白獣(2)
日曜日、朝食とも昼食ともつかない食事を、今流行りのコッペパンとコーヒーだけで済ませた時、空木のスマホが鳴った。画面の表示は、石山田巌だった。
「空木、青山が大変なことになった。危ないみたいだ」
空木は石山田の慌てた口振りに只事ではない事が起こったと感じた。
「どうした、何があったんだ」
「青山が中央線の線路の中で倒れているのが見つかって、病院に運ばれた。意識不明らしい」
石山田がその一報を受けたのは、日曜日の朝六時過ぎだった。
早朝のウオーキングをしていた女性からの通報で、現場に出向いた河村刑事からだった。
現場は国分寺市日吉町の中央線の跨線橋の築山橋の直下で、意識の無い状態で倒れていた。財布に入っていた運転免許証と名刺から身元が判明し、武蔵国分寺病院の副院長だったことから、河村が石山田に連絡を入れたのだった。
「それで青山副院長の容態はどうなんだ」
「多摩急性期医療センターに運ばれて、頭部からの出血は、見た目は僅かだったらしいが、脳内出血やら、臓器の損傷が激しくて緊急手術に入っているらしい。危ないんじゃないか」
「息はあったという事か」
「そういう事だ。これから青山を詰めていこうとしていた矢先なのに、どうにもこうにも仕方が無い状態だ」
「青山副院長は、その築山橋という跨線橋から落ちたという事なのか?」
「河村はそうだろうと言っている。その跨線橋には2メートル程の高さの金網が張ってあって、間違って落ちるような橋じゃないから、自らよじ登って落ちたのではないかという見立てなんだ。誰かに落とされた可能性も無い訳ではないけど、大の大人を担いで落とすのは簡単じゃないからその可能性は薄いだろう」
空木は知らなかったが、中央線の国分寺駅と国立駅の間には車が通行可能な跨線橋が六本架かっていて、新宿、高尾間ではこの区間に集中していた。築山橋はその六本の跨線橋の中でも最も狭く、車一台がやっと通行できる幅しかない橋だった。
電話を切った空木が、テレビをつけると画面にテロップが流れていた。それは中央線快速電車が、国立駅と西国分寺駅間の人身事故で上下線ともに大幅に遅れていることを報じていた。
スマホのマップで築山橋を確認した空木は、事務所兼自宅から自転車で十分弱の中央線に架かる築山橋に向かった。
空木はこの辺りに来るのは初めてだった。橋は道幅が4メートル程で、橋の両側には1メートル程の高さの欄干の上にさらに1メートル程の金網のフェンスが張られ、石山田が言っていた通り、誤って落ちるような橋ではなかった。
橋から中央線の線路までの高さは10メートル余りだろうか、地下に潜り込む形の武蔵野線への引き込み線部分が最も高さがあって12、3メートル位だろうか。空木は、この金網をよじ登って飛び降りたのか、と金網を眺め、「運よく死ななかったんだ」と呟いて、橋から線路を覗き込んだ。そして空木は下を走る電車を見下ろしながら、青山は何時頃飛び下りたのか考えていた。朝なのか前夜なのか。
その時、スマホが鳴った。武蔵国分寺病院の水原医師からの電話だった。
「青山副院長が大変な事になりました。さっき理事長から連絡があって、中央線に飛び込んで重体で入院したらしいんです」
「……実は、同級生の刑事から連絡があって、その事を知りました。それで今、青山さんが飛び下りたという築山橋という中央線に架かる跨線橋に来ているんです」
「そうだったんですか。それなら話は早いのですが、理事長の麻倉が空木さんに相談したい事があるから明日の昼に来て欲しいと言っているんです。大丈夫ですか」
「大丈夫です。明日の昼ですね、伺います」
「ありがとうございます。ところで空木さんが、今来ていると言っている築山橋の直ぐ近くに、青山副院長のマンションがあるんです。やっぱり自殺だったんでしょうか」
「……それは何とも言えませんが、誤って転落するような橋ではないのは確かですね」
電話を切った空木は、バッグから手帳を取り出して、以前書き留めた青山の住所を探した。
(国立市東一丁目)と書かれていた。
築山橋から歩いて五分の所に青山家族の住むマンションはあった。ここからあの橋に歩いて行って自殺を図ったのだろうか、「何故だ」空木はまた呟いた。
月曜日の午後一時半、空木は武蔵国分寺病院六階の理事長室のドアをノックした。
部屋には空木の予想とは違って、理事長の麻倉一人だった。
「水原先生はいらっしゃらないのですか」空木は部屋を見渡して訊いた。
「はい、今日お話しする件は、まだ誰にも話していません。水原先生には空木さんへの連絡だけをお願いしました。お話しするのは空木さんが初めてです」
