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スパイト(2)


 東京を含めた関東地方が、梅雨入りして十日程経った六月中旬、東京国分寺のトレーニングジムで汗を流す中年の男に、長身の若いインストラクターの男性が声を掛けた。

空木(うつぎ)さんに相談したい事があるのですが、トレーニングが終わったら時間を取っていただけませんか」

インストラクターの池永雄造(いけながゆうぞう)は、周囲に気遣う様に小声で、空木(うつぎ)という髪を短く刈上げた中年の男に話し掛けた。

 一時間後、二人はジムの玄関横の長椅子に横並びで座った。

「空木さんは確か探偵事務所を開いていらっしゃいましたね。それに山登りもされている……」

「ええ、そうですが……」

池永の質問に空木という男は、怪訝な顔を見せて答えた。


 空木健介四十四歳、独身。四十を過ぎて十八年間勤めた製薬会社を辞め、出身地の東京国分寺で探偵事務所を開設した。事務所と言っても自宅のマンションの一室を事務所とし、メールボックスに『スカイツリー(よろず)相談探偵事務所』の小さな看板を貼り付けているだけで、事務員兼調査員兼所長という一人零細事務所だった。仕事は素行調査、不倫調査、高齢者の病院への通院付き添いなどだが、多忙になったことは無い。年金生活に入っている実家の両親のスネに頼る事も多いにも関わらず、趣味の登山と下山後の一杯を楽しみに暮らしている男だ。


「実は僕の三歳下の妹の事で相談なのですが……」

「妹さんがどうかされたんですか」

「妹は、今年の十一月に結婚する予定だったんですが、三週間前の六月四日土曜日に、南アルプスの山で滑落して死にました」

「亡くなった…。南アルプスのどこで亡くなったんですか」

「鳳凰山の観音岳という山の頂上直下の下りの岩場だそうです。僕は、山登りはしませんので、現場がどれくらい危険なのか分かりませんが、空木さんはご存知ですか」

池永は持って来た手帳を見ながら山の名前を伝えていた。

「ええ、鳳凰三山のコースは二度ほど登って歩きましたから大体の見当はつきます」

「そのコースは人が死ぬような危ないコースなのですか」

「2500メートルを超える山の連続ですから危険度ゼロとは言えませんが、比較的危険度は低いコースだと思います。ただ私の記憶では、観音岳から地蔵岳へのルートの下り箇所では神経を遣うところがあったように思います。あの辺りでスリップしたら滑落という事も考えられます」

「スリップですか……。妹が滑落した日は雨が降っていましたから、救助に行ってくれた警察も、雨で濡れた岩場で滑ったんだろうと云っていました」

「妹さんは一人で山に行ったんですか?」

「いえ、高校時代の友達二人と一緒でした」

「その方たちは無事だったんですか」

 池永は手にしている手帳を開いた。

「お一人は望月愛さんという方で、妹の前を歩いていて一緒に落ちたそうで、大腿骨の骨折で山梨の病院に入院中だと思います。もう一人の友達は高野鮎美さんという方で、一番後ろつまり妹の後ろを歩いていたそうで無事でした。この方が救助要請したそうです」

「その方の話は聞かれたんですか」

「はい、妹の葬儀の時に聞かせてもらいました」

「やはりスリップでしたか?」

「それが、その高野さんが言うには、妹は滑ったというより足を踏み外した、踏み損ねた感じでフワッと落ちたと言っていました」

「フワッと落ちた………。それで私への相談というのは…」

「妹は本当に結婚を望んでいたのか疑問に思えるのです。これは僕よりもうちの親が、由加は何故こんな時期にそんな高い山に登ったのか分からない。もしかしたら結婚に乗り気ではなかったことが原因じゃないか、と言い出したんです。僕自身も妹の葬儀で涙一つ見せない相手の男性を見て、由加が可哀そうに思えてきて、何故行ったんだろう、本当に事故だったのだろうかと思い始めてきました。それで……」

