悪酌(終)
「巌、河村刑事が担当している国立駅でのひったくり事件は、犯人の目星は付いたのかな」
「河村から空木に連絡がいかないんだから目星は付いていないってことだよ。お前こそ何か情報があるなら教えてくれよ。俺は別件で手が離せないから動けないけどね」
「そうか、俺の方は被害者の勤務する会社を調べてみたら怪しい人物が浮かんできたんだ」
「ほー、それは河村に教えてやって欲しいけど、そいつは誰なんだ」
「被害者と同じ会社の人間で、木内範夫という男なんだが、先週の土曜日に山で滑落して死んでしまったんだ」
「何、死んだのか」
「ああ、死んだ。それでその男がひったくりの犯人だったら、自宅にカバンが残っているかも知れないと思うんだけど、国立駅の防犯カメラに写っている男と、俺の撮った木内範夫の写真を鑑定してくれないか」
「写真があるのかい。それでその木内とかいう男がひったくり犯なら、家宅捜索してカバンの中の書類を取り戻そうという訳か」
「そういう事なんだけど、ダメかい」
「事件が解決するならそれに越したことはないよ。取り敢えず明日にでも署に来てくれよ。……実は俺からも空木に話しておきたい事が出てきたんだ」
翌日、国分寺署の小会議室で、空木は河村刑事と面会した。
「空木さんお久し振りです。以前、係長と三人で、平寿司でご一緒させていただいて以来ですね。係長から話は聞いています」
「河村さんが担当している事は、巌から聞いていました。河村さんで良かったですよ」
「早速ですが、その木内という男の写真を見せていただけますか」
「この男ですが、鑑定していただけませんか」
河村は空木から渡されたスマホを、用意したパソコンに繋いだ。
「警察庁の科学警察研究所に送信して至急画像鑑定してもらいます。さほど時間はかからずに、人物異同識別出来ると思います。ところで、空木さんはこの男にどうやって辿り着いたのか、話していただけませんか」
空木は、全く手掛かりが無い中で、カバンの中に入っていた書類がデータだと知って犯行に及んだのではないか、という仮説を立てた事から説明し、関係者の話から被害者の上司である桑田という人物への疑念が生じた事、更には桑田と木内の過去からの繋がりも分かった事で、木内がひったくりの容疑者ではないかと推理したと説明した。
「こう言っては失礼ですが、出たとこ勝負が当たったということですか。組織で動く我々警察では、ヤマを張って動く事は出来ないので、探偵の空木さんじゃなかったらここまで出来ないでしょう」
「とは言え、まだ木内が犯人とは決まった訳ではないですから……」
「そうですね。肉眼で見る限り良く似ていますが、写真の鑑定待ちですね。ところでこの写真はどこで撮ったのですか」
河村の質問に、空木は、待ってましたとばかりに説明した。
「先週の土曜日、高尾駅で偶然に登山姿の桑田を見かけ、その時に撮った写真に木内も一緒に写り込んだ写真なんですが、木内はその日に、笹子駅から単独で登った山で、滑落して亡くなったんです」
「え、二人は同じ会社の先輩後輩ですよね。木内は単独だったんですか」
「テレビのニュースではそう言っていました。でも私も不思議だと思うのは、二人は笹子駅で一緒に下りているんですよ」
空木は首を傾げながら、河村の反応を確かめるように見ながら、続けた。
「木内が生きていれば、単なるひったくりだったのか、誰かに頼まれたのかも分かったかも知れなかったんですが、残念です」
「……空木さん、それは桑田が口封じに木内を殺害したかも知れないって事を言いたいんですか」
「本当に事故だったかも知れません。分かりませんが……」
「所轄はその情報は掴んでいるんですか」
「私には分かりません」
「私は、個人的にはその情報は、所轄に伝えるだけ伝えた方が良いと思いますが……。係長に話してみましょう。画像鑑定の結果が出るまでにはもう少し時間が掛かりますから、一緒に係長の所に行きましょう」
「巌はいるんですか?」
「ええ、係長の担当の事件で検察官と打合せをしている筈ですが、もう終わった頃だと思います」
河村に促され、空木は会議室を出た。
石山田は、刑事課室で課長の浦島と話していた。
河村は二人に近付き、石山田の横で二人に何かを伝えたようだった。