「え、私が最初ですか……、院外の人間の私が聞いて良い話なのですか」
水原も同席するだろうと気楽な気持ちで麻倉を訪ねた空木だったが、自分が最初に聞く事になると言う麻倉の言葉に幾分の緊張と、聞いてしまったら後に引けなくなるという惑いが生じた。
「院外の人であるからこそ相談出来るんです」麻倉の目が厳しくなった。
「しかし麻倉さん、お話しを聞かせていただいたら、私は後には引けないという事になりますね」
「いえ、それは気にしなくて結構です。口外しないことを守っていただければそれで結構です。ただ、空木さんを私の幼馴染みの栄三郎君の息子さんと見込んでの相談ですから」
「……分かりました」
空木は、改めて後には引けないと覚悟した。
麻倉は空木をソファに座るよう促し、机の引き出しから二つの手紙らしき白い封筒を取り出して空木と向い合せに座った。そしてその封筒を空木の前のテーブルに差し出す様に置いた。
「これは‥…」
「これは先週の木曜日に私に届いた物で、内容は告発文です。読んでみて下さい」
麻倉は二つの封筒の内の一つを空木に渡した。
空木はそれを受け取って封筒から手紙を取り出した。
そこには『病院の幹部の一人が敷地内調剤薬局から金銭を強請り取っています』とA4の用紙に印字され、差出人の名前は書かれていなかった。
「これは誰のことなのか麻倉さんはご存知なんですか」空木は手紙を封筒に戻して訊いた。
「いえ、心当たりもありません。それと四年前に同じように私宛に届いた手紙も読んでください。これも告発文です」と麻倉はもう一つの封筒を空木の前に滑らせるように置いた。
空木はまたそれを手に取り、封筒から手紙を抜き出した。
これには『今回の敷地内薬局の選定コンペには不正がありました。調査願います』と書かれ、A4用紙に書かれているのはさっきの手紙と同じだったが、違っていたのは手書きで書かれている事だった。
「これが四年前に麻倉さんに届いたんですか。ここに書かれている選定コンペというのは?」
「以前は、病院の敷地内に院外調剤薬局を建てる事は禁止されていたんですが、ある年からそれがOKとなったことから、院外処方を受ける薬局を外部から選定することにした訳です。選定コンペとは、それに応募してきた調剤薬局の競争の事です。薬局の造作から内部設備までをプレゼンさせたようで、さらに契約料も入札したようです」
「そこで不正があったと告発してきた人がいたという訳ですか」
「そういうことですが、選定に関わった人間に確認しましたが、それらしい話は聞けませんでした」
「選定に関わった方たちとは?」
「薬剤部長、事務部長、それに内科外科の二人の副院長でしたね。副院長の二人とも応募業者には選定のプレゼン当日まで会ったこともなかったと言っていましたし、部長の二人もやましい事は絶対に無いと言っていましたから、それ以上の詮索はしませんでした」
「応募業者はいくつあったんですか」
「私は詳しくは知りませんが、地元薬局と大手調剤が二社の三社だったように聞きました」
「その結果、今の業者の大東京調剤に決まったという訳ですか」
「そういう事です」
「それで私に相談というのは、この二つの告発文に関わる事ですか」
「それは分からないんです」
「分からない……」
「空木さんに相談したい事は、空木さんも知っての通り、私の幼馴染みの岩松が事もあろうかこの病院でうちの職員の行為によって亡くなり、今回は青山先生が線路に飛び下りるという事件が起き、その数日前に病院幹部の不正を訴える告発文が届いていた。これだけ事件、出来事が続くと、この病院に何かがある、或いは何かがあったと疑わざるを得ないのです。それが何なのか。この病院を妻と共に作り上げて来た私には、それを明らかにする責任があると思っています。その告発文もそれに関わっているかも知れませんが、分かりません。空木さんには、何があるのか或いはあったのか明らかにするために力を貸して欲しいのです。いかがですか」
「…明らかになったら麻倉さんはどうするおつもりですか」
「……結果の次第によりますが、医療の世界から身を引くつもりです」
「明らかにならなかったら」
「……理事長の任を妻に任せて、一医師として働くつもりですよ」と言うと麻倉は微かな笑みを浮かべた。
空木には、その麻倉の微かな笑みの中の目は、悲しさと悔しさが入り混じっているように見えた。
空木がソファから立ち上がろうとした時、ドアがノックされ、事務部長の寺田が、麻倉の声を待たずに慌てた様子でドアを開け、顔を覗かせた。そして空木が目に入ると「あ、お客様でしたか失礼しました」と言って開けたドアを閉めようとした。