「事故ではないと言うと……」

「……自ら落ちたのではないかと……」

「……結婚するのが嫌で、断れ切れなくて死を選んだのではないかと考えている訳ですか」

「………」

 池永は無言だった。その無言の意味は空木の言った言葉に否定の無言ではないと空木は感じ取った。

「でも自殺するなら山でなくても自殺は出来るはずですが…」

「それも考えましたが、友達と楽しい時間を過ごしていて、現実に引き戻される事が迫ってくることで、追い詰められるように死を選んでしまったのではないか、と…」

「妹さんの結婚相手の男性は、何をしている方なんですか」

 空木の問いに、池永は持っている手帳を開いて渡した。

「杏雲医科大学病院の先生ですか」空木は呟いた。

 そこには杏雲医科大学病院外科医師五島育夫(ごとういくお)と書かれていた。

「妹は杏雲医科大学病院の看護師だったんです。この先生と二年程付き合っていたようで、今年の十一月二十日が式の予定でした。妹に一体何があったのか、警察は事故扱いですし、もし自殺だったとしてもその原因が何だったのかなんて警察にとってはどうでもいい話でしょう。空木さんに相談というのは、妹に何かがあったのか、それとも本当に事故だったのか調べていただけないかという事なんです。調査料は勿論払います」

「……お引き受けすることは出来ますが、かなり難しい調査のように思えます。調べても何も出てこない。やはり事故だったという結論になる可能性も高いように思いますが……」

空木は手帳を池永に返しながら確認するように言った。

「それは承知の上です。それならそれで僕も両親も納得しますから、何とかお願いします」

池永はそう言うと、空木に体を向け、頭を下げた。

「……わかりました」

 空木は、改めて池永に、調査のための由加の周辺情報をメールで送ってくれるよう依頼した上で、スカイツリー(よろず)相談探偵事務所の名刺を渡した。


 翌日の夕方、空木健介は、池永雄造が送って来た情報を基に、吉祥寺南町のスナックで高野鮎美と面会した。開店前の店は高野鮎美一人だけでガランとしていた。

「由加の事故の件で私に聞きたいというのはどんな事でしょう」

 前もって空木からの電話で面会の用件を聞いていた鮎美だったが、空木の『スカイツリー万相談探偵事務所所長』の名刺を手にして緊張しているようだった。

「亡くなった由加さんのご家族は、もしかしたら由加さんは結婚を苦にしていたのではないか、それで危ない山に登って自殺したのではないかという切ない思いを抱えています。本人が亡くなってしまっている以上、本心を知る(すべ)はないのですが、ご家族から出来る限り調べて欲しいと依頼されました。それで高校時代からの友人で、事故があった鳳凰山も一緒だった高野さんたち親しい友人なら、何か感じる事があったのではないかと思って話を伺いに来たという訳です。それと……、転落した際の由加さんの姿を間近で見ている貴女の目からはどう映ったのか、つまり事故なのかそうは見えなかったのか、感じた所で良いので話して欲しいのです」

 空木はメモ用の手帳を手にした。

 空木の話を聞いていた鮎美は、空木から自殺という言葉が出た瞬間から驚きの表情とともに、眉間に皺を寄せて首を捻った。

「由加が結婚を苦にしていた……。それで自殺ですか……。結婚を苦にしていたとは思えなかったです。でも由加は、((たま)輿(こし))と言われるのが嫌だったみたいで、結婚してからも看護師を続けたいって言っていましたし、勤める病院も探していたみたいですから、自殺するとは……」

「高野さんは、由加さんのご家族に由加さんは岩場で足を踏み外したと話しておられますが、前日から当日の転落事故までの間に気になるような事はありませんでしたか」

 空木の問いに鮎美は、思い返す様に中空に目をやって考えていた。

「前日は特に気になるようなことは無かったと思いますが、あの日雨が降り始めた薬師岳からの歩きで、後から見る限り、由加は時々ふらついているように見えましたけど、雨で足元が不安定になったからだろうと思っていました。観音岳の頂上に着いて、三人で写真を撮って直ぐに頂上からの下りの岩場に差し掛かったんです。私がそこで由加に「雨で濡れているからスリップしないように気を付けようね」って後ろから声を掛けたんです」