石山田は振り返って空木を見ると、こっちへ来いというように手を上げて呼んだ。空木は課長の浦島のデスクの横の小さなテーブルの丸椅子に座った。
「課長にも一緒に話を聞いて貰った方が、話が早そうだからここで話してくれよ」
向かい側に座った石山田に促された空木は、木内範夫が滑落死した日に、高尾駅で撮った写真を見せながら、その木内と桑田が一緒に居た事、そして笹子駅でも一緒に下車した事を話した。
「木内がひったくりの犯人だとしたら、桑田からも事情を聞く必要があると思いますが、木内の死亡に桑田は関わっていないんでしょうか、係長。所轄に情報提供しておいたらどうでしょう」
河村の話を受けた石山田は、課長の浦島に顔を向け「連絡しますよ、課長」と言った。
浦島は「それが良いだろう」と頷いた。
「所轄はどこだ、河村」
「大月中央署だよ、巌、いや石山田刑事だった」空木は思わず浦島の顔を見た。浦島は笑っていた。
「空木、そこまで調べていたのか。大月に連絡するから暫く待っていてくれ。それとは別に話しておきたい事もあるんだ」
小会議室に戻った空木に、暫くして河村が入って来た。
「大月中央署が笹子駅の防犯カメラで確認をしてみるので、空木さんの撮った高尾駅の桑田の写真を送信して欲しいと言っています。私のこのパソコンから、さっきの写真を送りますが良いですね」
「ええ、勿論です」
事故扱いで処理されようとしていた木内の滑落死が、これで調査の対象となって新たな事実が見えて来る事を空木は期待した。
作業を終えた河村は一旦刑事室に戻ったが、五分も経たないうちに会議室のドアを開けた。
「鑑定で合致しました」と嬉しそうに空木に顔を向けた。
「一歩前進ですね」と嬉しそうにしている河村に、空木が静かに言うと、河村は「一歩どころか、これで強盗致傷事件は解決したのも同然です」と真顔になった。
「盗ったカバン、書類が入ったカバンが出てこない限り真の解決とは言えないんじゃないですか」
空木は、自分の仕事は(データを取り戻す事なんだ)とは言わなかった。
「それはそうですが、それを捜すのは犯人の木内が死亡している以上不可能かも知れません。被疑者死亡のまま書類送検する事になると思いますよ」
「河村さん、私は、木内は金目当てではない事から、書類の入ったカバンは必ず自宅に持ち帰っていると思っています。木内の自宅にあります」
「空木さんは必ずあると言い切りますか。……家宅捜索ですか。ちょっと待っていて下さい。係長に相談してきます」
河村は会議室を出て行った。
暫くすると、河村は石山田とともに小会議室に戻って来た。
「空木さん、捜索の許可は出ましたが、木内家は今夜が通夜で明日は告別式だそうです」河村だった。
「直ぐには難しいということですね」
「家人が居ない事には……。明後日ですね」
「葬儀では仕方ないでしょう。ところで、葬儀には桑田も参列すると言っていましたよ」
空木と向い合せに座った石山田は、腕組みをして二人の話を聞きながら、何か考え事をしているようだった。
「……俺には疑問な事があるんだけど、空木の推理通りだとしたら、桑田という男にとっては、木内の存在と同じ位その書類とやらは邪魔な存在の筈だよ。唯一の物証だからね。それなのに何故木内が未だに持っていると言えるんだ?」
「………」
石山田の言葉に空木は、その通りだと思った。桑田は木内が盗ったデータを自分の手元に持つか、処分するつもりだった筈だ。そんな事は、木内に対して絶対的な立場にいる桑田なら出来た筈だ。もし、木内が既にデータを桑田に渡していたとしたら、家宅捜索に入ってもデータは出てこないが……。もし、まだ手元に持っていなかったら、早く処分したいと考えるのではないか。しかし、木内を滑落死させたのが桑田だとしたら、何故桑田は木内を殺害しなければならなかったのか。殺害の動機が口封じだとしたら、桑田に絶対服従している木内を殺害する必要があったのは何故か。もしかしたら、木内はカバンの中身を見て、そして片倉隆文が入院した事を知って、何かを思ったのではないか。例えば、大変な罪を犯したことに気付いた木内が、自首することを考えたとしたら、桑田にデータを渡すことを拒否したのではないだろうか。
