見られた植草は気が気でなかっただろう。そしてその不安は、自分の保身、更には金銭欲と重なって、獣のようなどす黒い計画を思いついた。愛人の佐野美佐を利用して岩松を殺害する計画を思いつき実行した。佐野美佐が岩松さんにKCLを投与する前に、植草は院長の立場を利用して担当看護師が病室を空ける一瞬を狙い、その間にKCL一本を点滴バッグに混注したのだろう。あたかも佐野美佐の投与で死亡するようにするためだった。そこに都合よく、自分の懇意にしている会社の薬の副作用の話が出て来てくれた。副作用での死亡にすれば完璧だと考え、熊川に緊急安全情報を出すべきだと指示したのだろう。
空木は、石山田に連絡を入れ、四月の第二金曜日の『まさむね』の出来事を、そして金銭の授受の事実を伝えた。さらに空木は、それが岩松殺害のきっかけになったという推理も当然加えた。
自首した上阪の供述を受け、捜査本部は植草への逮捕状を取り、院長室のパソコン、プリンターも押収した。
植草が娘の荷物を運んだという、杉並区浜田山のマンションに住む娘の婚約者の熊川一義は、当初植草は布団を持って来たと証言したが、その後、植草逮捕を知らされると、一転して自身の父親から指示されて噓の証言をしたと明かした。
逮捕された植草は、聴取に当たった浦島と石山田に「青山は私の恩を忘れた上に裏切った人間です」と言ったきり、暫く黙ったままだった。
上阪が、『まさむね』で金の授受を岩松兼男にたまたま見られた事が原因で、偶然にも入院して来たその岩松を、KCLで心不全での急死に見せかけて殺害しようとしたのは植草だった、と供述した事、さらに植草に渡した金は、全て愛人の佐野美佐に渡っていたと供述している事を告げられた植草は、「ふー」と大きく息をついた。
「青山は死んでいませんね。ということは殺人未遂ですか。岩松の死亡は、私の行為で死亡した訳ではなく佐野美佐がやった事。私の行為は、まさか死ぬとは思っていなかった未必の故意という行為でしょう。重罪ではない」
薄ら笑いを浮かべた植草は、そう嘯いて開き直ったように白いフレームの眼鏡をかけ直した。
聴取に当たっていた二人は顔を見合わせた。
浦島の顔がみるみるうちに真っ赤に染まった。
「植草征一、いい加減にしろ。お前は仮にも、人の命を預かる仕事に長い間携わってきた人間として恥ずかしくないのか。人を助ける立場のお前が、金と女に目がくらんで人の命を平気で奪うとは……。白衣を纏った獣だ。お前は厳罰を受けるべきだ」
いつも冷静な浦島が、珍しく声を荒げた。
八月一日月曜日も朝から暑かった。
空木は麻倉を理事長室に訪ね、依頼された調査の報告を済ませた。
「ご苦労様でした。今回の一連の事件は全て私の責任だと思います。植草君を湘南医大の消化器内科の教授から、院長で受け入れるよう頼まれたのが始まりです。医師の派遣で便宜を図ってもらおうという私の下心で、評判の良くなかった植草を受け入れ、その時一緒に佐野美佐も来た。そしてその後、青山君が副院長として来ることになり、薬局選定が始まった。あの時、萩山ファーマシーからの告発に、私がもっと真剣に調べていれば、大東京調剤と植草との関係は断つことが出来て、幼友達の岩松を死なせることはなかったと思うと、悔やみます」
「麻倉さんの理事長として悔やむ気持ちは分かりますが、一人で責任を背負い込むのは違うと思いますよ。植草院長は、人間としての理性が欲望に負けてしまったんです」
「……植草も医の道を志した筈、どこで獣道に入り込んだのか……」
麻倉は、大きな溜息とともに天を仰いだ。そして改めて空木に顔を戻し礼を言った。
「空木さん、ありがとうございました」と頭を下げた。
「麻倉さんはこれからどうされるおつもりですか」
「私は、理事長職は妻に譲って、この病院の信用を取り戻すために、もう一度この病院の勤務医としてやり直そうと思っています。老骨にムチ打ちますよ」麻倉はそう言って笑った。
「麻倉さんのそういう思いは、私の好きな言葉の「能く生きる」そのものです。どうか無理はなさらないで下さい」
空木は麻倉に別れの挨拶をして理事長室を出た。玄関に向かいながら、麻倉が言った「獣道」を思い返した。獣道に迷い込んでも戻る勇気があれば戻れた道だったのに、植草は戻らなかった。白衣を身に着けた獣のままだったと。
病院の玄関を出た空木は、その暑さにまた一瞬のめまいを感じた。「暑いぞ!」空木は独り言を口にしていた。それは人間の欲望の醜さへの、空木の苛立ちを表した様な独り言だった。