悪酌(4)
翌日七月十六日土曜日は久し振りの晴天となり、気温も真夏日の予想となった。
空木は久し振りの山行に、大汗を覚悟で大菩薩嶺の南端に位置する、日本一長い山名と云われる牛奥ノ雁ヶ腹摺山に登ることにした。
登山口へのバスが出る甲斐大和駅へは、国立駅からは高尾駅で中央本線に乗り換えておよそ一時間だ。早朝とは言え、土曜日のハイカーは多く、高尾駅で乗り換える乗客は、京王線で高尾山口へ向かうハイカーと、空木同様中央本線に乗り換えるハイカーが入り混じり、その数は、ホームから見えるだけでもざっと百人はいそうだった。
乗り換えの電車が入線して来るまでの間、手持無沙汰な空木は、スマホの山地図アプリを開いて見ていた。入線を知らせるホームのアナウンスにザックを持つと、その目線の先に見覚えのある男の顔が見えた。直ぐには思い出せない空木は、手にしていたスマホのカメラで、その男性を思わず撮った。
その男は、空木と同じ車両に乗車し、もう一人の男とともに四人掛けのボックス席に座り、ザックを荷物棚の上に載せた。空木は、少し離れたドア横の二人掛けのシートに座り、スマホで撮った男を見ながら(どこで会ったのか)と考えていた。
「……そうか、一昨日オーシャン製薬の本社で会った男だ」空木は独り言で呟いたが、その場では交換した名刺の名前は思い出せなかった。横に座った女性が、空木の独り言が聞こえたのか空木に顔を向けた。空木は、咳払いし、腕を組んで目を瞑った。
電車は山梨県に入り、大月駅で半分以上の乗客は下りた。富士急行線で河口湖方面へ行く客たちだ。
オーシャン製薬のその男は、空木が下りる甲斐大和駅の一つ手前の笹子駅で、もう一人の男と一緒に下りた。
甲斐大和駅で下りたハイカーは、空木が予想した以上に多かった。登山口へ向かうバスは、臨時バスを含めて三台が次々に満員のハイカーを詰め込んでバスターミナルを発車して行った。
終点の一つ手前のバス停で下りた空木は、目の前の登山口からシラビソやカラ松の樹林の中を登り始め、石丸峠、小金沢山を経て、歩き始めてからおよそ三時間で目的の牛奥ノ雁ヶ腹摺山に着いた。標高1990メートルのこの山からの富士山の眺望は、秀麗富嶽十二景に数えられる程見事らしいのだが、今日はガスの中で眺望は全くのゼロだった。「我ながら、さすが雨男」と呟いて、昼飯を食べると空木は直ぐに下山にかかった。
国立駅に下りた空木は、平寿司の暖簾をくぐった。カウンター席に座っている先客は、空木とは北海道時代からの付き合いの小谷原幸男だった。
山帰りの空木は、大汗で失われた水分を一気に補充するかのように、ビールを何杯も立て続けに飲んだ。
三種盛りを食べながら、冷酒を飲んでいた小谷原が、そんな空木を見て呟くように小声で話し掛けた。
「空木さんは、上司への気遣いとかが無い世界で良いですね」
「小谷原さんたちと違って、給料も賞与も無い世界ですからそれ位は気楽にさせてもらわないとね。でも、小谷原さんが愚痴るとは珍しいじゃないですか。どうかしたんですか」
「うちの支店長が、役付きの執行役員になれなかったらしくて、機嫌が悪いんです。まるで腫れ物に触るみたいで疲れるんですよ。いい年の男が、小学生みたいに駄々をこねているようで、周りの人間には迷惑な話です」
「へー、執行役員になっても満足せずに、まだ出世したいということですか」
「出世したいのか、もっと給料が欲しいのか、ライバルが妬ましいのか分かりませんが、困ったものです」
空木はビールを口に運びながら、小谷原の言った言葉にふと考えた。オーシャン製薬の執行役員たちの競争にあのデータが影響するのだろうかと。
翌朝、空木は久々の太腿の筋肉痛に心地良さを感じながら、バッグから名刺を取り出した。
昨日高尾駅から笹子駅まで、一緒の電車に乗り合わせた男の名前を桑田弘と確認した。
その桑田の名刺の横に竜野、高梁の名刺を並べ、明日からの調査の方向を考えた。
片倉がデータを持ち帰る事を知っていた人間は、竜野、高梁、桑田の三人だった。竜野が帰り際に言っていた通り、武蔵国分寺病院にデータを持って行かせない事で、制吐剤セロンの緊急安全情報の発出を決定的にすることが出来る。その為にデータを奪い取るとしたら、三人のうち情報を漏らす動機があるのは桑田だろう。桑田が誰かに情報を漏らし、それを知った人間が、片倉からひったくった。しかもそのひったくり犯は、片倉が飲んだ後は東京駅から帰る事を知っていて、加えてあの日飲み会がある事を知っていた人間でなければ、あの日東京駅から片倉と同じ電車に乗る事は出来ない。