データの引き渡しの要求を拒否された桑田は、木内に自首されれば盗むことを指示した自分の事も話すだろうと考える筈。それは、オーシャン製薬内の旧恒洋薬品出身者たち、中でも営業トップの熊川に迷惑が掛かり兼ねない、とでも考えたかも知れない。
「巌の言う通りだね。俺の推測通りだとしたら、桑田は既に書類を処分しているかも知れない。でももし、まだ手元に無いとしたら、桑田は木内の自宅に書類がある事を知っている。木内の奥さんにコンタクトを取っているか、取ろうとしているのだと思う。逆を言えば、コンタクトを取っていれば、桑田の指示で木内はひったくりをしたという証になるんじゃないか」
「教唆犯の容疑で聴取する事になるな」石山田は腕組みをしたままだった。
「明日の葬儀に桑田は参列する筈だから、そこで大月中央署の刑事が聞き取りをしたら、桑田がどんな反応をするのか確かめてから、家宅捜索の実行日を決めたらどうだろう」
「自分の身に警察の目が向き始めた事を意識させるって訳か。大月中央署も桑田には一度は話を聞くつもりだろうから、連絡してみる事にするか」
「家宅捜索の際には、俺も同行させてくれないか。書類がデータなのかどうかをその場で知りたいんだ」
「分かった。連絡する。相互協力という事でいこう。ところで空木、武蔵国分寺病院で空木健介の名前が出てきたよ。近いうちに話を聞かせてもらうかも知れないよ。その時は協力頼むよ」
「俺の名前が出たのか。分かった、いつでも協力するから連絡してくれ」
空木には、石山田が(KCL投与事件)で梃子摺っている理由には見当はつかなかった。それよりも今は、自分の目の前にある、桑田への疑惑を明らかにする事の方が重大関心事だった。
木内範夫の告別式は、七月二十一日木曜日、午前十一時に調布市布田の斎場で行われた。
斎場の玄関ロビーの隅で、空木は河村刑事と共に、桑田が入って来るのを待った。十時半を回った頃、桑田が現れた。
空木が「桑田ですよ」と河村に伝えると、河村は二階の受付付近に居る二人の刑事に合図を送った。二人は大月中央署の刑事だった。刑事は桑田に警察証を見せ、斎場の外に連れ出して聞き取りをした。
暫くして桑田が、再び入場して来た。その表情は硬かった。桑田の後を追う様に河村が二階に上がった。礼服の参列者の中、半袖の白いシャツ姿の河村は目立ったが、河村は気にする風もなく、会場の入口で桑田を目で追った。
桑田は席に着くと、手荷物のバッグを置いて、喪主と思われる木内の妻に歩み寄り、お悔やみの挨拶と共に何事かを話して席に戻った。
玄関ロビーに下りて来た河村は、空木に近寄り「桑田が喪主の妻に接触しましたよ。何の話なのかは分かりませんが、挨拶だけでは無いですね。何かを聞いている様子でした。奥さんに何の話だったのか訊きたいですね」
「火葬から戻って来るまで待ちますか。もしかしたら桑田も奥さんが戻って来るのを待つかも知れませんしね」
空木は桑田の強張った顔つきを見た時から、桑田は必ず動くと確信した。
空木と河村は、斎場の外で待っている大月中央署の二人の刑事の所に歩いた。
「桑田はどうでしたか」河村が二人のどちらともなく訊いた。
「かなり慌てていました。笹子駅までは一緒だったことは認めましたが、木内さんの登った山とは違う山に登ったと言うんです。そんな事がありますか」刑事の一人が河村を見た。
空木は「想定内だ」と呟いた。
「木内さんは、スマホのGPSで発見されたんですよね」
「そうです」
「そのスマホに山地図のアプリがインストールされていませんでしたか?」
「さあ、分かりませんが、そのアプリがどうかしたんですか」
「そのアプリは、登山をする人達ではかなりの人がインストールしていて、登山記録と共にアプリを使っている人同士がすれ違ったり、出会ったりすると記録に残るようになっているので、木内さんがインストールしていて誰かと出会っていたら、その人を探せば、単独だったのか二人一緒だったのか、見ているかも知れないと思ったんです」
「なるほど、そうなれば桑田の話は嘘ということになる訳ですね」
「そういう事になるんですが……」
「しかし、スマホは木内さんの遺留品として、遺族に返してしまいましたから確認は直ぐには出来ないんです」
「河村さん、やっぱり奥さんが戻って来るのを待つしかないですね」
空木の言葉に、河村も「そうですね」と頷いた。