「その時由加さんは?」

「レインウエアのフードと雨音で聞こえなかったのか、何も反応はありませんでした。その直後に由加はフワッと崩れるように落ちてしまったんです」

「スリップして滑落したという感じでは無かったということですね」

「私にはそう見えました」と鮎美は頷くようにしながら答えた。

「薬師岳までは気になる事は無かった?」

「はい、雨もまだ降っていませんでしたし、ほぼコースタイム通りに薬師岳に着いて、山小屋で作ってくれた朝食のおにぎりを三人で食べたんです」

「雨は何時頃から降り始めたのか覚えていますか」

「愛の淹れてくれたコーヒーを飲んでいる時に振り始めてレインウエアを着ましたから、雨は七時半過ぎ頃から降り始めたと思います」

「愛さんという方は、入院している望月愛さんですね」

「そうです。愛も巻き添えというか、由加と一緒に落ちてしまったんですけど死ななくて良かったです。由加には申し訳ない言い方ですけど……」

「愛さんは一番前を歩いていて巻き添えということですね」

「私も五月に甲武信ヶ岳(こぶしがたけ)に登った時に、下りの登山道で後ろの友達が倒れ掛かって来て数メートルですが落ちたんです」

「えっ、高野さんもそんな経験をされたんですか。怪我は?」

「幸いな事に、擦り傷と軽い打撲だけで済んだんです」

「後ろの方は大丈夫だったんですか」

「私と同じ軽い怪我で済んだんです。ふらついて倒れてきたらしいんですけど、近くの避難小屋で三十分位休んだら元気になって、歩けるようになったんです」

「なるほど。ところで、転落した後の由加さんの様子はどうでしたか?」

「声を掛けても反応はありませんでした」

「息はありましたか?」

「あったと思いますが、動転していて確認する余裕はなかったです。愛も(うめ)き声でしたし、どうしようと凄く慌てていましたから。ただ由加のレインウエアにもフードが外れた顔にもかなりの血が着いていました。でも戻ってきた時には、由加は生きていましたから息はあったと思います」

「高野さんはそこに二人を残して小屋に救助を依頼しに行った訳ですが、携帯電話は繋がらなかったのですか」

「はい、私の携帯は何処にも繋がりませんでした」

「小屋に助けを求めに行く間に他の登山者には出会いませんでしたか?」

「一人だけ会いました。男性の登山者で事情を説明して、私が戻ってくるまで二人の所に居てもらえないか頼んで協力してもらいました」

「協力してくれたという事は、高野さんが戻ってくるまでの間、二人と一緒に居てくれたという事ですか」

「そうです。私と山小屋の男の人が二人の所に着いた時、黄色いシート、ツエルトって言うんですか、それで二人の体を雨から防ぐように覆ってくれていました」

「ツエルトを持っての単独行というのは、かなり山慣れた方ですね。その男性の名前、住所は分かりますか」

「確か、片倉さんと言う方だったと思いますが、住所までは聞きませんでした」

「その男性の泊まった小屋は、高野さんたちと一緒の小屋でしたか」

「いいえ」と鮎美は首を振った。

「一緒に来てくれた山小屋の方と話している様子では、その山小屋に泊まった方のようでした」

 空木は鮎美の話を手帳に書き留めた。

「救助隊が着いた時には、由加さんはまだ生きていた?」

「……救助隊が着いたのは、夕方の五時過ぎだったと思いますが、私は生きていると思っていましたが……。死んでいたかも知れません。隊員の人たちが、入れ替わりで心臓マッサージをしていました。ヘリが飛んでいれば由加は助かったかも知れなかったのに……。あんな天気の日に登らなければ良かった。私が誘ったんです……」

 鮎美は両手で顔を覆った。

「高野さん、人生の中ではどうにもならない事もあります。それが運命と言われるものかも知れません。同じように転落した、愛さんが助かったのもそういうことではないでしょうか。ところで愛さんの、怪我の具合はいかがですか。話を聞くことは出来ますか」

「まだ山梨の病院に入院していますが、近いうちに勤務している大学病院に転院するようです。家族の負担も大変みたいで、こっちへ来れば少しは負担が減るからって言っていましたから、話は聞くことは出来ると思います」

 鮎美がハンカチで涙を拭っている時、店のドアが開いた。

「あら、鮎美ちゃん今日は早いのね」店のママだった。

空木はママに名刺を渡し、山の事故の件で鮎美から話を聞かせてもらったことを説明し、用件は済んだことを告げた。

「鮎美ちゃんは、先月も山で事故に遭って、また事故に遭うなんて、厄払いした方が良いって言っていたんですよ。心の病気は良くなっても命を落としたんじゃ何にもならないでしょ。探偵さんもそう思うでしょ」

ママはそう言って鮎美に顔を向けた。

「ママにも心配かけて、お店にも迷惑かけてごめんなさい。もう山には行きません」

鮎美は小さく頭を下げた。

 空木は礼を言って店を出た。時刻はまだ午後五時半を回ったところだった。

 



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