もう一度竜野に面会し、桑田についての情報を得る事が次のステップかも知れないと、空木は桑田の名刺を手に取った。
その夜、テレビのニュースから流れるキャスターの音声に、空木はテレビ画面に目を向けた。
『昨日から登山に行ったまま戻らず、家族から捜索願が出されていた調布市在住の木内範夫さん、三十九歳会社員は、今日捜索に入っていた捜索隊員によって発見されました。木内さんは、笹子駅から標高1600メートルの本社ヶ丸に単独で登り、頂上付近の下りの岩場で滑落した模様です』とキャスターは伝えた。
「昨日笹子駅から……。俺と一緒の電車に乗っていたんだろうか」空木はテレビに向かって呟いた。
海の記念日を含めた三連休が終わった火曜日の午前中、空木は再度日本橋のオーシャン製薬本社に竜野を訪ねた。
「忙しいところまたお時間を取っていただいてすみません」
「いえ、それは一向に構いませんが、桑田GMについて聞きたいというのはどんな事でしょうか」
空木は、自分の立てた仮説に、先日の竜野の推測を重ねると、桑田が他の誰かに、片倉がデータを持ち帰る事を話しているのではないか、という疑いを持った事を伝え、桑田が話を漏らす可能性の有る人間に心当たりはないかと訊いた。
「桑田GMが情報を漏らす人間ですか……。それは彼が自ら漏らしたという事ですか」
「自らなのか、誰かに依頼されてなのかは別にして話しそうな人物、或いはそういう関係にあると推測される人間です」
「熊川本部長でしょうか。私の部とか、医療情報本部の中では話すような人間はいないと思います。それ以外では旧恒洋薬品の仲間でそういう関係の人間がいるかも知れませんが、私には分かりませんね」
「熊川本部長ですか。その方になら教えろと言われたら桑田さんは言いますか」
「教えろと言われたら言うでしょうね」
「旧社の方で親しい方は分からないと……」
「……情報を漏らすほどの関係かどうかは分かりませんが、二階の東京支店の学術課の人間が山梨県の山で死んだとかで、明日か明後日の葬儀に行くと言っていました。葬儀に行くから親しいとは限りませんが、私の知り得る範囲ではその位です。とは言っても亡くなった人では確認も出来ませんね」
「山梨の山で亡くなった?それは何時の話ですか」
「先週の土曜日に登りに行って、日曜日に見つかったとテレビのニュースで流れていたそうです。東京支店はこのビルの二階なんですが、今日の朝はバタバタしていたんじゃないでしょうか」
空木はテレビのニュースで見た事を思い出した。あの男性というのはオーシャン製薬の社員だったのかと驚いた。そしてそれと同時に、空木の脳裏にある一つの疑問が浮かんだ。それは、その男性が山に出かけたという土曜日の朝、高尾駅、笹子駅で空木が見た男性が桑田だとしたら、一緒にいた男性は、もしかしたら亡くなった男性だったのではないだろうか。
「その亡くなられた方は、一人で山に行ったんですか、それともどなたかと一緒だったのかご存知ですか」
「それは私には分かりませんが、ニュースでは一人だったように言っていたそうですよ。でも空木さん、それがどうかしたんですか」
「ちょっと気になる事がありまして……。竜野さんこの写真に写っている男を見ていただけますか」
空木はそう言って、先週の土曜日に高尾駅のホームで撮った、ザックを背負った男の写真をスマホの画面に出した。
「これは、桑田さんではないかと思うのですが、いかがですか?」
竜野は渡されたスマホを手に取って画面を凝視した。そして「桑田ですね」と呟くように言った。
「やはりそうですか。写っている桑田さんの周りに、竜野さんがご存知の方はいらっしゃいませんか」
「……いませんね」竜野はスマホから目を離さずに言った。
「そうですか、ありがとうございました。私はこの後、午後に片倉さんにお会いしに行こうと思いますが、片倉さんから何か連絡はありませんか」
「私は昨日見舞いに行きましたが、特に片倉から話はありませんでした。彼の怪我も順調に回復しているようで、今週末には退院するそうですよ」
空木は、竜野に礼を言ってオーシャン製薬を後にした。
空木は、片倉の見舞いに向かう電車の中で改めて考えた。