斎場から棺が霊柩車に乗せられ、マイクロバスに親族、知人が乗り込んだ。
「空木さん、桑田も乗りましたよ。骨を拾うつもりなんでしょうか。本当に奴が殺したんですかね」
河村が空木の横でボソボソと話し掛けた。
「………」
空木も桑田の行動に言葉が無かった。やはり事故だったのか、と思わせるような桑田の行動だったが、もしかしたら大月中央署の刑事の目を意識しての行動ではないかと空木は想像した。だとすると、この桑田という男は相当したたかな男だと恐ろしくもなった。
一旦斎場を離れた四人は、近くのファミリーレストランで戻って来るのを待った。
棺が斎場を出て三時間近く経った午後三時過ぎ、四人は斎場の駐車場に移動して木内の妻を待った。
「あの女性だ」河村がそう言って、車から降りようとした時、空木が「河村さんちょっと待って」と止めた。
木内の妻の後ろから桑田が歩いて来ていた。すると桑田は、木内の妻と子供二人と共に車に乗り込んだ。
「河村さん、桑田は今から木内の家に行って書類を受け取るつもりじゃないでしょうか」
空木は木内の妻たちが乗った車から目を離さなかった。
「駅まで送るだけという事も考えられますが、後を追いかけてみましょう」
車は駅には停まらず、十五分程走って、あるマンションの駐車場に入った。
「河村さん、木内のマンションでしょう。桑田は間違いなく書類を取りに来たんです。出て来たところで、河村さんから事情を聴取すれば、桑田も言い逃れは出来ない筈です」
「そのまま任意同行です」と河村は空木に顔を向けることなく、マンションに入って行く桑田を睨みつけていた。
桑田が木内家族の住むマンションに入ってから、出て来るまでの時間は十分余りだったが、空木にとってはその何倍もの時間に感じられた。
マンションのエントランスから出て来た桑田の手には、黒い書類カバンがあった。玄関横で待ち構えていた河村が、警察証を桑田に示した。
「桑田さんですね。七月八日金曜日、国立駅で発生した強盗致傷事件を担当している国分寺警察署の河村です。理由はお判りだと思いますが、お持ちになっているそのカバンの中身を調べさせてくれませんか」
「………」
桑田は、突然の河村の出現とカバンを指摘された為か言葉を失った。
「見せていただけませんか」
河村は念を押す様に、もう一度桑田に聞いた。
「ええ、あ、どうぞ」と桑田はカバンを河村に渡した。
河村はカバンを開け、中から大きめの茶色の封筒を取り出した。
「このカバンと封筒は、被害者の片倉隆文さんが持っていた物ではありませんか」
「……これは、私が木内という会社の後輩に預けておいた書類ですが、一体何の事なのか全く分かりません」
「なるほど、片倉さんに見てもらってもいいんですよ。今から病院へ行きましょうか」
「………」
桑田は黙り込んだ。
「桑田さん、空木です」
「………」
河村の後ろから突然現れた空木を見た桑田は、目を見開いて絶句した。
「その封筒の中身は、セロンの申請データのコピーですよね。桑田さん、あなたはデータの事は誰にも話していないと仰っていましたよね。もう全てを話した方が良いですよ。あなたが、木内さんにこのデータが入ったカバンを片倉さんから奪うように指示した事。そしてその木内さんと二人で、笹子駅から本社ヶ丸に登ったことも」
空木は、バッグから一枚の写真を桑田に見せた。
「………」
桑田は、ただぼんやりと空木を眺めているようだった。それは、何故探偵ごときのお前がここに居るのか、何故事実を知っているのかという表情にも感じられた。我に返った桑田は、差し出された写真を見た。
「どこでこれを……」と呟くように聞いた。
「木内さんが滑落死した土曜日の早朝、高尾駅のホームで撮りました。あなたを撮ったつもりだったのですが、偶然木内さんも写り込んでいました。木内さんとは別行動だったと話されているそうですが、登山を趣味にしているあなたならご存知だと思いますが、もし木内さんが山地図アプリをインストールしていて、同じようにインストールしているハイカーと出会っていたら、そのハイカーは二人が別行動だったのか一緒だったのか見ているでしょうね」
空木は、自分自身もそのアプリをインストールしていることから、木内がインストールしている確率も高いと踏んでいたが、他のハイカーに出会う確率は50%無いだろうと思っていた。しかし、今この場で桑田を不安にさせる事が必要と考え、はったりをかけた。