「寺田部長、どうかしたんですか」
麻倉の呼び止める声に、寺田は体半分を部屋に覗かせた。
「青山先生の部屋に……」と寺田は口籠って空木を見た。
その素振りに麻倉は「空木さんなら大丈夫ですから話してください」と寺田をソファに座るよう促した。
麻倉の横に座った寺田は、白い封筒を二つテーブルの上に置いた。
「青山先生の部屋の机の中にこの二つの封書が入っていました」
麻倉は封筒を手にして「中は見ましたか」と訊いた。
「はい、一通は辞表でした。もう一通は……」寺田はまた口籠って空木に目をやった。
「空木さんにはうちの病院の全てを承知してもらっていますから大丈夫です。話して下さい」
「もう一通は、岩松さんにKCLを投与したのは自分だと書かれていて、大変な迷惑を掛けたことにお詫びをし、責任を取るとも書いてあります」
麻倉は二つの封書を順番に読み、それを空木に渡した。空木もそれを読み、麻倉に返した。
「手書きと、印字ですね。手書きの辞表は、青山先生ご自身が書かれた物か確認出来ると思いますが、もう一つの遺書ともとれる物は、プリンターで印字されているのが気になります」
空木の言葉に寺田が顔を向けた。
「気になるというのは?」
空木は寺田の反応に一瞬はっとした。
空木が気になると言ったのは、告発文のプリンターで印字された手紙と、遺書めいた文書がやはり印字されていて一緒だった事なのだが、その告発文の存在は、現段階では麻倉と空木以外は知らない事であり、その存在を今寺田に知られる訳にはいかなかった。
「辞表が手書きなのに、もう一つがパソコンで作られているところから考えると、この二つの文書の作成には時間差があって、手書きが最近書かれたとしたら、印字された物はいつ作られたものなのか気になるんです」
「なるほど、岩松さんの事件の後、責任を取る覚悟を何時頃したのか、というところですか」
空木は、寺田に告発文の存在を知られなかった事にホッとした。
「寺田部長、植草院長には知らせましたか」
「はい、理事長にお知らせに来る前にお伝えしました。驚かれて、直ぐに理事長に知らせるように指示されました」
「そうですか、警察への連絡は?」
「していませんが……」
「直ぐに警察に連絡して下さい」
麻倉の指示を受けた寺田は「分かりました」と理事長室を出た。
「空木さんが気になると言ったのは、この告発文もパソコンで作られた文書だということが気になるのでは」
麻倉は手元に持っていた告発文を空木の前に再び置いた。麻倉も自分と同じ事を考えていたのか、と空木は「はい」と頷いた。
「あくまでも仮の話ですが、青山先生がこの印字された文書二つを作ったとしたら、自分の罪を告白した人間が、しかも死を覚悟した人間が、匿名で調剤薬局との告発文を出すものなのか疑問です。これがもし同じプリンターから印字された文書だとしたら、これは青山先生ではない別の人間が作った可能性が高いということになるのではないでしょうか。ということは、この遺書らしき文書は青山先生が作ったものではないということを意味します」
「……それは、青山先生は自ら落ちたのではなく、落とされた可能性があるという事になりますよ。……そんな恐ろしい事がありますか」
「あくまでも仮の話です。しかし、これは警察に調査を委ねるべき事案です」
「……うちの職員が関係してない事を祈るのみです」
麻倉の声に力は無く、空木の耳には寂し気に響いた。
暫くして、寺田が国分寺警察署の刑事二人を理事長室に案内した。
二人の刑事は、麻倉の横に立っている空木を見て一様に驚いた顔になっていた。一人は石山田、あと一人は河村刑事だった。
麻倉とは初対面の河村が挨拶すると、麻倉は二人に空木の同席を求めた。
「空木さんの事は我々も良く知っていますから構いません」と石山田は応じ、河村も頷いた。
麻倉は、横に座る空木に四つの封筒を渡した。
「空木さんから一連の事を説明していただけますか」
「私から全て話しても良いんですか」
麻倉は黙って頷いた。
空木は麻倉宛に届いた二通の告発文と、その文書に関わる調剤薬局と病院の関係者たちの存在、そして今日副院長室の青山の机から見つかった二通の文書の説明をした。
石山田は青山の部屋から見つかった二通の文書に目を落としていた。
「KCLを佐野美佐とともに投与したのは青山で、その責任を取って死ぬという様に受け取れる文書ですね」
石山田は、独り言のように文書に目を落としたまま言った。
「青山さんは自殺したという事ですか、係長」