熊川は営業のトップとして、武蔵国分寺病院で発生したセロンの副作用のことは既に耳に入っていた筈だ。そしてセロンの緊急安全情報を出すべきと主張し、それを押し通す為に、武蔵国分寺病院にデータを持って説明に行くことを阻止させようとしたとしても、熊川自身がひったくりをするとはとても考えられない。誰かにやらせる筈だ。考えられる事は。桑田が、片倉がデータを持って病院に行くことを熊川に伝え、熊川が桑田に病院に行かせない方法、つまり奪い取る事を指示したのではないか。しかし、それにしても上司の桑田が直接片倉からひったくるとは考えられない。やはり誰かにやらせる筈だ。桑田が、片倉が飲んだら東京駅から電車に乗る事を知っていれば、桑田から指示を受けた実行犯は、片倉の後をつけて隙を見てデータの入ったカバンをひったくる事は可能だし、電車内で転寝でもしてくれたら途中駅でも容易に奪い取ることが出来るだろう。
「まてよ」ふと、空木はバッグから手帳を取り出してページを捲った。片倉が納涼会で飲んだアルコールの順番が気になったのだ。手帳にはビールから始まり、冷酒そして最後にまたビールで締めたと書かれていた。もしも、この最後のビールに眠剤が混入されていたとしたら、それを知らずに飲んだ片倉は間違いなく眠ってしまうだろう。まさかの乗り越しの原因はそれではないだろうか。それにしても桑田の指示を受けてひったくりという罪を犯す人間がいるのだろうか。
そしてその桑田に、空木にとって新たな疑問が生まれた。
オーシャン製薬の東京支店の学術課の人間が山で亡くなった件で、テレビのニュースでは、確か笹子駅で下車したと言っていたが、桑田も間違いなく笹子駅で下車していた。同じ会社の人間が、同じ電車同じ車両で移動して同じ駅で下車したという事は、常識では同じ山に登ったと考えるのが普通だが、テレビでは単独だったと言っている。どういう事なのか。
この件は、空木にとっては、依頼された仕事とは何の関係も無いが、偶然とは言え高尾駅で桑田を見てしまい、笹子駅で下車したことも知っている空木としては、見なかったことにしておくことは許されなかった。
空木は、スマホのネットニュースでもう一度、事故の確認をした。
死亡したのは、木内範夫三十九歳。発見された場所は、標高1630メートルの本社ヶ丸と1593メートルの清八山の間の岩場での滑落死とあった。家族から土曜日の夜、家に帰らないという届出から、スマホのGPS機能を使って発見されたとも書かれていた。最寄りの管轄警察署は大月中央署だった。
多摩急性期医療センターの、片倉隆文の病室に空木が入室すると、今日も堀井が見舞いに来ていた。
堀井が立ちあがって退室しようとすると、空木が引き留めた。
「ちょうど良かったです。堀井さんにも見ていただきたい物がありますので、ここに居てくれますか。一緒に話を聞いていただいても構いませんから」
空木は、午前中に竜野に面会し、桑田に関して尋ねた事を説明した。
「片倉さんに今日、お聞きしたい事は、やはり桑田さんの事なのですが、片倉さんがあの日データを自宅に持ち帰る事を桑田さんは誰かに話していないか?という事なのですが、思い当たるような事はありませんか」
「……ありませんが、それはもしかしてひったくりの犯人は、私が持っていたデータを狙って盗ったということですか」
「そう断言出来る訳ではありませんが、あくまでも私の勝手な想像で、そういう可能性も考えてみたらどうか、という事です。もう一つ伺いたいのですが、片倉さんが飲んだ時には東京駅からの電車に乗って帰る事を知っている方がいるか、という事なんですが、どうですか」
「私の所属している解析グループの人たちは皆知っていると思います」
「じゃあ桑田さんも知っているという事なんですね」
「ええ、解析グループのGMですし、何度も飲んだ後東京駅まで一緒に帰りましたから。それがどうかしたんですか」
「いえ、特別何があるという訳ではありません。これも私の勝手な想像の一つですから気にしないで下さい。あと一つ聞かせて下さい。納涼会の最後にビールで締めたと言われていましたけど、細かい事なんですが、手酌ですか、それとも誰かに注がれたのか、記憶はありますか」
「………桑田GMが注いでくれました。空木さんが何を知りたいのか全く想像つきませんが、やっぱりこれも想像の一つの話ですか」
「その通りです。気にしないで下さい」
空木は手帳にメモを取り、片倉を見て笑った。
「片倉さんにお聞きしたかった事はこれで終わりです。次にお二人に見て欲しい写真があるんです」
空木はスマホを取り出し、先週の土曜日の朝、高尾駅で撮った登山姿の桑田が写った写真を片倉に見せた。
「この写真は竜野さんにも見ていただきましたが、桑田さんだと言われました。間違いなく桑田さんですか」
渡されたスマホの画面に、片倉は目を凝らした。
「……桑田GMですね。大学時代山岳部だったらしいですから、山に行ったんですね。空木さん桑田をご存知なんですか」
