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未必の山  第四話 白獣(1)

 七月二十三日土曜日の空は、雲が広がり夏らしい青空ではなかったが、暑さと湿気はそれらしかった。

 薄暮の午後七時を過ぎても気温は三十度を下回ることはなく、空木健介はハケと呼ばれる国分寺崖線に沿った道を、待ち合わせ場所の平寿司へ向かって歩いていた。

「いらっしゃいませ」の女将と、店員の坂井良子の声に迎えられて店内に入ると、カウンター席の端に待ち合わせ相手の短髪男が座り、ビールを飲んでいた。

「よう空木、先に飲ませてもらっていたよ」

 空木が待ち合わせた男は、高校の同級生で国分寺警察署の刑事課係長の石山田巌(いしやまだいわお)だった。

 武蔵国分寺病院のある事件の事で聞きたい事があると、連絡を受けた空木は、KCL投与事件の件だと直感したものの、話の内容の想像はつかなかった。

「武蔵国分寺病院の事件というのはKCLの投与で入院患者が亡くなった事件の事だね」

 石山田の隣に座った空木は、そう言いながらビールの入ったグラスを石山田のグラスに合わせた。

「そういうことなんだよ。理事長の麻倉さんから「空木さんから話を聞いたらどうか」と言われたんだ」

 石山田の前には、滅多に注文する事のない刺身の盛り合わせが置かれていた。その刺身を石山田は口に運び、盛られた器を空木の方に、食べろというようにずらした。空木は、今日は捜査費で飲ませてもらえるのかなと思ったが、口にはしなかった。

「俺の名前を出したのは麻倉さんだったのか」

「麻倉さんだけじゃない。容疑者からも「空木さんに訊いて欲しい」と言われたぞ」

「容疑者………」

「佐野だよ、佐野美佐。忘れたのかい」

「いや忘れてなんていないけど、何故、佐野美佐が俺に訊いて欲しいなんて言うのか分からない。どういう事なんだ。佐野美佐がKCLを投与した事は間違いない事だよ」

「それはその通りで、佐野も投与した事は認めているんだよ」

「じゃあ何を……」

「一本しか投与していないって言い続けているんだ」

「一本だけ…二本じゃないと…」

 空木はバッグから手帳を取り出し、以前佐野美佐と面会した時、メモしたページを捲った。

 佐野美佐は、KCL注射用キットを岩松兼男に投与したことを認めた。あの時空木は、副院長の青山が2キットを薬剤部から出庫させ内科病棟に補充したことから、佐野美佐は2キットを岩松兼男に投与したと思い込んでいたが、一本だけだったのかと、思い込みを今更ながらに悔やんだ。

「一本だけの投与では、(カリウム)の値があの数値にはならないみたいなんだ」

「………それはどういう事なんだ。佐野美佐以外に投与した人間がいるという事なのか」

「その可能性があるから、難しい案件になってきたんだ。検察官とも協議した結果、佐野美佐単独での過失致死での起訴は処分保留にして、もう一度捜査しようという事になったんだ。それで職員の聞き取りを続けている中で、空木に話を聞こうという事になった訳さ」

「そうか、そういう事だったのか。それで何を話せば良いんだ」

「副院長の青山の当日の行動についてと、院長の植草の関与について聞かせてくれないか」

 空木は、石山田の言わんとする事は、青山がもう一本を投与した人物なのではないかということだろうと推測できたが、植草の関与とは?考えられる事は一つしかない。教唆(きょうさ)だ。しかし何の為に?

「青山副院長は、あの日若しくはそれ以前に、佐野美佐からKCL投与の相談を受けて、当日の佐野美佐の行動をやり易くする為に、外科病棟のナースセンターに何度か足を運んで、絶妙なタイミングで担当看護師をVIP用病室から呼び出した。そして佐野美佐がKCLの投与を終えた後は、薬剤部からKCL注射用キット二本を、息子の実験用にと偽って払い出しさせて、内科病棟の在庫の補充に充てた。こんなところだけど、佐野美佐が投与する前に別の一本を投与するタイミングがあったのかどうかは分からない」

「聴取で聞き取った話と一緒だ。青山は内科病棟のKCL注射用キットの在庫が「0」だったことをどのタイミングで知ったのかなんだが、青山は、岩松兼男の容態が急変した午後二時過ぎに在庫を確認した時には「0」だったから、2キット補充しなければならないと思った、と言っている。つまり自分は使っていないと言っている訳だ」

「佐野美佐は一本しか使っていないと言っているが、その時の在庫は?」

「一本しか残っていなかった。だから二本使う事は出来ない、と言っている訳だ。つまり、誰かがそれ以前に一本持ち出したという事だけど、それが誰なのか分からない」

「その誰かの中に、植草院長も含まれている可能性があるという事なのか」

「植草は、噂だがどうやら佐野美佐と深い関係にあるようで、美佐の後ろ盾になっていると院内では言われている。岩松にKCLの投与をほのめかしたのは植草のようなんだ。本人は勿論否定しているが、佐野美佐の供述では、関与が疑われるんだ」

「佐野美佐は、どういっているんだ?」

「植草から、外科のVIPの容態を急変させて、内村を慌てさせてみろ、と指示された、と供述している。それで看護部長争いに勝てる、と言われたとね」

 空木は、石山田の話を聞き、空木が一つだけ思い浮かんだ事と一致したと思った。

「なるほど、その可能性は高いね。青山副院長が、佐野美佐からの相談に何の疑問も抱かずに協力した事が、それなら理解できる。植草院長が青山に協力するように指示したのかも知れないな」

「医者の世界の師弟関係というものは、そんなに強い絆で結ばれている物なのか。俺には分からないよ。患者の命に係わる事だぜ」

「昔はそうだったのかも知れないけど、今ではそういう関係は珍しいと思うよ。二人の間には特別な何かがあるのかも知れない」

「何かが……。何だいそれは」

「それは俺には分からないよ」

「これは青山を詰めていくしかなさそうだな」

 石山田はそう言うと、『空木様』と書かれた芋焼酎のボトルで水割りを二つ作り、一つを空木に渡し、もう一つを美味そうに飲んだ。

「あれ、今日は捜査費じゃないのか?」

「そうしようかと思ったけど、空木健介の本日の話では収穫ゼロだから、割り勘だよ」

 石山田はそう言って笑った。



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