「……辞表を用意しての飛び降り自殺ということか……。事情聴取ではKCLの投与については否定していたが、この文書はいつ頃用意したのか。辞表が手書きで書かれているのに対して、こっちは印刷しているところから考えれば、先に作ったのは遺書らしき文書だろうと思うが……」
石山田はそう言うと空木の方を(どう思う)というように見た。
「しかし、順番がどうなんだろう。病院に迷惑を掛けないようにと考えたら、自分なら自殺する前に、先に辞表を出すような気もするけど……。それと辞表が手書きなのはわかるけど、遺書らしき文書が印刷されているのは違和感がある」
そして空木は、自分の仮説を話した上で、警察でこの印字された告発文と印字された遺書めいた文書の同一性を調べられないか投げ掛けた。
「その仮説からすれば、印字された文書が同一であれば、遺書めいた文書は第三者が作った可能性がある訳か……。同一性の調査は、科捜研か警察庁の科警研で調べれば分かると思うが……」
石山田が答えると、河村が「科警研に事務機文字鑑定を依頼すれば、印字からプリンターの機種が鑑別出来る筈ですよ」と加えた。
「この四つの文書は、我々警察で預からせていただきます。もし、青山さんの落下が第三者によって行われた可能性が出てきた時は、重要な証拠品となるだけに宜しいですね」
石山田の言葉に、麻倉は「分かりました」と頷いた。
「ところで巌、…いや石山田刑事、青山先生の容態はどうなんですか、意識は戻らないんですか」
空木のニックネームでの話し掛けに
「あ、麻倉さん、この空木とは高校からの付き合いなので勘弁してやって下さい」と石山田は慌てて説明した。
「大丈夫ですよ、承知しています」麻倉は笑った。
「青山さんは、昨日の緊急手術は無事済んだらしいんだが、意識は無い状態で、担当医も戻るかどうか保証は出来ないと言っているらしいんだ。意識が戻れば全てが分かるんだが」
石山田はそう言うと隣の河村に目をやった。
「一命を取り留めただけでも奇跡に近いという事です。高さ10メートルから落下すると落下点では時速50キロのスピードになるらしく、死亡率は50%以上だと言っていましたが、青山さんが落ちた所は、武蔵野線の引き込み線で高さ13メートル位はあった筈ですから奇跡かも知れません」
「青山先生は何時頃落ちたんでしょうか」麻倉だった。
「ご家族の話では、土曜日の夜は付き合いで飲みに行くので遅くなると言って家をでたそうですが、帰って来なかったので病院に急用で呼ばれたのかと思っていたらしいんですが、翌日になっても連絡が無いので心配していた所へ、警察から連絡が来たと言っていましたから、落ちたのは土曜の夜から、発見された日曜日の朝六時までの間という事になりますね。中央線の線路付近に落下していれば、もっと早く電車の運転手あたりが見つけたかも知れなかったんでしょうが、引き込み線が死角になっていたんでしょう。早朝のウオーキングしていた女性が見つけて通報してくれるまで見つからなかったようです」
河村が手帳を見ながら説明した。
「土曜の夜は誰と一緒だったのかは分かっているんですか」空木が訊いた。
「いえ、それは聞いていません」
「空木、俺たちも青山さんの落下というか転落に、事件性が認められない限り必要以上の聞き込みはしないよ」
「それはその通りだね。あの跨線橋の金網の高さからしても自殺は出来たとしても、七十キロ近くある人間をあそこから落とすのは一人じゃ無理だからね」
「事件性の有無については、印字の同一性の鑑定結果を確認してからという事になる」
「岩松にKCLを投与したのは、青山先生だったんでしょうか」麻倉が唐突に訊いた。
麻倉にとっては、それの方が重大事に違いなかった。武蔵国分寺病院の悪夢とも言うべき出来事は、そこから始まったのだと、空木は改めて、この病院で何が起こったのか明らかにしたい、という麻倉の言葉を思い返した。
「この印字された遺書めいた文書が、青山さんが作ったものであればそういう事になりますが、現段階では断定出来ません」石山田が答えた。
石山田と河村は、麻倉に挨拶すると理事長室を出て行った。
部屋に残った空木も、立ち上がった。
「麻倉さん、私は調剤薬局とこの病院の間に何かがあったのか、無かったのか調べてみますから、四年前の選定に関わった薬剤部長と事務部長それと外科の副院長に協力してくれるように伝えて下さい。その際、医療コンサルタントではなく、探偵としての調査に協力するようにお願いして下さい」
空木は、警察が青山の転落をどう判断するのかは別にして、青山を含めた病院の幹部が、調剤薬局の敷地内選定にどう関わっていたのか調べる事が、麻倉の依頼に対して、探偵の自分が出来る事だと、自身に言い聞かせた。