「ええ、一度本社でお会いしたんですが、似た方だなと思って撮っただけですが……」空木はあやふやに答えた。
片倉はスマホを堀井にも見せた。
「俺は、その桑田GMという人を知らないから見ても分からないよ」
「堀井さんには、桑田さんの後ろに写っている人を見て欲しいんです。見覚えはありませんか」
「見覚えですか……」
堀井は、渡されたスマホの写真に片倉と同様に目を凝らした。
「先日亡くなった木内範夫さんではありませんか」
「亡くなった木内さんって、うちの支店の学術の木内さんですか、……そう言われれば、木内さんですね。木内さんも昔は山岳部で鳴らしたみたいですからね。でも木内さんは一人で行った筈ですよ」
そう言った堀井は、スマホの写真から目を離さなかった。
「この後、桑田さんとは別々の行動を取ったのだと思います。これが木内さんの生前最後の写真だとしたら、ご家族に渡して上げるべきなのか考えようかと思っているんですが、片倉さんは木内さんをご存知ですか」
「いえ、知りません。東京支店の方なんですね。亡くなったのも初めて知りました」
二人に礼を言い、別れを告げた空木は、病院を出て呟いた「やはり木内さんと一緒だったのか」
そしてまた考えた。桑田と木内は偶然あの日出会ったのだろうか。あの後、二人は笹子駅までは間違いなく一緒だった筈だが、笹子駅から別行動という事も考えられない事はない。駅の南へ向かえば、木内が滑落した本社ヶ丸へ、西へ向かえば笹子雁ヶ腹摺山へ、北東に向かえば滝子山と、いずれも秀麗富嶽十二景に上げられる山々に登る事が出来る。しかし、そんな事をするだろうか。それは空木には考えられない事だった。(確かめなければならない)空木の疑念が膨らんだ。
そして、もう一つ空木が調べたい事が出てきた。それは桑田と木内の関係だった。二人は旧恒洋薬品出身という繋がりだけなのだろうかと。
事務所兼自宅に戻った空木は、竜野、堀井それぞれに連絡を取り、竜野には桑田の、堀井には木内の、知り得る範囲の履歴について情報を聞いた。
桑田弘は四十一歳、北海道釧路市出身、北日本薬科大学を卒業後、恒洋薬品入社、研究開発から現職だった。
木内範夫は三十九歳、北海道北見市出身で北日本薬科大学卒業後、恒洋薬品入社、研究開発から現職だった。
「繋がったかも知れない」と空木の体に電気のような感覚が走った。
同じ北海道出身、同じ大学で山岳部、入社後も同じ職場だ。しかも年齢的に二歳違いで山岳部ということは、桑田は木内にとって絶対的命令権者であり、もし恒洋薬品入社の際に人事面で木内を助けていたりしたら、木内にとっての桑田の存在は、神様のような存在ではないだろうか。
空木は自分の立てた仮説が、現実味を帯びた推理になって来たと感じた。
営業トップの熊川が、どんな関与をしているのかは分からないが、桑田は木内に何らかの理由をつけて、片倉からカバンを盗るように指示をした(もしかしたらデータが入っていることは知らせなかったかも知れない)。指示された木内は、納涼会の終わった後、東京駅から帰路に着くという片倉の行動を知っている桑田の指示通り、東京駅構内で待った。片倉は木内の存在を知らないが、事前に片倉の顔を確認していた筈の木内は、片倉と同じ車両に乗車した。しかも片倉が転寝に入る事を予想して席は横に座ったかも知れない。片倉が寝過ごすほど飲んだつもりは無いと話していることからの推測は、桑田が片倉に注いだ最後のビールには、何か細工がされていたかも知れない。それは数十分後に転寝する程度の眠剤が入れられたビールだったのではないだろうか。悪意の酌を受けた片倉は、寝過ごすほどに眠ってしまい、簡単にデータの入ったカバンを盗られてしまった。これが空木の推理だったが、この推理に加えて桑田への黒い大きな疑惑が生じていた。それは、実行犯の木内を、桑田は山岳事故に見せかけて殺害したのではないかという恐ろしい疑惑だ。
ただ空木の推理には、ひったくりの指示についても、木内殺害の疑惑についても何の証拠も無い。あくまでも空木の推理であって、この推理を警察に話したところで警察が動くとは思えない。どうすれば動くのか。木内が生きていれば証言を引き出すことも可能だったかも知れないが、死人に口無し、それが桑田の狙いだった。しかし、木内がひったくり犯である事が証明されれば、警察も桑田に目を向けるのではないだろうか。木内はデータの入ったカバンを自宅に持ち帰った筈だ。そしてそのデータを取り戻すことこそが、空木が片倉から依頼された仕事だ。
空木は、国分寺警察署の刑事課係長の石山田に電話を入れた。