空木の狙いが当たったのか、その顔色は変わり、頬が強張った。
「桑田さん、まずは国分寺署で話を聞かせていただきます。その後、大月中央署でも聴取されることになるでしょうから、そのつもりでいて下さい」
河村はそう言うと、後にいる二人の刑事に顔を向け「そういう事で宜しくお願いします」と頭を下げた。
木内範夫のスマホを参考品として入手するためにマンションに入った大月中央署の刑事二人を残して、河村と空木は桑田を伴って国分寺署に向かった。
車内でカバンの中のデータを確認しようと、封筒を開けた空木は、一通の白い封筒を見つけた。その封筒には、「片倉様」と表書きがされていた。
助手席に座った空木は、河村にその封筒を見せた。
「何でしょう。開けてみてくれませんか」
「私が開けて良いんですか」
「ええ、読んでみてもらっても良いですよ」
空木は、手紙を取り出して読んだ。
その手紙には、木内自身が自筆で書いたと思われる、片倉隆文への詫びの手紙だった。空木は、木内は自首するつもりだったのだと直感した。さらに手紙には、桑田からデータだとは知らされずに、片倉は必ず電車内で寝るから「片倉の気の弛みを戒めるため、旧大空製薬の社員に緊張感を持たせるためにカバンを奪え」と指示されたと書かれ、桑田が教唆犯である事が明らかにされていた。
国分寺署での聴取を受けた桑田は、木内のマンションにあった書類カバンが片倉隆文の物で、中のデータがセロンの承認申請で使われたデータのコピーであることが明らかになり、加えて木内の自筆の片倉隆文宛の手紙を示されると、木内にカバンを盗むよう教唆したことを認めた。というより、空木の証言もあって認めざるを得なかった。
しかし桑田は、その動機については、誰からの指示でもなく自分自身でセロンの緊急安全情報を出す為に考えた事だと供述した。
河村から、事情聴取での桑田の話を聞かされた空木は、(営業本部長の熊川も教唆犯だ)と言いたかったが、止めた。
桑田は国分寺署から大月中央署に任意の事情聴取のため移された。
木内範夫のスマホには、空木の予想通り山地図アプリがインストールされていた。そして見事偶然にも行き会ったハイカーが一人だけその記録に残されていた。桑田はその事を告げられると、警察が行き会ったハイカーを突き止めるまでもなく、木内と一緒に笹子駅から本社ヶ丸に登ったことを認めた。
しかし、木内の滑落は事故だったと言い続けた。何故直ぐに救助要請せず、更に別の山に登ったと嘘を言ったのかを問い詰められると、面倒な事に巻き込まれたくなかったと言い訳した。山では平地以上に救助義務が人道上求められるのではないか、と問われると黙り込んだ。
桑田が木内を滑落させたという証拠は何一つない事から、結局木内の滑落死は事故扱いから変わる事は無かった。変わった事は、木内は単独山行ではなく、『桑田弘と同行中に誤って滑落』と報告書に修正記載された事だけだった。
空木はその一連の話を河村から伝えられた。
聞いた瞬間、空木は「証拠が無いか」、とため息を吐いた。被害者が生存しているか、目撃者でもいない限り人気のない山で証拠があろう筈がない。救助要請しなかった事、別の山に登っていたと虚偽の証言をした事が、何よりの証拠だろうと言いたかった。
山に一緒に登った仲間が、滑落して助けを呼ばない人間がいる筈がない。桑田は、木内を滑落させた上で、何らかの方法で死亡を確認したか、死亡を確信した。救助要請すれば何の疑問も持たれなかったのに、桑田は木内と一緒に登っていないことにする事で、自分を蚊帳の外に置こうとした。それが偶然にも、高尾駅で自分に見られていた事で、思惑が狂ったのだろう。それにしても木内範夫の骨を拾うまでの行為をする桑田という男は、人間とは思えない。何がそこまでさせるのだろう。
オーシャン製薬は教唆犯となった桑田を懲戒処分するだろう。片倉隆文は会社を辞めずに済むだろう。しかし合併会社のオーシャン製薬には、根の深い問題が残る事になると空木が考えていた時、スマホが鳴った。片倉隆文の兄、康志からだった。
「空木さん、ありがとうございました」
その声に空木の気持ちは、一瞬だけ夏空のように晴れた。